所在地 | 山口県山口市上竪小路101 |
---|---|
祭 神 | ・大内義隆・徳川家康 ・大内義尊・大内氏諸公卿諸士28人 |
由 緒 | 1605年、毛利輝元が上宇野令村(現・山口市)の多賀社に大内義隆などを祀る宝現霊社を創建したのが始まりといいます。その後、龍福寺の境内に移転。そして、片岡小路に移転。さらに1870年、宝現霊社と氷上山・興隆寺の境内にあった東照宮を現在地に移転して合祀したのが現在の築山神社といいます。ちなみに、この地は大内氏の別邸・築山館があった場所といわれています。 |
築山神社とは?
大内氏の別邸・築山館跡に鎮座してます築山神社を参拝。
築山神社と書いてつきやまじんじゃと読みます。
築山神社は山口祇園祭で知られる八坂神社の境内に鎮座しています。
そんなこんなで、八坂神社の参拝後に立ち寄りました。
●築山神社とは?
1605年、長州藩の藩祖・毛利輝元さんが上宇野令村(現・山口市)の多賀社に、大内義隆さんを始め大内氏の滅亡時に殉じた公卿と諸士28人を祀る宝現霊社を創建したのが始まりといいます。
その後、宝現霊社は同村にある大内義隆さんの菩提寺・龍福寺に移転。
そして、1828年に片岡という地に移転したそうです(現・山口市後河原片岡のこと?)
1869年、氷上山 興隆寺の境内に鎮座していた東照宮を八坂神社の境内に移転。 その際、東照宮の社殿を現在地に移築。
そして、1870年に片岡の宝現霊社を現在地の東照宮の社殿に合祀し、築山神社と改称したそうです。
それが現在の築山神社といわれています。
ちなみに、東照宮(興隆寺東照宮)は、毛利氏が大内氏の氏寺・氷上山 興隆寺の境内に勧請した神社といわれています。
1605年、長州藩の藩祖・毛利輝元さんが上宇野令村(現・山口市)の多賀社に、大内義隆さんを始め大内氏の滅亡時に殉じた公卿と諸士28人を祀る宝現霊社を創建したのが始まりといいます。
その後、宝現霊社は同村にある大内義隆さんの菩提寺・龍福寺に移転。
そして、1828年に片岡という地に移転したそうです(現・山口市後河原片岡のこと?)
1869年、氷上山 興隆寺の境内に鎮座していた東照宮を八坂神社の境内に移転。 その際、東照宮の社殿を現在地に移築。
そして、1870年に片岡の宝現霊社を現在地の東照宮の社殿に合祀し、築山神社と改称したそうです。
それが現在の築山神社といわれています。
ちなみに、東照宮(興隆寺東照宮)は、毛利氏が大内氏の氏寺・氷上山 興隆寺の境内に勧請した神社といわれています。
それにしても、移転しまくりーのでややこしい由緒ですなぁ。
そして何より気になったのが宝現霊社の由緒!
築山神社と龍福寺では、宝現霊社の由緒が全く違うものになっているという・・・(-“-;) ??
築山神社の由緒では
宝現霊社は、江戸時代に長州藩の藩祖・毛利輝元さんが多賀社の境内に創建したのが始まり・・・
と書かれておりますが、
龍福寺の由緒では
宝現霊社は、室町時代に大内教弘さんが大内氏の別邸・築山館(現在地)に創建したのが始まり・・・
と書かれておりました。
さらに築山神社の由緒では、宝現霊社の御祭神は大内義隆さんを始め大内氏の滅亡時に殉じた公卿と諸士28人。
しかし龍福寺の由緒では、宝現霊社の御祭神は大内氏の祖・琳聖太子から大内義隆さんまでの大内氏の歴代当主と書かれていました・・・(-“-;) ??
そんなこんなで、築山神社と龍福寺の由緒では、創建年から御祭神までかなりの違いがあるという。
しかもややこしいことに、現在、龍福寺の境内に宝現霊社が鎮座してるんだよね。
築山神社の由緒では、多賀社の境内に宝現霊社を創建した後、龍福寺の境内に移転。
その後、片岡に移転した後に現在地に移転しています。
しかし、龍福寺の由緒では現在地にあった宝現霊社を龍福寺の境内に移転しています。
築山神社の由緒も龍福寺の由緒も、時代は違えど龍福寺の境内に移転したのだけは一致しています。
そんなこんなで、宝現霊社の謎を解くには龍福寺がキーマンのような気がするけど、その龍福寺に宝現霊社が残っているので、な〜んとなく龍福寺の由緒の方が信憑性が高いような・・・気がしています!(個人的感想)
というか、龍福寺の由緒の方がシンプルなので、阿保な私にはすんなりと頭に入ってくる(笑)
あと、築山神社がいう宝現霊社と、龍福寺がいう宝現霊社は同じ社号だけど、実は全く別物の神社だった・・・とかいう仮説を勝手に立ててみたり。
そうすれば何も悩まなくて済むし、全てがガッテンガッテン。
そんなこんなで、参拝開始。
八坂神社の御朱印|大内氏の別邸・築山館跡に鎮座|山口の三大祭りの1つ・山口祇園祭|(山口県山口市)
所在地山口県山口市上竪小路100祭 神素盞嗚尊・稲田姫命・手名槌命・足名槌命由 緒1369年、大内氏9代当主・大内弘世が京都・祇園社から神霊を勧請して創建したのが始まりといいます。創建当初は竪小路に鎮座...
