近松寺の御朱印~歴代唐津藩主が帰依した名刹~(佐賀県唐津市)

所在地佐賀県唐津市西寺町511
宗 派臨済宗南禅寺派
由 緒1302年に創建。1532〜1554年、岸岳城主・波多守親が聖福寺(福岡)の僧・湖心碩鼎の高徳を慕い、満島山(現・唐津城)に近松寺を再建。1574年、兵火により焼失。1593年、波多守親は豊臣政権によって改易。波多氏に代わって唐津地方の代官になった寺沢広高が聖福寺の僧・耳峯玄熊を招いて現在地に再興したそうです。その後、歴代の唐津城主が帰依。中でも小笠原氏は菩提寺として深く帰依したそうです。
HP【公式】瑞鳳山 近松寺
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近松寺とは?

●近松寺とは?

唐津藩主・小笠原家の菩提寺であります近松寺に到着。

近松寺と書いてきんしょうじと読みます。

JR唐津駅から徒歩10分のところにある駅近物件です。


近松寺の創建は1302年。
その後、1532〜1554年に岸岳城主・波多守親さんが満島山(現・唐津城)に再建。

しかし1574年、兵火により焼失。

そして1598年に寺沢広高さんが現在地に再興したお寺といいます。


唐津城に近い近松寺は、歴代唐津藩主が崇敬したお寺なんだって。

唐津城は、豊臣秀吉の朝鮮出兵の本拠地・名護屋城の後詰の城

築城当時は、天守を持たない仮城だったそうですが、関ヶ原の合戦の功により12万3千石を与えられた寺沢広高さんが1602年から7年の歳月を費やして築城しました。

ちなみに、寺沢広高さんはもともと満島山(現・唐津城)にあった近松寺を現在地に再興したお方です。

しかし、唐津藩2代藩主・寺沢堅高さんが天草島原の乱の責任を問われて自害。。
そのため、寺沢氏はたった2代で断絶してしまいました。

そして、寺沢氏の断絶とともに近松寺の寺運も衰退していったという。

このことを嘆いた第4世・遠室明超は、徳川3代将軍・徳川家光さんに近松寺の隆盛を懇請。
そして百石の御朱印を賜り、もとの姿を取り戻すことができたという。


その後、唐津藩主は大久保氏・松平氏・土井氏・水野氏と目まぐるしく替わっていきました。
唐津城は陸海の要衝地だったため、徳川譜代大名が城主を努めていたようです。

その歴代唐津藩主は近松寺に深く帰依していたそうです。

1817年、唐津藩主・水野氏に替わって入封したのが小笠原長昌さん。
以来、唐津城は小笠原氏5代の居城として明治維新を迎えました。

また小笠原氏は近松寺を菩提寺とし、深く帰依したといいます。

このように唐津藩はコロコロと藩主が交替したため、近松寺には寺沢氏・松平氏・小笠原氏のお墓があるんだって。

ということで、近松寺は唐津城と関係の深いお寺さんなんですね!

そんなこんなで、参拝開始。
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山門

●山門

●山門
・1598年移築
・瓦葺 切妻造 薬医門

まず最初に登場するのは山門

なんとこの門は名護屋城の城門を移築したものだという!


移築したのは寺沢広高さん。
寺沢広高さんは、唐津城を築城したお方であり、この地に近松寺を再興させたお方でもあります。

唐津城の築城には名護屋城の解体資材が用いられたといいます。

ということで、この門は名護屋城の解体とともにこの地にやってきた門なんですね。


扁額には山号の瑞鳳山
扉には小笠原家の家紋・三階菱
入口側2本の控柱が異常に細いのが特徴的な門でした。


まさか名護屋城の遺構に触れることができるとは!

名護屋城は全国から名だたる武将が大集結したお城。

この門が名護屋城のどこの門だったのかはわかりませんが、もしかしたら秀吉さんをはじめ、戦国オールスターがくぐった門かも知れません。

そう思っただけで興奮!
ガンギマリです。


ちなみに近松寺で参拝後、名護屋城に行ってきました。
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本堂(法皇殿)

●本堂(法皇殿)

●本堂(法皇殿)
・江戸時代建立(?)
・1928年改築
・瓦葺 唐破風向拝付き入母屋造
・本尊 釈迦牟尼仏
・脇侍 文殊・普賢菩薩

そんなこんなで、本堂で参拝。

公式ホームページによると、この本堂は1928年に第15代住職・康州玄熈和尚の際に改築と書かれておりました。

正面の扁額が1801年に掲げられたものですので、もしかしたら改築前の本堂は江戸期に建立されたものかも知れません。(推測)


小笠原家の菩提寺ということで、蟇股には小笠原家の家紋・三階菱。


●唐津焼の香炉
・中野霓林 作

そして香炉にも三階菱がありました。

独特の味が出ている素敵な香炉だなぁ〜と思ったら、こちらは中野窯というところで作られた唐津焼の香炉らしいです。

中野窯は唐津藩主・小笠原氏の御用窯だったそうですよ。

そのため、小笠原家の家紋・三階菱を窯印として使用してるんだって。
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舞鶴園

●舞鶴園


●舞鶴園
・安土桃山時代作庭
・枯山水庭園
・曽呂利新左衛門 作

本堂裏には素敵な庭園がありました。

なんとこちらは、豊臣秀吉に随行した曽呂利新左衛門さんが作庭したお庭なんだって!


