所在地 | 香川県坂出市西庄町1719 |
---|---|
祭 神 | 崇徳天皇 |
由 緒 | 1156年、保元の乱で敗れた崇徳上皇は讃岐国に流刑となりました。そんなこんなで、1164年に崩御するまでの9年間を讃岐国で過ごしたといわれています。崇徳上皇の死後、亡骸の処遇を巡って京からの返事を待つ間、遺体を八十場の泉に浸していたという。やがて上皇は火葬され、妙成就寺と並んで建てられた白峰宮に祀られました。それがこの神社の始まりといわれています。 |
三ツ鳥居と狛犬
●三ツ鳥居(三輪鳥居)
四国八十八ヶ所 第79番札所・天皇寺の隣りに鎮座しています白峰宮に到着。
白峰宮と書いてしろみねぐうと読みます。
白峰といえば崇徳天皇。 もはや白峰は崇徳天皇の代名詞となっております。
それにしても・・・
京都の白峯神宮は峯。
四国霊場・第81番札所の白峯寺も峯。
崇徳天皇陵である白峯陵も峯。
しかし、この白峰宮は峰。
白峯寺と白峯陵がある白峰山も峰。
峰と峯・・・どちらでもいいことなんだけど、ブログを書くときにどっちがどうだったかこんがらがってイヤになっちゃう・・・(笑)
そんなこんなで、参拝開始。
まず最初に登場するのは三ツ鳥居!
別名・三輪鳥居と呼ばれる珍鳥居です。
3つの明神鳥居が合体する三ツ鳥居は全国にたくさんありますが、こちらの三ツ鳥居は両サイドのミニ鳥居が内側を向いているのが特徴的です!
しかも柱の半分が石造だという特異っぷり。
このタイプの三ツ鳥居は初めて拝見したのでちょっとテンションが高めな私です!
ちなみに扁額には崇徳天皇と書かれていました。
そうです!
この神社は菅原道真さん・平将門さんとともに日本三大怨霊の1人であります崇徳天皇を祀る神社なのです。
実はこの地は崇徳天皇が亡くなった地なのです!
ということで、あんまりテンション高くウキウキモードで参拝すると崇徳さんに怒られちゃう・・・かも。
崇徳さん、怖いから。。。
●参道
そんなこんなで、気持ちを入れ替えて鳥居をくぐり参道へ。
境内には私たち以外の参拝者はおらず、どこか寂しさを感じる空気が流れていました。
とはいえ、この白峰宮のすぐ隣には四国八十八ヶ所・第79番札所の天皇寺があるので、タイミング次第ではお遍路さんで賑わうかも知れません。
●狛犬
●狛犬
・1851年奉納
・出雲丹後型
そんなこんなで、参道を歩くと姿勢のいい狛犬ちゃんがお出迎えしてくれました。
このフォルムと丸い台座は・・・出雲丹後型!
でも本場・出雲で見る出雲丹後型とは尻尾の形状がちょっと違うような気がします。
四国八十八ヶ所 第79番札所・天皇寺の隣りに鎮座しています白峰宮に到着。
白峰宮と書いてしろみねぐうと読みます。
白峰といえば崇徳天皇。 もはや白峰は崇徳天皇の代名詞となっております。
それにしても・・・
京都の白峯神宮は峯。
四国霊場・第81番札所の白峯寺も峯。
崇徳天皇陵である白峯陵も峯。
しかし、この白峰宮は峰。
白峯寺と白峯陵がある白峰山も峰。
峰と峯・・・どちらでもいいことなんだけど、ブログを書くときにどっちがどうだったかこんがらがってイヤになっちゃう・・・(笑)
そんなこんなで、参拝開始。
まず最初に登場するのは三ツ鳥居!
別名・三輪鳥居と呼ばれる珍鳥居です。
3つの明神鳥居が合体する三ツ鳥居は全国にたくさんありますが、こちらの三ツ鳥居は両サイドのミニ鳥居が内側を向いているのが特徴的です!
しかも柱の半分が石造だという特異っぷり。
このタイプの三ツ鳥居は初めて拝見したのでちょっとテンションが高めな私です!
ちなみに扁額には崇徳天皇と書かれていました。
そうです!
