大村神社の御朱印|軍事の天才・大村益次郎を祀る|(山口県山口市)

所在地山口県山口市鋳銭司11411番地
祭 神大村益次郎
由 緒1869年、維新の十傑の1人・大村益次郎は旧思想の武士から襲撃を受け、大阪でお亡くなりになりました。その後、遺骸は生まれ故郷である現・山口市鋳銭司に埋葬されました。1871年、明治天皇の名代として岩倉具視が墓参したのを受けて、1872年に神社を創建。それが大村神社の始まりといいます。その後、1946年に旧鎮座地から約600m離れた現在地に再建され現在に至ります。
HP大村神社は大村益次郎を祭神としている山口市の神社です。
スポンサーリンク

鳥居と手水舎


本日はネットで知り合ったYさんと山口巡りをしています。

山口はYさんの地元なので、毎度山口を訪れる度にたくさんの寺社と史跡を案内してくれます。

同い年ということもありとっても心の距離が近いです。
そしてオジサン2人の寺社巡りはとっても楽しいです。

特に車中での阿保話と卑猥な話は腹がよじれるほど面白く、毎度旅が終わった頃には腹筋がバッキバキになっています!


●境内入口

そんなこんなで、維新十傑の1人・大村益次郎さんを祀る大村神社に到着。

大村神社と書いておおむらじんじゃと読みます。


●鳥居

●鳥居
・1944年建立
・明神鳥居

まず最初に登場するのは立派な鳥居

もともとこの神社は、現在地から約600m離れたところにある大村益次郎さんの墓所に鎮座していたそうです。

それを1946年に現在地へ再建。

それが現在の大村神社なんだって。


●手水舎

●手水舎
・建立年不明
・瓦葺 切妻造

自然石を大胆に使用した手水鉢が印象的でした。
スポンサーリンク

拝殿

●拝殿

●拝殿
・1946年建立(?)
・銅板葺 入母屋造
・御祭神 大村益次郎

続いて、拝殿で参拝。

大村益次郎さんは、西郷隆盛さんに軍事の天才と言わしめた事実上の日本陸軍の創始者です。


今ひとつ知名度が低いお方ですが、靖国神社の銅像の人って言えば『おぉ〜あの人か〜』となる人も多いと思います。


人間神を祀っていることもあって、拝殿内はどこかしら護国系の神社に似た空気が漂っていました。


木鼻などの彫刻は昭和建築特有の雑味が。

良くも悪くも昭和建築のクセが強い社でした。


蟇股には丸に大の紋がありました。

これは神紋でしょうか?
スポンサーリンク

大村益次郎の墓所

●大村益次郎墓所 案内図

参拝後、車で数分のところにある大村益次郎さんのお墓に行ってきました。


●大村益次郎の墓所

●大村益次郎の墓所
・国指定史跡

1869年、大村益次郎さんは京都の旅館で会食中、旧思想の武士たちから襲撃を受けました。

そしてその2ヶ月後、大阪の病院でお亡くなりになりました。。

その後、益次郎さんの遺骸は生まれ故郷・鋳銭司へ運ばれ埋葬されました。

それがこの地なんだって。


墓石の正面には故兵部大輔贈従三位大村永敏墓と刻まれていました。

お墓を建立した当初の位階は従三位だったみたいですが、没後50年経った1919年に従二位を贈られたそうですよ。


ちなみに益次郎さんのお墓の隣には、妻・琴子さんのお墓もありました。


あと、益次郎さんの墓所には鳥居がありました。

お墓なのに鳥居!?

由緒によると、もともと大村神社は益次郎さんの墓所鎮座していたそうです。

ということで、この鳥居は旧大村神社の遺構だと思われます。


●神道碑
・1878年建立
・撰文 山田顕義
・篆額 有栖川宮熾仁親王

さらに墓所には神道碑という巨大な石碑がありました。

どうやらこの神道碑は、1878年の大村没後十年祭の際に旧大村神社の前に建立されたもののようです。

神道碑の裏には石碑を寄付した人たちの名前がズラ~と書いてあるのですが、伊藤博文さん・井上馨さん・三条実美さん・毛利元徳さん・品川彌次郎さん・伊達宗城さんなどなど、そうそうたるラインナップに少々興奮してしまいました!

●神道碑の発起人
・寺島秋介・吉富篤邦・上田正蔵
・田邊嘉三郎・荒川佐兵衛


●神道碑の寄付者
・有栖川熾仁親王・東伏見嘉彰親王・三条実美
・毛利元徳(長州藩主)伊達宗城(宇和島藩主)
・伊藤博文・井上馨・山田顕義・山尾庸三
・林友幸・品川彌次郎・原田一道・船越衞
・中嶋佐衡・木梨精一郎・井上教通・長岡義之
・大久保春野・近藤真琴・松岡方祇・毛利重輔
・櫻井真養・高橋勝政・三宮義胤・原俊則
・西長利・塩田彦治・長嶺譲・飯田俊徳
・田中春風・内藤正明・馬屋原彰・進十六
・鼓包武・馬屋原二郎・佐藤守一・阿武素行
・厚東武直・有地品之允・佐久間左馬太
・川村洋與・志道貫一・新山春太郎・坪井航三
・児玉良友・河田景與・伊藤雋吉・東久世道禧
・四條隆訶・鷲尾隆聚・橋本實梁・西四辻公業
・坊城俊章・万里小路通房・穂波経度・渡邊清
・西村亮吉・子安峻・佐藤金義・十津川郷士中
・岡本孝承・長谷川貞雄・猪山成之・石井靄吉
・西尾貞俊・松下勝信・賀茂水穂


