龍潭寺の御朱印情報~滋賀県彦根市古沢町1104~

住 所滋賀県彦根市古沢町1104
宗 派臨済宗妙心寺派
札 所近江湖東二十七名刹霊場 第2番
びわ湖百八霊場 第55番
井伊家ゆかりのふく福めぐり 第9番
由 緒734年、行基が遠江国に開基したのが始まりのお寺です。1385年、後醍醐天皇の第三皇子・宗良親王が中興し、寺号を龍潭寺としました。1600年、井伊直政が佐和山城主となったのを機に遠江国から佐和山麓に移建開山。1617年、諸堂が完成した後は、近江国随一の禅刹となり10余りの末寺を有する巨刹となりました。さらに全国有数の禅宗大学寮として発展したという。特に園頭科は日本の造園専門学の発祥とされ、このお寺で学んだ僧達が全国の禅寺の庭園を手がけたらしい。1688~1704年頃からは、達磨さんにあやかるだるま寺として人々の信仰を集めました。ちなみに龍潭寺と書いてりょうたんじと読みます。
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井伊家の菩提寺 ならびに 石田三成ゆかりの地
ならびに 通称・だるま寺

●名付けて龍潭寺兄弟!

龍潭寺といえば浜松の龍潭寺が有名ですが、彦根にも龍潭寺があるのです。この2つのお寺は全く別のお寺というわけではなく、彦根の龍潭寺は井伊直政が佐和山城へ転封すると共に浜松の龍潭寺から分寺して創建したお寺なんです。って事で、浜松の龍潭寺と彦根は龍潭寺は兄弟みたいなものでしょうか。

●山門・・・1735年建立 四脚門

●方丈・・・1617年建立
彦根にある数少ない方丈建築の1つ。

●方丈内には佐和山城の襖が!鐘が!
●方丈の襖(桜の図)・・・桃山時代作

方丈内には井伊家ならびに石田三成の居城・佐和山城にあったといわれる襖がありました。桃山時代作とのことなので、三成さんもきっと開けたであろうこの襖。この襖がいつ頃このお寺にやってきたのかはわかりませんが、もしかしたら井伊直政さんも開けたかも知れません。って事で、私も・・・と思ったら、手を触れないよう願いますって書いてありました。そりゃそうだよな。ちなみにお寺の方の許可を得て撮影。

●方丈の龍潭晩鐘・・・この鐘は佐和山城にあった陣鐘とのことです。 初代・昊天和尚が第2代彦根城主・井伊直孝より拝領したものらしいです。ちなみに龍潭寺は佐和山城のふもとにあります。そんなこんなで、佐和山城と関係の深いお寺なんですなぁ。
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通称・庭の寺!
方丈南庭・ふだらくの庭

●方丈南庭・ふだらくの庭

●ふだらくの庭・・・江戸時代初期作庭 枯山水庭園
このお寺を開基した昊天宗建が作庭したお庭とのことです。

お寺めぐりをしているとよく補陀洛(ふだらく)という言葉をよく目にしますが、補陀洛とは観音さんが住むという八角形の山のことです。って事で、このお庭は観音さんが住む補陀洛山を表現したお庭のようです。中央の島が補陀洛山で、そこに立っている1番背の高い石が観音さんのようです。中央の島の右には舟石が着岸してます。これは仏様の世界への渡し舟とのことです。白砂は大海、杉垣は水平線。などなどお庭には48個の石があり、それぞれに意味があるようです・・・お庭観賞は奥が深い。
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通称・庭の寺!
書院東庭・鶴亀蓬莱庭園

●書院東庭・鶴亀蓬莱庭園

●鶴亀蓬莱庭園・・・江戸時代初期作庭 池泉鑑賞式庭園
昊天宗建と小堀遠州が作庭したお庭とのことです。

お寺めぐりをしているとよく小堀遠州という名前を目にしますが、小堀遠州とは安土桃山時代~江戸時代前期にかけて活躍した作庭家です。このお庭は佐和山を借景にした池泉鑑賞式庭園で、仏教世界の世界地図を表現しているそうです・・・お庭観賞は奥が深い。

●日本の造園専門学の発祥!
龍潭寺には禅宗の大学寮が併設されていたらしく、その中に造園を学ぶ園頭科(えんずか)というの科があったんだって。そしてそこで学んだ僧達が全国の禅寺の庭園を手がけたらしいです。その為、日本の造園専門学の発祥とされてます。このお寺にはその生徒が実習として作成した庭も残ってるんだと!・・・見事に見逃して帰りましたが。あと小堀遠州や井伊直弼などが茶を楽しんだ茶室・飄々庵もあったんだって・・・こちらも見逃して帰りました。なにやってんだ。
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通称・だるま寺

●ドラクエ的にダルマが現れてビビる!

