所在地 | 大分県中津市寺町973 |
---|---|
宗 派 | 西山浄土宗 |
由 緒 | 1587年、黒田孝高(官兵衛)に従って姫路から中津に移り住んだ空誉上人が開基したお寺だそうです。1589年、黒田孝高(官兵衛)が前領主・宇都宮鎮房を謀略をもちいて中津城内で暗殺。その勢いで、この寺に置き留められていた城井鎮房の家臣団を急襲。不意をつかれた城井家臣団は奮戦むなしくお寺の白壁を鮮血で染めて全員討ち死にしたという。以来、何度も白壁を塗り替えるが血が浮き出てしまうので、白壁を赤色に塗り替えたといわれています。 |
山門と赤壁
●山門
本日は黒田官兵衛、略してクロカンの聖地・中津市を旅しています。
そんなこんなで、JR中津駅から徒歩7分、お寺の密集地帯に位置する合元寺に到着。
塀が・・・赤いっ!
アート的というかなんというか、奇抜でカオスで映えるねぇ~
・・・とか浮かれたポップな話しをしている場合じゃない!
なんと、この赤い壁には・・・
カラフルな見た目とは裏腹に残酷で悲しいエピソードが残っているのです・・・。
●なぜ壁が赤いのだぃ?
1586年、天下取りを目指す豊臣秀吉が、島津氏を討つために九州征伐の大軍を派遣してきました。
中津の領主・城井鎮房は秀吉に従う態度を見せましたが、鎮房は病を理由に従軍せず息子に任せてしまいました。
このことにより、秀吉の不信を招いてしまうことになりました。
そんなこんなで秀吉は、鎮房に伊予(愛媛県)への領地替えを命じました。
鎌倉時代から400年も守り続けた領地を手放すことができなかった鎮房はこれを拒否します。
その態度が気に入らなかったのか、秀吉は城井家に伝わる家宝・小倉色紙を譲るようにと迫ってきました。
もちろん、鎮房はこの要求も断固拒否。
そして、鎮房の代わりに中津に入国した黒田官兵衛・長政にも反発しました。
鎮房の怒りは収まらず、城井谷城を奪回して反旗を翻しました。
黒田官兵衛は長政に自重を求めますが、血気盛んな長政は我慢しきれず、鎮房に攻撃を仕掛けたという。
しかし長政軍は敗戦・・・。
鎮房は自分の領土を守るため、本領安堵と引き換えに娘の鶴姫を人質に出して和睦することにしました。
しかし官兵衛は、鎮房が素直に和睦を呑むとは思っていませんでした。
官兵衛は、肥後(熊本県)で起きていた一揆を鎮圧するために領地を離れる際、長政にある策を授けていきました。
1588年、和睦の宴と称して長政は鎮房を中津城へと招きました。
そんなこんなで、鎮房は150人余りの家臣を引き連れ中津城に到着。
しかし中津城への入城を許されたのは鎮房と小姓の2名だけでした。
残りの家臣は合元寺で休息を命じられてしまいました。
そして宴が始まりました。
宴の最中、鎮房は娘婿になるはずだった長政により謀殺されてしまったという!
そして鎮房とともにした小姓も殺されました。
そう、この宴は黒田氏のワナだったのです。
続いて黒田の軍勢は、鎮房の家臣が休息している合元寺を急襲し皆殺しにしました。
さらに城井谷城にも押し寄せ、鎮房の父・長房を殺し、一族を皆殺しにしたという・・・。
官兵衛とともに一揆を鎮圧するために肥後にやってきた鎮房の嫡男・朝房も殺され、黒田家の人質となっていた鶴姫とその侍女たちははりつけにされて処刑されました。
鎮房の死後、中津城に鎮房の亡霊が出没し、長政はその亡霊に相当ビビッていたようです。
そんなこんなで、鎮房を謀略で殺害したことを悔い、中津城内に城井神社を創建しました。
ちなみに城井神社は、後に黒田氏の居城となる福岡城にも創建されています。
そんなこんなで、合元寺の白壁は鎮房の家臣達の返り血で真っ赤に染まりました。
その後、いくら壁を塗り替えても白壁から血が滲み出てくるため赤色の壁にしたという・・・。
それがこの赤壁の由来です。
ということで、合元寺は通称・赤壁寺と呼ばれています。
●庫裏と刃傷の柱
150人余りの家臣を皆殺しにしたということですから、返り血も相当なものだったのでしょう。
赤いのは塀だけではなく、庫裏の壁も真っ赤に塗られていました。
さらに庫裏の内部も真っ赤でした・・・。
何だか頭がおかしくなりそうです。
そして、庫裏の柱には激闘を物語る刀跡がありました。
家臣が皆殺しにされたっていうくらいだから、相当激しく殺りあったんだろうなぁ。
ちなみに、討ち死にした城井家の家臣は合葬され、寺内の延命地蔵菩薩堂に祀られているそうです。
白壁に染みついた血痕を隠すために真っ赤に塗られた壁。
このように、自分の黒歴史も真っ黒に塗り替えれたら・・・
・・・って、それって結局真っ黒じゃん!
