![](https://goshuin.138shinsekai.com/wp-content/uploads/2021/07/chionji-saga03.jpg)
所在地 | 佐賀県鹿島市浜町乙2391 |
---|---|
宗 派 | 浄土宗鎮西派 |
由 緒 | 1270年に聖達上人が開山。臥龍城の鎮護として、また松岡神社の神宮寺として存続していましたが、江戸時代に鹿島藩初代藩主・鍋島忠茂さんが現在地に移転。明治時代、火災により焼失。その後、再建され現在に至るそうです。 |
境内入口と本堂
●肥前浜宿 酒蔵通り
![](https://goshuin.138shinsekai.com/wp-content/uploads/2021/07/chionji-saga01.jpg)
江戸時代、長崎街道の脇街道である多良海道の宿場町として栄えた肥前浜宿。
この地は多良岳山系の清水と佐賀平野の米に恵まれ、江戸時代から酒造が盛んだったそうです。
現在もこの通りには3つの酒蔵が残り、通称・酒蔵通りとして日本酒ファンから人気を集めてるんだって。
そんなこんなで、酒蔵通りをプラプラと散策。
●境内入口
![](https://goshuin.138shinsekai.com/wp-content/uploads/2021/07/chionji-saga02.jpg)
するとお寺を発見。
そんなこんなで、参拝開始。
お寺の名前は原山 知恩寺。
山号は原山と書いてはるさんと読むんだって。
●本堂
![](https://goshuin.138shinsekai.com/wp-content/uploads/2021/07/chionji-saga03.jpg)
寺伝によると、1270年に聖達上人が開山。
もともと知恩寺は原貞光が築城した臥龍城の近くにあったそうです。
そんなこんなで、臥龍城の鎮護として、また松岡神社の神宮寺として存続していましたが、江戸時代に鹿島藩初代藩主・鍋島忠茂さんが現在地に移転したそうです。
しかし明治時代に火災により焼失。
その後、再建され現在に至るそうです。
![](https://goshuin.138shinsekai.com/wp-content/uploads/2021/07/chionji-saga04.jpg)
宗派は浄土宗鎮西派。
御本尊は阿弥陀如来立像。
開山は聖達上人です。
ちなみに、聖達上人と書いてせいだ上人と読みます。
聖達上人は、時宗の開祖・一遍上人に浄土教を教授したお方です。
つまり一遍上人の師匠です!
![](https://goshuin.138shinsekai.com/wp-content/uploads/2021/07/chionji-saga01.jpg)
江戸時代、長崎街道の脇街道である多良海道の宿場町として栄えた肥前浜宿。
この地は多良岳山系の清水と佐賀平野の米に恵まれ、江戸時代から酒造が盛んだったそうです。
現在もこの通りには3つの酒蔵が残り、通称・酒蔵通りとして日本酒ファンから人気を集めてるんだって。
そんなこんなで、酒蔵通りをプラプラと散策。
●境内入口
![](https://goshuin.138shinsekai.com/wp-content/uploads/2021/07/chionji-saga02.jpg)
するとお寺を発見。
そんなこんなで、参拝開始。
お寺の名前は原山 知恩寺。
山号は原山と書いてはるさんと読むんだって。
●本堂
![](https://goshuin.138shinsekai.com/wp-content/uploads/2021/07/chionji-saga03.jpg)
寺伝によると、1270年に聖達上人が開山。
もともと知恩寺は原貞光が築城した臥龍城の近くにあったそうです。
そんなこんなで、臥龍城の鎮護として、また松岡神社の神宮寺として存続していましたが、江戸時代に鹿島藩初代藩主・鍋島忠茂さんが現在地に移転したそうです。
しかし明治時代に火災により焼失。
その後、再建され現在に至るそうです。
![](https://goshuin.138shinsekai.com/wp-content/uploads/2021/07/chionji-saga04.jpg)
宗派は浄土宗鎮西派。
御本尊は阿弥陀如来立像。
開山は聖達上人です。
ちなみに、聖達上人と書いてせいだ上人と読みます。
聖達上人は、時宗の開祖・一遍上人に浄土教を教授したお方です。
つまり一遍上人の師匠です!
聖達上人とは?
●ザックリと簡単に聖達上人とは?
