西教寺(明智光秀の菩提寺)の御朱印~滋賀県大津市坂本5丁目13−1~

住 所滋賀県大津市坂本5丁目13−1
宗 派天台真盛宗 総本山
札 所近江湖西二十七名刹霊場 第11番
びわ湖百八霊場 第11番
神仏霊場巡拝の道 第148番
聖徳太子霊跡 第31番
真盛上人二十五霊場 第1番
由 緒創建年は不詳ですが、聖徳太子が創建したとのことです。 1486年、中興の祖・真盛上人が入寺して以降、天台念仏と戒律の道場として栄えました。1571年、織田信長による比叡山焼き討ちで焼失。比叡山焼き討ちの後、この地の領主となった明智光秀が復興しました。光秀は戦死した部下の供養のため、西教寺に供養米を寄進しました。その寄進状が現存しています。西教寺は、天台宗の中にあって念仏と戒律を重視する独自の道を歩んでました。近世には他の天台系寺院同様、日光輪王寺の支配下にありました。近代に入って宗派独立の動きが強まり、1878年から天台宗真盛派を名乗るようになりました。1941年には国策によって天台宗・天台宗寺門派・天台宗真盛派の3派は合同しましたが、1946年に再び分離し、天台宗真盛派は天台真盛宗として独立しました。
HP西教寺: –天台真盛宗総本山-
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西教寺とは?

●ザックリと簡単に西教寺とは

●日本天台三総本山の1つ
・天台宗総本山・比叡山延暦寺
・天台寺門宗総本山・三井寺(園城寺)
・天台真盛宗総本山・西教寺

●明智光秀が復興した
・1571年、織田信長による比叡山焼き討ちで焼失。 比叡山焼き討ちの後、明智光秀は近江国を与えられます。光秀は比叡山の麓・坂本の地に坂本城を築き、西教寺を復興しました。

●明智光秀の寄進状が現存する
・光秀は戦死した部下の供養のため、西教寺に供養米を寄進しました。

●明智光秀の菩提寺
・明智光秀夫妻と一族のお墓があります。

●総門
・総門は坂本城の遺構。

●客殿
・客殿は伏見城の遺構。

●平安時代作の丈六・阿弥陀如来坐像
・本堂には国重文の丈六・阿弥陀如来坐像を安置。

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総門から鐘楼まで

●総門

●総門
・1572~1586年建立
・1984年修築
・明智光秀の居城・坂本城の城門を移築

1571年の比叡山焼き討ちで、光秀は実行部隊として武功を挙げました。 その功績が認められ、信長から近江国を与えられます。 そして光秀は坂本城の築城を開始し、1572年に完成しました。

坂本城の遺構はほとんど残ってないので、相当貴重な門です。


総門の屋根瓦には大窪山の文字がありました。

西教寺は、聖徳太子が慧慈・慧聰のために創建したお寺です。618年に大窪山の号を賜り、669年に西教寺の号を下賜されました。

ということで、もともとは大窪山という山号だったのですね。


●勅使門

●勅使門
・瓦葺 切り妻造の四脚門
・建立年は確認できてません

参道の突き当りにあります。全く華のない地味な門でした。そこが逆に良いですなぁ。


●鐘楼

●鐘楼
・1831年建立
・大津市指定有形文化財
・瓦葺 袴腰付き 入母屋造
・梵鐘は平安時代鋳造で国重文

梵鐘は、もともとは坂本城の陣鐘で、明智光秀が寄進したものです。総門に続き、貴重な坂本城の遺構です。


鐘楼の蟇股には猿の彫刻が施されてます。
このお寺は護猿で有名なお寺なので、境内は猿だらけです。

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本堂

●本堂

・1739年建立 国重文
・瓦葺 総欅造の入母屋造
・紀州徳川家が寄進


●本尊・阿弥陀如来坐像

~画像は拝観チケットより~

●阿弥陀如来坐像
・平安時代末期作 国重文
・定朝様式
・像高 約280cm
・寄木造

比叡山焼き討ちで焼失した旧本尊の代わりに、甲賀郡(現・滋賀県甲賀市)の浄福寺から移されたものといいます。

ちょっとスマートな定朝様式の丈六仏。お寺の方から平安仏だということを聞いてビックリ。一見、江戸期以降の仏像さんかと思うくらい状態のいい仏さんでした。そんなこんなで、必殺・単眼鏡で仏像観賞。ドアップで見るとさらに状態の良さがわかります。それにしても、ここまで綺麗に残るものか・・・ちょっと疑わしいのでお寺の方に聞いてみると、金箔は後補のものだとわかりました。納得納得。螺髪と白毫の粒が小さいのが印象的でした。


