本能寺の御朱印情報~京都府京都市中京区下本能寺前町522~

都道府県別
住 所京都府京都市中京区下本能寺前町522
宗 派法華宗本門流 大本山
由 緒1415年に創建したお寺です。創建当初の寺号は本応寺でしたが、1433年に本能寺に改称しました。戦国時代、織田信長はこのお寺を上洛中の宿所としていました。1582年、織田信長は明智光秀の軍勢に包囲され自害する事件が起きます。いわゆる本能寺の変です。1587年、豊臣秀吉の命で現在地に移転。江戸時代、92の末寺を有する大寺院だったといいます。その後、1788年に大火。1864年の禁門の変で発生したどんどん焼けにより堂宇を焼失しました。本能寺のの字は、右側の2つののような字に替えられています。これは本能寺が幾度となく焼き討ちや火災に遭っているためヒ(火)去るという意味で作られた字らしいです。
HP法華宗大本山 本能寺
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境内の見所

●法華宗本門流の大本山です


本能寺は1415年に創建された法華宗本門流の大本山です。もともとは現在の寺町御池ではなく、堀川四条近くの油小路通蛸薬師にありました。最盛期には末寺92ヶ寺を有する大寺院だったようです。本能寺の変で有名なお寺で、境内には本能寺の変で自害した織田信長の廟所があります。


●表門

●表門
・1871年、恭明院に建立
・1879年、現在地に移築
・瓦葺 薬医門
・国の登録有形文化財


●本堂

●本堂
・1928年建立
・国の登録有形文化財


●塔頭

境内には7つの塔頭が横1列に並んでました。

・恵昇院・蓮承院・定性院・高俊院
・本行院・源妙院・龍雲院


●火が去る

本能寺は幾度となく焼き討ちや火災に遭っているため、の文字がヒ(火)去るみたいな字になってます。


そんな火を嫌うお寺でありますが、喫煙者には優しいお寺でした。そんなこんなで、廟から信長さんの視線が気になるところですが、お気持ちに応えてイップク。


ちなみに本能寺は幾度となく焼き討ちや火災を繰り返しており、現在地に落ち着くまで移転・再建を繰り返しております。

1415年日隆聖人が油小路高辻に本応寺を建立。
1418年妙本寺の教徒が破却。
1429年小袖屋宗句の援助で内野(西陣)に移転・再建。
1433年如意王丸の願主により六角大宮に移転・再建。
1536年天文法乱で焼失。
1545年日承聖人が四条西洞院に移転・再建。
1582年本能寺の変で焼失。
1592年豊臣秀吉の命により日衍聖人が移転・再建。
1788年天明の大火で焼失。
1840年日恩聖人が再建。
1864年禁門の変で焼失。
1928年現・本堂を再建。
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本能寺の変

●日本史上最大のクーデター・本能寺の変で有名なお寺

本能寺の変とは簡単にいうと、天下統一を目前にしていた最高権力者・織田信長が家臣・明智光秀に襲撃された事件です。

1582年、本能寺に泊まっていた織田信長は、明智光秀の軍勢によって完全に包囲されてしまいました。光秀軍13000人。対する信長軍は150人ほど。兵力の差は絶望的なものでした。自分の死を悟った信長は本能寺に火を放ち自害しました。


●なぜ信長は本能寺に泊まっていたのか?
当時、本能寺は東西140m、南北270mという広大な敷地に周囲を城郭なみに堀や高い塀で囲う、防御力を兼ねたお寺だったようです。そういった防御性の高さから、京に上洛した際の宿泊所としていました。

また当時、本能寺は近畿から種子島まで末寺を有しており、種子島に伝わった鉄砲を入手し易かったそうです。そういった事から、鉄砲欲しさに近寄ってくる大名が多かったようで、信長もその1人でした。そして、本能寺8世・日承上人が天皇の親戚(伏見宮家出身)ということもあり、信長は日承上人に帰依して天皇家と繋がりを持とうとしてました。

そうした事から、信長は本能寺と深い関係を持っていたようです。


●事件当日
当時、織田家は天下統一の総仕上げとして、信長の家臣団は全国で転戦していました。
柴田勝家は、越後の大名・上杉家の討伐。
滝川一益は、関東地方の大名・後北条家の討伐。
羽柴秀吉は、中国地方の大名・毛利家の討伐。