ザックリと簡単に曽呂利新左衛門とは、豊臣秀吉さんに仕えた御伽衆(おとぎしゅう)の1人です。

ちなみに御伽衆とは、将軍や大名のそばで話し相手をしたり書物の講釈などをする人のことです。

曽呂利新左衛門さんは落語家の始祖ともいわれ、ユーモラスな頓知で人を笑わせることを得意にしていたみたいです。

もともとは大坂・で刀のを作っていたそうです。
鞘作りはなかなかの腕前だったみたいで、刀がソロリと鞘に収まるほど精巧に作られてたんだって。

ということで、曽呂利という名前がついたという!

武野紹鴎に茶道を学び、香道や和歌にも通じていたそうです。

しかし、本当に実在していたかどうかはわからず・・・。

そのため、架空の人物という説や、逸話は後世の創作という説があるそうです。
また、茶人で落語家の祖・安楽庵策伝と同一人物ともいわれています。

どうやらソロリさんは謎の多いお方のようです。


~画像は大阪府堺市~

そういえば以前、大阪の堺市をプラプラと散策していたら曽呂利新左衛門屋敷跡を発見したことがありました。

まさか遠く離れた九州でも曽呂利さんの史跡に出会えるとはね!

だからどうした?
という話しですが・・・!


話しは戻ってこのお庭は、曽呂利さんが唐津湾の風景を模して築庭したお庭なんだって。

築山の正面は満島山(現・唐津城)
左側の松は、虹の松原
右側は西の浜
砂はを表現してるんだって。


・左 → 満島山
・右 → 虹の松原

ちなみにこちらが、現在の満島山と虹の松原です。
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拈華庵と織部灯籠と太閤馬盥

●拈華庵

●拈華庵(ねんげあん)
・1930年建立

舞鶴園の隣には拈華庵という茶室がありました。

どうやらこの茶室は、唐津藩主・小笠原氏の茶室を1930年に茶道・宗徧流の人々が再興したものらしいです。

ちなみに拈華庵と書いてねんげあんと読むそうです。


●織部灯籠(キリシタン灯籠)①

そして拈華庵の近くには、3基の織部灯籠がありました。

織部灯籠とは、俗にいうキリシタン灯籠のことです。

戦国大名&茶人の古田織部が考案した灯籠ということで織部灯籠と呼ばれています。


●織部灯籠(キリシタン灯籠)②

膨らんでる部分が十字架(クルス)で、その下にある宣教師風の人物像が聖人です。

隠れキリシタン礼拝用石灯籠といわれています。

隠れキリシタンの人々は、この聖人像を表向きはお地蔵さんとして礼拝していたといいます。
ひそかにマリアさまに祈りを捧げていたのですね。


●織部灯籠(キリシタン灯籠)③

しかしっ!

一説によると、この人物像は僧形の茶人という説があるそうです・・・

聖人説・・・ピンチ!

浪漫派の私としましてはキリシタン灯籠であってほしいのですが・・・ !


●太閤馬盥

さらに拈華庵の近くには太閤馬盥というお風呂のような石造物もありました。

どうやらこちらは馬を洗うタライのようです。
なんと、名護屋城から移設したものなんだって!

太閤馬盥とのことなので秀吉さんの馬を洗っていたのでしょうか???

松浦山聖観音堂と華厳の釈迦如来石像

●松浦山聖観音堂

●松浦山聖観音堂
・1964年建立(?)
・瓦葺 宝形造

こちらの観音堂は、唐へ渡る航海の安全祈願ならびに領内鎮護の聖仏として代々唐津藩主が信仰していたお堂なんだって。

もともとは違う場所にあったそうですが、1964年に現在地に移転したそうです。

ちなみに正面の大きな扁額は1679年作。
明国の僧・道本禅師の筆とのことです。


●津守観世音(目洗観音)
・奈良時代作
・行基作

なんと、堂内の観音さんは行基作という。
ということで・・・奈良時代作!?

通称・目洗観音
いかにも目の御利益がありそうな名前ですが、由緒書きには目のことについては一切触れていませんでした・・・。

なんで目洗観音と呼ばれているのでしょう???


