桜山神社(櫻山招魂社)の御朱印|日本初の招魂場|靖国神社の原型となった神社|(山口県下関市)

所在地山口県下関市上新地町2-6
祭 神幕末・明治維新で殉じた志士達391柱
由 緒1864年、高杉晋作の発議により攘夷戦争で戦死した志士を祀る招魂場を創建。当初は奇兵隊の戦死者を祀るものとしてつくられましたが、後に四境戦争・戊辰戦争などで戦死した長州藩士も祀られることになりました。さらに吉田松陰・高杉晋作・久坂玄瑞・山縣有朋などの霊も合祀され、現在では391柱の神霊がお祀りされています。この桜山招魂場は日本で初めて創建された招魂場で、後に創建される東京・靖国神社の原型となっています。
HP櫻山神社公式サイト 山口県下関市 高杉晋作発議の招魂社
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桜山神社(櫻山招魂社)とは?

●桜山神社(櫻山招魂社)とは?

日本初の招魂場であります桜山神社に到着。

高杉晋作療養の地から徒歩10分。
高杉晋作の終焉地から徒歩10分のところに鎮座しています。

もともとこの地は奇兵隊の調練場があった場所といわれています。

招魂場が創建された後、を植えたことからこの地は桜山と呼ばれるようになり、そして桜山招魂場と名付けられたんだって。


1863年、高杉晋作さんの発案により、下関戦争で戦死した奇兵隊の霊を祀る招魂場が創建されました。

なんと、これが日本初の招魂場だという!

そんなこんなでこの桜山招魂社は、後に創建される東京・靖国神社の原型となったことで知られています。


ちなみに靖国神社の前身・東京招魂社の鎮座地選定に関わった大村益次郎さんも長州藩士です。

第2次長州征伐(四境戦争)の小倉口の戦いで幕府軍を撃退したのは高杉晋作さん。

第2次長州征伐(四境戦争)の石州口の戦いで長州軍を指揮したのが大村益次郎さん。

大村益次郎さんは、高杉晋作さんが奇兵隊の訓練を依頼するほどの天才軍略家でした。

そんなこんなで、高杉晋作さんが奇兵隊の生みの親なら、大村益次郎さんは奇兵隊の育ての親かも知れませんね。

桜山招魂場のことを知るには、まず下関戦争のことを知る必要があります。
ということで、ザックリと簡単に下関戦争のことを書いてみました。

●下関戦争と櫻山招魂社

1853年、鎖国を行っていた日本に黒船が来航。
1854年、黒船の威圧に抵抗できず開国

1858年、天皇の許可を得ず、幕府が無許可日米修好通商条約に調印。

日米修好通商条約は日本に不利な条約だったため、日本国民は幕府外国不満を持ちました。

そこで外国を追っ払えという主張が広がりました。
この主張を攘夷といいます。

さらに不平等条約に調印した幕府に怒りを感じた人々は天皇中心の政治を行うべきという考えが広がりました。
それを尊王といいます。

そして尊王攘夷が結びついて尊王攘夷という思想が生まれました。

特に尊王攘夷運動に熱心だったのが長州藩
長州藩は明治維新の先駆けとして熱心かつ過激に尊王攘夷運動を起こしました。


1858年、井伊直弼は安政の大獄で尊王攘夷派を厳しく弾圧

吉田松陰など多くの尊王攘夷派の志士が投獄・処刑されました。
この行き過ぎた弾圧により、井伊直弼は桜田門外の変で暗殺されました。

その後、幕府は失った信頼を取り戻すため、朝廷と協力して政治を行おうと考えました。
これを公武合体といいます。

しかし孝明天皇は攘夷派


そんなこんなで、1863年に朝廷は幕府に攘夷を要求しました。
幕府はその年の5月10日に攘夷を行うと返答し、このことを諸藩にも通達しました。

そして攘夷決行の当日。
幕府も諸藩も攘夷を決行せず・・・。

ここで待ってましたと言わんばかりに長州藩が関門海峡を航行するアメリカ船に対して砲撃を行いました。
下関戦争の始まりです!