何をしようと黒歴史は消えません。
そんなこんなで、このお寺は黒田氏の黒歴史ゆかりのお寺です。
ああいう時代だからあれはあれで1つの手だったのかも知れませんが、官兵衛さんほどの才があれば、もっと上手くやれたんじゃないのかなぁ・・・。
とか思ってみたひと時でした。
こちらが、黒田氏に謀殺された鎮房と家臣を祀る城井神社の参拝記です。
本日は黒田官兵衛、略してクロカンの聖地・中津市を旅しています。
そんなこんなで、JR中津駅から徒歩7分、お寺の密集地帯に位置する合元寺に到着。
塀が・・・赤いっ!
アート的というかなんというか、奇抜でカオスで映えるねぇ~
・・・とか浮かれたポップな話しをしている場合じゃない!
なんと、この赤い壁には・・・
カラフルな見た目とは裏腹に残酷で悲しいエピソードが残っているのです・・・。
●なぜ壁が赤いのだぃ?
1586年、天下取りを目指す豊臣秀吉が、島津氏を討つために九州征伐の大軍を派遣してきました。
中津の領主・城井鎮房は秀吉に従う態度を見せましたが、鎮房は病を理由に従軍せず息子に任せてしまいました。
このことにより、秀吉の不信を招いてしまうことになりました。
そんなこんなで秀吉は、鎮房に伊予(愛媛県)への領地替えを命じました。
鎌倉時代から400年も守り続けた領地を手放すことができなかった鎮房はこれを拒否します。
その態度が気に入らなかったのか、秀吉は城井家に伝わる家宝・小倉色紙を譲るようにと迫ってきました。
もちろん、鎮房はこの要求も断固拒否。
そして、鎮房の代わりに中津に入国した黒田官兵衛・長政にも反発しました。
鎮房の怒りは収まらず、城井谷城を奪回して反旗を翻しました。
黒田官兵衛は長政に自重を求めますが、血気盛んな長政は我慢しきれず、鎮房に攻撃を仕掛けたという。
しかし長政軍は敗戦・・・。
鎮房は自分の領土を守るため、本領安堵と引き換えに娘の鶴姫を人質に出して和睦することにしました。
しかし官兵衛は、鎮房が素直に和睦を呑むとは思っていませんでした。
官兵衛は、肥後(熊本県)で起きていた一揆を鎮圧するために領地を離れる際、長政にある策を授けていきました。
1588年、和睦の宴と称して長政は鎮房を中津城へと招きました。
そんなこんなで、鎮房は150人余りの家臣を引き連れ中津城に到着。
しかし中津城への入城を許されたのは鎮房と小姓の2名だけでした。
残りの家臣は合元寺で休息を命じられてしまいました。
そして宴が始まりました。
宴の最中、鎮房は娘婿になるはずだった長政により謀殺されてしまったという!