鳥居と拝殿
●鳥居
●鳥居
・建立年未確認
・明神鳥居
まず最初に登場するのは鳥居。
この築山神社は八坂神社の境内に鎮座していますので、おそらく八坂神社の境内社という位置付けかと思われますが、見た感じは1つの独立した神社と思えるくらいの存在感がありました。
●拝殿
●拝殿
・1742年建立
・1869年移築
・銅板葺? 入母屋造
・山口市指定有形文化財
そんなこんなで、鳥居をくぐって拝殿で参拝。
白い屋根って珍しいなぁ〜と思ったら、こちらはシート!
どうやら、社殿は老朽化が進んでいるみたいで、シートで覆って雨漏りを防いでいる模様。
シートの下は銅板葺なのかなぁ?
隙間なくシートで覆われていたので何葺きなのかが全くわかりませんでした!
もしかしたら、傷みがハゲし過ぎてハゲてるのかも知れません(ハゲハゲいうな)
ちなみに、幣殿と本殿もシートで覆われていました。
よく見ると、本殿の屋根が一部見えてる!
そんなこんなで、本殿は銅板葺っぽいです。
●鳥居
・建立年未確認
・明神鳥居
まず最初に登場するのは鳥居。
この築山神社は八坂神社の境内に鎮座していますので、おそらく八坂神社の境内社という位置付けかと思われますが、見た感じは1つの独立した神社と思えるくらいの存在感がありました。
●拝殿
●拝殿
・1742年建立
・1869年移築
・銅板葺? 入母屋造
・山口市指定有形文化財
そんなこんなで、鳥居をくぐって拝殿で参拝。
白い屋根って珍しいなぁ〜と思ったら、こちらはシート!
どうやら、社殿は老朽化が進んでいるみたいで、シートで覆って雨漏りを防いでいる模様。
シートの下は銅板葺なのかなぁ?
隙間なくシートで覆われていたので何葺きなのかが全くわかりませんでした!
もしかしたら、傷みがハゲし過ぎてハゲてるのかも知れません(ハゲハゲいうな)
ちなみに、幣殿と本殿もシートで覆われていました。
よく見ると、本殿の屋根が一部見えてる!
そんなこんなで、本殿は銅板葺っぽいです。
本殿
●本殿
●本殿
・1742年建立
・1869年移築
・銅板葺? 入母屋造
・山口市指定有形文化財
もともと、この拝殿と本殿は興隆寺の境内に鎮座していた東照宮の社殿だったんだって。
それを1869年に現在地に移築。
それにしても、傷みの激しい社でした。
生かさず殺さずの延命処置が痛々しかったです。
垂木が崩壊して穴が開いていたり。。
穴からはシートの裏側が見えましたので、完全に貫通してるみたいですね。
さらに千木も落ちているという!
こんな近くで千木が見れることは滅多にないでしょうから、しばし千木鑑賞。
今まで全く気にならなかったけど、溶接してエックスを作ってるんだね。
そんなことより御祭神はこちら。
●御祭神
・大内義隆
・徳川家康
・大内義尊
・大内氏諸公卿諸士28人
もともと築山神社は東照宮でしたので、主祭神は大内義隆さんの他に、徳川家康さんも祀られているという。
大内義隆さんと徳川家康さんが一緒に祀られている神社を参拝するのは初めてです!