攘夷のことなどなんのこっちゃわからない外国船は不意をつかれたため一時退散します。

外国船を追い払ったことで長州藩の士気爆上がり!

しかし!

翌年に報復攻撃を受け長州藩はコテンパンに打ち負かされ壊滅的な敗北を喫してしまいました。
そして多くの戦死者をだしました。

そこで高杉晋作さんは下関戦争で命を落とした奇兵隊の霊を祀る招魂場を創建しました。

その他、招魂場を創建する理由として、今後の戦いに臨むにあたって自分たちの生前墓が必要であるとも考えました。

それが桜山招魂場です。


高杉晋作さんは、落成式の日にこのような歌を詠んでいます。

死んで弔われる人に入っているべき自分なのに
弔う人になってしまうとは恥ずかしい

桜山神社の境内にはそのときの書が記念碑として残されていました。

漢字だらけで書いてある意味がサッパリわかりませんが、字の震えとか墨の汚れとかが妙にリアルだったのでちょっぴり胸が熱くなりました。

ちなみに記念碑に書かれてる文字はこちら。

猛烈奇兵何所志
要将一死報邦家
尤欣名遂功成後
共作弔魂場上花

弔む羅和留人尓入るべき身なり志尓
弔む羅宇人となるそは津か志

謹弔 霊魂
故奇兵隊士東行狂生

●訳
猛烈の奇兵何の志す所ぞ
一死を将って邦家に報いんと要す
尤も欣ぶ名を遂げ功成りて後
共に弔魂場の花と作らんを

弔らわる人に入るべき身なりしに
弔う人となるぞはずかし


そんなこんなで、参拝開始。
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鳥居と拝殿と本殿

●鳥居①

●鳥居①
・1897年建立
・明神鳥居

まず最初に登場するのは鳥居①

この鳥居は1897年の建立。
桜山招魂場の創建から33年後に建立されたもののようです。


●鳥居②

●鳥居②
・明治時代建立
・明神鳥居

鳥居①をくぐって長い石階段を上ると鳥居②が登場。

柱に明治三?という文字が確認できましたので、明治3年もしくは明治30年代に建立された鳥居と思われます。

ちなみに扁額には何かの文字が刻まれてますが、ほぼ消えかけているので全く判別できませんでした。


●拝殿

●拝殿
・建立年不明
・銅板葺 入母屋造

境内は護国系神社特有のピシッとした空気が流れていました。


しかしお茶目な目をした木鼻が緊張を和らげてくれました。

ダメだ、目を合わせると笑ってまう!


そんなことより拝殿内には吉田松陰先生と高杉晋作さんの像が祀られていました。

写真の撮り方が下手すぎて上手く伝えることができませんでしたが、晋作さんより松陰先生の方が大きく作られていました。

何となくですが、この神社では桜山招魂場の創建を発案した晋作さんより師である松陰先生の方が崇敬されているような気がしました。

松陰先生の方が奉納品も多いですし(笑)


●本殿

●本殿
・建立年不明
・銅板葺 流造

御祭神は幕末・明治維新で殉じた志士達391柱。

もともとは下関戦争で戦死した奇兵隊の霊を祀る場として創建された招魂場ですが、後に第二次長州征討(四境戦争)戊辰戦争で亡くなった長州藩士を合祀。

さらに吉田松陰高杉晋作久坂玄瑞山縣有朋など明治維新の功労者の霊も合祀されました。

●御祭神
・吉田松陰(1柱)

・高杉晋作 久坂義助 入江九一 吉田稔麿
 河上弥市 白石正一郎 白石廉作
 山県有朋など
 長州藩士・奇兵隊士(256柱)

・泉十郎 熊野直助など豊浦藩報国隊士(96柱)

・膺懲隊 八幡隊 遊撃隊 整武隊
 清末藩育英隊等諸隊士(38柱)

計391柱

※霊標は391柱ですが神霊名簿に記載されている神霊は857柱
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桜山招魂場

●桜山招魂場

●桜山招魂場
・1864年創建
・下関市指定記念物(史跡)

