所在地 | 長崎県壱岐市芦辺町瀬戸浦264 |
---|---|
祭 神 | ・亀山天皇・後宇多天皇・少弐資時 ・壱岐出身の国事殉難者 |
由 緒 | 1281年の弘安の役で戦死した少弐資時を祀る神社です。1928年以来、壱岐の島民たちは壱岐神社創建の事業を進め、1944年に本殿を建立。そして1948年に御祭神3柱(亀山天皇・後宇多天皇・少弐資時)の鎭座祭を執行したそうです。その後、1952年に壱岐護国神社の鎭座祭を執行。さらに1956年に靖國神社から壱岐出身の英霊を分霊し現在に至るそうです。 |
HP | 壱岐神社 |
鳥居と狛犬
●境内入口
壱岐・北東部の芦辺町に鎮座する壱岐神社・壱岐護国神社に到着。
壱岐神社・壱岐護国神社と書いていきじんじゃ・いきごこくじんじゃと読みます。
正式には壹岐神社・壹岐護国神社と書きます。
そんなこんなで、参拝開始。
●社号標
まず最初に登場するのは社号標。
社号標には壹岐神社と壹岐護国神社と書かれておりました。
1948年に創建された壱岐神社ですが、その後1952年に壱岐護国神社の鎭座祭を執行。
さらに1956年に靖國神社から壱岐出身の英霊を分霊したことにより、壱岐神社・壱岐護国神社と併称するようになったんだって。
ちなみに福岡市西区にも壱岐神社がありますが、福岡の壱岐神社と壱岐島の壱岐神社は全く関係のない神社です。
●鳥居
●鳥居
・1974年建立
・明神鳥居
続いて、真っ白な大きな鳥居が登場。
今回の壱岐旅で真っ白系の鳥居に出会ったのは白沙八幡神社・寄八幡神社以来3度目です。
●狛犬
●狛犬
・2012年奉納
・岡崎現代型
そんなこんなで鳥居をくぐって狛犬ちゃんにご挨拶。
狛犬ちゃんはハズレ感が否めない岡崎現代型。
さっき奉納されたんじゃないの!?
と思うくらい、綺麗で新しい狛犬ちゃんでした。
壱岐・北東部の芦辺町に鎮座する壱岐神社・壱岐護国神社に到着。
壱岐神社・壱岐護国神社と書いていきじんじゃ・いきごこくじんじゃと読みます。
正式には壹岐神社・壹岐護国神社と書きます。
そんなこんなで、参拝開始。
●社号標
まず最初に登場するのは社号標。
社号標には壹岐神社と壹岐護国神社と書かれておりました。
1948年に創建された壱岐神社ですが、その後1952年に壱岐護国神社の鎭座祭を執行。
さらに1956年に靖國神社から壱岐出身の英霊を分霊したことにより、壱岐神社・壱岐護国神社と併称するようになったんだって。
ちなみに福岡市西区にも壱岐神社がありますが、福岡の壱岐神社と壱岐島の壱岐神社は全く関係のない神社です。
●鳥居
●鳥居
・1974年建立
・明神鳥居
続いて、真っ白な大きな鳥居が登場。
今回の壱岐旅で真っ白系の鳥居に出会ったのは白沙八幡神社・寄八幡神社以来3度目です。
●狛犬
●狛犬
・2012年奉納
・岡崎現代型
そんなこんなで鳥居をくぐって狛犬ちゃんにご挨拶。
狛犬ちゃんはハズレ感が否めない岡崎現代型。
さっき奉納されたんじゃないの!?
と思うくらい、綺麗で新しい狛犬ちゃんでした。
拝殿と本殿
●拝殿●拝殿
・昭和時代建立
・銅板葺 千鳥破風付き入母屋造
続いて、拝殿で参拝。
壱岐は約1000社の神社が点在している神社アイランド。
島内には歴史の深い神社が多数存在し、古来より神々が宿る島として知られています。
そんな中、この壱岐神社の創建は1948年。
さらに1952年に壱岐護国神社の鎭座祭が行なわれたという新しい神社です。
実はなんとこの壱岐神社・壱岐護国神社は、壱岐島で1番新しい神社だという!