この神社は菅原道真さん・平将門さんとともに日本三大怨霊の1人であります崇徳天皇を祀る神社なのです。
実はこの地は崇徳天皇が亡くなった地なのです!
ということで、あんまりテンション高くウキウキモードで参拝すると崇徳さんに怒られちゃう・・・かも。
崇徳さん、怖いから。。。
●参道
そんなこんなで、気持ちを入れ替えて鳥居をくぐり参道へ。
境内には私たち以外の参拝者はおらず、どこか寂しさを感じる空気が流れていました。
とはいえ、この白峰宮のすぐ隣には四国八十八ヶ所・第79番札所の天皇寺があるので、タイミング次第ではお遍路さんで賑わうかも知れません。
●狛犬
●狛犬
・1851年奉納
・出雲丹後型
そんなこんなで、参道を歩くと姿勢のいい狛犬ちゃんがお出迎えしてくれました。
このフォルムと丸い台座は・・・出雲丹後型!
でも本場・出雲で見る出雲丹後型とは尻尾の形状がちょっと違うような気がします。
拝殿と本殿
●拝殿
●拝殿
・建立年不明
・瓦葺 千鳥・軒唐破風付き入母屋造
・さぬき十五社 第9番
・別名 明ノ宮または天皇さん
そんなこんなで、拝殿にて崇徳さんに御挨拶。
●本殿
●本殿
・建立年不明
・銅板葺 千鳥破風付き入母屋造
・祭神 崇徳天皇
ちなみに摩尼珠院は弘法大師が創建したお寺といわれ、崇徳上皇もよく訪れたという。
そんなこんなで、天皇ゆかりのお寺ということで天皇寺と称するようになったんだって。
●拝殿
・建立年不明
・瓦葺 千鳥・軒唐破風付き入母屋造
・さぬき十五社 第9番
・別名 明ノ宮または天皇さん
そんなこんなで、拝殿にて崇徳さんに御挨拶。
●本殿
●本殿
・建立年不明
・銅板葺 千鳥破風付き入母屋造
・祭神 崇徳天皇
●白峰宮の由緒
1156年、保元の乱で敗れた崇徳上皇は讃岐国に流罪となりました。
そんなこんなで、1164年に崩御するまでの9年間を讃岐国で過ごしたといわれています。
崇徳上皇の死後、亡骸の処遇を巡って京からの返事を待つ間、遺体を八十場の泉に浸していたという。
死後21日間過ぎた後も、上皇の顔はまるで生きてるかのようだったといわれています。
やがて上皇は火葬され、妙成就寺と並んで建てられた白峰宮に祀られました。
それがこの神社の始まりといわれています。
その後、江戸時代には崇徳天皇社野沢井宮や崇徳天皇明の宮などと呼ばれ、隣接する妙成就寺摩尼珠院の別当になったそうです。
そして四国八十八ヶ所の79番札所になったそうです。
しかし明治時代。
神仏分離令により、妙成就寺摩尼珠院は廃寺。
その後、妙成就寺の筆頭末寺である高照院が妙成就寺の跡地に移転し、天皇寺として再興。
そして四国八十八ヶ所の札所を引き継いだそうです。
1156年、保元の乱で敗れた崇徳上皇は讃岐国に流罪となりました。
そんなこんなで、1164年に崩御するまでの9年間を讃岐国で過ごしたといわれています。
崇徳上皇の死後、亡骸の処遇を巡って京からの返事を待つ間、遺体を八十場の泉に浸していたという。
死後21日間過ぎた後も、上皇の顔はまるで生きてるかのようだったといわれています。
やがて上皇は火葬され、妙成就寺と並んで建てられた白峰宮に祀られました。
それがこの神社の始まりといわれています。
その後、江戸時代には崇徳天皇社野沢井宮や崇徳天皇明の宮などと呼ばれ、隣接する妙成就寺摩尼珠院の別当になったそうです。
そして四国八十八ヶ所の79番札所になったそうです。
しかし明治時代。
神仏分離令により、妙成就寺摩尼珠院は廃寺。
その後、妙成就寺の筆頭末寺である高照院が妙成就寺の跡地に移転し、天皇寺として再興。
そして四国八十八ヶ所の札所を引き継いだそうです。
ちなみに摩尼珠院は弘法大師が創建したお寺といわれ、崇徳上皇もよく訪れたという。
そんなこんなで、天皇ゆかりのお寺ということで天皇寺と称するようになったんだって。
崇徳天皇とは?