大内義隆さんと徳川家康さんの他に、配祀神として大内義尊さんも祀られていました。
ちなみに大内義尊さんは、大内義隆さんの息子です。
大寧寺の変で父・大内義隆さんは自害。。
その翌日、大内義尊さんは殺されました。
ちなみに大内義隆さんの末子・大内歓寿丸は、大寧寺の変の後に女装して山中に隠れて生活していました。
しかし、翌年に陶晴賢の兵に捕らえられて殺されました(当時5歳)。
このとき男児という証拠として、歓寿丸はポコチンを切断されてしまったという。
そして持ち帰られました。。
そんなこんなで、そのことを不憫に思った住人がその霊を慰めるために観音堂を建立。
それがかの有名な麻羅観音です。
その他、大内氏の滅亡時に殉じた公卿と諸士28人が祀られていました。
●本殿
・1742年建立
・1869年移築
・銅板葺? 入母屋造
・山口市指定有形文化財
もともと、この拝殿と本殿は興隆寺の境内に鎮座していた東照宮の社殿だったんだって。
それを1869年に現在地に移築。
それにしても、傷みの激しい社でした。
生かさず殺さずの延命処置が痛々しかったです。
垂木が崩壊して穴が開いていたり。。
穴からはシートの裏側が見えましたので、完全に貫通してるみたいですね。
さらに千木も落ちているという!
こんな近くで千木が見れることは滅多にないでしょうから、しばし千木鑑賞。
今まで全く気にならなかったけど、溶接してエックスを作ってるんだね。
そんなことより御祭神はこちら。
●御祭神
・大内義隆
・徳川家康
・大内義尊
・大内氏諸公卿諸士28人
もともと築山神社は東照宮でしたので、主祭神は大内義隆さんの他に、徳川家康さんも祀られているという。
大内義隆さんと徳川家康さんが一緒に祀られている神社を参拝するのは初めてです!
大内義隆さんと徳川家康さんの他に、配祀神として大内義尊さんも祀られていました。
ちなみに大内義尊さんは、大内義隆さんの息子です。
大寧寺の変で父・大内義隆さんは自害。。
その翌日、大内義尊さんは殺されました。
ちなみに大内義隆さんの末子・大内歓寿丸は、大寧寺の変の後に女装して山中に隠れて生活していました。
しかし、翌年に陶晴賢の兵に捕らえられて殺されました(当時5歳)。
このとき男児という証拠として、歓寿丸はポコチンを切断されてしまったという。
そして持ち帰られました。。
そんなこんなで、そのことを不憫に思った住人がその霊を慰めるために観音堂を建立。
それがかの有名な麻羅観音です。
その他、大内氏の滅亡時に殉じた公卿と諸士28人が祀られていました。
●大内氏諸公卿諸士28人
・二条尹房・三条公頼・二条良豊
・持明院基規・冷泉隆豊・黒川隆像
・岡部隆量・天野隆良・大田隆通
・小幡義実・岡屋隆秀・高橋右延
・陶隆康・杉興運・貫隆仲
・相良武任・松原隆則・官務伊治
・岡崎氏久・東儀兼康・園広忠
・岡昌歳など
・二条尹房・三条公頼・二条良豊
・持明院基規・冷泉隆豊・黒川隆像
・岡部隆量・天野隆良・大田隆通
・小幡義実・岡屋隆秀・高橋右延
・陶隆康・杉興運・貫隆仲
・相良武任・松原隆則・官務伊治
・岡崎氏久・東儀兼康・園広忠
・岡昌歳など
麻羅観音の御朱印情報~日本一の珍スポット~(山口県長門市俵山温泉)
所在地山口県長門市俵山温泉下安田本尊男根由 緒1551年、中国地方の太守・大内義隆は、家臣の陶晴賢の謀反により湯本温泉の大寧寺で自刃。その2日後、大内義隆の長男・義尊は捕えられ惨殺されたという。大内義隆の...