そして鎮房とともにした小姓も殺されました。
そう、この宴は黒田氏のワナだったのです。
続いて黒田の軍勢は、鎮房の家臣が休息している合元寺を急襲し皆殺しにしました。
さらに城井谷城にも押し寄せ、鎮房の父・長房を殺し、一族を皆殺しにしたという・・・。
官兵衛とともに一揆を鎮圧するために肥後にやってきた鎮房の嫡男・朝房も殺され、黒田家の人質となっていた鶴姫とその侍女たちははりつけにされて処刑されました。
鎮房の死後、中津城に鎮房の亡霊が出没し、長政はその亡霊に相当ビビッていたようです。
そんなこんなで、鎮房を謀略で殺害したことを悔い、中津城内に城井神社を創建しました。
ちなみに城井神社は、後に黒田氏の居城となる福岡城にも創建されています。
そんなこんなで、合元寺の白壁は鎮房の家臣達の返り血で真っ赤に染まりました。
その後、いくら壁を塗り替えても白壁から血が滲み出てくるため赤色の壁にしたという・・・。
それがこの赤壁の由来です。
ということで、合元寺は通称・赤壁寺と呼ばれています。
●庫裏と刃傷の柱
150人余りの家臣を皆殺しにしたということですから、返り血も相当なものだったのでしょう。
赤いのは塀だけではなく、庫裏の壁も真っ赤に塗られていました。
さらに庫裏の内部も真っ赤でした・・・。
何だか頭がおかしくなりそうです。
そして、庫裏の柱には激闘を物語る刀跡がありました。
家臣が皆殺しにされたっていうくらいだから、相当激しく殺りあったんだろうなぁ。
ちなみに、討ち死にした城井家の家臣は合葬され、寺内の延命地蔵菩薩堂に祀られているそうです。
白壁に染みついた血痕を隠すために真っ赤に塗られた壁。
このように、自分の黒歴史も真っ黒に塗り替えれたら・・・
・・・って、それって結局真っ黒じゃん!
何をしようと黒歴史は消えません。
そんなこんなで、このお寺は黒田氏の黒歴史ゆかりのお寺です。
ああいう時代だからあれはあれで1つの手だったのかも知れませんが、官兵衛さんほどの才があれば、もっと上手くやれたんじゃないのかなぁ・・・。
とか思ってみたひと時でした。
こちらが、黒田氏に謀殺された鎮房と家臣を祀る城井神社の参拝記です。
城井神社の御朱印~黒田氏に謀殺された宇都宮鎮房を祀る~(大分県中津市)
所在地大分県中津市二ノ丁1273祭 神宇都宮鎮房由 緒1705年、黒田氏によって中津城内で暗殺された城井谷城主・宇都宮鎮房を祀るために創建した神社。その後、幾度か場所を変えた後、現在地に遷座したそうです。...
本堂
●本堂
●本堂
・建立年不明
・瓦葺 入母屋造
・宗派 西山浄土宗
・本尊 阿弥陀如来像
このお寺は、1587年に黒田孝高(官兵衛)に従って姫路から中津に移り住んだ空誉上人が開基したお寺なんだって。
しかし、空誉上人は城井鎮房の庶子(正室ではない女性から生まれた子供)だったため、後事をおそれ1611年に黒田長政により福岡城で殺されちゃいました・・・。
黒田さん・・・めちゃくちゃするなぁ(^^;)
本尊の阿弥陀如来像は恵心僧都作といわれています。
ということで平安時代中期作という古仏です。
ちなみに、庫裏内に阿弥陀さんの坐像と立像の写真が掛けられていました。
こちらが本尊さんなのかなぁ・・・???
もしかしたら、本尊とは全然関係のない仏さんかも知れません・・・(^^;)
●本堂
・建立年不明
・瓦葺 入母屋造
・宗派 西山浄土宗
・本尊 阿弥陀如来像
このお寺は、1587年に黒田孝高(官兵衛)に従って姫路から中津に移り住んだ空誉上人が開基したお寺なんだって。
しかし、空誉上人は城井鎮房の庶子(正室ではない女性から生まれた子供)だったため、後事をおそれ1611年に黒田長政により福岡城で殺されちゃいました・・・。
黒田さん・・・めちゃくちゃするなぁ(^^;)
本尊の阿弥陀如来像は恵心僧都作といわれています。
ということで平安時代中期作という古仏です。
ちなみに、庫裏内に阿弥陀さんの坐像と立像の写真が掛けられていました。
こちらが本尊さんなのかなぁ・・・???
もしかしたら、本尊とは全然関係のない仏さんかも知れません・・・(^^;)
お願い地蔵
●お願い地蔵
境内には三願成就の地蔵尊として知られるお願い地蔵さんがおられました。
どうやらこの地蔵堂は寺町地蔵めぐりの第3番札所のようです。
ちなみに寺町地蔵めぐりのことを調べてみましたが、残りの札所がどのお寺なのか・・・不明です(^^;)
・左 → お願い地蔵
・中 → 延命地蔵
・右 → 身代わり地蔵
3体そろって三願成就の地蔵尊と呼ぶそうですよ。
なんとここで福沢諭吉さんが長崎に遊学するにあたって学業成就を祈願したんだって!