![](https://goshuin.138shinsekai.com/wp-content/uploads/2021/08/chionji-saga24.gif)
聖達上人は、1204年に肥前国の藤津郡古枝村(現・鹿島市)で誕生。
父は藤津郡の守護職・大村景家。
母は金剛勝院の座主である慶聖の娘・妙華。
聖達上人は、幼いときに母を病で亡くしました。
そんなこんなで、聖達上人は母の菩提を弔うために、祖父・慶聖のもとで得度します。
![](https://goshuin.138shinsekai.com/wp-content/uploads/2021/08/chionji-saga26.jpg)
聖達上人は金剛勝院の座主のもとで修行に励みますが、さらなる修行のために京に上りました。
そして法然上人の1番弟子・証空上人(西山浄土宗の派祖)の弟子になりました。
この頃、京では浄土宗への弾圧がひどく数々の法難が続いていたという。
そこで証空上人は弟子たちの身を案じ、聖達上人をはじめ、弟子たちに国元に帰って念仏を広めるように命じました。
このとき如仏(河野通広)が、念仏信仰が盛んな伊予国で念仏布教をするようにと勧めました。
そんなこんなで、聖達上人は伊予国へ。
そして伊予国で故・河野執行の妻を娶り、連れ子の道教を養子にしました。
その後、聖達一家は大宰府の弘西寺に移ります。
そして道教は聖達上人のもとで得度し、聖恵と名付けられました。
![](https://goshuin.138shinsekai.com/wp-content/uploads/2021/08/chionji-saga25.jpg)
1251年、如仏の子・随縁が聖達上人のもとへ入門。
聖達上人は随縁を華台上人のもとに預けます。
そして華台上人は随縁の名を智真と改め、1年ほど小城清水で学ばせたあと、聖達上人のもとに戻しました。
その後、智真は聖達上人のもとで修行を行いますが、父・如仏が亡くなったことにより、故郷の伊予国に帰りました。
そして半僧半俗の生活を過ごしていました。
しかし、伊予国では一族の所領争いが絶えず・・・それを嘆き悲しんだ智真は再び出家するために大宰府の聖達上人のもとへ行きました。
そして聖達上人から再出家の許しを得たあと、京の禅林寺へ。
![](https://goshuin.138shinsekai.com/wp-content/uploads/2021/08/chionji-saga23.jpg)
その後、智真は熊野詣へ。 すると夢枕に熊野権現が現れ『信不信を選ばず、浄不浄を嫌わず、念仏札を配るのです』というお告げを受けました。
そして智真は一遍と名乗り、出会った人々に念仏を唱え、そして踊念仏と念仏札を配るというスタイルで念仏布教を始めました。
やがて一遍の布教集団は時衆と呼ばれるようになり、後に時宗となり日本中に広まっていきました。
ちなみに念仏札を配ることを賦算(ふさん)といいます。
![](https://goshuin.138shinsekai.com/wp-content/uploads/2021/08/chionji-saga22.jpg)
一方、聖達上人は藤津郡の大村一族から菩提寺を建立してほしいという要請があり、50年ぶりに故郷の藤津郡に戻っていました。
聖達上人は聖恵に知恩寺の建立を命じ、1270年に原山 知恩寺を開山。
それから4年後の1274年。
京で念仏賦算をしていた一遍は、蒙古軍が博多を襲来したという噂を聞き、聖達上人のもとに駆けつけました。
しかし、大宰府に聖達上人の姿はありませんでした。
聖達上人の安否を気にしつつも念仏賦算をする一遍。
しかしある日、聖達上人の安否の知らせが届きました。
そんなこんなで翌年、一遍は知恩寺を訪ねました。
聖達上人の無事を喜ぶ一遍。
同じく一遍との再開を喜ぶ聖達上人。
2人はお風呂に入り仏法談議をすることになりました。
そして聖達上人は一遍に『十念の中でなぜ念仏だけを授けているのか?』と問いました。
※十念とは、念仏・念法・念僧・念戒・念施・念天・念休息・念安般・念身非常・念死の総称。
すると一遍は、証空上人の一念で当得往生できるという教えを自分流儀に解釈したことを詳しく説明しました。
それを聞いた聖達上人は一遍の悟りの境地にえらく感銘を受けました。
そんなこんなで、2人の仏法談議は尽きることがなかったといいます。
しかしお別れのときが・・・。
一遍は聖達上人との別れを惜しみつつ、再び念仏賦算へ旅立ちました。
晩年、聖達上人は仏前で一遍の念仏を唱え、日々極楽浄土を願っていたという。
そして1279年、聖達上人は76歳で亡くなりました。
