所在地 | 山口県萩市北古萩町50 |
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宗 派 | 曹洞宗 |
由 緒 | 都濃郡久米(現・徳山市)にあった原始院の住職が萩に一字を建立して隠居したことがこのお寺の始まりといいます。その後、1620年に海潮寺第13世・良伝がお寺を譲り受けたという。そのことにより、このお寺の開山者は良伝となっているそうです。堂内の地蔵菩薩は身代わり地蔵と呼ばれ、古くから庶民の信仰を集めていましたが、1868年に保福寺と海潮寺は合併。現在は海潮寺が管理しているお寺のようです。 |
山門
●山門
●山門
・建立年不明
・瓦葺 切妻造
・三間一戸 八脚門
海潮寺の向かい側にある保福寺に到着。
このお寺は明治元年に海潮寺と合併したらしく、現在は海潮寺が管理しているそうです。
山門の両サイドにはお地蔵さんの石仏が安置されていました。
ちなみに、このお寺は萩八十八ヶ所めぐり霊場の第66番札所のようです。
●山門
・建立年不明
・瓦葺 切妻造
・三間一戸 八脚門
海潮寺の向かい側にある保福寺に到着。
このお寺は明治元年に海潮寺と合併したらしく、現在は海潮寺が管理しているそうです。
山門の両サイドにはお地蔵さんの石仏が安置されていました。
ちなみに、このお寺は萩八十八ヶ所めぐり霊場の第66番札所のようです。
本堂
●本堂
●本堂
・建立年不明
・瓦葺 唐破風向拝付き入母屋造
・御本尊 地蔵菩薩
そんなこんなで、山門をくぐって本堂へ。
残念ながら鍵が閉まっていたため堂内に入ることはできませんでした。
そんなこんなで、ガラス戸越しに堂内をのぞくと、いくつかのお地蔵さんを確認することができました。
どうやらこのお地蔵さんは身代わり地蔵と呼ばれ、古くから庶民の信仰を集めているのだとか。
毎年8月24日には地蔵縁日が開かれ、盛大に法要が営まれるそうですよ。
ちなみに本堂前にもギッシリとお地蔵さんがおられました。
山門、本堂、本堂前・・・地蔵寺と呼びたくなるくらいお地蔵さんだらけのお寺さんでした。
それはさておき
ばば〜ん!
本堂にはアフリカンちっくな木像が!
いや、待て
もしかしてこれは仁王さんでしょうか!?
なぜか空に飛び立つポーズ・・・(-“-;) ??
こ、これは一体・・・!?
夕暮れ間近・・・
薄暗く無音の境内・・・
小雨も降ってきた・・・
めちゃくちゃ不気味なんですけど!
あぁ、夢に出てきそうだ。
そんなこんなで、境内散策もほどほどに。
少々、早歩きでお寺を後にしました。
がっ!
実はなんと!
このお寺には金子重輔さんのお墓があったという!
見事に見逃して帰りましたねぇ・・・(-“-;)
このページの写真、画像処理でだいぶ明るく加工してますが、実際はもっと暗く、境内にいることが怖くて怖くて(ビビリ)
ですので、墓地まで足を運べなかったのですよ。
ちなみに金子重輔さんとは、吉田松陰先生の弟子。
松陰先生とともに黒船に乗り込んでアメリカに密航しようとするも失敗に終わり、獄中で病死した有名なお方です。
●本堂
・建立年不明
・瓦葺 唐破風向拝付き入母屋造
・御本尊 地蔵菩薩
そんなこんなで、山門をくぐって本堂へ。
残念ながら鍵が閉まっていたため堂内に入ることはできませんでした。
そんなこんなで、ガラス戸越しに堂内をのぞくと、いくつかのお地蔵さんを確認することができました。
どうやらこのお地蔵さんは身代わり地蔵と呼ばれ、古くから庶民の信仰を集めているのだとか。
毎年8月24日には地蔵縁日が開かれ、盛大に法要が営まれるそうですよ。
ちなみに本堂前にもギッシリとお地蔵さんがおられました。
山門、本堂、本堂前・・・地蔵寺と呼びたくなるくらいお地蔵さんだらけのお寺さんでした。
それはさておき
ばば〜ん!
本堂にはアフリカンちっくな木像が!
いや、待て
もしかしてこれは仁王さんでしょうか!?
なぜか空に飛び立つポーズ・・・(-“-;) ??
こ、これは一体・・・!?
夕暮れ間近・・・
薄暗く無音の境内・・・
小雨も降ってきた・・・
めちゃくちゃ不気味なんですけど!