●本殿
●本殿
・1944年建立
・銅板葺 流造
壱岐神社の創建は1948年ですが、本殿は壱岐神社の創建に先駆けて1944年に建立されもののようです。
●御祭神
・亀山天皇
・後宇多天皇
・少弐資時
・壱岐出身の国事殉難者
御祭神は、亀山天皇と後宇多天皇と少弐資時さんと壱岐出身の国事殉難者。
こちらのラインナップを見てピンときた方も多いはず。
そうです、この神社には元寇にゆかりのある方がお祀りされております。
●亀山天皇
元寇の際、敵国降伏を折願したお方。
●後宇多天皇
元寇のときの天皇。
亀山天皇同様、敵国降伏を折願したお方。
●少弐資時
元軍が壱岐に侵攻した際、勇敢に立ち向かった壱岐のヒーロー。
元寇の際、敵国降伏を折願したお方。
●後宇多天皇
元寇のときの天皇。
亀山天皇同様、敵国降伏を折願したお方。
●少弐資時
元軍が壱岐に侵攻した際、勇敢に立ち向かった壱岐のヒーロー。
壱岐と元寇
●元寇碇石
拝殿内には元軍の船が使用していた碇石がありました。
鎌倉時代、日本が本格的に外国から侵攻を受けた事件がありました。
元寇(蒙古襲来)です。
一般的に元寇とは博多湾で繰り広げられた元軍 vs 日本軍の戦いで、最終的に神風が吹いて元軍が退散したことで知られてますが、博多湾での戦いに先駆けて、壱岐で決死の戦いが繰り広げられていたことはあまり知られていません。
そんなムゴイ歴史が残る壱岐島・・・
実はムゴイという語源はこの元寇が由来という説があります。
壱岐では、この元寇での出来事が何世代にも渡って語り継がれ、泣き止まない子どもに『ムクリコクリが来るぞ』と言う習慣があったそうです。
これが無慈悲で残酷なことを表すムゴイという言葉になったといわれています(諸説あり)
●弘安の役 瀬戸浦古戦場
境内には、弘安の役 瀬戸浦古戦場の説明板がありました。
約2kmに渡る瀬戸浦一帯は少弐氏の私領だったらしく、さらに博多へ最短ルートで渡れる重要な要所だったそうです。
そのため瀬戸浦は元軍にとって博多を攻略するための重要地でした。
そんなこんなで、瀬戸浦で行われた攻防戦は激しい戦いになったそうですよ。
●元寇取材記念植樹
さらに境内には元寇取材記念植樹という木もありました。
どうやら壱岐の人がモンゴルに行って元寇の取材をしたみたいです。
その際、モンゴルの方から手厚くもてなされたんだって。
その後、今度はモンゴルの方が壱岐に来られたそうです。
おそらくこの記念樹はその時に植えられたものと思われます。
ちなみにモンゴル大使が植えたかどうかはわかりません。
拝殿内には元軍の船が使用していた碇石がありました。
鎌倉時代、日本が本格的に外国から侵攻を受けた事件がありました。
元寇(蒙古襲来)です。
一般的に元寇とは博多湾で繰り広げられた元軍 vs 日本軍の戦いで、最終的に神風が吹いて元軍が退散したことで知られてますが、博多湾での戦いに先駆けて、壱岐で決死の戦いが繰り広げられていたことはあまり知られていません。
●壱岐と元寇
当時、元は中国から東ヨーロッパまで支配する一大帝国を築いていました。
そして朝鮮半島の高麗を服属させたのち、日本を支配するため国書を持たせた使者を何度も送ってきました。
しかし執権・北条時宗を中心とする鎌倉幕府はこれらをことごとく無視し、その要求を拒否しました。
これに怒った元の皇帝・フビライ・ハンは日本に攻めてきました(文永の役)
そして文永の役で元軍を迎え撃ったのは壱岐の守護代・平景隆さん。
しかし平景隆さんの軍は元軍から総攻撃を受けて全滅しました。
その後、元軍は博多へ。
日本軍は大苦戦しますが、元軍を暴風雨(神風)が襲い、船の大半が沈没・・・そして退散しました。
翌年、再びフビライは日本に使者を送ります。
しかし、執権・北条時宗さんはその使者を斬り捨ててしまいました。
そして日本軍は元軍の侵攻に備え、博多湾の沿岸に石塁を築くのでありました。
一方、壱岐では文永の役で大宰府守護を務めた少弐景資の甥・少弐資時さん(しょうに すけとき)が守護代に命じられ、瀬戸の船匿城に入って元軍の襲来に備えました。
ちなみに、このとき少弐資時さんは19歳。
資時さんは文永の役で博多に上陸した元軍と戦って戦功を挙げた勇敢な若武者です。
1281年、鎌倉幕府の対応に怒った元軍が再び日本に攻めてきました(弘安の役)
なんと元軍は軍船900隻に4万の兵を乗せた東路軍と、軍船3500隻に10万の兵を乗せた江南軍という二手に分けた超大軍で攻めてきたのでありました。
一説によると、これは当時世界最大の艦隊だったといわれています。
そんなこんなで博多での攻防に先駆け、壱岐の瀬戸浦に東路軍が上陸。
