道隆寺の御朱印|四国霊場 第77番|真雅・円珍・聖宝が住職を務めた醍醐派の大本山!目なおし薬師で眼病平癒|四国八十八ヶ所 車遍路の旅(香川県仲多度郡多度津町)

所在地香川県仲多度郡多度津町北鴨1丁目3−30
宗 派真言宗醍醐派
寺 格大本山
札 所四国八十八ヶ所 第77番
前後札所 ・前 → 第76番札所・金倉寺
・後 → 第78番札所・郷照寺
本 尊薬師如来
真 言おん ころころ せんだりまとうぎ そわか
由 緒712年、この地に怪しい光を放つ桑の大木があったそうです。そこで領主・和気道隆が大木に向けて矢を放ったという。しかし、誤って乳母を射抜いてしまったという。そんなこんなで、和気道隆は乳母を供養するため、桑の木で薬師如来像を刻みお堂に安置。それがこのお寺の始まりといいます。その後、唐から帰国した空海(弘法大師)が薬師如来像を刻み、胎内に和気道隆が刻んだ薬師如来像を納め、本尊として祀ったそうです。その後、真雅・円珍・聖宝が住職を務めて繁栄。しかし、地震や兵火で衰退。その後、再興されたのが、現在の道隆寺といいます。
HP桑多山 明王院 道隆寺 – 四国八十八ヶ所霊場会

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道隆寺とは?


四国八十八ヶ所の第77番札所であります道隆寺に到着。

第76番札所・金倉寺から4.5km。
徒歩50分。
車で10分のところに位置しています。

道隆寺と書いてどうりゅうじと読みます。

●道隆寺とは?

創建当時、この地一帯は絹の生産地だったらしく、広大な桑畑が広がっていたそうです。

712年、この地の領主・和気道隆が怪しい光を放つ桑の大木を見たという。

そんなこんなで、道隆は怪しい光に向かってを放ったそうです。

すると、女性の悲鳴が!

なんと、矢は乳母に命中・・・そして乳母はんでしまいました。

これを悲しんだ道隆は、桑の大木を切り薬師如来像を刻んでお堂に安置。

それが、このお寺の始まりといいます。


807年、道隆の子・朝祐が唐から帰国した弘法大師に懇願し、約90cmほどの薬師如来像を彫像。

そして、胎内に父・道隆が刻んだ薬師如来像を納めて本尊としたそうです。

その後、朝祐は弘法大師から授戒を受けて第2世住職になったそうです。

そして、先祖から受け継いだ財産で七堂伽藍を建立。
父の名から、寺号を道隆寺と名付けたそうです。

その後、第3世住職に就いたのは弘法大師の実弟・真雅(法光大師)
真雅は23坊を建立したそうです。

さらに、第4世住職に就いたのは弘法大師の甥・円珍(智証大師)
円珍は五大明王像を刻んで護摩堂を建立したそうです。

さらにさらに、第5世住職に就いたのは聖宝(理源大師)
この頃には宝祚祈願所となり大いに栄えたといわれています。


しかし、976〜978年に地震の被害に遭い堂塔が倒壊。。

後に再建されますが、1060年に兵火に遭い焼失。。

さらに、戦国時代には豊臣秀吉の四国征伐で焼失。。

そんなこんなで、江戸時代に歴代住職の尽力により再興されたのが現在の道隆寺といわれています。

そんなこんなで、参拝開始。
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仁王門と観音像と手水舎と鐘楼

●山門(仁王門)

●山門(仁王門)
・建立年不明
・瓦葺 入母屋造
・三間一戸 八脚門

まず最初に登場するのは仁王門

仁王門の扁額には山号の桑多山

このお寺の正式名称は桑多山 明王院 道隆寺

そうたざん みょうおういん どうりゅうじと読みます。


創建当時、この地一帯は桑畑が広がっていたみたいです。

その桑畑に怪しい光を放つ桑の大木があったのでその方向に矢を射ると、誤って乳母してしまったという。

そして、その桑の大木で薬師さんを彫って乳母を供養したのがこのお寺の始まりといいます。

そんなこんなで桑多山という山号は、桑畑もしくは桑の大木で彫った薬師さんが由来なのかも知れません。

そんなことより、気になるのが誤って乳母を殺してしまったと書かれた部分。

ただの人殺しじゃん!