そんなこんなで、桜山神社のハイライトであります桜山招魂場を参拝。

招魂場には391基の招魂碑が整然と立ち並んでいました。

創建当初は社殿をコの字型で囲んでいたそうですが、明治40年代前半に現在の姿に配置されたそうです。


ここにお祀りされている志士は吉田松陰・高杉晋作・久坂玄瑞・入江九一などの維新の志士名もなき兵士たち。

全ての招魂碑が同じ高さで建てられているのが最大の特徴です。

なぜ同じ高さなのかというと、それは身分の差をなくすため。

これは『時代を変えたいという想いには、身分など関係ない』という吉田松陰さんの理念に基づいたものなんだって。

松陰先生や晋作さんなど歴史に燦然と輝く功労者も、名もなき兵士たちも平等!

まさに松陰先生の理念がそのまま形になったような場所でした。



と言いたいところですが!

松陰先生だけ1段高くなってるという!

『身分など関係ない』と言った張本人がバリバリに格差をつけてるのはどういうことなのよ!?

しかも最前列の中央に!

実は、もともと同じ高さだったのですが、戦前に他と区別するために1段高くし、最前列の中央に移動させたんだって・・・なんてことを(笑)

よく見たら台座を継ぎ足して高くしてる!

確かに松陰先生の存在感とカリスマ性は別格です。

でも本人が『身分など関係ない』と言ってるんだし、晋作さんもそれを実践して身分にとらわれない奇兵隊を結成してるんだから、勝手に高くしないでほしいです(笑)

こうなるには様々な事情や時代背景があったのはわかるけど!


ちなみに、松陰先生が1段高くなったのは戦前といわれています。

太平洋戦争中、松陰先生は忠臣・愛国の理想像となっていました。
天皇中心、いわゆる尊皇の精神に徹して出兵させるため、松陰先生は軍国主義の教育にフル活用されていた歴史があります。

おそらく松陰先生が1段高くなったのには、こういった時代背景があるのでしょう(推測)

そういう目で見ると、拝殿内の吉田松陰像が晋作さんより大きく作られてるのも、奉納品が多かったのも納得できるような気がします。

そんなこんなで、失礼ながら台座を1段とって同じ高さにしてみました。

それがこちら、はいドン!



同じ高さだっ!

きっと建立当時はこんな感じだったんだろうなぁ。

あっ!
本当に台座をとったわけじゃありませんよ!
これはコラージュ画像です!


松陰先生の左右には松下村塾四天王と称される高杉晋作・久坂玄瑞・入江九一・吉田稔麿さんが配されていました。

おそらくこの配置も後の時代のものなのでしょう(推測)


端っこには山縣有朋さんの名前も確認できました。


そんなこんなで、興味深く招魂碑を拝見していたら、神社の方が氏名標をくれました!

ということで、氏名標を見ながら参拝してきました。

ちなみに全員の名前を書こうと思いましたが、あまりの量だったので途中で気持ちが骨折してしまい断念しました!


招魂碑は全て本殿を向いて建てられていました。
何となくですが、招魂碑が御神体のように見えましたよ。

桜山招魂場は、靖国神社ならびに全国の護国神社の元祖です。

下関には明治維新に関する史跡がたくさんありますが、この桜山招魂場はその中でも特に重要な意味を持つ場所なんだね!
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七卿史跡

●七卿史跡

●七卿史跡
・1981年建立

参道脇には七卿史跡という石碑が建っていました。

どうやらこれは、七卿落ちで知られる三条実美ら五卿が桜山招魂場を訪ねたことを記念する石碑のようです。

由緒によると、八月十八日の政変で都落ちした三条実美ら五卿が1864年に桜山招魂場を訪れたそうです。

その際、三条実美ら五卿は、建設中の招魂場を視察社殿の必要性を説いたんだって。

もしかしたら、創建当初は社殿を建立する予定はなかったのかも知れませんね。

●七卿落ちとは?