壱岐に上陸した元軍は、武士だけでなく島民も惨殺。
赤子は股から引き裂かれ・・・
男性は耳や鼻を削ぎ落とされ、もがき苦しむ姿を楽しんだあとに斬り殺す・・・
女性は掌に穴を開けられ、その穴に綱を通して引きずり回したあと、軍船の船べりに結び付けられ溺死・・・
山へ逃れた島民も、子どもの泣き声で見つかってしまい皆殺しにされたりしました。
泣き止まない子どもは、親が殺したという記録もあります。
また多くの人が連れ去られていきました。
そんなこんなで生き残った人々は亡骸を集めて埋葬。
そして塚をつくりました。
その塚は千人塚と呼ばれ、今も壱岐に現存しています。
ちなみにこの元寇で生き残った島民は数百人。。
一説によると島民は100人以下まで減少したといわれています。
壱岐島は南北17km・東西14kmほどの小さな島。
そんな島に4万もの軍勢が攻めてきたのだから、壱岐の人々からしたら絶望以外なにものでもありませんでした。
しかし、それでも勇敢に立ち向かったお方がいました。
壱岐国守護代の少弐資時さんです!
しかし多勢に無勢・・・
さすがに4万の敵には刃が立たず、全身血だるまになって壮絶な最期を遂げました。
壱岐に壊滅的な打撃を与えた東路軍は、その後、博多湾へ侵攻。
しかし戦に備えていた日本軍は元軍の侵攻を食い止めることに成功しました。
そんなこんなで、東路軍は単独での上陸をあきらめ、江南軍と合流して再度博多へ攻め入ることに。
東路軍は江南軍と合流するために壱岐方面へ退却をはじめますが、またしても暴風雨(神風)に襲われほとんどの船団が海に沈みました。
こうして元寇は幕を閉じました。
完。
現在、瀬戸浦を見下ろす少弐公園には、弘安の役で討ち死にした少弐資時さんのお墓があります。
そしてこの壱岐神社には、壱岐の人々からショウニイ様と呼ばれ親しまれてきた少弐資時さんが祀られています。
当時、元は中国から東ヨーロッパまで支配する一大帝国を築いていました。
そして朝鮮半島の高麗を服属させたのち、日本を支配するため国書を持たせた使者を何度も送ってきました。
しかし執権・北条時宗を中心とする鎌倉幕府はこれらをことごとく無視し、その要求を拒否しました。
これに怒った元の皇帝・フビライ・ハンは日本に攻めてきました(文永の役)
そして文永の役で元軍を迎え撃ったのは壱岐の守護代・平景隆さん。
しかし平景隆さんの軍は元軍から総攻撃を受けて全滅しました。
その後、元軍は博多へ。
日本軍は大苦戦しますが、元軍を暴風雨(神風)が襲い、船の大半が沈没・・・そして退散しました。
翌年、再びフビライは日本に使者を送ります。
しかし、執権・北条時宗さんはその使者を斬り捨ててしまいました。
そして日本軍は元軍の侵攻に備え、博多湾の沿岸に石塁を築くのでありました。
一方、壱岐では文永の役で大宰府守護を務めた少弐景資の甥・少弐資時さん(しょうに すけとき)が守護代に命じられ、瀬戸の船匿城に入って元軍の襲来に備えました。
ちなみに、このとき少弐資時さんは19歳。
資時さんは文永の役で博多に上陸した元軍と戦って戦功を挙げた勇敢な若武者です。
1281年、鎌倉幕府の対応に怒った元軍が再び日本に攻めてきました(弘安の役)
なんと元軍は軍船900隻に4万の兵を乗せた東路軍と、軍船3500隻に10万の兵を乗せた江南軍という二手に分けた超大軍で攻めてきたのでありました。
一説によると、これは当時世界最大の艦隊だったといわれています。
そんなこんなで博多での攻防に先駆け、壱岐の瀬戸浦に東路軍が上陸。
壱岐に上陸した元軍は、武士だけでなく島民も惨殺。
赤子は股から引き裂かれ・・・
男性は耳や鼻を削ぎ落とされ、もがき苦しむ姿を楽しんだあとに斬り殺す・・・
女性は掌に穴を開けられ、その穴に綱を通して引きずり回したあと、軍船の船べりに結び付けられ溺死・・・
山へ逃れた島民も、子どもの泣き声で見つかってしまい皆殺しにされたりしました。
泣き止まない子どもは、親が殺したという記録もあります。
また多くの人が連れ去られていきました。
そんなこんなで生き残った人々は亡骸を集めて埋葬。
そして塚をつくりました。
その塚は千人塚と呼ばれ、今も壱岐に現存しています。
ちなみにこの元寇で生き残った島民は数百人。。
一説によると島民は100人以下まで減少したといわれています。
壱岐島は南北17km・東西14kmほどの小さな島。
そんな島に4万もの軍勢が攻めてきたのだから、壱岐の人々からしたら絶望以外なにものでもありませんでした。
しかし、それでも勇敢に立ち向かったお方がいました。
壱岐国守護代の少弐資時さんです!