四国霊場には、矢を誤射しちゃった系の由緒が多々ありますが、そのどれもが仏さまに命中しています。

しかし、このお寺さんの由緒は生身の人間に命中!

薬師さんを刻んで供養したとか言って帳尻合わせしてますが、何度読んでも違和感ありありです。

どう考えても殺人だよ(笑)


そんなこんなで、仁王さんにご挨拶。

仁王門の建立年、そして仁王さんの造立年を確認することはできませんでしたが、肌年齢を見る限りそれなりに古そうな像でした。

このお寺さんは、地震兵火で幾度となく再興を繰り返してきた歴史があります。

由緒に江戸時代に歴代住職の尽力により再興と書かれておりましたので、この門は古くても江戸時代以降の再建だと思われます。

この地域のお寺さんは、高松藩主・松平家や丸亀藩主・生駒家の庇護を受けていることが多いですが、この道隆寺の由緒にはそのようなことは書かれていませんでした。

おそらく、お寺の方や民間信仰に支えられて現在に至るのでしょう・・・(推測)


●参道と観音像

そんなこんなで、仁王門をくぐって境内へ。

参道にはブロンズ製の観音像がズラ〜と並んでいました。

なんと、その数255体!

全ての観音さんが同じサイズで見事な分身の術を披露していました。

五百羅漢ならぬ五百観音!
と名付けたくなるような、もしくは観音寺と名付けたくなるような空間でしたよ。


説明板によると、この観音さんは西国33観音霊場坂東33観音霊場秩父34観音霊場などのミニ霊場になっているという。

33 + 33 + 34 = 100ということで、この参道を歩けば百観音を参拝した御利益が得られる仕組みになってるんだって!

残りの155体の観音さんは、水子供養や交通安全の観音像など、檀家さんやお遍路さんが奉納したもののようです。

やはり、このお寺は民間信仰に支えられて存続してきたお寺なのかも知れませんね。


●手水舎

●手水舎
・建立年不明
・銅板葺 切妻造

そんなこんなで、手水舎でお清め。


●鐘楼

●鐘楼
・建立年不明
・瓦葺 入母屋造
・十二脚吹き放し型

続いて、鐘楼で鐘をひと撞き。

御本尊さまとお大師さまにご挨拶。


鐘楼は4本の本柱にそれぞれ2本の支柱が付いているという珍しい様式になっていました。

しかも支柱には木鼻があり、さりげないディテールにこだわった一品になっておりました。
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本堂

●本堂

●本堂
・建立年不明
・昭和時代改築
・瓦葺 入母屋造

●本尊
・薬師如来

●真言
・おん ころころ せんだりまとうぎ そわか

続いて、本堂を参拝。

このお寺の第3世住職は弘法大師の実弟・真雅(法光大師)

さらに、第4世住職は弘法大師の甥・円珍(智証大師)

さらにさらに、第5世住職に就いたのは聖宝(理源大師)

なんと、讃岐五大師のうち3大師が住職を務めているという!

真雅さんと円珍さんは、弘法大師と同じ佐伯氏の一族ですので、かつては佐伯氏によって支えられていたお寺さんだったのかも知れませんね。

●讃岐五大師とは?

●讃岐五大師
①空海(弘法大師)
②実恵(道興大師)
真雅(法光大師)
円珍(智証大師)
聖宝(理源大師)


この道隆寺は真言宗醍醐派大本山という非常に高い格式をもつお寺さんです。

真言宗醍醐派の総本山は京都の醍醐寺です。

京都・醍醐寺の開山は、讃岐五大師ならびに道隆寺第5世住職の聖宝(理源大師)です。

はい、繋がりました!