●神道碑の彫士
・河村卯三郎

計74名
スポンサーリンク

鋳銭司郷土館と長沢池

●鋳銭司郷土館

その他、大村神社の隣には鋳銭司郷土館がありました。


そんなこんなで、鋳銭司郷土館を見学してきました。

ちなみに鋳銭司と書いてすぜんじと読みます。

大村益次郎さんの生まれ故郷である山口市鋳銭司は、平安時代から約200年の間、貨幣の鋳造が行われていた場所なんだって。

そんなこんなで、大村神社から車で5分のところに周防鋳銭司跡がありました。


ちなみに、山口県下関市の覚苑寺には長門鋳銭所跡があります。

覚苑寺の御朱印|長府毛利家の墓所|長門鋳銭所跡|勝山御殿の玄関|(山口県下関市)
所在地山口県下関市長府安養寺3丁目3−8宗 派黄檗宗由 緒1698年、長府藩3代藩主・毛利綱元が、宇治・萬福寺の第7代住持・悦山道宗禅師を開山として迎え創建したのが始まり。もともとこのお寺は下関市内の綾羅...


郷土館の入口には大山益次郎没後 150年と書かれておりました。

益次郎さんがお亡くなりになってまだ150年しか経ってないのか!

チョンマゲ姿の絵を見ると遥か遠い昔のような気がするけど、明治維新ってそこまで古い話ではないのですね。

これから150年後・・・私たちの姿もチョンマゲ級の違和感で見られてしまうのでしょうか?


館内には周防鋳銭司跡から出土した遺物や日本の貨幣などが展示されてました。

『これは銭形平次のやつですね』

『これは今の価値でいうと◯◯円くらいです』

などなど、古銭ガイドをしてくれるYさん

やたらと古銭に詳しいなぁ・・・

と思ったらなんと!

Yさんは古銭コレクターだったという!

今まで何度も一緒に旅してきたけど、知らなかったなぁ〜。

なんでも鑑定団みたいでカッコよかったよ!

さすがお店で骨董品を取り扱ってるだけのことはある!


その他、鋳銭司郷土館では大村益次郎さんが愛用した扇子や陣笠、さらに直筆の作戦図などなど、たくさんの遺品を拝観することができました。


私もYさんも清々しくエロいのですが、今の時代、そういったことを話すのはNG

そして人の容姿に触れるのもNGの時代です。

しかし、益次郎さんのインパクトに触れないのはちょっと不自然な気もします。


福禄寿顔負けの長いオデコ

そして若人あきら顔負けの立派な眉毛

やはり気になりますよね?

本人もコンプレックスだったのか、益次郎さんは生涯で1度も写真を撮ったことがないといわれています。

この肖像画の作者は西郷隆盛さんや大久保利通さんの肖像画を描いたイタリア人の銅版画家・エドアルド キヨッソーネさん。

益次郎さんの死後、側近だった高橋朴庵さんの記憶をもとに描いた肖像画だといわれています。

西郷どんの肖像画の件もありますし、どうせ似てないんだろ?

と思ったら大間違い!

益次郎さんを知る人からは『似てる!』と高評価だったみたいです。

益次郎さんを知る人の証言によると、極端に頭が大きく、顔が広く、眉毛は濃くて目はくぼんで鋭く、さらに目と口の間が詰まっていた・・・などなど、一度見たら忘れられない特徴的な外見をしていたそうです。

そんな益次郎さんに付けられたあだ名は火吹きダルマ

一説によると、このあだ名は高杉晋作さんが名付けたといわれています。

そんなこんなで、このインパクトのある肖像画は大村益次郎唯一の肖像画として知られています。

実はなんと、この肖像画を所蔵しているのは鋳銭司郷土館だという!

何気にとんでもない史料館なのですよ!


●長沢池

境内からは長沢池という巨大な池を望むことができました。

この池は1651年に築かれた人工池なんだって。

池の周囲はなんと約6kmもあるという!


ちなみに長沢池には、池に向かって打つゴルフの打ちっぱなしがありました。

いつか機会があったら打ちまくってみたいですね。

そんなこんなで、参拝終了。

本日はいろんな所に連れてってくれてありがとうございました。

また一緒に旅しましょ~!
スポンサーリンク

大村益次郎とは?

●大村益次郎とは?

