妙見宮鷲頭寺の御朱印|妙見信仰ならびに星祭り(節分祭)発祥の宮寺(山口県下松市)

所在地山口県下松市中市1丁目10−15
宗 派真言宗御室派
札 所 ・山口県十八不動三十六童子霊場 第18番
・中国楽寿三十三観音霊場 第15番
・周南七福神(大黒天)
由 緒 595年、青柳浦の松に星が降臨し、7日7夜輝き続けて琳聖太子の来朝を擁護するようにとお告げがあったという。597年、お告げ通り百済国の王子・琳聖太子が来日し、桂木山に社殿を建立。そして、鷲頭の氏神として祀ったそうです。その後、603年に高鹿垣山・山頂に北辰妙見社を建立。そして、609年に鷲頭山に遷座し、上宮と中宮を建立。その後、室町時代に大内弘世が若宮を建立し、別当7坊を置いたそうです。以来、琳聖太子の後裔である大内氏の庇護を受け、1394年には中宮に仁王門と五重塔を建立したそうです。1558~1570年、大内氏の滅亡後、毛利元就が社殿を修復。1615~1624年、徳山藩主・毛利就隆が若宮を現在地に遷座。その後、1870年に妙見社は降松神社と改称したそうです。しかし1879年、神仏分離令により、降松神社の別当7坊は廃絶。そして別当7坊のうち唯一、閼伽井坊だけが現在地に移転し鷲頭寺となったそうです。それが現在の妙見宮鷲頭寺といわれています。
スポンサーリンク

妙見宮鷲頭寺とは?

●境内入口

JR下松駅から徒歩5分、妙見宮鷲頭寺に到着。

妙見宮鷲頭寺と書いてみょうけんぐうじゅとうじと読みます。

って、妙見鷲頭!?

お寺なの???
神社なの???

正解はお寺さん!

かつてこのお寺は妙見社(降松神社)と神仏習合の形態をとっていたため、その名残で妙見宮鷲頭寺という寺号になっているという。

●妙見宮鷲頭寺とは?

595年、鷲頭庄青柳浦の松にが降臨し、7日7夜輝き続け『我は天之御中主尊なり。3年以内に、この地に百済国の王子・琳聖太子がやって来るため、そのさきがけとして降ってきた』というお告げがあったという。

597年、星のお告げ通り、百済国の王子・琳聖太子が来日。

そして、琳聖太子は桂木山に北辰妙見社を建立し、鷲頭庄の氏神としたそうです。

その後、603年に高鹿垣山・山頂に北辰妙見社を建立。

そして、609年に鷲頭山に遷座し、上宮と中宮を建立。

その後、室町時代に大内弘世さんが若宮を建立し、別当7坊を置いたそうです。

以来、琳聖太子の後裔である大内氏の庇護を受け、妙見本宮として広い信仰を集めたそうです。

●妙見社
①上宮
②中宮
③下宮(若宮)

●妙見社の別当7坊
①中之坊
②宮之坊
③宝樹坊
④宝積坊
⑤宝蔵坊
⑥宝泉坊
⑦宮司坊(閼伽井坊)


神仏習合時代、宮司坊(閼伽井坊)は妙見社・若宮(現・降松神社)に隣接して建っていたそうです。

しかし1879年、神仏分離令により降松神社と別当7坊は分離。

そして時代の経過とともに宮司坊(閼伽井坊)以外の6坊は廃絶。

そんなこんなで、別当7坊のうち唯一、閼伽井坊だけが現在地に移転し鷲頭寺となったそうです。

それが現在の妙見宮鷲頭寺といわれています。

※下松市には閼伽井坊というお寺がありますが、あちらは花岡八幡宮の別当となります。

閼伽井坊(花岡大師)の御朱印|現存する唯一の花岡八幡宮の社坊(山口県下松市)
所在地山口県下松市末武上398宗 派真言宗御室派札 所・周防国三十三観音霊場 第12番・周南七福神(寿老神)由 緒709年に豊前国・宇佐八幡宮の御分霊を勧請した花岡八幡宮の社坊9ヶ寺のうち...


豊川稲荷や最上稲荷など、全国には神仏習合の名残があるお寺がいくつかありますが、このお寺ほど露骨に神仏習合感のある寺号は珍しいですね!

