比叡山延暦寺(東塔)の御朱印~滋賀県大津市坂本本町4220~

住 所滋賀県大津市坂本本町4220
宗 派天台宗 総本山
札 所 新西国三十三ヶ所 第18番
西国薬師四十九霊場 第49番
神仏霊場巡拝の道 第150番
播州薬師霊場 特別札所
東海四十九薬師霊場 特別札所
西山国師遺跡霊場 客番(文殊楼)など
由 緒788年、最澄が創建した一乗止観院というお寺が始まりで、当時は比叡山寺と呼ばれてました。737~806年、桓武天皇が最澄に帰依し、天皇などの援助を受け、京都の鬼門を護る国家鎮護の道場として次第に栄えるようになりました。803年、唐に渡った最澄は、天台教学・戒律・密教・禅を学んで帰国します。806年、日本天台宗の開宗が正式に許可されました。822年、最澄が死去。最澄の死後7日目、比叡山に大乗戒壇設立の勅許が下されました。比叡山に大乗戒壇を設立する事は、最澄の生涯をかけて果たせなかった念願でした。824年、開創時の年号をとり延暦寺という寺号を賜ります。大乗戒壇設立後の比叡山は、融通念仏宗の開祖・良忍、浄土宗の開祖・法然、臨済宗の開祖・栄西、曹洞宗の開祖・道元、 浄土真宗の開祖・親鸞、日蓮宗の開祖・日蓮などなど、日本仏教史に残る数々の名僧を輩出。平安時代後期、強大な権力で院政を行った白河法皇ですら『賀茂川の水、双六の賽、山法師(延暦寺の僧兵)。これぞ我が心にかなわぬもの』と言ったほど、 延暦寺の武装化が激しくなっていきます。自らの意に沿わぬことが起こると、僧兵たちは神輿をかついで強訴し、時の権力者に対し自らの言い分を通していきました。そんなこんなで、時の権力者を無視できる一種の独立国のような状態になりました。1571年、織田信長は武装解除するよう再三通達をしましたが断固拒否されたので、延暦寺を取り囲み焼き討ちにします。堂塔はことごとく炎上し、多くの僧兵や僧侶を殺害。織田信長の死後、豊臣秀吉や徳川家や天海(慈眼大師)らによって各僧坊が再建されたました。1994年、ユネスコの世界遺産に登録されました。
HP天台宗総本山 比叡山延暦寺 [Hieizan Enryakuji]
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比叡山延暦寺とは

●ザックリと簡単に比叡山延暦寺とは

●日本天台宗の総本山
・東寺の真言宗を東密と呼ぶのに対して、比叡山延暦寺の密教を台密と呼びます。

●比叡山全域が境内地
・標高848mの比叡山全域が境内で、山内には約150の寺院・堂塔が点在しています。これら全てを総称して延暦寺と呼びます。

●仏教の総合大学
・日本仏教史に残る数々の名僧を輩出しました。

●厳しい修行
・四種三昧・十二年籠山行・千日回峯行など厳しい修行で有名なお寺です。

●僧兵
・最盛期には数万人規模の僧兵を抱える過激派の寺院でした。

●比叡山焼き討ち
・1571年、織田信長による比叡山焼き討ちで、僧侶・女・子供問わず虐殺されました。

●世界遺産
・1994年、ユネスコの世界遺産に登録されました。

●山内は東塔・西塔・横川の3エリアに分かれてます

●東塔
・延暦寺発祥の地
・根本中堂を中心に、文殊楼・大講堂・阿弥陀堂・法華総持院東塔・戒壇院・無動寺・灌頂堂・八部院堂・大黒堂・萬拝堂・国宝殿などがあります。

●西塔
・転法輪堂・常行堂・法華堂・浄土院・相輪橖・瑠璃堂・黒谷青龍寺などがあります。

●横川
・横川中堂・根本如法塔・四季講堂(元三大師堂)・恵心堂・安楽律院などがあります。

●日本仏教史に残る数々の名僧を輩出しました
境内の参道には名僧オールスターがズラリ!比叡山延暦寺は、こんなにもたくさんのカリスマを生み出しました。


●伝教大師・最澄・・・日本天台宗の開祖

●法然上人・・・浄土宗の開祖

●親鸞聖人・・・浄土真宗の開祖

●栄西禅師・・・臨済宗の開祖


●道元禅師・・・曹洞宗の開祖

●日蓮聖人・・・日蓮宗の開祖


●一遍上人・・・時宗の開祖

●空也上人・・・踊念仏や六斎念仏の開祖

●良忍上人・・・融通念仏宗の開祖

●真盛上人・・・天台真盛宗の開祖


●代表的な修行
●四種三昧
・比叡山延暦寺で最も古い修行です。
①常坐三昧・・・食事と用便以外の全ての時間を座禅に捧げる。
②常行三昧・・・念仏を唱えながら本尊阿弥陀仏の周りを歩き続ける。
③半行半坐三昧・・・歩いたり座ったりしながら法華経の読誦や礼拝をする。
④非行非坐三昧・・・日々の生活そのものが修行と考える。