その後、知恩寺は聖達上人の意思を弟子たちが受け継ぎ、40の末寺を建立。
そして鹿島市の中心的なお寺として繁栄したそうです。![](https://goshuin.138shinsekai.com/wp-content/uploads/2020/12/hougonji-ehime01-160x99.jpg)
![](https://goshuin.138shinsekai.com/wp-content/uploads/2021/08/chionji-saga24.gif)
聖達上人は、1204年に肥前国の藤津郡古枝村(現・鹿島市)で誕生。
父は藤津郡の守護職・大村景家。
母は金剛勝院の座主である慶聖の娘・妙華。
聖達上人は、幼いときに母を病で亡くしました。
そんなこんなで、聖達上人は母の菩提を弔うために、祖父・慶聖のもとで得度します。
![](https://goshuin.138shinsekai.com/wp-content/uploads/2021/08/chionji-saga26.jpg)
聖達上人は金剛勝院の座主のもとで修行に励みますが、さらなる修行のために京に上りました。
そして法然上人の1番弟子・証空上人(西山浄土宗の派祖)の弟子になりました。
この頃、京では浄土宗への弾圧がひどく数々の法難が続いていたという。
そこで証空上人は弟子たちの身を案じ、聖達上人をはじめ、弟子たちに国元に帰って念仏を広めるように命じました。
このとき如仏(河野通広)が、念仏信仰が盛んな伊予国で念仏布教をするようにと勧めました。
そんなこんなで、聖達上人は伊予国へ。
そして伊予国で故・河野執行の妻を娶り、連れ子の道教を養子にしました。
その後、聖達一家は大宰府の弘西寺に移ります。
そして道教は聖達上人のもとで得度し、聖恵と名付けられました。
![](https://goshuin.138shinsekai.com/wp-content/uploads/2021/08/chionji-saga25.jpg)
1251年、如仏の子・随縁が聖達上人のもとへ入門。
聖達上人は随縁を華台上人のもとに預けます。
そして華台上人は随縁の名を智真と改め、1年ほど小城清水で学ばせたあと、聖達上人のもとに戻しました。
その後、智真は聖達上人のもとで修行を行いますが、父・如仏が亡くなったことにより、故郷の伊予国に帰りました。
そして半僧半俗の生活を過ごしていました。
しかし、伊予国では一族の所領争いが絶えず・・・それを嘆き悲しんだ智真は再び出家するために大宰府の聖達上人のもとへ行きました。
そして聖達上人から再出家の許しを得たあと、京の禅林寺へ。
![](https://goshuin.138shinsekai.com/wp-content/uploads/2021/08/chionji-saga23.jpg)
その後、智真は熊野詣へ。 すると夢枕に熊野権現が現れ『信不信を選ばず、浄不浄を嫌わず、念仏札を配るのです』というお告げを受けました。
そして智真は一遍と名乗り、出会った人々に念仏を唱え、そして踊念仏と念仏札を配るというスタイルで念仏布教を始めました。
やがて一遍の布教集団は時衆と呼ばれるようになり、後に時宗となり日本中に広まっていきました。
ちなみに念仏札を配ることを賦算(ふさん)といいます。
![](https://goshuin.138shinsekai.com/wp-content/uploads/2021/08/chionji-saga22.jpg)
一方、聖達上人は藤津郡の大村一族から菩提寺を建立してほしいという要請があり、50年ぶりに故郷の藤津郡に戻っていました。
聖達上人は聖恵に知恩寺の建立を命じ、1270年に原山 知恩寺を開山。
それから4年後の1274年。
京で念仏賦算をしていた一遍は、蒙古軍が博多を襲来したという噂を聞き、聖達上人のもとに駆けつけました。
しかし、大宰府に聖達上人の姿はありませんでした。
聖達上人の安否を気にしつつも念仏賦算をする一遍。
しかしある日、聖達上人の安否の知らせが届きました。
そんなこんなで翌年、一遍は知恩寺を訪ねました。
聖達上人の無事を喜ぶ一遍。
同じく一遍との再開を喜ぶ聖達上人。
2人はお風呂に入り仏法談議をすることになりました。
そして聖達上人は一遍に『十念の中でなぜ念仏だけを授けているのか?』と問いました。
※十念とは、念仏・念法・念僧・念戒・念施・念天・念休息・念安般・念身非常・念死の総称。
すると一遍は、証空上人の一念で当得往生できるという教えを自分流儀に解釈したことを詳しく説明しました。
それを聞いた聖達上人は一遍の悟りの境地にえらく感銘を受けました。