●身代わりの手白猿

~画像はパンフレットより~

本堂内には、鉦を叩こうとする猿の像が安置されてました。
猿といえば、このお寺の近くに鎮座する日吉大社を思い浮かべます。どうやら坂本一帯の寺社では猿は神の使いとされていて、日吉大社の神猿(まさる)に対し、西教寺は護猿(まもりざる)と呼ばれているそうです。


1493年、坂本で一揆が起こった際、真盛上人が一揆の首謀者だと疑われました。そして僧兵が西教寺に攻め入りました。しかし境内に人影はなく、ただ鉦の音だけが本堂から聞こえてきました。それを聞いた僧兵が本堂に駆け込むと、そこには手が白い1匹のが上人の身代わりになって鉦を叩いていたといいます。 日吉大社の使者である猿までもが上人の教えを受けて念仏を唱えている・・・そのことにビビった僧兵はその場を立ち去りました。

そんなこんなで、西教寺ではお寺を護る猿として信仰されてるようです。


●五猿(護猿)

●五猿(護猿)
・御座る(客ござる・商売繁盛)
・護猿(ご縁・縁結び)
・福ござる(幸せを呼ぶ)
・守ざる(身・家財を守る)
・御申(良い事を申し上げ、良い事を行う)

御座る・護猿・福ござる・守ざる・御申・・・ちょっと無理やり感がありますが、五猿(ご縁)を結んで帰ろうと思います。

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客殿

●客殿
●客殿
・1598年建立 国重文
・こけら葺 入母屋造
・大谷吉継の母達が寄進
・伏見城の御殿を移築



拝観料は500円です。
大きな書院造でした。
内部では狩野永徳作の襖絵を拝観できます。
その他、上座の間や仏像さんや明智光秀資料室も拝観できました。

客殿内は鶴の間・猿猴の間・厳選の間・花鳥の間・上座の間に分かれており、それぞれガラス越しに拝観できます。ガラスが反射しまくり~のでよく見えませんが。よく見えなくてもスゴい物だとわかる古オーラに感動したひと時でした。


~画像はパンフレットより~

●上座の間
伏見城の御殿を移築したという事なので、しかも上座の間ということなので、秀吉さんがここに座っていた可能性が高い・・・と勝手に思ってワクワクしてました。

説明板の写真を撮り忘れた為、記憶を呼び戻そうと必死ですが、床の間が逆手になっているとか・・・そんなことが書いてあったような気がします。間違ってたらゴメンなさい。(ザ・適当)