●十二年籠山行
・山に籠って修行をします。
・籠山行に入る前に好相行をします。好相行とは、仏の姿が見えるまで休まず仏の名を唱えること。その後、戒を受け、12年間の籠山行に入ります。籠山行の間、僧侶達は、伝教大師に食事を献じ、俗世間から離れて座禅・勉学・境内の清掃などに勤めます。

●千日回峰行
・比叡山延暦寺の中でも最も厳しい修行です。
・比叡山の山道を1000日間礼拝しながら歩き続けます。
①1~3年目は1日30kmを100日間。
②4~5年目は1日30kmを200日間。
③6年目は1日60kmを100日間。
④7年目は1日60kmを200日間。
その間、9日間の断食・断水・不眠・不臥があります。

満行すると北嶺大行満大阿闍梨と呼ばれるそうです。 ちなみに1200年の歴史の中で、満行した人は51人しかいないという・・・おそるべし。

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アクセス

●主なアクセス方法は7つ
①マイカー・バイク
②比叡山ドライブバス
③シャトルバス
④叡山ケーブル
⑤叡山ロープウェイ
⑥坂本ケーブル
⑦登山


●そんなこんなで、坂本ケーブルで比叡山延暦寺を目指すことに

●坂本ケーブル・坂本駅
往復切符は1260円。はりきり過ぎて早朝に到着。始発だったこともあり、人はあまりいませんでした。


そんなこんなで、乗車。
坂本ケーブルは全長2km以上あります。ケーブルカーとしては日本一の長さなんですって!

急な山をグイグイ登っていきます。


●坂本ケーブル・延暦寺駅
延暦寺駅に到着。
乗車時間はたった11分!
景色を眺める余裕もなく、あっちゅう間に到着です。

そんな事より、いきなりの銀世界にクリビツです!
こんな厳しい環境で修行をしてるなんて・・・恐れ入ります。


そんなこんなで、雪が残る山道をテクテク歩くこと約10分。


東塔エリア入口に到着!
ちなみに本日は元旦です。
そうです、初詣です。

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文殊楼

●文殊楼

●文殊楼
・1668年再建 国重文
・銅板葺 入母屋造

延暦寺の山門にあたる建物です。坂本ケーブルで到着した場合、ルート的にちょっと離れた位置に建ってますが、まずはここから参拝するのが正式な参拝ルートです。



楼上に上がる事ができました。楼上に上がる階段は、ハシゴ並みに急勾配で超デンジャー。これはもう楼門あるあるです。

楼上には文殊菩薩さんが安置されてました。
ちなみに楼上内は撮影禁止です。


●文殊楼の御朱印

文殊楼の御朱印です。
文殊楼の納経所で頂きました。

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根本中堂

●根本中堂

●根本中堂
・1642年再建 国宝
・徳川家光が再建
・銅板葺 入母屋造
・総欅造
・堂内中央の厨子に最澄作の秘仏・薬師如来立像を安置。

延暦寺の中心的なお堂です。



木造建造物では東大寺・大仏殿、金剛峯寺・不動堂に次いで3番目に大きい建物です。

根本中堂の左右から廻廊が伸びて、お堂前を囲う造りになってました。廻廊で囲われた部分はお庭になってました。

ちなみに撮影禁止です。



堂内は薄暗く、とても厳かでした。空気感は格別なものがありました。そして、内陣は外陣より3mも低いという!外陣から内陣を見下ろすお堂って、初めて出会いました!そんなこんなで、外陣で正座をして、数メートル下の内陣で行われているお坊さんの読経ライブを見つめてました。まるでコンサート会場2階席にいるみたいでした。