そんなこんなで、2人の仏法談議は尽きることがなかったといいます。
しかしお別れのときが・・・。
一遍は聖達上人との別れを惜しみつつ、再び念仏賦算へ旅立ちました。
晩年、聖達上人は仏前で一遍の念仏を唱え、日々極楽浄土を願っていたという。
そして1279年、聖達上人は76歳で亡くなりました。
その後、知恩寺は聖達上人の意思を弟子たちが受け継ぎ、40の末寺を建立。
そして鹿島市の中心的なお寺として繁栄したそうです。
![](https://goshuin.138shinsekai.com/wp-content/uploads/2020/12/hougonji-ehime01-160x99.jpg)
宝厳寺の御朱印~時宗の開祖・一遍上人の生誕地~(愛媛県松山市道後湯月町)
所在地愛媛県松山市道後湯月町5−4宗 派時宗由 緒665年、斉明天皇の勅願により伊予国司・越智守興が創建したお寺とのことです。創建当初は法相宗でしたが、平安時代中期に天台宗に改宗。1239年、このお寺の...
薬師堂と納骨堂と庫裏
●薬師堂
![](https://goshuin.138shinsekai.com/wp-content/uploads/2021/07/chionji-saga06.jpg)
境内の片隅にはブロック塀で造られた薬師堂がありました。
説明板によると、もともとこの薬師さんは新町区というところにあったそうです。
しかし2003年、浜川広域架線改修工事に伴い、現在地に移転したんだって。
![](https://goshuin.138shinsekai.com/wp-content/uploads/2021/07/chionji-saga07.jpg)
薬師堂内には、薬師如来さんをはじめ、観音菩薩像と弘法大師像、そして木造の仏さん2体と石塔の相輪が安置されていました。
●納骨堂
![](https://goshuin.138shinsekai.com/wp-content/uploads/2021/07/chionji-saga05.jpg)
本堂の横には立派なお堂もありました。
何のお堂かなぁ~と近づくと納骨堂でした。
南無・・・。
●庫裏
![](https://goshuin.138shinsekai.com/wp-content/uploads/2021/07/chionji-saga08.jpg)
そんなこんなで参拝後、庫裏を尋ねてご住職さんとお話しタイム。
ご住職さんはとても柔らかいお方で、お寺の由緒などをいろいろとお話ししてくれました。
なかでも聖達上人に興味津々だったので、いろいろと質問していたら、寺伝などをまとめたマル秘資料を頂けました。
手渡してくれるときに、誰にも見せないでね!
的なことを言われたので、内容は秘密です。
お口にチャックです。
最後に御朱印をお願いしたら『御朱印はやってないけど印でよろしかったら』ということで、小さい印を押して頂きました。
お住職さん、その節はありがとうございました!
![](https://goshuin.138shinsekai.com/wp-content/uploads/2021/07/chionji-saga06.jpg)
境内の片隅にはブロック塀で造られた薬師堂がありました。
説明板によると、もともとこの薬師さんは新町区というところにあったそうです。
しかし2003年、浜川広域架線改修工事に伴い、現在地に移転したんだって。
![](https://goshuin.138shinsekai.com/wp-content/uploads/2021/07/chionji-saga07.jpg)
薬師堂内には、薬師如来さんをはじめ、観音菩薩像と弘法大師像、そして木造の仏さん2体と石塔の相輪が安置されていました。
●納骨堂
![](https://goshuin.138shinsekai.com/wp-content/uploads/2021/07/chionji-saga05.jpg)
本堂の横には立派なお堂もありました。
何のお堂かなぁ~と近づくと納骨堂でした。
南無・・・。
●庫裏
![](https://goshuin.138shinsekai.com/wp-content/uploads/2021/07/chionji-saga08.jpg)
そんなこんなで参拝後、庫裏を尋ねてご住職さんとお話しタイム。
ご住職さんはとても柔らかいお方で、お寺の由緒などをいろいろとお話ししてくれました。
なかでも聖達上人に興味津々だったので、いろいろと質問していたら、寺伝などをまとめたマル秘資料を頂けました。
手渡してくれるときに、誰にも見せないでね!