どうやら妙見宮鷲頭寺の御住職は、明治新政府による神仏分離政策に反対だったみたいです。

分離後も妙見宮鷲頭寺という神仏習合丸出しの寺号を維持したのは、もしかしたら神仏分離令に対する御住職の抵抗だったのかも知れませんね(個人的感想)

そんなこんなで、参拝開始。

降松神社の御朱印|星の神様・妙見さまを祀る神社(山口県下松市)
所在地山口県下松市河内1984番地祭 神天之御中主尊由 緒595年、青柳浦の松に星が降臨し、七日七夜輝き続けて琳聖太子の来朝を擁護するようにとお告げがあったという。597年、百済国の王子・琳聖太子が来日し...
スポンサーリンク

鳥居と参道と金剛院

●鳥居

●鳥居
・建立年未確認
・明神鳥居

まず最初に登場するのは鳥居

お寺なのに鳥居!

これはわかりやすい神仏混淆ですねぇ。

この風景だけを見たら、ここがお寺だとは思えません。


ちなみに、扁額には妙見宮と書かれておりました。

そんなこんなで、現在も神仏混淆の形態を維持しています。

神仏分離で形態は変わっても、昔のままの信仰が残っていることにワクワクしちゃいます。


よく見たら、鳥居の笠木・島木・貫が建物の間に食い込んでいました。


このパターンの鳥居は京都の錦天満宮などが有名ですが、山口県で出会ったのは下関の厳島神社以来2度目となります。


●参道

そんなこんなで、鳥居をくぐって境内へ。

参道脇には危機遺産に認定したくなるような、昭和萌え間違いなしの廃屋が建ち並んでいました。

かつて、この参道には赤い鳥居が建ち並び、参道脇に土産店が軒を連ねていたそうです。

しかし現在はご覧の通り・・・

かつての面影は見る影もないです。


あまりにノスタルジックで素敵な風景だったため、しばし立ち止まり昭和の風を感じていたひと時・・・

って、いや待て!

これ、廃屋じゃない!


なんと、金剛院というお寺だという!

これはもしかして・・・

妙見宮鷲頭寺の塔頭?子院?


こちらは金剛院の御本尊のようです。

一体全体、どなたがお祀りされてるのでしょ?

隙間からチラッとお姿が見えましたが、全くわかりませんでした。

というか、御本尊の前には神鏡がありました! ということで、この金剛院も神仏混淆?


その他、不動明王さんと矜羯羅もしくは矜羯羅童子さんと弘法大師さんがおられました。


あと、石仏3体も安置されていました。

説明板がなかったため金剛院の由緒を知ることはできませんでしたが、なかなか興味深いお寺さんでした。
スポンサーリンク

仁王門と狛犬

●仁王門

●仁王門
・建立年不明
・瓦葺 入母屋造
・三間一戸 楼門造

続いて、立派な仁王門ドーンと登場。

なんと、このお寺さんは妙見信仰の発祥ならびに、節分祭(星祭り)発祥の地なんだと!

●節分星祭り(星供)とは?
星供と書いてほしくと読むそうです。

星供は、別名・星供養星祭りと呼ばれることもあるんだって。

星供は1年の始まりの節目である節分に行われることから、節分星祭りと呼ばれることもあるそうです。

密教では、人にはそれぞれ生まれつき定められた星があるそうで、その星の動きによって運命が左右されると考えられているんだとか。

また、それとは別に年ごとに巡る当年星という星もあるそうです。

そんなこんなで星供とは、その年の吉凶をつかさどる星をお祀りして1年の幸福を祈る仏教の儀式なんだって。


仁王門の両サイドには、古そうな仁王さんがおられました。

足が細くて長く、全体的にスマートなプロポーションでした。


そして、仁王門には小さな草鞋がたくさん掛けられていました。

どうやら、足腰の弱い方・悪い方は草鞋(500円)を奉納すると御利益があるそうですよ。


それはそうと、楼上の窓からチラ見する仏像さんが気になったひと時。

くぅ〜メガネを持ってくれば良かった!

そんなこんなで、目一杯にズームにしたカメラで仏像さんを写し出し、詳細を確認。

もしかして、四天王さん?

楼上に羅漢さんがいる門はたまに出会いますが、楼上に四天王さんがおられるのってちょっと珍しいですね。


●参道

そんなこんなで、仁王門をくぐると提灯参道が登場。

なんと、仁王門と本堂は提灯で繋がっているという。

真冬のど真ん中だけど、このタイプの提灯を見ると何だか夏っぽい気分になりました。

何かお祭りでもあるのでしょうか?