江戸時代末期、外国船、いわゆる黒船がたびたび日本の近海に現れ、江戸幕府に対して開国を要求してきました。

そんな外国船を脅威と感じた志士たちは外敵を排除するために立ち上がります。
いわゆる攘夷です。

しかし徳川幕府は外国の要求をのんで開国しちゃいました。
そして攘夷派の志士たちは弱腰政策をする幕府を非難するようになりました。

そんなこんなで、下級武士を中心に尊王攘夷運動が起こりました。

尊王攘夷を掲げた志士たちの中心にいたのが長州藩士です。

そして武士だけではなく朝廷内にも尊王攘夷派がいました。
その中心にいたのが三条実美です。


1862年、薩摩藩主・島津久光が幕府の政治を改革して公武合体運動をすすめました。(文久の改革)

当然、この改革により長州藩をはじめとする尊王攘夷派との関係が悪化

長州藩薩摩藩対立が深まることになりました。

一方、朝廷内でも尊王攘夷派と公武合体派の対立が起きていました。

公武合体派の岩倉具視が尊王攘夷派の三条実美にはまり、政治の世界から追いだされちゃいました。

その後も長州藩は京都で勢力をのばし、過激な活動で尊王攘夷を推し進めました。

イケイケの長州藩は、自分達の力で外国を追い払おうとして英・仏・蘭・米の連合艦隊と戦争したりもしました。(下関戦争)

しかし武力では外国に勝てない・・・

そのことを思い知った長州藩は三条実美らの根回しで孝明天皇神武天皇のお墓などに参拝させる計画を画策しました(大和行幸の詔)

これはどういうことかというと、孝明天皇が初代天皇・神武天皇のお墓を参拝して攘夷を祈願することで、幕府も攘夷を行うしかないという状況に追い込もうとしたわけです。

しかし孝明天皇は過激なことばかりする長州と関わりたくありませんでした。

一生懸命頑張っているのに、気がつけば孤立してしまった長州藩・・・。


しかし長州藩の暴走は止まりません。

そこで動き出したのが薩摩藩会津藩

1863年、薩摩藩と会津藩は御所の門を封鎖し、厳重な警備の中、大和行幸の延期三条実美らの処遇について話し合いが行われました(八月十八日の政変)

そのことを知った三条実美と長州藩は慌てて御所に駆け付け堺町門に集結。

しかし、時すでに遅し・・・。

門を守っていた薩摩藩と会津藩とにらみ合いになりますが、さすがの長州藩も御所に向けて矢を放つわけにもいかず・・・長州藩は退去しました。

これが八月十八日の政変です。

ちなみに八月十八日の政変によって大和行幸は延期され、三条実美などの公卿たち15人は外出禁止・面会禁止などの命令が下されました。

長州藩にも京都からの退去命令が下りました。

その後、外出禁止の命令に背いて15人の公卿のうち三条実美をはじめ7人は長州藩と一緒に長州へ逃れました。

これが七卿落ちです!

この七卿は長州に落ち延びて復活の機会を狙おうとしていたのかも知れません。


そんなこんなで、雨のなか京都を脱出する長州藩士と7人の公卿。

しかし、公卿は全員ひ弱だったため京都を出るまで歩き続けられなかったという・・・。

とはいえ、何だかんだ兵庫まで辿り着き、20艘以上の大船団で長州を目指しました。

その途中、7人の公卿のうち5人功山寺に入り、しばらくの間滞在しました。

その際、三条実美をはじめ5人の公卿は高杉晋作と面会し功山寺挙兵に立ち会いました。

そんなこんなで、八月十八日の政変失脚した公卿が長州へ落ち延びたことを七卿落ちといいます。


●七卿落ちのメンバー
①三条実美
②三条西季知
③四条隆謌
④東久世通禧
⑤壬生基修
⑥錦小路頼徳
⑦澤宣嘉
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お龍と桜山招魂社

●お龍と桜山招魂社

なんと桜山招魂場は坂本龍馬さんの妻・お龍ゆかりの地でもあるという。

龍馬さんが暗殺される前後、お龍は下関に滞在していたそうです。

そして桜山招魂社の運営のために設けられたあけぼのという茶屋で、だいだいの実を短銃で撃ったり、一晩中飲み明かしたりして過ごしていたんだって!(どんな生活!?w)