1824年、現在の山口市鋳銭司で村医者・村田孝益の長男として誕生。

1842年、シーボルトの弟子・梅田幽斎から医学や蘭学を学びました。
その他、漢学者・広瀬淡窓の塾に入り漢籍・算術・習字なども学びました。

1846年、大坂で緒方洪庵が開く適塾で塾頭を任じられます。
ちなみに適塾では福沢諭吉さんや橋本左内さんも学んでいました。

その後、長州に戻って開業医となりますが、不愛想な性格のため評判はあまり良くなかったみたいです。


1853年、浦賀沖に黒船が来航すると、日本では蘭学の需要が高まりました。

そんなこんなで、四賢公の1人である宇和島藩主・伊達宗城さんに招かれて蘭学や兵学の講義を始めました。

さらに伊達宗城さんのもとで洋式兵学書の翻訳や蒸気船の設計・開発などにも携わりました。

1856年、伊達宗城さんの参勤交代に付き添い江戸に向かうことに。

そして、江戸で蘭学・医学・兵学を教える鳩居堂という私塾を開きました。

1858年、長州藩上屋敷で開催された蘭書会読会に参加。
その際、長州藩士・桂小五郎(木戸孝允)さんと出会いました。

それを機に、長州藩の要請で江戸在住のまま長州藩士となりました。


1863年、長州へ帰国。

そして1864年に兵学校教授役となり、長州藩の藩校・山口明倫館で西洋兵学の講義を行いました。


1865年、長州藩で高杉晋作さんが奇兵隊を創設すると、益次郎さんは桂小五郎(木戸孝允)からの要請を受け奇兵隊の軍事指導を任されます。

そして奇兵隊を実戦に使えるように編成し、そして訓練しました。


1866年、幕府は第二次長州征討(四境戦)を決行。

長州藩のリーダーであった桂小五郎(木戸孝允)は大村益次郎・高杉晋作・伊藤博文・井上馨らと倒幕による日本の近代化を図り、幕府と全面戦争を行うことに。

益次郎さんは第二次長州征討(四境戦)・石州口の戦いで実戦指揮を担当しました。

その戦術は最新の武器と巧妙な用兵術に加え、無駄な攻撃を避け、相手の自滅を誘ってから攻撃を加えるという合理的なものでした。

そして幕府軍をことごとく撃破
益次郎さんの軍事的才能が遺憾なく発揮された戦いでした。


1867年、江戸幕府15代将軍・徳川慶喜が政権を朝廷に返上しました(大政奉還
これにより265年間続いた徳川幕府は終焉を迎えました。

しかし、旧幕府の残党がそれに反発。

そんなこんなで、京都近くの鳥羽・伏見で新政府軍旧幕府軍が武力衝突しました(戊辰戦争

戊辰戦争の初戦である鳥羽伏見の戦いが起こると、益次郎さんは時期早々だと反対。

しかし戦いに参加すると益次郎さんが作り上げた新政府軍の軍隊は、幕府軍をことごとく撃破して進軍を続けました。


1868年の上野戦争では益次郎さんの作戦で彰義隊ら旧幕府軍を1日で壊滅させました。

その後の戦いも益次郎さんの戦略どおりに進んでいき、1869年の箱館戦争(五稜郭の戦い)で戊辰戦争は終結。
これにより、国内は明治新政府によって統一され、新しい時代が始まることとなりました。

明治新政府が樹立すると、益次郎さんは軍の指揮を任されました。

そして各藩の軍を統括し、近代兵制の創始者といわれる活躍をしました。


しかし1869年。

京都・三条木屋町の旅館で静間彦太郎や安達幸之助らと会食中、旧思想の元長州藩士の団伸二郎や神代直人ら8人の刺客に襲われました。

益次郎さんはこの時に足を斬られて負傷

その傷から細菌が入って敗血症になり、約2ヶ月後にお亡くなりになりました(享年46歳)


その後、益次郎さんの遺骸は生まれ故郷である現・山口市鋳銭司埋葬されました。

御朱印情報

●御朱印の種類
・大村神社の御朱印

●御朱印の受付場所
・鋳銭司郷土館の受付

●御朱印の受付時間
・9:00~17:00
※鋳銭司郷土館の入館は16:30まで

●御朱印の料金
・300円

●期間限定・特別御朱印
・なし

●オリジナル御朱印帳
・なし

・2018年2月22日 参拝
・2022年8月 更新
スポンサーリンク

参拝情報とアクセス

●大村神社 開門時間
・境内自由

●大村神社 拝観料
・無料

●鋳銭司郷土館
開館時間 9:00~17:00
※鋳銭司郷土館の入館は16:30まで

入館料 一般110円
※18歳以下の方・70歳以上の方・障がいのある方およびその付添人は無料

休館日 月曜日・年末年始
※月曜が祝日の場合は火曜日以降の平日

●最寄りの駅
・JR四辻駅から徒歩25分
・JR四辻駅から車で5分

●最寄りのバス停
・防長交通
 大村神社前 バス停から徒歩10分

●最寄りのIC
・山陽自動車道
 山口南ICから車で5分

・中国自動車道
 小郡ICから車で15分

・中国自動車道
 長谷ICから車で15分

●駐車場
・無料の専用駐車場あり

大村神社の地図

 

御朱印のじかん~週末ドロボー~ - にほんブログ村
山口市の御朱印山口県の御朱印
都道府県別の御朱印
御朱印のじかん|週末ドロボー
タイトルとURLをコピーしました