●狛犬

●狛犬
・1969年奉納
・陶器製

続いて、狛犬ちゃんにご挨拶。

鳥居 → 仁王門 → 狛犬。

神社風味とお寺風味が交互にやってくるので、ここがお寺なのか神社なのかわかんなくなってきます。


それにしても、爛々とした目が猛烈に可愛い狛犬ちゃんでした。
スポンサーリンク

本堂

●本堂

●本堂
・建立年不明
・銅板葺 唐破風向拝付き入母屋造

続いて、本堂で参拝。

なんと本堂は神社風のお堂になってるという!

そんなこんなで、本堂というより拝殿と呼びたくなっちゃいます。


しかもネットの情報によると、この本堂は権現造になっているという!

お堂に上がって確認してないので何とも言えませんが、もし本当に権現造なら正真正銘の神社建築となります。

神仏分離令を完全に無視した造りに感動級のワクワクを感じちゃいますねぇ。

●権現造とは?
権現造とは拝殿と本殿が合体した造りで、拝殿と本殿の間に一段低い石の間があるのが特徴の建物です。

石の間というくらいですから本来は石敷なのですが、土間床や畳敷の石の間もあります。

●権現造の代表例
日光東照宮・久能山東照宮・上野東照宮など。


御本尊は妙見大菩薩さん。

妙見大菩薩さんは大内氏の氏神様で、古くからみょうけんさまとして親しまれているそうです。

●妙見菩薩と天之御中主神とは?
造化三神の1柱・天之御中主神は、その名のとおり天の真ん中を支配する神様です。

妙見菩薩とは北極星・北斗七星を神格化した仏教・天部のひとつです。

天の真ん中を支配する神様・天之御中主神
宇宙の中心・北極星を神格化した妙見菩薩

そんなこんなで天之御中主神と妙見菩薩は同一視されることとなり、妙見さんとして信仰されています。

いわゆる妙見信仰です。


本堂には北辰閣という額が掲げられていました。

表向きはお寺ですが『ここは北辰妙見社という神社なんだよ〜』と言ってるような気がしてなりませんでした(個人的感想)

その他、色あせた龍の天井画もありました。


本堂には大内氏の家紋(大内菱)の幕もありました。

北辰妙見社は琳聖太子の後裔である大内氏の庇護を受けて栄えていたそうです。

というか、琳聖太子って誰なのよ?

ということで調べてみると、なんと!

琳聖太子は、大内氏の祖先なんだという!

●琳聖太子と大内氏
琳聖太子は、百済国の第26代王・聖明王の第3王子といわれています。

大内氏の文書によると、611年に琳聖太子は多々良浜に上陸し、聖徳太子と面会。

そして、多々良の姓と大内県(おおうちあがた)の領地を賜ったといわれています。

その後、土着した子孫が大内姓を名乗ったんだって。

しかし、日本にも百済にも琳聖太子という人物を証明する史料がないことから、架空の人物という説が有力視されているという・・・(-“-;) ??

どうやら大内氏が琳聖太子という架空の人物を捏造した背景には、朝鮮との貿易が関係しているみたい。

一説によると、朝鮮との貿易を重視した大内氏10代当主・大内義弘さんが、朝鮮半島との関係を重視するため、琳聖太子という人物を捏造して、琳聖太子の子孫を名乗ったのだとか!

そして、大内氏の思惑通りというか何というか、朝鮮は大内氏の先祖 = 琳聖太子という大内氏の主張を受け入れたのだという。

これによって大内氏は、朝鮮において幕府に次ぐ地位を確保。

そして朝鮮との貿易で莫大な利益を得たのだという。

そんなこんなで、大内氏が莫大な財力を得たのも、西国7ヶ国の守護になったのも存在しない琳聖太子のおかげ!

やるなぁ、大内氏!


余談ですが、大内氏当主の◯代を表すとき、先祖の琳聖太子を初代とする場合と、大内姓を名乗った盛房さんを初代にする場合の2通りのパターンがあります。

●琳聖太子を初代とする場合
第16代・大内盛房
第17代・大内弘盛
第18代・大内満盛
第19代・大内弘成
第20代・大内弘貞
第21代・大内弘家
第22代・大内重弘
第23代・大内弘幸
第24代・大内弘世
第25代・大内義弘
第26代・大内盛見
第27代・大内持世
第28代・大内教弘
第29代・大内政弘
第30代・大内義興
第31代・大内義隆
第32代・大内義長

●大内盛房を初代とする場合
第1代・大内盛房
第2代・大内弘盛
第3代・大内満盛
第4代・大内弘成
第5代・大内弘貞
第6代・大内弘家
第7代・大内重弘
第8代・大内弘幸
第9代・大内弘世
第10代・大内義弘
第11代・大内盛見
第12代・大内持世
第13代・大内教弘
第14代・大内政弘
第15代・大内義興
第16代・大内義隆
第17代・大内義長

ちなみに、このブログでは大内盛房さんを初代として表記しています。


木鼻は獏と獅子。


そして唐破風向拝には松の彫刻がありました。 もしかしてこれは、下松という地名の由来となった降松を意味するものなのでしょうか?