悲しいエピソードばかりで気分が落ち込むお寺の中で、この地蔵堂は唯一明るいスポットでしたよ。
境内には三願成就の地蔵尊として知られるお願い地蔵さんがおられました。
どうやらこの地蔵堂は寺町地蔵めぐりの第3番札所のようです。
ちなみに寺町地蔵めぐりのことを調べてみましたが、残りの札所がどのお寺なのか・・・不明です(^^;)
・左 → お願い地蔵
・中 → 延命地蔵
・右 → 身代わり地蔵
3体そろって三願成就の地蔵尊と呼ぶそうですよ。
なんとここで福沢諭吉さんが長崎に遊学するにあたって学業成就を祈願したんだって!
悲しいエピソードばかりで気分が落ち込むお寺の中で、この地蔵堂は唯一明るいスポットでしたよ。
その他の見どころ
●鐘楼
大きな入母屋の屋根を細い脚で支えていました。
ツンと押したら倒れてしまいそうなくらい頭デッカチ。
建立年は不明ですが、なかなか味のある鐘楼でした。
鐘楼には獅子と獏の木鼻。
そして龍と鳳凰の彫刻が施されていました。
なかなか気合いの入った彫り物です。
●経蔵と六地蔵
その他、経蔵と六地蔵がありました。
白壁の経蔵に違和感を感じたひと時でした。
ここまできたら、ウソでもいいので真っ赤に塗ってほしかったです(笑)
●境内の風景
本堂前から望む。
ちなみに境内には、三浦梅園や倉成龍渚の師である儒学者・藤田敬所のお墓があるそうですよ。
●寺町の風景
そんなこんなで参拝後、寺町をプラプラと散策してきました。
寺町とはその名のとおりお寺が密集する町。
もともとは中津城の防衛を目的として造られた町なんだって。
●寺町の内訳
・黒田入封以前の創建
地蔵院・安随寺
・黒田藩時代の創建
合元寺・大法寺・円応寺・西蓮寺
・細川藩時代の創建
普門院・宝蓮妨・本伝寺
・小笠原藩時代の創建
円竜寺・浄安寺
・奥平藩時代の創建
松巌寺
・・・計12寺・・・
寺町では古くから観音様を祀る7つのお寺を参拝すると功徳があるとされる七観音参りが行われきたといいます。
七観音参りは、京都・清水寺の千日参りに起源を持ち、江戸時代初期から続いてるんだって。
ということで、毎年8月9日に行われる寺町とうろう祭りでは、幻想的な灯篭の灯りで彩られるそうですよ。
大きな入母屋の屋根を細い脚で支えていました。
ツンと押したら倒れてしまいそうなくらい頭デッカチ。
建立年は不明ですが、なかなか味のある鐘楼でした。
鐘楼には獅子と獏の木鼻。
そして龍と鳳凰の彫刻が施されていました。
なかなか気合いの入った彫り物です。
●経蔵と六地蔵
その他、経蔵と六地蔵がありました。
白壁の経蔵に違和感を感じたひと時でした。
ここまできたら、ウソでもいいので真っ赤に塗ってほしかったです(笑)
●境内の風景
本堂前から望む。
ちなみに境内には、三浦梅園や倉成龍渚の師である儒学者・藤田敬所のお墓があるそうですよ。
●寺町の風景
そんなこんなで参拝後、寺町をプラプラと散策してきました。
寺町とはその名のとおりお寺が密集する町。
もともとは中津城の防衛を目的として造られた町なんだって。
●寺町の内訳
・黒田入封以前の創建
地蔵院・安随寺
・黒田藩時代の創建
合元寺・大法寺・円応寺・西蓮寺
・細川藩時代の創建
普門院・宝蓮妨・本伝寺
・小笠原藩時代の創建
円竜寺・浄安寺
・奥平藩時代の創建
松巌寺
・・・計12寺・・・
寺町では古くから観音様を祀る7つのお寺を参拝すると功徳があるとされる七観音参りが行われきたといいます。
七観音参りは、京都・清水寺の千日参りに起源を持ち、江戸時代初期から続いてるんだって。
ということで、毎年8月9日に行われる寺町とうろう祭りでは、幻想的な灯篭の灯りで彩られるそうですよ。
黒田孝高(官兵衛)とは?