●ザックリと簡単に崇徳天皇とは?
ザックリと簡単に崇徳天皇とは第75代天皇のことです。
歴代天皇の中でトップクラスに不幸な生涯を過ごしたお方。
そして日本三大怨霊の1人として知られるお方です。
崇徳天皇は、第74代・鳥羽天皇の第一皇子。
当時、実権を握っていたのは鳥羽天皇ではなく祖父の白河法皇。
崇徳さんが3歳のとき、白河さんは鳥羽さんに譲位を迫り、崇徳さんを天皇にしました。
崇徳さんが天皇に即位したことで、本来なら鳥羽さんが院政を行うのが順当・・・しかし政治の実権は白河さんが握ったままで鳥羽さんは政治に関わることができませんでした。
そんなこんなで、絶対的な権力を持つ白河さんは元気いっぱいにワンマン政治を執り行いました。
そして鳥羽さんは何の権限もなく悶々とした日々を過ごすことに・・・。
しかし、それ以上に鳥羽さんにとってやるせないことがありました。
それは、崇徳さんの誕生についての噂です。
鳥羽さんの嫁・待賢門院と白河さんとの不倫でできた子供・・・それが崇徳さん!
つまり崇徳さんの父は祖父の白河さん・・・という噂が広まっていました。
どうやら白河さんはアッチの方も元気がよかったみたいです。
そんなこんなで、鳥羽さんは崇徳さんと白河さんのことが大嫌いで仕方ありませんでした。
嫁を爺ちゃんに寝取られた鳥羽さん・・・。
それでも絶対的な権力を持つ白河さんに逆らうことはできませんでした。
しかし白河さんが亡くなると、鳥羽さんは実権を握ることに!
そして今までの鬱憤を晴らすかのように逆襲に打ってでます。
大嫌いな崇徳さんを退位させ、わずか2歳の我が子・近衛天皇を即位させました。
しかし、近衛天皇は若くして急死・・・。
そして、もう1人の子・後白河天皇を即位させました。
その間、崇徳さんはといえば・・・無視されっぱなしの日々。
心中穏やかではありません。
しかし、鳥羽さんが亡くなると崇徳さんは動き出します。
後白河 vs 崇徳の権力争いが勃発!
いわゆる保元の乱が始まりました。
しかし勝ったのは後白河さん。
負けた崇徳さんは讃岐国(香川県)へ流罪となりました。
崇徳さんは流刑先の讃岐で、戦で亡くなった方々の供養をするため写経をする日々を送りました。
そして何百巻という写本ができあがりました。
そんなある日、崇徳さんは『どうかこの写経を京のお寺に納めてほしい』と朝廷に送りました。
しかし!
後白河さんは『この写経には呪いが込められているかも!』といって受け取らず、送り返してしまいました。
このことにはさすがの崇徳さんも激おこプンプン丸!
ブチ切れた崇徳さんは、自分の舌を噛み切って流れ出た血で『日本の大魔王となって天皇の座を引きずりおろしてやる!』と書きつづった誓文を海に沈めます。
それ以来、崇徳さんは髪も爪も切らず・・・その風貌は生きながら天狗になったと噂されるほどでした。
しかし1164年。
崇徳さんはお亡くなりになりました。
享年46歳。
生前、崇徳さんは『いつかは京に帰りたい・・・』と願っていましたが、願いは叶わず遺骨はそのまま四国の白峰山に埋葬されました。
※ちなみに画像は崇徳天皇陵がある白峯寺。
(2011年6月12日 参拝)
埋葬時、激しい風雨と雷鳴が轟き、そして棺桶から真っ赤な血が流れ出たという!
そして火葬の煙は都に向かってまっすぐにたなびいたという!
そうです、崇徳さんの怨霊伝説の始まりです!
