住 所 | 岐阜県岐阜市弥八町22 |
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宗 派 | 浄土宗 |
由 緒 | 戦国時代、織田信長の家臣・加賀野井重信の子・弥八郎が埋葬地(誰の?)として開いたのが始まりらしい。1775年頃、この地は岐阜町・小熊村・今泉村・上加納村の共同墓地で、尾張藩の御仕置場でもあった。戦前、この一帯は芸者・娼妓を抱えた置屋がある色町で、女性の参拝者が多かったという。1940年頃の本尊は釈迦涅槃像だったらしい。 1945年、岐阜空襲の際、鐘を供出。戦後、境内では大勢の浮浪者が暮らしていたという。その後、劇場の舞台づくりの経験がある柴田光次郎が工事を引き受け、約10メートルの地蔵菩薩像を1ヶ月で完成させる。地蔵菩薩像は繁華街のシンボルとなり、花柳界(芸者・遊女などの社会)の人達が商売繁盛を祈ったという。 |
Contents
市街地にあるお地蔵さんだらけのお寺
●市街地に突如現れるお菓子で造ったような山門
岐阜の市街地をプラプラしているとお菓子で造ったようなファンタジーな竜宮門が目に飛び込んできました。という事で、立ち寄る。
地蔵門とでも申しましょうか。竜宮門の両脇には、仁王門のごとくお地蔵さんが安置されてました。子安地蔵さんでしょうか。この2体のお地蔵さんは子供を抱いておりました。以前は山門ではなく、約10メートルのお地蔵さんが立っていたそうです。
仁王門とか二天門はよく出会うけど、地蔵門って珍しいなぁ。
とか思いつつ、竜宮門をくぐると。
岐阜の市街地をプラプラしているとお菓子で造ったようなファンタジーな竜宮門が目に飛び込んできました。という事で、立ち寄る。
地蔵門とでも申しましょうか。竜宮門の両脇には、仁王門のごとくお地蔵さんが安置されてました。子安地蔵さんでしょうか。この2体のお地蔵さんは子供を抱いておりました。以前は山門ではなく、約10メートルのお地蔵さんが立っていたそうです。
仁王門とか二天門はよく出会うけど、地蔵門って珍しいなぁ。
とか思いつつ、竜宮門をくぐると。
竜宮門をくぐるとそこは地蔵ワールド
■ お地蔵さん① ■
■ お地蔵さん④ ■
■ お地蔵さん⑤ ■
●境内はお地蔵さんだらけでした
境内は容姿も役割もバラバラな各種多様のお地蔵さんで溢れかえってました。点在していたお地蔵さんを1ヶ所に集めたような、そんな印象を受けるお寺さんでした。
●お地蔵さん①・・・点在していたお地蔵さんを1ヶ所に集めたお堂。
●お地蔵さん②・・・台座に力地蔵と彫られてました。力持ちなのでしょうか。全くそんな風には見えませんが、赤いマントの下はマッチョなのかもしれません。
●お地蔵さん③・・・3頭身のお地蔵さん。なぜかキン消しを思い出してしまいました。
●お地蔵さん④・・・半跏踏下スタイルの水掛け地蔵さん。サイドには水子地蔵さんの姿も。
●お地蔵さん⑤・・・まだまだ空きスペースがあるようです。
境内は容姿も役割もバラバラな各種多様のお地蔵さんで溢れかえってました。点在していたお地蔵さんを1ヶ所に集めたような、そんな印象を受けるお寺さんでした。
●お地蔵さん①・・・点在していたお地蔵さんを1ヶ所に集めたお堂。
●お地蔵さん②・・・台座に力地蔵と彫られてました。力持ちなのでしょうか。全くそんな風には見えませんが、赤いマントの下はマッチョなのかもしれません。
●お地蔵さん③・・・3頭身のお地蔵さん。なぜかキン消しを思い出してしまいました。
●お地蔵さん④・・・半跏踏下スタイルの水掛け地蔵さん。サイドには水子地蔵さんの姿も。
●お地蔵さん⑤・・・まだまだ空きスペースがあるようです。
本堂・弥八地蔵尊
●本堂内には弥八地蔵尊
詳しい話しはわかりませんが、織田信長の家臣・加賀野井重信の子・弥八郎に関係するお地蔵さんのようです。由緒には弥八郎が埋葬地として開いたのが始まりのお寺とありますが、誰の埋葬地なのか・・・ちょっとわかりません。御利益とかもわかりません。とりあえず共通語であるオンカカカビサンマエイソワカを唱えてお堂を後にする。
詳しい話しはわかりませんが、織田信長の家臣・加賀野井重信の子・弥八郎に関係するお地蔵さんのようです。由緒には弥八郎が埋葬地として開いたのが始まりのお寺とありますが、誰の埋葬地なのか・・・ちょっとわかりません。御利益とかもわかりません。とりあえず共通語であるオンカカカビサンマエイソワカを唱えてお堂を後にする。
荼枳尼天さん
●荼枳尼天とは!?
荼枳尼天とは簡単にいうと仏教版のお稲荷さんです。
荼枳尼天と書いてダキニテンと読みます
もともとはダッキーニと呼ばれ、古代インドで人肉を喰う夜叉でした。6ヶ月前に人の死を知り、死ぬまではその人を加護し、死の直後に心臓をとって食べるといわれてました。そんな恐ろしい夜叉ですが、改心して仏道へ。
日本では荼枳尼天が乗る霊孤を、日本古来の神・稲荷神の使いである狐と結びつけ、稲荷神と同一視されるようになりました。そのことから開運出世・商売繁盛・福財をもたらす神様として信仰されてます。
荼枳尼天とは簡単にいうと仏教版のお稲荷さんです。
荼枳尼天と書いてダキニテンと読みます
もともとはダッキーニと呼ばれ、古代インドで人肉を喰う夜叉でした。6ヶ月前に人の死を知り、死ぬまではその人を加護し、死の直後に心臓をとって食べるといわれてました。そんな恐ろしい夜叉ですが、改心して仏道へ。
日本では荼枳尼天が乗る霊孤を、日本古来の神・稲荷神の使いである狐と結びつけ、稲荷神と同一視されるようになりました。そのことから開運出世・商売繁盛・福財をもたらす神様として信仰されてます。
境内にはステーキ屋さんがあるという
■ 丸じゅん ■
境内には和風ステーキ・丸じゅんという飲食店がありました。お寺の境内にステーキ屋さんってなかなか珍しいと思いました。
戦前、この地は遊郭が建ち並ぶ色町だったようで、芸者や遊女など女性の参拝者が多かったらしいです。きっとこういった昭和なお店もたくさん並んでいたのでしょう。
御朱印
御朱印は納経所で頂きました。