●ザックリと簡単に黒田孝高(官兵衛)とは?
黒田官兵衛とは、戦国時代~江戸時代初期にかけて活躍した武将です。
官兵衛という名で知られていますが、実際の名は黒田孝高。
隠居した後は、黒田如水と名乗りました。
官兵衛は軍事的才能に優れ、主に織田信長や豊臣秀吉の下で働き、戦はもちろん調略や他大名との交渉など、幅広く活躍したお方です。
また、秀吉の参謀役として有名な軍師・竹中半兵衛とともに両兵衛や二兵衛と称されるお方です。
●黒田孝高(官兵衛)の年表
黒田官兵衛とは、戦国時代~江戸時代初期にかけて活躍した武将です。
官兵衛という名で知られていますが、実際の名は黒田孝高。
隠居した後は、黒田如水と名乗りました。
官兵衛は軍事的才能に優れ、主に織田信長や豊臣秀吉の下で働き、戦はもちろん調略や他大名との交渉など、幅広く活躍したお方です。
また、秀吉の参謀役として有名な軍師・竹中半兵衛とともに両兵衛や二兵衛と称されるお方です。
●黒田孝高(官兵衛)の年表
1546年 | 潘磨国の姫路城主・小寺職隆の嫡男として誕生。 |
---|---|
1567年 | 光姫を正室に迎える。 家督を継いで姫路城主となる。 |
1568年 | 松寿丸(黒田長政)をもうける。 |
1569年 | 姫路城を攻めてきた赤松政秀を撃退し、官兵衛の名が世に知れ渡る。 |
1575年 | 信長と謁見。 秀吉に仕える。 |
1578年 | 謀反をおこした荒木村重を説得するため単身で有岡城に乗り込む。しかし捕縛され約1年間幽閉される。 |
1579年 | 有岡城の落城にともない救出される。 |
1580年 | 三木城を攻略。 1万石を手に入れ大名となる。 |
1581年 | 兵糧攻めで鳥取城を攻略。 |
1582年 | 備中高松城を水攻めで攻略。 本能寺の変で織田信長が自害。 中国大返しを豊臣秀吉に提言。 山崎の戦いで明智光秀軍を破る。 |
1586年 | 九州平定のため豊前国へ入国。 |
1588年 | 中津城の築城を開始。 中津城内で宿敵・城井鎮房をだまし討ち。合元寺で城井鎮房の家臣を皆殺しにする。 |
1589年 | 家督を長政に譲る。 |
1590年 | 小田原征伐に参加。 使者として活躍し小田原城を無血開城させる。 |
1591年 | 秀吉の命により名護屋城の縄張を行う。 |
1592年 | 名護屋城を出兵拠点として総大将・宇喜多秀家の軍師として朝鮮に渡る。 |
1593年 | 名を黒田如水と改める。 |
1598年 | 豊臣秀吉が死去。 |
1600年 | 関ヶ原の戦いに乗じ、九州をほぼ平定。 関ヶ原の戦いで活躍した長政は、筑前52万石を与えられる。 |
1601年 | 福崎の地を福岡と改称し、福岡城の築城を開始。 |
1604年 | 死去。 崇福寺に葬られる。 |
御朱印情報
●御朱印の種類
・合元寺の御朱印(南無阿弥陀佛)
●御朱印の受付場所
・庫裏
●御朱印の受付時間
・不明
●御朱印の料金
・300円
●期間限定・特別御朱印
・なし
●オリジナル御朱印帳
・なし
・2018年3月18日 参拝
・2021年1月 更新
・合元寺の御朱印(南無阿弥陀佛)
●御朱印の受付場所
・庫裏
●御朱印の受付時間
・不明
●御朱印の料金
・300円
●期間限定・特別御朱印
・なし
●オリジナル御朱印帳
・なし
・2018年3月18日 参拝
・2021年1月 更新
参拝情報とアクセス
●開門時間
・9:00~18:00頃
●拝観料
・無料
●定休日
・無休
●駐車場
・なし
●JR 中津駅
●最寄りの駅
・JR中津駅から徒歩7分
・9:00~18:00頃
●拝観料
・無料
●定休日
・無休
●駐車場
・なし
●JR 中津駅
●最寄りの駅
・JR中津駅から徒歩7分