道隆寺が醍醐派の大本山なのは聖宝(理源大師)の縁が由来なのですね。


空海(弘法大師)は日本真言宗宗祖
円珍(智証大師)は天台寺門宗宗祖
聖宝(理源大師)は醍醐寺開山者

こんな小さな地域で、こんなにもたくさんの高僧がお生まれになったとは!

ある意味、香川県が輩出した五大師は日本仏教の母体を築いたといってもいいんじゃないでしょうか!?

そんなこんなで、四国の奥深さをまざまざと感じたひと時でした。

●聖宝(理源大師)伝説

そんな聖宝さんには様々な伝説があります。

●伝説①
聖宝は大の犬嫌い
しかし、聖宝の師匠・真雅愛犬家

ある日、聖宝は真雅の留守中に愛犬を猟師に譲ってしまったという!

帰ってきた真雅は犬がいなくなったのは聖宝のしわざと気づき激怒!

そんなこんなで聖宝は追放され、しばらく乞食坊主として過ごすことになりました。


●伝説②
聖宝は修験道の開祖・役小角をリスペクトしていました。

当時、役小角が修行した吉野・金峯山には大蛇が棲んでおり、修行者が入れなくなっていたそうです。

そこで、聖宝は金峯山に入り大蛇を退治!

そして、金峯山は修行の場として復興しました。

ちなみに、聖宝は修験再興の祖といわれています。


●伝説③
奈良・東大寺にめちゃくちゃケチ強欲な僧がいたそうな。

ある日、聖宝はその僧に賭けごとを持ちかけ『あなたは私が何をしたら多くの僧たちに供養しますか』と問いました。

すると僧は実行不可な要求をしてきました。

賀茂祭の日にふんどし姿になる
②そして、干した太刀として差す
③さらに、痩せた牝牛にまたがって一条大路を皇居から賀茂川の河原まで大声名乗りながら通る

この要求に応えれば東大寺の全ての僧に供養を施そう、と僧は言いました。

すると聖宝は僧の要求を実行したという。

そんなこんなで、僧は東大寺の全ての僧に供養を施しました。

これを聞いた天皇は『聖宝は身を捨てて他の人を導く立派な人物である』と称え、僧正にとりたてたといわれています。


●伝説④
聖徳太子は『私は日本に3度生まれる。そのときは名前に聖の字がある』と予言したそうです。

その3人とは、徳太子と武天皇と宝といわれています。

弘法大師伝説も面白いですが、聖宝さんもなかなか魅力的な伝説をもっていますね!


本尊は弘法大師作薬師如来さん。

由緒によると、この地の領主・和気道隆が桑の大木で小さな薬師如来像を彫像。

その後、弘法大師が薬師如来像を刻み、和気道隆が刻んだ薬師さんを胎内に納めたといわれています。

そんなこんなで、御本尊さまは腹ごもり薬師二体薬師と呼ばれてるんだって。

しかし秘仏のため拝顔することはできませんでした。

その他、堂内には御本尊の脇仏である日光・月光菩薩像
さらに四天王像が安置されていました。

ちなみに、日光・月光・四天王さんは拝顔することができました。
いつの作品かはわかりませんが、四天王さんはなかなかの古仏でしたよ。
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大師堂

●大師堂

●大師堂
・1630年建立
・瓦葺 宝形造
・本尊 弘法大師

続いて、大師堂を参拝。

御本尊はもちろんお大師さま

堂内ではお大師さまを拝顔することができました。

南無大師遍照金剛・・・
南無大師遍照金剛・・・
南無大師遍照金剛・・・


●弘法大師と衛門三郎像

大師堂の前には弘法大師衛門三郎像がありました。

お久しぶりです、衛門三郎さん!

四国霊場で衛門三郎さんに出会ったのは第51番・石手寺ぶりです。

由緒に衛門三郎さんのことは1ミリも書かれてなかったので、なぜこのお寺にこの像があるのかは不明です。

それにしても、背中に衛門三郎と書いてあるのが可愛いですね!

●衛門三郎とは?