早朝ということもあり、堂内は参拝者がまばらで、とても落ち着いた時間を過ごせました。こんなに心が静まる元旦って過去にあったかなぁ。



●根本中堂・廻廊
・1642年再建 国重文

これより先は撮影禁止です。


●根本中堂の御朱印

根本中堂の御朱印の御朱印です。
御朱印は根本中堂で頂きました。

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大講堂

●大講堂

●大講堂
・1634年建立 国重文
・1964年移築
・銅板葺 入母屋造

もともとは日吉東照宮の讃仏堂だったそうです。



堂内には日蓮・道元・栄西・円珍・法然・親鸞・良忍・真盛・一遍の像が安置されてました。

1つの空間に各宗祖が一同に並ぶ光景はなかなかの興奮度でした。これは延暦寺だからこそ成せる大技です。



●木鼻と蟇股
今年初の彫刻観賞。



●開運の鐘(世界平和の鐘)
そういえば、今年初のゴーンをしてきました。
ちなみに鐘突きは1回50円です。


●大講堂の御朱印

大講堂の御朱印です。
御朱印は大講堂内の納経所で頂きました。

戒壇院

●戒壇院

●戒壇院
・1678年再建 国重文

ちなみに戒壇とは僧になる資格を得るための場です。


比叡山に大乗戒壇を設立する事は、最澄の生涯をかけて果たせなかった念願だったそうです。

当時は南都仏教が仏教界を支配していたので、南都仏教の反対が強くて戒壇を設立できなかったみたいです。結局、最澄が生きてる間に戒壇を設けることはできませんでした。しかし最澄の弟子・光定の尽力により、最澄の死後7日目に大乗戒壇設立の勅許が下されました。

そんなこんなで、この戒壇院は延暦寺の中で最も重要なお堂とされてます。

阿弥陀堂と法華総持院東塔

●阿弥陀堂と法華総持院東塔

●阿弥陀堂
・1937年建立
・銅板葺 裳階付き宝形造

●法華総持院東塔
・1980年建立

通常の多宝塔と異なり上層部は円形ではなく方形という。
下層には胎蔵界大日如来、上層には仏舎利と法華経1000部が安置されてます。



左 → 阿弥陀堂
右 → 法華総持院東塔



階段がツルっツルで超デンジャーでした。おばちゃんの無事を祈りつつニコニコしながら撮影。


●阿弥陀堂の御朱印

阿弥陀堂の御朱印です。
御朱印は阿弥陀堂の納経所で頂きました。


●法華総持院東塔の御朱印

法華総持院東塔の御朱印です。
御朱印は阿弥陀堂の納経所で頂きました。

大黒堂

●大黒堂

●大黒堂
・日本の大黒天信仰 発祥の地

なんと、日本で初めて大黒様がお祀りされたのがこの大黒堂という!


御本尊は三面出世大黒天。
三面六臂の大黒天なのですが鎌やら槍やら剣を持っており、だいぶ戦闘力高めです。やる気満々の表情も怖い。宝珠と如意棒と宝鍵まで持ってる。これはもう無敵!

どうやら大黒天と毘沙門天と弁財天が合体した像とのことです。
いやはや初めて拝見するスタイルの大黒天さんに感動もひとしお。新年早々、珍しいものを拝見できて有難き幸せ。


●大黒堂の御朱印

大黒堂の御朱印です。
御朱印は大黒堂の納経所で頂きました。

萬拝堂

●萬拝堂

堂内には日本と世界の神さま仏さまが祀られてました。そんなこんなで、世界中の神仏が大集結。小さなお堂ですが、スケールが壮大です。御本尊・千手観音を一周する巨大な数珠が見所です。

お堂の隣には休憩所と売店があります。そのせいか、やたらと人が集まるお堂でした。



ちなみにダブルで大吉!
新年早々、良い事ありますわ。今年はロケットスタートかましてます。


●萬拝堂の御朱印

萬拝堂の御朱印です。
御朱印は萬拝堂内の納経所で頂きました。

比叡山焼き討ち

●ザックリと簡単に比叡山焼き討ちまでの経緯

①平安時代、比叡山延暦寺の僧侶が円仁派と円珍派に分かれて激しく対立。

②争いの中で僧侶は武装をし僧兵と呼ばれる軍事力を持つ。

③平安時代後期、武装化が激しくなり、自らの意に沿わぬことが起こると、神輿をかついで強訴し、時の権力者に対し自らの言い分を押し通していく。強大な権力で院政を行った白河法皇ですら『賀茂川の水、双六の賽、山法師(延暦寺の僧兵)。これぞ我が心にかなわぬもの』と言ったほどに。