●客殿庭園

・江戸時代初期作庭
・小堀遠州が作庭

廊下から観る観賞庭園です。裏山の急傾斜を利用し丸刈り・角刈り・小刈りを駆使した庭園です。中央の池は琵琶湖を表現してるそうです。


●書院庭園

・明治時代初期作庭
・穴太式庭園

坂本一帯のお庭造りで活躍した穴太衆が作ったお庭らしいです。穴太式庭園は坂本一帯でよく見られるんだと。


●二十五菩薩

●二十五菩薩
・1584年作
・近江栗田郡の富田民部進が、幼くして亡くなった息女・花清妙蓮童女のために極楽浄土を願って作った仏さん

阿弥陀如来を中心に、不動・天部など計27体の石仏が並んでいます。もともとは屋外におられましたが、破損が著しいため、現在は書院の廊下に安置されてます。



天台三総本山のうち、延暦寺や園城寺が密教色が濃いのに、西教寺は本尊が阿弥陀如来だったり二十五菩薩がいたり、念仏を重視するなど、浄土宗の要素が強いです。

どんな音楽を奏でてるのでしょう。この方々にお会いできると思うと、死ぬのもそんなに怖くないです・・・と勝手に極楽に行けると思ってる私。地獄はいやーーー。


●明智光秀資料室

※室内は撮影禁止

●明智光秀資料室
明智光秀直筆の供養米の寄進状明智光秀と妻・熙子の木像明智左馬助の湖水渡りの鞍などが拝観できました。


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明智光秀と明智一族の墓

●明智光秀の菩提寺です

1571年、比叡山焼き討ちで近江国の大半の寺院が焼失しました。西教寺も全山焼失しました。その後、再興に尽力したのが明智光秀。光秀は坂本城を築城し、城主として坂本一帯の復興に当たりました。その際、西教寺の大本坊(庫裡)を造築。刻名入りの棟木が現存してるそうです。また1574年に仮本堂が完成し、現在の本尊・阿弥陀如来像をお迎えしました。それ以来、西教寺と光秀は深い関係になりました。


●明智光秀と明智一族の墓

1573年、光秀が本願寺光佐を討った際、戦死者18名の菩提を弔う為、供養米を寄進しました。また早逝した正室・明智煕子の供養もこのお寺でされ、お墓が建立されました。



1582年、山崎の戦いに敗れて非業の最期をとげた際、光秀は明智一族と共にこの寺に葬られたと言われてます。


●光秀の正室・煕子の墓

煕子は光秀の正室で、細川ガラシャの母としても有名です。
煕子は1576年に亡くなりました。光秀が自害する6年前のことです。

当時、光秀は石山本願寺の戦いなど激しい戦が続いており、過労で倒れてました。その後、光秀は回復しますが、夫・光秀の看病に疲れたのでしょうか、今度は煕子が倒れてしまいました。そしてそのまま帰らぬ人となりました。。

当時は妻が先に亡くなっても主人は葬儀に参列しないという風習があったらしいのですが、光秀は妻・煕子の葬儀に参列しました。この出来事は、西教寺に現存する古文書に記されてるそうです。

煕子に対する愛が伝わってくる逸話ですなぁ。なんか涙出てきた。逆臣で悪いイメージが先行する光秀ですが、めっちゃ人間味があって良い人ですやん。


●墓地

明智光秀と明智一族の墓の裏はお墓の山になってました。おぞましい数の墓石群でした。


●戦国武将に仕えた人達の墓

その他、境内には様々な人のお墓がありました。

・富田民部進の息女のお墓
・長谷川佐兵衛藤広のお墓
・長岡監物一族のお墓
・比良太郎兵衛のお墓
・山中山城守橘長俊のお墓
・前田菊子のお墓



●それにしても、どこが本当の光秀のお墓なんだい?
光秀の首塚やお墓は各地に点在している為、どれが本当のものなのかは現時点ではわかりません。ちなみに胴塚は1ヶ所のみです。

●本経寺(明智藪と胴塚)の参拝記
小栗栖の竹藪で光秀が落ち武者狩りに遭った場所です。

本経寺(明智藪)の御首題情報~京都府京都市伏見区小栗栖小阪町5~
住 所京都府京都市伏見区小栗栖小阪町5宗 派日蓮本宗由 緒1506年、要法寺22世・日法が日蓮本宗本山・要法寺の末寺として建立したお寺です。1658年、要法寺22世・日祐が小栗栖檀林を開檀しました。171...



●谷性寺(明智光秀の首塚)の参拝記
光秀の首が葬られたお寺です。

谷性寺(明智光秀の首塚)の御朱印情報~京都府亀岡市宮前町猪倉土山39~
住 所京都府亀岡市宮前町猪倉土山39宗 派真言宗大覚寺派札 所近畿楽寿観音霊場 第25番宝の道七福神霊場 第1番(恵比寿大神)由 緒平安時代に創建。1575年、明智光秀が丹波を領地にして以来、こ...


明智光秀とは?

●ザックリと簡単に明智光秀とは

1516年?
1528年?
1540年?
明智城城主・明智光綱の長男として誕生。
1556年斉藤義龍によって明智城が落城。浪人ののち越前の朝倉義景に仕える。
1571年比叡山焼き討ちの武功で近江国(滋賀県)5万石を与えられる。
1572年近江国に坂本城を築城する。
1578年丹波国に亀山城を築城する。
1579年丹波国と丹後国を平定。信長から感状をもらう。丹波国29万石を与えられる。光秀は丹波の重要な地として福知山に城下町を作る。
1582年本能寺の変で信長・信忠父子を自害に追い込む。 羽柴秀吉との山崎の戦いに敗れた後、敗走中に落ち武者狩りに遭い自害。