そして明智光秀は、羽柴秀吉の毛利攻めの援軍として出陣する予定でした。しかし当日、中国地方へと向かう途中、本能寺に続く道と中国地方に続く道の分岐点で立ち止まります。そしてあの名ゼリフ敵は本能寺にあり!と言い放ち、本能寺に向かったわけです。

ということで、各地に散らばった織田軍勢のせいで、信長の手元に軍勢がおらず・・・。また防御性の高さからの油断か、わずかな軍勢しか従えてなかった信長・・・完全に寝首をかかれた状態になりました。そしてあの名ゼリフ是非に及ばず!と言い放ち、本能寺に火をかけた後、奥の部屋で自害したということです。


●しかし自害したはずの信長の遺体が見つからない・・・
事件後、光秀は信長の遺体探しに翻弄します。しかし信長の遺体は見つからない・・・。これは光秀にとっては一大事なのです。信長の遺体がないと、本当に信長を討ったのかどうか信じてもらえないからです。結局、信長の遺体は見つかりませんでした・・・。このことが光秀の今後に大きく影響してしまいます。本能寺の変から11日後、信長の敵討ちとして中国地方から戻ってきた羽柴秀吉軍と光秀軍の戦い、いわゆる山崎の戦いが始まります。信長を討った証拠がない光秀に協力してくれる武将は少なく、光秀はもろくも敗戦。敗走途中、小栗栖の竹藪で何者かに槍で刺され、その後自害・・・。光秀の夢は終わりました。これが三日天下と呼ばれる由縁です。

この年は、敵は本能寺にあり!是非に及ばず!三日天下が流行語大賞にノミネートされたとか、されなかったとか。とにかく日本史上に残る名ゼリフ&流行語(?)の当たり年でありました。

●日本史上最大のミステリー
主君・信長を裏切った光秀の動機は・・・?
信長の遺体は・・・?

現在もまだ真実が解明できてないため、本能寺の変は日本史上最大のミステリーとして歴史ファンの心をクチュクチュと刺激し続けています。


●主君・信長を裏切った光秀の動機は・・・?
①光秀の単独犯説・・・怨恨説・野望説など
②徳川家康が黒幕説
③羽柴秀吉が黒幕説
④安国寺恵瓊が黒幕説
⑤イエズス会が黒幕説
⑥朝廷・公家が黒幕説


●信長の遺体は・・・?
①誰かが持ち出した説
・シンプルに本能寺の僧侶が逃げるふりして持ち出した。

・本能寺は完全に包囲されてたから多分無理っぽいけど家臣が持ち出した。

・最後まで信長に付き従っていた黒人の弥助が持ち出した。目立つから無理か。


②青玉上人が埋葬した説
・本能寺の変の際、信長と親しかった青玉上人が本能寺に駆けつけ、遺体を荼毘に付して遺骨をお寺に持ち帰り埋葬した。寺町阿弥陀寺に信長のお墓があります。


③爆死説
当時、本能寺は鉄砲で使用する火薬を貯蔵しており、その火薬が爆発して信長は木っ端微塵になったとか。


などなど、いろんな説があります。調べてみると、どの説もありそうで面白いです。生きてる間に解明できるかなぁ。真実を知りたいけど、知りたくないような!


本能寺跡
ちなみに、現在の本能寺は本能寺の変の後に移転・再建されたお寺です。実際に本能寺の変があった場所は、ここから直線距離で約600m。旧本能寺小学校跡(中京区油小路通蛸薬師山田町)にありました。現在は特別養護老人ホームが建っており、石碑があるのみです。

●本能寺跡の場所
京都府京都市中京区元本能寺南町
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信長公廟

●信長公廟

●信長公廟・拝殿
・1928年頃建立
・国の登録有形文化財


本能寺の変の後、織田信長の三男・信孝は信長の遺骨探しをし、本能寺の変から1ヶ月後の7月3日に早くも本能寺を信長の墓所と定めました。結局、信長の遺骨が見つからなかった為、お墓には信長の太刀が納められています。

毎年6月2日に信長の命日を偲ぶ信長公忌が行われてるそうです。


本能寺の変 戦没者 合祀墓
信長公廟の隣には、本能寺の変の戦没者を祀る合祀墓がありました。


森蘭丸の名前を発見。

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その他の見所

●火伏せのイチョウ


●火伏せのイチョウ
・樹齢 約400年
・樹高18.4m 幹周3.9m
・京都市指定保存樹

1788年の大火で町中が猛火に襲われた時、なんとこのイチョウから水が噴き出て人々を救ったという!