●降松神社と下松

595年、鷲頭庄青柳浦のが降臨し、7日7夜輝き続け『我は天之御中主尊なり。3年以内に、この地に百済国の王子・琳聖太子がやって来るため、そのさきがけとして降ってきた』というお告げがあったという。

597年、星のお告げ通り、百済国の王子・琳聖太子が来日

そして、琳聖太子は桂木山に北辰妙見社を建立し、鷲頭庄の氏神としたそうです。

そんなこんなで、青柳浦のに星が臨したことにより、この地は降松と呼ばれるようになったという。

星が降臨した松

降り松

降松

下松

これが下松という地名の由来なんだと!

なんと、星が降臨した松の5代目は、現在、JR・下松駅前にある金輪神社にあるんだとか!

その他、百済(くだら)と交易する(港)という意味の百済津(くだらつ)が転じて下松になったという説もあるみたいですよ。

ちなみに、下松市は降星伝説にちなんで星降るまちというキャッチフレーズがつけられているそうです。
スポンサーリンク

大黒堂と厄除堂

●大黒堂

●大黒堂
・建立年不明
・銅板葺 流造

続いて、本堂の右手前にある大黒堂を参拝。

どうやら、この大黒さんは周南七福神の1つのようです。


なんと、こちらの大黒さんは油掛大黒天になっているという!


ということで、油を掛けて祈願・・・

ローションじゃないことを祈る。


仏教では4月の花まつり(灌仏会)でお釈迦さまに甘茶を掛けて祈願したり、お地蔵さまやお不動さんにを掛ける信仰がありますが、を掛ける信仰とは珍しいですね。

ちなみに、油を掛ける信仰は全国に10ヶ所くらいあるそうです。

山口県には下関市の長門国分寺にも油掛大黒天さんがおられます。

●全国の油掛大黒天
蓮住寺の油かけ大黒天(秋田市
山形の油掛大黒尊天(米沢市
大観密寺の油掛大黒天(仙台市
東泉寺の油掛大黒天(群馬県利根郡
身延別院の油掛大黒天神(東京都中央区
永泉寺の油掛大黒天(岡崎市
宝珠院の油掛大黒天(大阪市
岡山の油掛大黒尊天(岡山市
長門国分寺の油掛大黒尊天(下関市
・妙見宮鷲頭寺の油掛大黒天(下松市
など


油掛大黒天の始まりについては諸説あるようですが、一説によると宗教上の理由ではなく民間信仰が広まったものといわれています。

なぜ大黒天さまに油を掛ける信仰が広まったのか?

それには次のような故事・由来が伝えられています。

●誤って掛けた説
ある日、京の商人が路端の大黒天像に誤って油を掛けてしまったそうです。
しかしその後、罰が当たるどころか、商売繁盛や良縁が舞い込むなどの福徳が続いたという!

商人は『これは大黒天さまの加護に違いない』と感謝し、その後も油を掛けて祈願するようになったといわれています。


●お供え物の代わり説
油売り商人が油の売り上げの一部で大黒天像にお供えをしていたそうです。
しかしある日、油が売れずお供えをすることができなくなったという。

そんなこんなで、お供え物の代わりに売り物である油を掛けたところ、翌日から商売が繁盛!

そのことにより、商人は大黒天像に油を掛けて祈願するようになったといわれています。


●油で磨いた説
大黒天さまは五穀豊穣の神としてお寺や商人の台所にお祀りされることがあります。
しかし、煮炊きをする台所に祀られているためススで真っ黒になってしまいます。