しかし多勢に無勢・・・
さすがに4万の敵には刃が立たず、全身血だるまになって壮絶な最期を遂げました。
壱岐に壊滅的な打撃を与えた東路軍は、その後、博多湾へ侵攻。
しかし戦に備えていた日本軍は元軍の侵攻を食い止めることに成功しました。
そんなこんなで、東路軍は単独での上陸をあきらめ、江南軍と合流して再度博多へ攻め入ることに。
東路軍は江南軍と合流するために壱岐方面へ退却をはじめますが、またしても暴風雨(神風)に襲われほとんどの船団が海に沈みました。
こうして元寇は幕を閉じました。
完。
現在、瀬戸浦を見下ろす少弐公園には、弘安の役で討ち死にした少弐資時さんのお墓があります。
そしてこの壱岐神社には、壱岐の人々からショウニイ様と呼ばれ親しまれてきた少弐資時さんが祀られています。
そんなムゴイ歴史が残る壱岐島・・・
実はムゴイという語源はこの元寇が由来という説があります。
壱岐では、この元寇での出来事が何世代にも渡って語り継がれ、泣き止まない子どもに『ムクリコクリが来るぞ』と言う習慣があったそうです。
・ムクリ → 蒙古軍
・コクリ → 高麗軍
・コクリ → 高麗軍
これが無慈悲で残酷なことを表すムゴイという言葉になったといわれています(諸説あり)
●弘安の役 瀬戸浦古戦場
境内には、弘安の役 瀬戸浦古戦場の説明板がありました。
約2kmに渡る瀬戸浦一帯は少弐氏の私領だったらしく、さらに博多へ最短ルートで渡れる重要な要所だったそうです。
そのため瀬戸浦は元軍にとって博多を攻略するための重要地でした。
そんなこんなで、瀬戸浦で行われた攻防戦は激しい戦いになったそうですよ。
●元寇取材記念植樹
さらに境内には元寇取材記念植樹という木もありました。
どうやら壱岐の人がモンゴルに行って元寇の取材をしたみたいです。
その際、モンゴルの方から手厚くもてなされたんだって。
その後、今度はモンゴルの方が壱岐に来られたそうです。
おそらくこの記念樹はその時に植えられたものと思われます。
ちなみにモンゴル大使が植えたかどうかはわかりません。
忠霊塔
●忠霊塔
本殿の隣には忠霊塔という戦没慰霊碑もありました。
今日の平和は私たち国民のために犠牲となり、尊い命を捧げられた御英霊によるものです。
と感謝の意を込めて深々と参拝。
●黒崎砲台跡
全然関係のない話になりますが、壱岐の人気観光スポット・猿岩の近くに黒崎砲台跡がありました。
どうやらこの砲台は対馬海峡を通過する艦船を攻撃するために設置されたもののようです。
●黒崎砲台
・1933年完成
・砲台の口径 約41cm
・砲身の長さ 約18m
・砲弾の重さ 約1t
東洋一といわれた巨大な砲台ですが、1度だけ試射が行われたのみで、実戦で使用されることなく終戦を迎えました。
そして終戦後に解体され、現在は黒崎砲台跡として戦争遺産となっております。
それにしても怖かったーっ!
ほぼ肝試し状態でしたよ。
・・・って、話が大きく逸れてしまいました!