●華厳の釈迦如来石像

●華厳の釈迦如来石像
・江戸時代前期作

こちらの石仏は、唐津藩2代藩主・松平乗春さんが寄進したもののようです。

お釈迦さんが華厳経を説いて三昧に入ったときの姿なんだって。

寺沢と小笠原と近松門左衛門のお墓

●寺沢堅高のお墓

ザックリと簡単に寺沢堅高さんとは、初代唐津藩主・寺沢広高さんの次男です。

兄が早世したため、1625年に17歳の若さで唐津藩2代藩主となりました。

1637年、天草島原の乱が勃発。
1647年、天草島原の乱の責任を問われて自害

享年39歳。


●小笠原長和のお墓

小笠原長和さんは、大和国郡山藩主・柳沢保泰さんの9男として生まれました。

唐津藩3代藩主・小笠原長会の養子となり、その後、唐津藩4代藩主となりました。

天保の大飢饉の際、救済に尽力。
しかし家臣の一部に不逞な輩がいたことが原因で、1839年に一揆が起こる。

これを鎮めるために尽力していましたが翌年、失意のうちに死去。

享年20歳。


重厚な石門に圧倒されたひと時でした。


●近松門左衛門のお墓

ザックリと簡単に近松門左衛門さんとは、江戸時代に活躍した浄瑠璃・歌舞伎作家です。

曽根崎心中国性爺合戦心中天網島など代表作多数。

近松門左衛門さんの遺骨は大阪(法妙寺)と尼崎(広済寺)に埋葬。

このお寺には遺髪が埋葬されてるんだって。

唐津観光

●名護屋城跡

参拝後、唐津観光をしてきました。

そんなこんなで、名護屋城跡に到着。

名護屋城は豊臣秀吉さんの朝鮮出兵の際の出兵拠点として築かれたお城です。


黒田官兵衛・黒田長政・加藤清正・寺沢広高など、九州の諸大名を中心に約8ヶ月の突貫工事で完成させたという!



お城の周囲には城下町が築かれ、最盛期には人口10万人を超えるほど繁栄したという。

20万5570兵が朝鮮に出兵し、名護屋在陣は10万2415兵。

総計30万7985兵で陣立てされていたというとんでもないお城です!


戦国オールスターがこの地をウロチョロしていたと思うだけで心のダンスが止まりません。


現在も、上杉景勝・直江兼続・真田昌幸・片桐且元・加藤清正・九鬼嘉隆・黒田長政・島津義弘・伊達政宗・徳川家康・鍋島直茂・福島正則・堀秀治・前田利家・毛利秀頼などなど、65の陣屋跡の遺構が残っているという!


●呼子の朝市

輪島朝市(石川県)・勝浦朝市(千葉県)とともに日本三大朝市の1つであります呼子の朝市にも行ってきました。

昼過ぎに来てしまったため、余裕で朝市は終わってましたが!


呼子といえばイカ!
そしてイカの活き造り

なにぶんイカ好きなもんで!

しかし、イカの活き造りは結構なお値段。
ということで、イカの天ぷらとイカ焼売を食べて帰りました。


●七ツ釜

続いて、遊覧船に乗って七ツ釜に行ってきました。

船旅では船酔い率ほぼ100%の私・・・地獄以外なにものでもない。

こんなに揺れてるのに何でみんな平気なんだろう・・・。


そんなこんなで、七ツ釜に到着。

玄武岩が玄界灘の荒波により浸食してできた洞窟なんだって。



7つの海食洞があることから七ツ釜と名付けられたそうですが、実際には7つ以上あるらしい・・・どないやねん。


頭が弱いので全く理解できませんが、岩がミルフィーユしちゃってるんですよ!

ソーメンとか棒ラーメンの断面になってるの!

地球ってスゴい!
釣り人もスゴい!


●玄海海中展望塔

玄海海中展望塔にも行ってきました。

なんとこちらは日本海で唯一の海中展望塔なんだって。


長さ86mの桟橋を渡り~の

螺旋階段をグルグルと下りると


水深7mの海中展望室に到着!

海中展望室には24個の海中窓があり、窓からは自然のままの海中を観賞することができました。


上で誰かがエサを撒いちゃってるんじゃないの???
と思うくらい、信じられない数の魚が泳いでいました!

たくさんの魚と目が合いました。


●波戸岬

続いて、波戸岬へ。

九州本土の最西北端です。


定番の恋人の聖地や海水浴場がありました。


●虹の松原とからつバーガー

三保の松原(静岡県)・気比の松原(福井県)とともに日本三大松原の1つ・虹の松原をドライブ。

幅約500m。 長さ約4.5km。 約100万本のクロマツの林が続きます。


そんなこんなで、虹の松原を走っているとレトロバスを発見。

どうやら、ご当地グルメ・からつバーガーの有名店のようです。


ということで、行列に並んでからつバーガーをゲット。

ウーーーマでした。

御朱印情報

●御朱印の種類
・近松寺の御朱印(南無釋迦如来)

●御朱印の受付場所
・庫裡

●御朱印の受付時間
・不明

●御朱印の料金
・300円

●期間限定・特別御朱印
・なし

●オリジナル御朱印帳
・なし

・2015年8月13日 参拝
・2021年6月 更新
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参拝情報とアクセス

●開門時間
・不明

●拝観料
・無料

●最寄りの駅
・JR唐津駅から徒歩10分

●最寄りのバス停
・坊主町 バス停から徒歩2分

●駐車場
・無料の専用駐車場あり

近松寺の地図

 

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