明智光秀は戦国時代に活躍した武将です。

生年月日は不詳で青年期など若い時代の歴史は明確には分かっていませんが、美濃国(現・岐阜県) に、明智城城主・明智光綱の長男として生まれたようです。

当初は斉藤道三に仕えてましたが、道三が滅ぼされた後は浪人となり、各地を転々としたみたいです。

その後、1566〜1568年頃に織田信長に仕えます。史実上、明確に光秀が活躍するのはこの頃からです。光秀が40歳の頃です。

そして1568年に足利義昭の上洛に加わりました。1570年の金ヶ崎の戦いでは撤退時の防戦に成功して織田信長を救いました。

1571年の比叡山焼き討ちで、光秀は実行部隊として武功を挙げました。その功績が認められ、信長から近江国を与えられます。そして坂本城の築城を開始し、1572年に完成しました。

その後も、高屋城の戦い・長篠の戦い・越前一向一揆と、馬車馬のごとく働きます。そして丹波国攻略の命がくだり、丹波国の平定、さらに丹後国も平定します。信長は光秀の働きを絶賛しました。

1579年、丹波国29万石を与えられます。光秀は丹波の重要な地として福知山に城下町を作ります。

1582年、光秀は羽柴秀吉の毛利討伐の支援を命じられました。 早朝、光秀は中国地方に向けて出陣しますが、突然転進。信長が宿にしていた本能寺を襲います。いわゆる本能寺の変です。光秀軍10000人 vs 信長軍100人。 信長は本能寺に火を放ち自害しました。

信長自害の知らせを聞いた秀吉は、ただちに毛利軍と和睦。 そして光秀軍を征伐する為、京に向かいます。いわゆる中国大返し。

そして光秀軍と秀吉軍が衝突します。いわゆる山崎の戦いです。 しかし光秀に味方する者は少なく、準備不足もあり、敗戦。光秀は坂本を目指して敗走しますが、落ち武者狩りに遭い自害しました。本能寺の変からわずか11日後のことでした。

山崎の戦いの翌日、光秀の首は秀吉軍に届き、京都の本能寺で晒された後、粟田口に埋葬されました。とありますが、光秀の首塚は各地に点在している為、どれが本当の首塚なのかは現時点ではわかりません。ちなみに胴塚は1ヶ所のみです。

宗祖大師殿

●宗祖大師殿


●宗祖大師殿・唐門
・1917年建立
・国の登録有形文化財
・檜皮葺 前後軒唐破風付の入母屋造

堂々とした立派な唐門でした。
それにしても寺紋の鳥が可愛いです。頭頂部が。



そんなこんなで、しばし彫刻観賞。

・・・



・・・・・



・・・・・・・・ん!?



こ、これは・・・・・・





麒麟がくるぅぅぅ!!!


いや、麒麟がきたぁぁぁ!!!


唐門には麒麟の彫刻がありました。
御存知、2020年の大河ドラマは麒麟がくるです。 これは偶然ですか???


●宗祖大師殿・水屋

●宗祖大師殿・水屋
・1917年頃建立
・国の登録有形文化財

六角屋根のどこかしら中華風の建物でした。


●宗祖大師殿
●宗祖大師殿
・1894年建立
・瓦葺 唐破風付き入母屋造

1878年、真盛宗別派独立に伴い、本堂より1段低い場所に建立されました。 宗祖・真盛上人の木像が安置されてます。

塔頭

●参道脇には7つの塔頭がありました


左 → 禅智坊
右 → 徳乗坊

左 → 聞証坊
右 → 禅明坊

左 → 實成坊
右 → 蓮心坊

●實成坊の表門
・1830~1867年建立
・国の登録有形文化財


ちなみに禅林坊の写真は撮り忘れました。

護猿の屋根瓦

●境内はお猿さんだらけ!


境内の屋根瓦にはたくさんの護猿がいました。






まだまだたくさんの護猿がいます。
全部撮るとキリがないのでこのへんで!

護猿探しするのもひとつの楽しみかも知れませんねぇ。

御朱印情報

●御朱印は3種

・不断念仏
・慈攝大師
・御詠歌

オリジナル御朱印帳があります。

●御朱印授与場所
全て大本坊の売店で頂けます。
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西教寺の地図

 

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