そして崇徳さんの呪いが天皇家と京に襲いかかります。
延暦寺の強訴・安元の大火・鹿ケ谷の陰謀といった動乱が続き、さらに後白河天皇さんに近い人々が次々と死んでいきました。
あげく鎌倉幕府の誕生。
政治の実権が天皇から武士に移ってしまったのです。
以後、約700年にわたり武士による政権が続くことになりました。
時は流れて明治時代前夜。
政治の実権が天皇に戻る頃のお話し。
明治天皇は崇徳さんが眠る讃岐に使者を送り出し、白峯寺にある崇徳さんのお墓を参拝。
そして崇徳さんの御霊を輿に載せて京都にお迎えして祀りました。
それが現在、京都市上京区に鎮座する白峯神宮です。
生前、『いつかは京に帰りたい・・・』と願っていた崇徳さん・・・約700年ぶりに京に戻ってこれたという!
なんだか泣けますね。。。
崇徳さん、安らかにお鎮まりください。
※画像は京都・白峯神宮。
(2010年9月4日 参拝)
ザックリと簡単に崇徳天皇とは第75代天皇のことです。
歴代天皇の中でトップクラスに不幸な生涯を過ごしたお方。
そして日本三大怨霊の1人として知られるお方です。
崇徳天皇は、第74代・鳥羽天皇の第一皇子。
当時、実権を握っていたのは鳥羽天皇ではなく祖父の白河法皇。
崇徳さんが3歳のとき、白河さんは鳥羽さんに譲位を迫り、崇徳さんを天皇にしました。
崇徳さんが天皇に即位したことで、本来なら鳥羽さんが院政を行うのが順当・・・しかし政治の実権は白河さんが握ったままで鳥羽さんは政治に関わることができませんでした。
そんなこんなで、絶対的な権力を持つ白河さんは元気いっぱいにワンマン政治を執り行いました。
そして鳥羽さんは何の権限もなく悶々とした日々を過ごすことに・・・。
しかし、それ以上に鳥羽さんにとってやるせないことがありました。
それは、崇徳さんの誕生についての噂です。
鳥羽さんの嫁・待賢門院と白河さんとの不倫でできた子供・・・それが崇徳さん!
つまり崇徳さんの父は祖父の白河さん・・・という噂が広まっていました。
どうやら白河さんはアッチの方も元気がよかったみたいです。
そんなこんなで、鳥羽さんは崇徳さんと白河さんのことが大嫌いで仕方ありませんでした。
嫁を爺ちゃんに寝取られた鳥羽さん・・・。
それでも絶対的な権力を持つ白河さんに逆らうことはできませんでした。
しかし白河さんが亡くなると、鳥羽さんは実権を握ることに!
そして今までの鬱憤を晴らすかのように逆襲に打ってでます。
大嫌いな崇徳さんを退位させ、わずか2歳の我が子・近衛天皇を即位させました。
しかし、近衛天皇は若くして急死・・・。
そして、もう1人の子・後白河天皇を即位させました。
その間、崇徳さんはといえば・・・無視されっぱなしの日々。
心中穏やかではありません。
しかし、鳥羽さんが亡くなると崇徳さんは動き出します。
後白河 vs 崇徳の権力争いが勃発!
いわゆる保元の乱が始まりました。
しかし勝ったのは後白河さん。
負けた崇徳さんは讃岐国(香川県)へ流罪となりました。
崇徳さんは流刑先の讃岐で、戦で亡くなった方々の供養をするため写経をする日々を送りました。
そして何百巻という写本ができあがりました。
そんなある日、崇徳さんは『どうかこの写経を京のお寺に納めてほしい』と朝廷に送りました。
しかし!
後白河さんは『この写経には呪いが込められているかも!』といって受け取らず、送り返してしまいました。
このことにはさすがの崇徳さんも激おこプンプン丸!
ブチ切れた崇徳さんは、自分の舌を噛み切って流れ出た血で『日本の大魔王となって天皇の座を引きずりおろしてやる!』と書きつづった誓文を海に沈めます。
それ以来、崇徳さんは髪も爪も切らず・・・その風貌は生きながら天狗になったと噂されるほどでした。
しかし1164年。
崇徳さんはお亡くなりになりました。
享年46歳。
生前、崇徳さんは『いつかは京に帰りたい・・・』と願っていましたが、願いは叶わず遺骨はそのまま四国の白峰山に埋葬されました。
※ちなみに画像は崇徳天皇陵がある白峯寺。
(2011年6月12日 参拝)
埋葬時、激しい風雨と雷鳴が轟き、そして棺桶から真っ赤な血が流れ出たという!