方丈内には巨大なダルマさんがおられました。どうやら通称・だるま寺としても有名なお寺のようです。毎年4月1~2日に行われるだるま祭りでは、大小約3000個のダルマさんがズラリと並ぶという。
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石田三成ゆかりのお寺!・・・なのか?

●由緒には一言も書いてないけれど・・・

由緒には一言も石田三成さんのことを書いてないけれど、境内には三成像、そして方丈内には三成さんに関する写真が大量にありました。このお寺は三成さんが城主を務めた佐和山城のふもとにあることもあり、三成さんと全く関係のないお寺とも思えません。きっと三成さんも足を運んだお寺なんでしょう・・・と勝手に推測。そんなこんなで、三成さんの手紙やら頭蓋骨やら刀などの写真を拝観。

●石田三成とは
石田三成とは安土桃山時代に活躍した武将&大名で、佐和山城の城主だった人です。 ドラマや映画などで豊臣秀吉とセットで登場する人で、秀吉の側近として活躍しました。 堺奉行・博多奉行・朝鮮総奉行・五奉行・京都奉行など様々な肩書きを持つ奉行マニア。 主に行政担当として豊臣政権を支えました。とはいえ賤ヶ岳の戦いでは先駆け衆として一番槍の功名をあげるなど、戦で数々の戦果をあげてます。秀吉の死後も豊臣政権を支えてきましたが徳川家康と対立・・・そして関ヶ原の戦いが始まりました。西軍・三成は毛利輝元を総大将として、徳川家康率いる東軍と戦いましたが敗北・・・。戦いに敗れた三成は各地を転々と逃れましたが、あえなく捕縛・・・。そして罪人として大阪・堺を引き回され、京都・六条河原で処刑されました。辞世の句は『筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり』。首は三条河原に晒された後、京都・大徳寺の三玄院に葬られました。

襖絵は彦根市指定の重要文化財
とその前に・・・

●籠が・・・突き抜けてるぅぅ!!!!!
ちょっと笑ってしまいました。

●襖絵・・・江戸時代作 蕉門十哲の1人・森川許六作

●森川許六とは
江戸時代前期~中期に活躍した彦根藩士の俳人。蕉門十哲の1人。蕉門十哲とは松尾芭蕉の弟子の中で特に優れた高弟10人のこと。許六は槍術・剣術・馬術・書道・絵画・俳諧の6芸に通じていたことにより、芭蕉からの文字を与えられました。狩野安信から画を学び、画法を芭蕉に伝授したという。芭蕉は、絵画に関して許六を師と仰いだらしい。

その他の見所

●大久保忠隣・幽居之跡
大久保忠隣とは戦国時代~江戸時代初期に活躍した武将で相模・小田原藩の初代藩主。幼少期から徳川家康に従えた徳川家臣です。姉川の戦い・三方ヶ原の戦い・小牧・長久手の戦い・小田原征伐などで活躍。家康の伊賀越えにも同行しました。しかし嫡男・大久保忠常の死後、意気消沈。政務を欠席するなどして家康の反感を買う。その後、いろいろあって本多正信・正純父子と対立。1614年の大久保長安事件後、豊臣秀頼との内通を疑われるなどして突然改易されました。そして彦根藩・井伊直孝の預かりとなりこの地に幽閉され生涯を終えました・・・。

●瓦土塀
瓦をミルフィーユ状に重ねて造った土塀です。耐久性・排水性に優れており、昔の人の知恵がテンコ盛りとなった塀です。瓦土塀は愛知・熱田神宮の信長塀が有名です。同じような瓦土塀でも博多塀のようなデザイン性に富んだ瓦土塀もあります。どちらかというと、このお寺の瓦土塀は博多塀に近くデザイン性の高い瓦土塀のように見えます。

せっかくなので信長塀と博多塀

●博多塀・・・戦火による焼け石&焼け瓦などを塗り込めた塀で、豊臣秀吉が進めた博多町割(戦災復興)の際に生まれた土塀です。ナイスリサイクルです!

●信長塀・・・1560年、熱田神宮で織田信長が桶狭間の戦いの戦勝祈願をしました。そして見事、戦に勝ったのでそのお礼として塀を奉納しました。それがこの塀です。兵庫・西宮神社の大練塀、京都・三十三間堂の太閤塀と共に日本三大土塀の1つです。

御朱印

御朱印は拝観受付で頂きました。

龍潭寺の地図

 

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