824〜834年、伊予国を治めていた河野家の一族に衛門三郎という長者がいたそうな。

衛門三郎はとても欲深く、民からの人望も薄い男でした。

ある日、衛門三郎の屋敷にみすぼらしい僧が現れ、托鉢をしようとしました。

しかし、欲深い衛門三郎はその僧を追い返したという。

翌日も、そしてその翌日と何度も僧は現れ、托鉢をしようとしましたが、その度に僧を追い返しました。

8日目、とうとう衛門三郎の怒りが爆発!

衛門三郎は僧が持っていた鉢を竹のほうきでたたき落としたという!

鉢は8つに割れてしまい・・・そして僧は姿を消してしまいました。

実は、その僧は弘法大師だったのです。


衛門三郎には8人の子がいましたが、その年から毎年1人ずつ亡くなっていき、8年目には全員の子が亡くなってしまいました。

何と恐ろしいことをしてしまったものか・・・と、衛門三郎は後悔。。

そんなこんなで、衛門三郎は懺悔の気持ちから田畑を売り払って家人たちに分け与え、妻とも別れ、弘法大師を追い求めて四国巡礼の旅に出ることにしました。

これが遍路の始まりといわれています!


しかし、20回も遍路を行ったのに弘法大師に出会うことはありませんでした。

何としても弘法大師に会いたい・・・そう思った衛門三郎は、逆回りで巡礼することにしました。

そんなある日、阿波国の第12番札所・焼山寺の近くにある杖杉庵で病に倒れてしまいました。

そして、死期が迫りつつあった衛門三郎の前に弘法大師が現れたという!

衛門三郎は今までの悪行を泣いて詫びました。

すると弘法大師は『何か望みはあるか?』と問いかけました。

その問いに、衛門三郎は『来世は河野家に生まれ変わり、人の役に立ちたい』と答え、息を引き取りました。

その際、弘法大師は道端の石を取り『衛門三郎』と書いて、左手に握らせました。


それから時は経ち、832年。

伊予国の領主・河野息利に長男が生まれました。

しかし、その子は左手を固く握って開こうとしませんでした。

河野息利は心配になって安養寺の僧に祈願させたところやっと手を開きました。

なんと、その子は小さな石を握っていたという。

しかも、その石には衛門三郎と書いてあったという!

なんと、その子は衛門三郎の生まれ変わりだったという!

そんなこんなで、その石は安養寺に納められ、後に寺号を石手寺に改めたといいます。

完。

これが遍路の元祖・衛門三郎伝説です。

ちなみに、衛門三郎が逆打ちをして弘法大師に出会えたのが閏年の申年ということから、閏年に逆打ちをすると倍の御利益があるといわれています。

そのため、閏年には逆打ちのお遍路さんが例年より多くなるんだって。

さらに、閏年に逆打ちをすると弘法大師に出会える可能性もあるんだとか!

四国霊場を順打ちすると、まず第12番札所・焼山寺の近くにある杖杉庵で衛門三郎の終焉地伝説に出会うことになります。

そして忘れた頃に、第46番札所・浄瑠璃寺で衛門三郎の遍路伝説が登場。

さらに第51番札所・石手寺で衛門三郎の生まれ変わり伝説が登場。

それはまるで衛門三郎の生涯を巡っているかのような。

これもまた四国遍路の魅力だと思いました。

それにしても・・・四国では各所に弘法大師伝説がありますが、お大師さまは酷い扱いを受けると、復讐する傾向があります・・・(-“-;) ??


ちなみに、第46番・浄瑠璃寺から約1.6km離れたところに、衛門三郎の屋敷跡に建つ文殊院があります。
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潜徳院殿堂(目なおし薬師)

●潜徳院殿堂

●潜徳院殿堂
・建立年不明
・瓦葺 妻入り入母屋造

本堂の左奥には左馬造の墓所といわれる潜徳院殿堂がありました。

どうやら、道隆寺の薬師さんは眼病御利益があるらしく、眼病平癒祈願のために全国から多くの参拝者が訪れるんだって。

●目なおし薬師とは?