そして火葬の煙は都に向かってまっすぐにたなびいたという!
そうです、崇徳さんの怨霊伝説の始まりです!
そして崇徳さんの呪いが天皇家と京に襲いかかります。
延暦寺の強訴・安元の大火・鹿ケ谷の陰謀といった動乱が続き、さらに後白河天皇さんに近い人々が次々と死んでいきました。
あげく鎌倉幕府の誕生。
政治の実権が天皇から武士に移ってしまったのです。
以後、約700年にわたり武士による政権が続くことになりました。
時は流れて明治時代前夜。
政治の実権が天皇に戻る頃のお話し。
明治天皇は崇徳さんが眠る讃岐に使者を送り出し、白峯寺にある崇徳さんのお墓を参拝。
そして崇徳さんの御霊を輿に載せて京都にお迎えして祀りました。
それが現在、京都市上京区に鎮座する白峯神宮です。
生前、『いつかは京に帰りたい・・・』と願っていた崇徳さん・・・約700年ぶりに京に戻ってこれたという!
なんだか泣けますね。。。
崇徳さん、安らかにお鎮まりください。
※画像は京都・白峯神宮。
(2010年9月4日 参拝)
その他の見どころ
●楠木
●楠木
・樹齢 約500年
・樹高 約24m
・幹周 約5.8m
・香川の保存木
境内には、御神木のクスノキがドーンとそびえ立っていました。
●境内社
・幸神社
・天満宮
●八十蘇場の清水
その他、境内から約200m離れた地に、崇徳上皇の遺体を浸していた八十蘇場の清水があるそうです!
見事に見逃して帰りましたよ!
●天皇寺
天皇寺は白峰宮の隣にあります。
●白峯陵
ちなみに崇徳天皇陵であります白峯陵は、四国八十八ヶ所・第81番札所の白峯寺にあります。
白峰宮から白峯寺へは車で約20分。
徒歩で2時間20分です。
いやはや、素敵な神社でした。
●楠木
・樹齢 約500年
・樹高 約24m
・幹周 約5.8m
・香川の保存木
境内には、御神木のクスノキがドーンとそびえ立っていました。
●境内社
・幸神社
・天満宮
●八十蘇場の清水
その他、境内から約200m離れた地に、崇徳上皇の遺体を浸していた八十蘇場の清水があるそうです!
見事に見逃して帰りましたよ!
●天皇寺
天皇寺は白峰宮の隣にあります。
●白峯陵
ちなみに崇徳天皇陵であります白峯陵は、四国八十八ヶ所・第81番札所の白峯寺にあります。
白峰宮から白峯寺へは車で約20分。
徒歩で2時間20分です。
いやはや、素敵な神社でした。
御朱印情報
●御朱印の種類
・白峰宮の御朱印
●御朱印の受付場所
・社務所(授与所)
・宮司さん宅
●御朱印の受付時間
・不明
●御朱印の料金
・300円
●期間限定・特別御朱印
・なし
●オリジナル御朱印帳
・なし
・2011年6月11日 参拝
・2021年7月 更新
・白峰宮の御朱印
●御朱印の受付場所
・社務所(授与所)
・宮司さん宅
●御朱印の受付時間
・不明
●御朱印の料金
・300円
●期間限定・特別御朱印
・なし
●オリジナル御朱印帳
・なし
・2011年6月11日 参拝
・2021年7月 更新
参拝情報とアクセス
●開門時間
・不明
●拝観料
・無料
●最寄りの駅
・JR八十場駅から車で3分
JR八十場駅から徒歩10分
・JR坂出駅から車で10分
JR坂出駅から徒歩35分
●最寄りのバス停
・地蔵前バス停 から徒歩17分
・江尻バス停 から徒歩17分
・坂江橋バス停 から徒歩19分
●駐車場
・無料の専用駐車場あり
・不明
●拝観料
・無料
●最寄りの駅
・JR八十場駅から車で3分
JR八十場駅から徒歩10分
・JR坂出駅から車で10分
JR坂出駅から徒歩35分
●最寄りのバス停
・地蔵前バス停 から徒歩17分
・江尻バス停 から徒歩17分
・坂江橋バス停 から徒歩19分
●駐車場
・無料の専用駐車場あり