的なことを言われたので、内容は秘密です。
お口にチャックです。
最後に御朱印をお願いしたら『御朱印はやってないけど印でよろしかったら』ということで、小さい印を押して頂きました。
お住職さん、その節はありがとうございました!
浜宿キッチン
●浜宿キッチン
![](https://goshuin.138shinsekai.com/wp-content/uploads/2021/07/chionji-saga09.gif)
知恩寺の参道脇には浜宿キッチンというお食事処がありました。
どうやら、今流行りの古建築をリノベーションしたお店のようです。
こういうの観光地っぽくてイイネ!
![](https://goshuin.138shinsekai.com/wp-content/uploads/2021/07/chionji-saga13.jpg)
でも、お高いんじゃないのぉ~。
と思ったら、セットがオール1100円!
リーズナブルだね!
ということで、お邪魔します。
![](https://goshuin.138shinsekai.com/wp-content/uploads/2021/07/chionji-saga10.jpg)
おーーーっと!
めっちゃキュートな店内!
オジさんは脇汗もんよ!
心なしか、店員さんも笑ってるよ。
![](https://goshuin.138shinsekai.com/wp-content/uploads/2021/07/chionji-saga11.jpg)
そんなことより、浜宿キッチンさんは2018年にオープンしたお店なんだって。
呉竹酒造の敷地にある、通称・西の蔵という建物をリノベってオープンしたお店のようです。
建物はなんと築220年!
和食を中心とした創作料理を楽しめるそうで、ソース1つから全て手作りだというこだわりっぷり。
![](https://goshuin.138shinsekai.com/wp-content/uploads/2021/07/chionji-saga12.jpg)
そんなこんなで、鯛のあらだき定食とうなぎのまぶし丼定食を頂いてきました。
美味しかったです!
語彙力のなさ・・・食レポは苦手です(笑)
![](https://goshuin.138shinsekai.com/wp-content/uploads/2021/07/chionji-saga09.gif)
知恩寺の参道脇には浜宿キッチンというお食事処がありました。
どうやら、今流行りの古建築をリノベーションしたお店のようです。
こういうの観光地っぽくてイイネ!
![](https://goshuin.138shinsekai.com/wp-content/uploads/2021/07/chionji-saga13.jpg)
でも、お高いんじゃないのぉ~。
と思ったら、セットがオール1100円!
リーズナブルだね!
ということで、お邪魔します。
![](https://goshuin.138shinsekai.com/wp-content/uploads/2021/07/chionji-saga10.jpg)
おーーーっと!
めっちゃキュートな店内!
オジさんは脇汗もんよ!
心なしか、店員さんも笑ってるよ。
![](https://goshuin.138shinsekai.com/wp-content/uploads/2021/07/chionji-saga11.jpg)
そんなことより、浜宿キッチンさんは2018年にオープンしたお店なんだって。
呉竹酒造の敷地にある、通称・西の蔵という建物をリノベってオープンしたお店のようです。
建物はなんと築220年!
和食を中心とした創作料理を楽しめるそうで、ソース1つから全て手作りだというこだわりっぷり。
![](https://goshuin.138shinsekai.com/wp-content/uploads/2021/07/chionji-saga12.jpg)
そんなこんなで、鯛のあらだき定食とうなぎのまぶし丼定食を頂いてきました。
美味しかったです!