あぁ、夢に出てきそうだ。
そんなこんなで、境内散策もほどほどに。
少々、早歩きでお寺を後にしました。
がっ!
実はなんと!
このお寺には金子重輔さんのお墓があったという!
見事に見逃して帰りましたねぇ・・・(-“-;)
このページの写真、画像処理でだいぶ明るく加工してますが、実際はもっと暗く、境内にいることが怖くて怖くて(ビビリ)
ですので、墓地まで足を運べなかったのですよ。
ちなみに金子重輔さんとは、吉田松陰先生の弟子。
松陰先生とともに黒船に乗り込んでアメリカに密航しようとするも失敗に終わり、獄中で病死した有名なお方です。
金子重輔とは?
金子重輔さんは、1831年に阿武郡紫福村という萩郊外の山間部で生まれました。
幼い頃、父・茂左衛門が萩の上五間町に移り住んで染物業を営みますが、重輔さんは他家を継いで足軽となりました。
その後、江戸に出て小者として毛利藩邸に住み込み、鳥山新三郎が主宰する蒼龍軒塾で勉学に励みました。
1853年、下田にペリーが来航した際、松陰先生は西洋の先進文明に驚愕しました。
そんなこんなで1854年、黒船を見て衝撃を受けた松陰先生は、自分の目で海外の実情を確かめたいと思い、アメリカへ密航することを決意!
そして松陰先生と重輔さんは漁民の小舟を盗んで黒船に横付けし、黒船に乗り込もうとしました。
しかし必死の訴えも虚しく、2人は追い返されてしまうことに。
そして捕らえられた2人は江戸伝馬町の牢屋敷に投獄されました。。
しかし松陰先生は武士の身分が入れられる揚屋だったのに対し、重輔さんは身分が低い雑居房の百姓牢へ入れられ、劣悪な環境の中で病にかかってしまいました。。
その後、2人は萩に護送されるのですが、護送中も重輔さんに対しての処遇はひどいものだったといいます。
萩に着いた後も、松陰先生は士分者用の野山獄に投獄されたのに対し、重輔さんは野山獄の向かいにある庶民用の岩倉獄に投獄されました。
岩倉獄の悲惨な環境の中、重輔さんの病状はますます悪化。。
そして1855年、重輔さんは獄中で25歳の若さでお亡くなりになりました。
松陰先生が重輔さんの死を知ったのはその2日後だったといいます。
重輔さんの死を知った松陰先生は、翌日から自分の食事から汁と菜を削ってわずかな金を蓄え、重輔さんの遺族に贈ったそうです。
ちなみに、保福寺にある重輔さんのお墓は松陰先生が贈ったお金で建てられたそうです。
その墓石には寄附吉田氏と刻まれた一対の花立てが残っているという。
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御朱印情報
●御朱印の種類
・なし
●御朱印の受付場所
・なし
●御朱印の受付時間
・なし
●御朱印の料金
・なし
●期間限定・特別御朱印
・なし
●オリジナル御朱印帳
・なし
・2009年3月20日 参拝
・2022年6月 更新
・なし
●御朱印の受付場所
・なし
●御朱印の受付時間
・なし
●御朱印の料金
・なし
●期間限定・特別御朱印
・なし
●オリジナル御朱印帳
・なし
・2009年3月20日 参拝
・2022年6月 更新
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参拝情報とアクセス
●開門時間
・不明
●拝観料
・無料
●最寄りの駅
・JR東萩駅から徒歩15分
・JR東萩駅から車で5分
●最寄りのバス停
・防長交通 萩循環まぁーるバス(東回り)
吉田町 バス停から徒歩10分
※萩循環まぁーるバスの詳細はこちら。
●最寄りのIC
・中国自動車道
美祢東JCTから小郡萩道路(無料)へ
終点・絵堂ICから車で25分
●駐車場
・無料の専用駐車場あり(5台)
※駐車場は境内裏にあります。
・不明
●拝観料
・無料
●最寄りの駅
・JR東萩駅から徒歩15分
・JR東萩駅から車で5分
●最寄りのバス停
・防長交通 萩循環まぁーるバス(東回り)
吉田町 バス停から徒歩10分
※萩循環まぁーるバスの詳細はこちら。
●最寄りのIC
・中国自動車道
美祢東JCTから小郡萩道路(無料)へ
終点・絵堂ICから車で25分
●駐車場
・無料の専用駐車場あり(5台)
※駐車場は境内裏にあります。