そんなこんなで、ススで汚れた大黒天像を綺麗にするために油で磨いたことが油掛大黒天の始まりといわれています。


●歓喜天の浴油供説
大黒天さまは密教を通じて日本に伝来した神様といわれています。

密教には、歓喜天像(聖天様)に油を注いで大願成就を願う浴油供(よくゆく)という秘法があります。

また大黒天さまは別名・闘戦塚間浴神と呼ばれ、灰身を油に浴して願いごとを叶える神さまともいわれているそうです。

これらが人々の間に伝わり、いつからか大黒天像に油を掛けることが広まったといわれています。

石仏やお墓にを掛けるのは浄めの意味がありますが、それ以外に生命の根源である水を掛けることによってパワーを頂くという意味もあるそうです。

そんなこんなで、福の神である大黒天像に水より貴重で高価なを掛ければ、もっとたくさんの御利益が得られるのではないのか・・・と昔の人は考えたのかも知れませんね。

世の中には面白い信仰があるもんですねぇ。


●厄除堂

●厄除堂
・建立年不明
・銅板葺 流造

続いて、本堂の左手前にある厄除堂を参拝。


堂内には弘法大師さんがたくさんおられました。

南無大師遍照金剛・・・
南無大師遍照金剛・・・
南無大師遍照金剛・・・

長門国分寺の御朱印情報|大黒天に油を掛けて祈願|油掛大黒尊天|(山口県下関市)
所在地山口県下関市南部町4−1宗 派高野山真言宗寺 格別格本山札 所山口十八不動三十六童子霊場 第1番由 緒741年、聖武天皇の勅命により全国に建立された国分寺の1つ。もともとは長門国府の...

荒神社と庚申社と亀池

●荒神社

●荒神社
・建立年不明
・銅板葺 妻入り入母屋造

続いて、本堂の左隣に鎮座する荒神社を参拝。

荒神さまは、西日本では比較的ポピュラーな存在ですが、全国的にはマイナーな神様です。

●全国・荒神社ランキング
第1位・・・岡山(約200社)
第2位・・・広島(約140社)
第3位・・・島根(約120社)

ちなみに第7位に鳥取(約30社)
第9位に山口(27社)です。

なぜか中国地方で大ブームを巻き起こした荒神信仰

三宝荒神を祀る荒神堂は全国に約400社
そのほとんどが中国地方に集中しているという!

ちなみに荒神さまは、かまど・台所の神様として有名ですが、激しく祟たたりやすい性格のため祟り神としても知られています。


荒神社と本堂をセットで見てみると、もうこのお寺は神社にしか見えません。


●庚申社

●庚申社
・建立年不明
・銅板葺 一間社流造

続いて、荒神社の隣に鎮座する庚申社を参拝。

こうじんしゃからのこうしんしゃ

名前が似てるのでちょっとややこしいです。


●亀池

荒神社と庚申社の間には亀池がありました。

なんと、この池は自由律俳句の俳人・種田山頭火さんゆかりの池なんだって。

1933年、山頭火さんは光市室積の普賢祭りの帰りにこのお寺に立ち寄って、この池の亀を見て小郡の其中庵に帰ったそうです。

私が参拝したときにはまだ建立されていませんでしたが、現在は池の前に山頭火さんの句碑が建っているそうですよ。

●種田山頭火句碑
濁れる水の 流れつゝ澄む
         山頭火


嗚呼・・・。


その他、境内には楽寿観音さんがおられました。

ちなみに、こちらが中国楽寿三十三観音霊場の第15番札所となっております。

そんなこんなで、参拝終了。

いやはや、素敵なお寺さんでした。

御朱印情報

●御朱印の種類
・山口県十八不動三十六童子霊場の御朱印
・中国楽寿三十三観音霊場の御朱印
・周南七福神(大黒天)の御朱印

●御朱印の受付場所
・住職さんのお宅

●御朱印の受付時間
・不明

●御朱印の料金
・各300円

●期間限定・特別御朱印
・なし

●オリジナル御朱印帳
・なし

・2014年1月18日 参拝
・2023年3月 更新

降松神社の御朱印|星の神様・妙見さまを祀る神社(山口県下松市)
所在地山口県下松市河内1984番地祭 神天之御中主尊由 緒595年、青柳浦の松に星が降臨し、七日七夜輝き続けて琳聖太子の来朝を擁護するようにとお告げがあったという。597年、百済国の王子・琳聖太子が来日し...
スポンサーリンク

参拝情報とアクセス

●開門時間
・境内自由

●拝観料
・無料

●最寄りの駅
・JR下松駅から徒歩5分

●最寄りのバス停
・防長交通
 中市 バス停から徒歩2分

●最寄りのIC
・山陽自動車道
 徳山東ICから車で10分

●駐車場
・あり

妙見宮鷲頭寺の地図

 

御朱印のじかん~週末ドロボー~ - にほんブログ村
下松市の御朱印山口県の御朱印
都道府県別の御朱印
御朱印のじかん|週末ドロボー
タイトルとURLをコピーしました