スプリンクラー機能を備えたとんでもない木です。


●大賓殿宝物館

●大賓殿宝物館
本能寺の変の前夜に信長に危険を知らせた香炉・三足の蛙、信長が寄進した麒麟の香炉、信長が所蔵していた建盞天目茶碗御本尊・御曼荼羅、豪商・茶屋家寄進の大明万暦年製景徳鎮窯大瓶、狩野直信作の六曲一双 唐人物図扇面貼交屏風などが拝観できます。

●拝観時間
午前9:00〜午後5:00
(入館は午後4:30まで)

●休館日
年末年始

●料金
・一般 500円
・中・高校生 300円
・小学生 250円
・修学旅行生・身障者 200円
 ※30名以上は団体割引あり

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織田信長とは

●ザックリと簡単に織田信長とは

1534年尾張(愛知県)で誕生。
1547年吉良大浜の戦いで初陣。
1548年美濃の大名・斎藤道三の娘・濃姫と結婚。
1551年父・織田信秀が死去。信長が家督を継ぐ。
1552年萱津の戦い
織田家の跡継争い。信長の勝利。
1556年稲生の戦い
信長の弟・信行が謀反を起こす。
信長軍700 vs 弟・信行軍7000。信長の勝利。
1559年尾張を統一する。
1560年桶狭間の戦い
信長軍 vs 戦国屈指の大大名・今川義元。信長の勝利。
1562年清州同盟
三河の徳川家康と同盟を結ぶ。
1567年稲葉山城の合戦
信長軍 vs 美濃の斎藤龍興。
信長の勝利。美濃を支配下に置く。岐阜城を本拠地とする。
1568年足利義昭を将軍に奉じて上洛する。
1570年金ヶ崎の戦い
織田・徳川軍 vs 浅井・朝倉軍。
浅井長政は信長と同盟関係にありましたが、朝倉との関係が深かったので、信長を裏切って朝倉を救う。織田・徳川軍は撤退。

姉川の戦い
織田・徳川軍 vs 浅井・朝倉軍。
織田・徳川軍の勝利。

信長軍 vs 石山本願寺の一向宗。各地で一向一揆が起こる。(約11年続く。)
1571年伊勢長島一向一揆
信長軍 vs 一向宗。信長軍敗退。

比叡山焼き討ち
僧侶・女・子供問わず殲滅する。
1573年最大の敵、武田信玄が死去。

一乗谷城の戦い
信長軍 vs 越前の大名・朝倉義景。
信長の勝利。

小谷城の戦い
信長軍 vs 近江の大名・浅井長政。
信長の勝利。

足利義昭を京から追放
室町幕府滅亡。
1574年伊勢での一向一揆を平定。

長篠の合戦
織田信長・徳川家康軍 vs 武田勝頼。
織田・徳川軍の勝利。

越前での一向一揆を平定。
1575年 土佐の大名・長宗我部元親と同盟を結ぶ。
1576年根来・雑賀での一向一揆を平定。

安土城が完成

嫡男・信忠に家督を譲る。
1580年石山本願寺の顕如が織田信長に降伏。顕如が石山本願寺を明け渡す。
1581年阿波の大名・三好康長と同盟を組む。よって長宗我部との同盟がなくなる。
1582年天目山の合戦
信長軍 vs 武田軍。
信長の勝利。
武田勝頼は自害し、甲斐・信濃を支配下に置く。

天正伊賀の乱
信長軍 vs 伊賀の忍。信長の勝利。
伊賀を支配下に置く。

本能寺の変
家臣の明智光秀が謀反を起こし自害。



織田信長の代表的な功績

軍事編
●天下布武
天下布武とは武力で天下を統一するという意味です。 そんなこんなで、天下布武というスローガンのもと、武力で天下統一を目指しました。

●戦で鉄砲を使用
長篠の戦いで日本で初めて戦で鉄砲を使いました。必殺・三段打ちで当時最強と言われた武田騎馬軍に勝利。

※しかし近年の研究で、実際に三段撃ちを使っていたかどうかは疑わしい・・・とのことです。

●実力主義
身分関係なく優秀な者がいれば武士・庶民に関係なく家臣として採用しました。

●兵農分離
兵農分離とは文字通り武士と農民の身分を分けることです。

兵農分離が行われる以前は、武士と農民の区別がなく、戦の時は農民が兵士として集められてました。そうなると農業がおろそかになり収穫時期には人手不足で大変。戦中に収穫時期がくると、兵士として借り出された農民は農作業のために領地に戻ることもありました。そんなこんなで、兵農分離を行うことで農民は農業に専念。武将は訓練に専念。農作物と軍事力の安定した確保を実現しました。