大内氏別邸 築山館跡
●大内氏別邸 築山館跡
築山神社がある築山館跡は、室町時代に栄華を極めた大内氏の本拠地・大内氏館跡のすぐ北にあります。
一説によると、大内氏館は当主の住居ならびに政務をとっていた場所。
そして、この築山館は迎賓館的な役割を担っていた場所といわれています。
京の町を模して造られた山口は西の京と呼ばれ、かつては京をしのぐほど繁栄していたそうです。
そんなこんなで、京に憧れを抱いていた大内氏は本拠地を城郭にせず、将軍家の館を模した造りにしたんだって。
そのため、続日本100名城の1つでありながら、全くお城的な要素が感じられないという。
かつての築山館は80間四方を土塁で囲み、その外面を自然石を積み上げた石垣で囲んでいたんだって。
そんな大内氏は、家臣・陶晴賢が起こした謀反(大寧寺の変)をきっかけに滅亡へのカウントダウンが始まりました。
陶晴賢は大内義長さんを新たな当主にするも毛利氏に攻め込まれることに。
そして大内氏最後の当主・大内義長さんが山口を放棄して自害したことにより、大内氏館と築山館は役目を終えることになりました。
その後、館跡は荒廃しますが、江戸時代中期まで庭園の跡が残されていたといわれています。
しかしその後、庭園跡は土塁を崩した土で埋められてしまったという。
そんなこんなで、現在この地は土塁の一部が残るのみで、ただの原っぱになっていました。
室町時代に華々しい活躍をした大内氏の面影はそこにはなく・・・ただただ無常感が漂う空間になっていました。
大内氏ですらこれなんだから、何も成果を上げてない私は後世に何も残らない・・・そんなことを思って沈んでしまったひと時でした(笑)
そんなこんなで、参拝終了。
ちなみに、御朱印は今八幡宮の社務所で頂けます。
築山神社がある築山館跡は、室町時代に栄華を極めた大内氏の本拠地・大内氏館跡のすぐ北にあります。
一説によると、大内氏館は当主の住居ならびに政務をとっていた場所。
そして、この築山館は迎賓館的な役割を担っていた場所といわれています。
京の町を模して造られた山口は西の京と呼ばれ、かつては京をしのぐほど繁栄していたそうです。
そんなこんなで、京に憧れを抱いていた大内氏は本拠地を城郭にせず、将軍家の館を模した造りにしたんだって。
そのため、続日本100名城の1つでありながら、全くお城的な要素が感じられないという。
かつての築山館は80間四方を土塁で囲み、その外面を自然石を積み上げた石垣で囲んでいたんだって。
そんな大内氏は、家臣・陶晴賢が起こした謀反(大寧寺の変)をきっかけに滅亡へのカウントダウンが始まりました。
陶晴賢は大内義長さんを新たな当主にするも毛利氏に攻め込まれることに。
そして大内氏最後の当主・大内義長さんが山口を放棄して自害したことにより、大内氏館と築山館は役目を終えることになりました。
その後、館跡は荒廃しますが、江戸時代中期まで庭園の跡が残されていたといわれています。
しかしその後、庭園跡は土塁を崩した土で埋められてしまったという。
そんなこんなで、現在この地は土塁の一部が残るのみで、ただの原っぱになっていました。
室町時代に華々しい活躍をした大内氏の面影はそこにはなく・・・ただただ無常感が漂う空間になっていました。
大内氏ですらこれなんだから、何も成果を上げてない私は後世に何も残らない・・・そんなことを思って沈んでしまったひと時でした(笑)
そんなこんなで、参拝終了。
ちなみに、御朱印は今八幡宮の社務所で頂けます。
今八幡宮の御朱印|山口総鎮守|国重文の楼拝殿造|八幡隊屯所跡|(山口県山口市)
所在地山口県山口市上宇野令828−1祭 神・応神天皇・仲哀天皇・神功皇后・玉依姫命・宇治皇子由 緒創建年は不詳。しかし1278~1287年、大内氏4代当主・大内弘成の娘に『今八幡殿』という名が見える...
御朱印情報
●御朱印の種類
・八坂神社の御朱印
●御朱印の受付場所
・今八幡宮の社務所
※今八幡宮は八坂神社から徒歩5分です。
●御朱印の受付時間
・9:00~17:00
●御朱印の料金
・300円
●期間限定・特別御朱印
・なし
●オリジナル御朱印帳
・なし
・2009年3月21日 参拝
・2015年9月5日 再訪
・2022年7月 更新
・八坂神社の御朱印
●御朱印の受付場所
・今八幡宮の社務所
※今八幡宮は八坂神社から徒歩5分です。
●御朱印の受付時間
・9:00~17:00
●御朱印の料金
・300円
●期間限定・特別御朱印
・なし
●オリジナル御朱印帳
・なし
・2009年3月21日 参拝
・2015年9月5日 再訪
・2022年7月 更新
参拝情報とアクセス
●開門時間
・境内自由
●拝観料
・無料
●最寄りの駅
・JR上山口駅から徒歩15分
・JR上山口駅から車で4分
●最寄りのバス停
・山口市コミュニティバス(大内ルート)
八坂神社前 バス停から徒歩すぐ
※山口市コミュニティバス(大内ルート)の路線図・時刻表はこちら。
●最寄りのIC
・中国自動車道
山口ICから車で10分
・中国自動車道
小郡ICから車で15分
●駐車場
・無料の専用駐車場あり(20台)
・境内自由
●拝観料
・無料
●最寄りの駅
・JR上山口駅から徒歩15分
・JR上山口駅から車で4分
●最寄りのバス停
・山口市コミュニティバス(大内ルート)
八坂神社前 バス停から徒歩すぐ
※山口市コミュニティバス(大内ルート)の路線図・時刻表はこちら。
●最寄りのIC
・中国自動車道
山口ICから車で10分
・中国自動車道
小郡ICから車で15分
●駐車場
・無料の専用駐車場あり(20台)