④やがて比叡山延暦寺は、時の権力者を無視できる一種の独立国のような状態になる。

⑤戦国時代には数万人規模の僧兵を抱える。この頃には比叡山延暦寺は無法国家のような状態になり、飲酒・女遊びをする僧侶がはびこる。

⑥1571年、織田信長は武装解除するよう再三通達をするが比叡山延暦寺サイドは断固拒否。

⑦織田信長は延暦寺を取り囲み焼き討ちにする。堂塔はことごとく炎上。僧侶・女・子供問わず殺害される。


ザックリとこんな流れです。

比叡山サイドから見ると、なんて酷いことを・・・
信長サイドから見ると、お仕置きしたったで的な。

ちなみに比叡山焼き討ちに参加したメンバーは、織田信長・明智光秀・木下秀吉・柴田勝家・池田恒興・佐久間信盛・丹羽長秀などの織田オールスター軍団。

特に実行部隊として活躍したのが明智光秀です。噂によれば、光秀はイケイケだったとか。

慈眼大師天海大僧正住坊跡

●慈眼大師天海大僧正住坊跡

坂本ケーブル・延暦寺駅と東塔エリアの間に南光坊天海の住坊跡がありました。 天海とは桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した天台宗の僧で、比叡山中興の祖といわれるお方です。徳川家康の側近として、江戸幕府初期の朝廷政策・宗教政策に深く関与しました。

その天海が、73歳から4年間住んでいたといわれる住坊跡です。


●南光坊天海 = 明智光秀!?


天海を有名にしたのが、南光坊天海 = 明智光秀説。歴史好きの人は誰もが知っている有名な説です。

死んだはずの光秀は実は生きていて、徳川家康の側近として江戸幕府を裏で支えていたんじゃないかとか・・・ワクワクしますね。

説の根拠
①徳川家康を祀る日光東照宮に、光秀の家紋である桔梗紋が多く見られる。

②日光に天海が名付けた明智平と呼ばれる地がある。

③徳川忠の秀と徳川家の光は、光秀の名から。徳川家の綱は光秀の父・明智光から。徳川家の継は光秀の祖父・明智光に由来するとか。

④比叡山に光秀の名で寄進された石灯籠が残っている。光秀が亡くなったのは1582年。石灯籠が寄進されたのは1615年。

⑤光秀の家老・斎藤利三の娘・於福(後の春日局)が3代将軍・徳川家光の乳母になり、天海に会った時に『お久しぶりです』と声をかけたと記された書物がある。

⑥童謡・かごめかごめの歌詞に隠された天海の暗号が、光秀 = 天海を示すという説。

⑦天海が亡くなった際、光秀と親交のあった妙心寺、光秀の菩提寺である西教寺、光秀が連歌会を開いた愛宕威徳院から香典が届けられたのに対し、天海の出身地といわれる会津の龍興寺、黒川稲荷堂からは香典が届けられなかった。

⑧喜多院には天海の遺品とされる鉄砲が現存。ちなみに光秀は鉄砲の名手。

⑨家康と天海が初めて対面した時、あたかも旧知の間柄のように人を遠ざけて親しく語り合ったという。家康が初対面の人物と人払いしてまで談合することは前例のないことなので、側近の者達も『一体、これはどうしたことであろう』と目を見張ったという書物がある。

⑩比叡山の叡山文庫には、俗名が光秀という僧の記録がある。


などなど、たくさんの天海 = 光秀説があります。
逆に異を唱える説もたくさんあります(笑)

本能寺の変の裏で、実は光秀と家康は手を組んでおり、光秀は死んだと見せかけて天海と名前を変えて、家康と天下取りをした・・・私は浪漫派なので、天海 = 光秀を推したいです。こうやって何が真実なのかわからないままワクワクするのが楽しいです。

国宝殿

●国宝殿



~画像はポストカードより~

●薬師如来坐像
・平安時代作 国重文

●阿弥陀如来立像
・鎌倉時代作 国重文

●吉祥天立像
・平安時代作 国重文

●大黒天立像
・1301年作 国重文


~画像はパンフレットより~

●維摩居士坐像
・平安時代作 国重文

●五大明王像
・鎌倉時代作 国重文


その他
・天台法華宗年分縁起 伝教大師筆(平安時代 国宝)
・光定戒牒 嵯峨天皇筆(823年 国宝)
・千手観音菩薩立像(平安時代作 国重文)
・多聞天立像・広目天立像(平安時代作 国重文)
・慈恵大師坐像(1256年作 国重文)
・不動明王・二童子立像(鎌倉時代作 国重文)

などなど、多数のお宝が拝観できました。

坂本ケーブル 延暦寺駅

●坂本ケーブル 延暦寺駅


延暦寺駅近くの小屋で気になるものを発見しました。 箱の中をのぞいてみると、なんと鳥のエサ・・・はて!?

すると見知らぬオジさんが近づいてきて、あれこれ談笑。

そんなこんなで、見知らぬオジさんにご指導してもらい鳥のエサやりに挑戦。

チュチュチュチュと言いながら鳥が来るのをひたすら待つ・・・。


チュチュチュチュ・・・・・





キターーーー!
ちょっと感動!いい思い出ができました!
見知らぬオジさん、その節はどうも有難うございました!

御朱印情報


御朱印は各お堂で頂けます。
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比叡山延暦寺(東塔)の地図

 

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