江戸時代のお話し。

幼少の頃から盲目だった丸亀藩主の3男・京極左馬造が、道隆寺の本尊・薬師如来に祈願したところ目が見えるようになったという。

このことに感謝した左馬造は医学の道に進み、将軍や大名に仕える御典医になったそうです。

以後、左馬造は眼科治療の達人として知られるようになり、身分関係なく積極的に領民の診察を行い、多くの人々を病から救ったといわれています。

左馬造の死後、領民たちは道隆寺の境内に左馬造のお墓潜徳院殿堂を建立。

潜徳院殿堂も眼病に御利益があるとされ、現在も眼病平癒のために参拝をする人が絶えないそうです。

完。



それにしてもユニークな祈願法でした。

なんと、納め札に年の数だけの文字を書いて奉納するという!

文字が書けない人は目のイラストでもいいんだって(笑)

ちなみに、この祈願セットは納経所で頂けます。
持ち帰って記入した後、郵送で送ることも可能とのことです。

多宝塔(弘法大師千五十回忌之塔)

●多宝塔(弘法大師千五十回忌之塔)

●多宝塔(弘法大師千五十回忌之塔)
・1885年建立(?)
・瓦葺 多宝塔

境内には弘法大師千五十回忌之塔という名前の多宝塔がありました。

説明板がなかったため詳しいことはわかりませんが、名前を見る限りお大師さまの1050回忌を記念して建てられた塔のようです。

ということで、1885年の建立なのかな・・・?

ちなみにネットの情報によると、納経所に頼めば塔内に入れるそうですよ。(時間帯次第)

その他、境内には粟島堂・妙見宮・加茂稲荷大明神・もどり観音・交通安全千躰観音堂・普賢延命大菩薩・遍路用品店などがありました。


そんなこんなで、参拝終了。

参拝後、境内にある遍路用品店へ。

今更ながら、金剛杖を買おうかどうか悩んでいる自分がいました。

残り11ヶ所なのにっ!

第78番・郷照寺へ続く。

次の札所
郷照寺の御朱印|四国霊場 第78番|真言宗と時宗が共存するお寺|四国八十八ヶ所 車遍路の旅(香川県綾歌郡宇多津町)
所在地香川県綾歌郡宇多津町山下1435宗 派真言宗・時宗札 所四国八十八ヶ所 第78番前後札所・前 → 第77番札所・道隆寺・後 → 第79番札所・天皇寺本 尊阿弥陀如来真 言...

御朱印情報

参拝情報とアクセス

●御朱印の種類
・四国八十八ヶ所の御朱印
・七ヶ所まいりの御朱印(寿老人)

●御朱印の受付場所
・納経所

●御朱印の受付時間
・7:00~17:00

●御朱印の料金
・四国八十八ヶ所 500円
・七ヶ所まいり(寿老人)300円

●期間限定・特別御朱印
・なし

●オリジナル御朱印帳
・なし

・2011年6月11日 参拝
・2024年3月 最終更新
郷照寺の御朱印|四国霊場 第78番|真言宗と時宗が共存するお寺|四国八十八ヶ所 車遍路の旅(香川県綾歌郡宇多津町)
所在地香川県綾歌郡宇多津町山下1435宗 派真言宗・時宗札 所四国八十八ヶ所 第78番前後札所・前 → 第77番札所・道隆寺・後 → 第79番札所・天皇寺本 尊阿弥陀如来真 言...
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●拝観料
・無料

●宿坊
・なし

●前後札所
・第76番札所・金倉寺へ4.5km
 徒歩50分
 車で10分

・第78番札所・郷照寺へ7.5km
 徒歩1時間30分
 車で15分

●最寄りの駅
・JR多度津駅から徒歩15分
・JR多度津駅から車で5分

●最寄りのバス停
・丸亀市コミュニティバス
 中讃テレビ バス停から徒歩20分

●最寄りのIC
・高松自動車道
 善通寺ICから車で10分

・瀬戸中央自動車道(瀬戸大橋)
 坂出ICから車で20分

●駐車場
・無料の専用駐車場あり(30台)

道隆寺の地図

 

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