語彙力のなさ・・・食レポは苦手です(笑)
肥前浜宿 酒蔵通り
●肥前浜宿 酒蔵通り
![](https://goshuin.138shinsekai.com/wp-content/uploads/2021/07/chionji-saga15.jpg)
この地は多良岳山系の清水と佐賀平野の米に恵まれ、1688〜1704年頃から酒造が盛んになったそうです。
江戸時代後期には10数軒の酒蔵があったそうですが、時代とともに数を減らし、現在は3つの酒蔵を残すのみとなっております。
![](https://goshuin.138shinsekai.com/wp-content/uploads/2021/07/chionji-saga19.jpg)
この通りは通称・酒蔵通りと呼ばれ、2006年に醸造町として初めて重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。
酒蔵はもちろん、白壁の居蔵造や洋館建築といった様々な建築物が建ち並んでいて、江戸時代にタイムスリップできる素敵な通りでしたよ。
![](https://goshuin.138shinsekai.com/wp-content/uploads/2021/07/chionji-saga20.jpg)
酒蔵通りは長崎街道の脇街道である多良海道だったところで、江戸時代から変わらない道幅と緩やかなカーブが何ともいえない情緒を醸し出していました。
![](https://goshuin.138shinsekai.com/wp-content/uploads/2021/07/chionji-saga14.jpg)
江戸時代、鎖国体制を敷いていた日本の中で唯一外国との文化交流や通商の窓口になっていた長崎。
そんなこんなで、長崎街道は西洋の文化や最先端の技術などを伝える文明の道として重要な役割を果たしていたといいます。
そんな肥前浜宿は浜千件といわれるほど賑わっていたそうですよ。
![](https://goshuin.138shinsekai.com/wp-content/uploads/2021/08/chionji-saga27.jpg)
そんなこんなで、酒蔵通りをプラプラと散策していると、あちこちにエビスさんがおられることに気づく。
この通りでは、毎年1月19日に朝早くから恵比寿さんにお供えする鮒市(ふないち)が開かれるんだって。
本来、恵比寿さんにお供えするのは鯛ですが、鯛が高価なこと、有明海で鯛が漁れないことから、形が似ている鮒(フナ)を代用品としてお供えしてるんだって。
![](https://goshuin.138shinsekai.com/wp-content/uploads/2021/08/chionji-saga28.jpg)
鮒は泥臭くてそのままでは食べれないということで、昆布を巻いて野菜と一緒に炊き上げるそうです。
浜宿ではこの料理をフナンコグイと呼び、代表的な郷土料理になってるんだって。
![](https://goshuin.138shinsekai.com/wp-content/uploads/2021/07/chionji-saga17.jpg)
そんなこんなで、さらにプラプラと散策をしていると怪しげなガラスケースを発見。
![](https://goshuin.138shinsekai.com/wp-content/uploads/2021/07/taradake-saga15.jpg)
ガラスケースの中にはレコードやVHSのカセットテープやプロ野球カードやメンコや・・・なんと、どれでも3個で100円だという。
せっかくなので旅の思い出に買って帰ろう!
と思ってガラスケースを開けたら、嫁はんにガラスケースを閉められました・・・Oh(笑)
![](https://goshuin.138shinsekai.com/wp-content/uploads/2021/07/chionji-saga18.jpg)
ちなみにアルフィーさんの商品が充実していましたよ。
![](https://goshuin.138shinsekai.com/wp-content/uploads/2021/07/chionji-saga21.jpg)
![](https://goshuin.138shinsekai.com/wp-content/uploads/2021/08/chionji-saga29.jpg)
その他、酒蔵通りにはお酒の販売をはじめ、無料試飲・酒蔵見学などができる施設がありました。
いやはや、素敵なスポットでした。
![](https://goshuin.138shinsekai.com/wp-content/uploads/2021/07/chionji-saga15.jpg)
この地は多良岳山系の清水と佐賀平野の米に恵まれ、1688〜1704年頃から酒造が盛んになったそうです。
江戸時代後期には10数軒の酒蔵があったそうですが、時代とともに数を減らし、現在は3つの酒蔵を残すのみとなっております。
![](https://goshuin.138shinsekai.com/wp-content/uploads/2021/07/chionji-saga19.jpg)