その際、お龍は桜山招魂場に祀られた方々への想いを歌に詠んでいます。

武士の かばねはここに
櫻山 花は散れども 名こそ止むれ

お龍と龍馬さんが最後に会ったのは下関
その後もお龍は下関に滞在し、龍馬暗殺の一報も下関で知ったといいます。

夫亡き後、残されたお龍はどんな気持ちだったのか・・・

短銃でだいだいの実を撃っていたのは、もしかしたら、だいだいの実を暗殺者に見立てていたのかも知れません(想像)

一晩中飲み明かしたのも、寂しさと悔しさを紛らわすためだったのかも知れません(想像)

そういったことを想像しつつ胸アツになってしまったひと時。

この招魂場は様々な人の想いが鎮まった場所なのですね。


ちなみに、お龍と龍馬さんは下関滞在中に巌流島花火を打ち上げたり、歌会に出席したりして楽しんでいたみたいです。

お龍は龍馬さんの事業や仕事に全く興味がなく、明治政府から知らされるまで龍馬さんの業績を知らなかったみたいです。


ここからはちょっと冷める話になりますが、お龍の評判はあまりよろしくなかったみたいで、海援隊をはじめ様々な方から嫌われていたそうです。

龍馬の家督を継いだ坂本直さんは、訪ねて来たお龍を冷たく追い返したり・・・。

土佐藩士の佐々木高行さんはお龍についてこう語っています。

大変な美人だが、賢婦と言えるかどうかは疑わしい。
善にも悪にもなるような女。

と・・・。

さらに菅野覚兵衛さんは

品行が悪く、意見をしても聞き入れないので面倒はみられない

と・・・。

評判が良くないのは知っていましたが、私の想像を超える嫌われ方をしていたみたいです。。


~画像は龍馬とお龍 愛の旅路像 (京都市伏見区)~

1867年12月2日、下関にいたお龍に龍馬暗殺の知らせが届きました。

お龍は髪を切って仏前に添えた後、大泣きをしたという。
後年、お龍は龍馬が亡くなった晩に、血だらけの龍馬が夢枕に立っていたと語っています。

その後、お龍は龍馬さんの未亡人として土佐の坂本家に送り届けられますが3ヶ月後に立ち去ることに。

理由は龍馬の姉・乙女との不仲説や、義兄・権平夫婦との不仲説など諸説あり。

そして妹・起美の嫁ぎ先・菅野覚兵衛の実家で世話になった後、寺田屋のお登勢を頼り京都へ。
龍馬の墓所の近くに庵を結んで墓守をしながら暮らしますが、やがて京都にも居づらくなり東京へ。

東京では勝海舟西郷隆盛から援助を受けますが、その他にお龍を援助するものは誰ひとりいなかったといわれています。

後年、お龍は腹の底から親切だったのは西郷そしてお登勢だけだったと語っています。

1874年、勝海舟・菅野覚兵衛の紹介で神奈川宿の料亭・田中家で仲居として働きました。

晩年はアル中になり『龍馬の妻だ』と絡んでいたという。。

1906年死去(享年66歳)

御朱印情報


●御朱印の種類
・桜山神社の御朱印

●御朱印の受付場所
・授与所

●御朱印の受付時間
・不明

●御朱印の料金
・300円

●期間限定・特別御朱印
・新春限定御朱印
(東郷平八郎元帥海軍大将書・至誠無息の写し)

・木戸孝允の御朱印

●オリジナル御朱印帳
・木製の御朱印帳があります。
・初穂料 2000円

・2016年8月11日 参拝
・2022年3月 更新
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参拝情報とアクセス

●開門時間
・不明

●拝観料
・無料

●最寄りの駅
・JR下関駅から徒歩20分
・JR下関駅から徒歩5分

●最寄りのバス停
・サンデン交通
 厚生病院前 バス停から徒歩5分

●最寄りのIC
・中国自動車道・関門自動車道
 下関ICから車で15分

●駐車場
・桜山会館横(10台)
・社務所横(6台)
・駐車料金 無料

桜山神社(櫻山招魂社)の地図

 

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