本殿の隣には忠霊塔という戦没慰霊碑もありました。
今日の平和は私たち国民のために犠牲となり、尊い命を捧げられた御英霊によるものです。
と感謝の意を込めて深々と参拝。
●黒崎砲台跡
全然関係のない話になりますが、壱岐の人気観光スポット・猿岩の近くに黒崎砲台跡がありました。
どうやらこの砲台は対馬海峡を通過する艦船を攻撃するために設置されたもののようです。
●黒崎砲台
・1933年完成
・砲台の口径 約41cm
・砲身の長さ 約18m
・砲弾の重さ 約1t
東洋一といわれた巨大な砲台ですが、1度だけ試射が行われたのみで、実戦で使用されることなく終戦を迎えました。
そして終戦後に解体され、現在は黒崎砲台跡として戦争遺産となっております。
それにしても怖かったーっ!
ほぼ肝試し状態でしたよ。
・・・って、話が大きく逸れてしまいました!
龍蛇神社
●龍蛇神社
話は戻って、壱岐神社の境内からは龍蛇神社に続く遊歩道もありました。
しかし腹ペコが限界を超えてしまったため断念!
ここを下りて、また上ることを想像してみる・・・
この荒れ道でのたれ死んでいる自分が想像できた!
そんなこんなで、壱岐神社から車で5分のところにあるイオン壱岐店に向けて車を走らせるのでありました。
いやはや、素敵な神社でした。
●イオン壱岐店
●追伸
イオンにて便サンのガチャを発見してしまう!
便サンといえばマキシマムザ亮君(マキシマム ザ ホルモン)。
腹ペコ(ホルモンファンのこと)としては無視できなかったのでやっちゃいました。
やはり狙うはりょっくんと同じ茶色の便サン。
覗いてみるとあと3回後に茶色が出てきそうだったので諦めましたよ~。
って、ホントどうでもいい話!
話は戻って、壱岐神社の境内からは龍蛇神社に続く遊歩道もありました。
しかし腹ペコが限界を超えてしまったため断念!
ここを下りて、また上ることを想像してみる・・・
この荒れ道でのたれ死んでいる自分が想像できた!
そんなこんなで、壱岐神社から車で5分のところにあるイオン壱岐店に向けて車を走らせるのでありました。
いやはや、素敵な神社でした。
●イオン壱岐店
●追伸
イオンにて便サンのガチャを発見してしまう!
便サンといえばマキシマムザ亮君(マキシマム ザ ホルモン)。
腹ペコ(ホルモンファンのこと)としては無視できなかったのでやっちゃいました。
やはり狙うはりょっくんと同じ茶色の便サン。
覗いてみるとあと3回後に茶色が出てきそうだったので諦めましたよ~。
って、ホントどうでもいい話!
御朱印情報
●御朱印の種類
・壱岐神社の御朱印
・壱岐護国神社の御朱印
・龍蛇神社の御朱印
●御朱印の受付場所
・拝殿内
※壱岐神社・壱岐護国神社には宮司さんは常駐していません。
御朱印は拝殿内に書置きが用意されています。
●御朱印の料金
・各300円
●御朱印の受付時間
・不明
●期間限定・特別御朱印
・なし
●壱岐市オリジナル御朱印帳
●オリジナル御朱印帳
・サイズ 16cm × 11cm
・初穂料 1500円
拝殿内には壱岐市オリジナル御朱印帳がありました。
●壹岐神社・壹岐護国神社の連絡先
・0920-45-1276
※宮司さんのご都合により対応できない場合があります。
・2022年8月27日 参拝
・2022年9月 更新
壱岐島の御朱印情報まとめ(28種)|受付場所・受付時間・初穂料・オリジナル御朱印帳など
壱岐島で頂ける御朱印をまとめてみました。白沙八幡神社●御朱印の種類・白沙八幡神社の御朱印・海神社の御朱印●御朱印の受付場所・白沙八幡神社●不在の場合・白沙八幡神社の拝殿内に...
参拝情報とアクセス
●開門時間
・境内自由
●拝観料
・無料
●最寄りの港
・芦辺港から車で5分
・印通寺港から車で20分
・郷ノ浦港から車で20分
●最寄りの空港
・壱岐空港から車で20分
●最寄りのバス停
・壱岐交通
壱岐神社前 バス停から徒歩3分
※バスの路線図・時刻表はこちら。
●最寄りのIC
・なし
●駐車場
・無料の専用駐車場あり
※境内入口付近に広い駐車場があります。
・境内自由
●拝観料
・無料
●最寄りの港
・芦辺港から車で5分
・印通寺港から車で20分
・郷ノ浦港から車で20分
●最寄りの空港
・壱岐空港から車で20分
●最寄りのバス停
・壱岐交通
壱岐神社前 バス停から徒歩3分
※バスの路線図・時刻表はこちら。
●最寄りのIC
・なし
●駐車場
・無料の専用駐車場あり
※境内入口付近に広い駐車場があります。