経済編
●楽市・楽座
座を撤廃し、特別な特権を持っていた商人たちを排除しました。そのことにより誰でも自由に商売ができるようにしました。そんなこんなで、城下町を活性化させ経済力をつけました。

●関所の廃止
当時関所を通過する人は高額な通行料を払わなければいけませんでした。そのことが商人達の負担になっていましたが、関所を廃止することによって商人達は自由に行き来ができるようになり経済が発展しました。

●インフラ整備
道幅を広くしたり橋を架けるなど道路整備に力を入れ、商人達の通行や物資の運搬をスムーズにいくようにしました。


天下布武のスローガンからか織田信長といえば軍事力のイメージが強いですが、こういった政治力も抜群に優れた人でした。政治力と軍事力を兼ね備えた信長さん。織田家の経済力と軍事力は他の国に比べて圧倒的に群を抜いてました。

明智光秀とは

●ザックリと簡単に明智光秀とは

1516年?
1528年?
1540年?
明智城城主・明智光綱の長男として誕生。
1556年斉藤義龍によって明智城が落城。浪人ののち越前の朝倉義景に仕える。
1571年比叡山焼き討ちの武功で近江国(滋賀県)5万石を与えられる。
1572年近江国に坂本城を築城する。
1578年丹波国に亀山城を築城する。
1579年丹波国と丹後国を平定。信長から感状をもらう。丹波国29万石を与えらる。光秀は丹波の重要な地として福知山に城下町を作る。
1582年本能寺の変で信長・信忠父子を自害に追い込む。 羽柴秀吉との山崎の戦いに敗れた後、敗走中に落ち武者狩りに遭い自害。


明智光秀は戦国時代に活躍した武将です。

生年月日は不詳で青年期など若い時代の歴史は明確には分かっていませんが、美濃国(現・岐阜県) に、明智城城主・明智光綱の長男として生まれたようです。

当初は斉藤道三に仕えてましたが、道三が滅ぼされた後は浪人となり、各地を転々としたみたいです。

その後、1566〜1568年頃に織田信長に仕えます。史実上、明確に光秀が活躍するのはこの頃からです。光秀が40歳の頃です。

そして1568年に足利義昭の上洛に加わりました。1570年の金ヶ崎の戦いでは撤退時の防戦に成功して織田信長を救いました。

1571年の比叡山焼き討ちで、光秀は実行部隊として武功を挙げました。その功績が認められ、信長から近江国を与えられます。そして坂本城の築城を開始し、1572年に完成しました。

その後も、高屋城の戦い・長篠の戦い・越前一向一揆と、馬車馬のごとく働きます。そして丹波国攻略の命がくだり、丹波国の平定、さらに丹後国も平定します。信長は光秀の働きを絶賛しました。

1579年、丹波国29万石を与えられます。光秀は丹波の重要な地として福知山に城下町を作ります。

1582年、光秀は羽柴秀吉の毛利討伐の支援を命じられました。 早朝、光秀は中国地方に向けて出陣しますが、突然転進。信長が宿にしていた本能寺を襲います。いわゆる本能寺の変です。光秀軍10000人 vs 信長軍100人。 信長は本能寺に火を放ち自害しました。

信長自害の知らせを聞いた秀吉は、ただちに毛利軍と和睦。 そして光秀軍を征伐する為、京に向かいます。いわゆる中国大返し。

そして光秀軍と秀吉軍が衝突します。いわゆる山崎の戦いです。 しかし光秀に味方する者は少なく、準備不足もあり、敗戦。光秀は坂本を目指して敗走しますが、落ち武者狩りに遭い自害しました。本能寺の変からわずか11日後のことでした。

山崎の戦いの翌日、光秀の首は秀吉軍に届き、京都の本能寺で晒された後、粟田口に埋葬されました。とありますが、光秀の首塚は各地に点在している為、どれが本当の首塚なのかは現時点ではわかりません。ちなみに胴塚は1ヶ所のみです。

御朱印


御朱印は寺務所で頂きました。

オリジナル御朱印帳があります。

本能寺の地図

 

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