この通りは通称・酒蔵通りと呼ばれ、2006年に醸造町として初めて重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。
酒蔵はもちろん、白壁の居蔵造や洋館建築といった様々な建築物が建ち並んでいて、江戸時代にタイムスリップできる素敵な通りでしたよ。
![](https://goshuin.138shinsekai.com/wp-content/uploads/2021/07/chionji-saga20.jpg)
酒蔵通りは長崎街道の脇街道である多良海道だったところで、江戸時代から変わらない道幅と緩やかなカーブが何ともいえない情緒を醸し出していました。
![](https://goshuin.138shinsekai.com/wp-content/uploads/2021/07/chionji-saga14.jpg)
江戸時代、鎖国体制を敷いていた日本の中で唯一外国との文化交流や通商の窓口になっていた長崎。
そんなこんなで、長崎街道は西洋の文化や最先端の技術などを伝える文明の道として重要な役割を果たしていたといいます。
そんな肥前浜宿は浜千件といわれるほど賑わっていたそうですよ。
![](https://goshuin.138shinsekai.com/wp-content/uploads/2021/08/chionji-saga27.jpg)
そんなこんなで、酒蔵通りをプラプラと散策していると、あちこちにエビスさんがおられることに気づく。
この通りでは、毎年1月19日に朝早くから恵比寿さんにお供えする鮒市(ふないち)が開かれるんだって。
本来、恵比寿さんにお供えするのは鯛ですが、鯛が高価なこと、有明海で鯛が漁れないことから、形が似ている鮒(フナ)を代用品としてお供えしてるんだって。
![](https://goshuin.138shinsekai.com/wp-content/uploads/2021/08/chionji-saga28.jpg)
鮒は泥臭くてそのままでは食べれないということで、昆布を巻いて野菜と一緒に炊き上げるそうです。
浜宿ではこの料理をフナンコグイと呼び、代表的な郷土料理になってるんだって。
![](https://goshuin.138shinsekai.com/wp-content/uploads/2021/07/chionji-saga17.jpg)
そんなこんなで、さらにプラプラと散策をしていると怪しげなガラスケースを発見。
![](https://goshuin.138shinsekai.com/wp-content/uploads/2021/07/taradake-saga15.jpg)
ガラスケースの中にはレコードやVHSのカセットテープやプロ野球カードやメンコや・・・なんと、どれでも3個で100円だという。
せっかくなので旅の思い出に買って帰ろう!
と思ってガラスケースを開けたら、嫁はんにガラスケースを閉められました・・・Oh(笑)
![](https://goshuin.138shinsekai.com/wp-content/uploads/2021/07/chionji-saga18.jpg)
ちなみにアルフィーさんの商品が充実していましたよ。
![](https://goshuin.138shinsekai.com/wp-content/uploads/2021/07/chionji-saga21.jpg)
![](https://goshuin.138shinsekai.com/wp-content/uploads/2021/08/chionji-saga29.jpg)
その他、酒蔵通りにはお酒の販売をはじめ、無料試飲・酒蔵見学などができる施設がありました。
いやはや、素敵なスポットでした。
御朱印情報
![](https://goshuin.138shinsekai.com/wp-content/uploads/2021/08/goshuin-chionji-saga.gif)
●御朱印の種類
・知恩寺の御朱印(印のみ)
●御朱印の受付場所
・庫裏
●御朱印の受付時間
・不明
●御朱印の料金
・志納
●期間限定・特別御朱印
・なし
●オリジナル御朱印帳
・なし
・2021年7月19日 参拝
・2021年7月 更新
・知恩寺の御朱印(印のみ)
●御朱印の受付場所
・庫裏
●御朱印の受付時間
・不明
●御朱印の料金
・志納
●期間限定・特別御朱印
・なし
●オリジナル御朱印帳
・なし
・2021年7月19日 参拝
・2021年7月 更新
参拝情報とアクセス
●開門時間
・不明
●拝観料
・無料
●最寄りの駅
・JR肥前浜駅から徒歩5分
●最寄りのバス停
・太良線 祐徳バス
肥前浜宿前 バス停から徒歩2分
●最寄りのIC
・長崎自動車道(福岡方面から)
武雄北方ICから車で40分
・長崎自動車道(長崎方面から)
嬉野ICから車で40分
●駐車場
・肥前浜宿まちなみ駐車場を利用(無料)
・不明
●拝観料
・無料
●最寄りの駅
・JR肥前浜駅から徒歩5分
●最寄りのバス停
・太良線 祐徳バス
肥前浜宿前 バス停から徒歩2分
●最寄りのIC
・長崎自動車道(福岡方面から)
武雄北方ICから車で40分
・長崎自動車道(長崎方面から)
嬉野ICから車で40分
●駐車場
・肥前浜宿まちなみ駐車場を利用(無料)