引接寺の御朱印|日清講和会議ゆかりの地|朝鮮通信使ならびに李鴻章の宿泊所|小早川隆景の菩提寺|(山口県下関市)

所在地山口県下関市中之町11-9
宗 派浄土宗
由 緒もともとこのお寺は門司(北九州市)にあったといいます。それを1560年に忠誉一徳が亀山八幡宮の麓に移転させたそうです。1598年、小早川隆景の菩提を弔うため、藤堂高虎が現在地に移転し、広大な堂宇を建立して再興。そして小早川隆景の菩提寺としたそうです。以後、赤間関の有力町人や長府藩の庇護を受けて隆盛を極めたそうです。 江戸時代には朝鮮通信使の宿泊所として使われ、さらに1895年には日清講和条約のために来日した清国全権大使と李鴻章一行が宿泊したそうです。1945年、下関空襲で焼失しますが市重文の三門は焼失を免れたそうです。
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引接寺とは?

●境内入口

下関の人気観光スポット・唐戸市場から徒歩5分のところに位置する引接寺に到着。

引接寺と書いていんじょうじと読みます。

正式名称は関亀山 来迎院 引接寺というそうです。

●山号の由来
もともとこのお寺は門司(北九州市)にあったそうですが、1560年に下関・亀山八幡宮の麓に移転。

そんなこんなで、山号の関亀山は下亀山八幡宮が由来といわれています。


●院号と寺号の由来
このお寺さんは浄土宗です。
浄土教では人が亡くなると仏さまが迎えに来るといわれています。
このことを来迎といいます。

そして阿弥陀仏が極楽浄土へ導いてくれます。 このことを引接といいます。

1558年、忠誉一徳という僧がこの地を訪れた際、来迎の阿弥陀と引接の阿弥陀と発遺の釈迦の仏画を得たそうです。

そして、その仏画を安置するためのお堂を建立。

それが来迎院 引接寺という寺号の由来といわれています。
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引接寺と朝鮮通信使

●唐戸

唐戸という地名は、文字通り、との

つまり唐との玄関口という意味です。

江戸時代、唐戸にある引接寺は朝鮮通信使の宿泊所ならびに日清講和条約(下関条約)で来日した李鴻章の宿泊所になったお寺さんなんだって。

●朝鮮通信使とは?

江戸時代、鎖国政策をとっていた徳川幕府が唯一正式に外交関係を結んだ国がありました。

それが朝鮮王朝

そして朝鮮国王の国書を徳川将軍に届ける使節団のことを朝鮮通信使といいます。

朝鮮通信使の御一行は総勢300〜500人にのぼり、使節の中には官僚のほか学者文化人も含まれていたそうです。

そんなこんなで、朝鮮通信使は外交面だけでなく文化交流においても大きな役割を担っていたといわれています。

当時、この行列を見物した日本人は、あまりの豪華絢爛っぷりに熱狂したそうです。

江戸時代にはすでに韓流ブームが到来していたのですね。

その朝鮮通信使が最初に上陸した地が下関(赤間関)。

そして来日した朝鮮通信使が宿泊したのがこの引接寺阿弥陀寺(現・赤間神宮)なんだって。


朝鮮は儒学の先進国だったため、高い水準の文化を吸収するため、引接寺と阿弥陀寺には多くの藩士や文人が集まったといわれています。

当時、長州藩は船島(巌流島)から上関まで通信使を護衛する任務を担っていたそうです。
護衛にあたった船はなんと600隻以上!

さらに、1711年の来日の際には、長州藩主・毛利吉元自ら接待にあたったといわれています。

その際、朝鮮通信使が長門下之関御馳走一番(下関の御馳走が1番美味い)と賞賛したそうです。


ちなみに広島県福山市の鞆の浦にある対潮楼は、朝鮮通信使のための迎賓館だったといわれています。

そこでは日東第一形勝(朝鮮より東で一番美しい景勝地)と賞賛しています。

朝鮮通信使はめちゃくちゃ褒め上手だね!

ちなみに朝鮮通信使は1607〜1811年の間に12回来日してるんだって。


そんなこんなで、参拝開始。
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三門

●三門

●三門
・1769年建立
・瓦葺 切妻造 四脚門
・下関市指定有形文化財

まず最初に登場するのは山門ではなく三門

書き間違いかな?
と思ったら三門という名称で文化財登録されてましたので、問答無用で三門です。


三門とは空・無相・無作の三解脱門の略で、3つの出入り口がある門のことをいいます。

通常、三門は三間三戸もしくは五間三戸の楼門二重門になるのですが、この門は単層四脚門 + 脇門で三解脱門を成立させているという!

このように脇門がある門は各地にたくさんありますが、基本的に脇門は勝手口。
しかし、この脇門はメイン。

これは珍しいですね。


この三門は長府藩9代藩主・毛利匡満さんが寄進したものなんだって。

1945年の下関空襲で焼失を免れた貴重な古建築で、下関市の有形文化財に指定されています。


なんと三門の天井には龍の彫刻があるという!

しかも左甚五郎作というじゃない!


ご存知、左甚五郎さんは江戸時代初期に活躍した彫刻家。
日光東照宮の眠り猫など、全国各地に多数の名作を残したお方です。

しかし実在していたかは定かではなく、作品の製作時期も安土桃山~江戸後期の約300年にわたるため、名工の代名詞として左甚五郎という名が使われていたという説が定説になりつつあります。

簡単にいえば、左甚五郎さんは1人だけではないというわけなんですね。

ちなみに日光東照宮の東回廊潜門(眠り猫)は1636年建立。

引接寺の三門は1769年建立。

133年の差があります。

きっとこの龍は左甚五郎と呼ばれるほど腕のいい彫刻家が刻んだ作品なのでしょうね。

そんなことより、この三門には龍退治伝説が残っているそうです。

●引接寺の龍退治伝説

江戸時代末期、引接寺の前を通りかかった人が次々と襲われる事件が発生したという。

その犯人は、なんと三門の龍!

ということで、その龍は武士によって退治されたそうです。

完。


あまりに見事な龍だっため、生きてるように見えたのでしょうか?

実際に三門を見てみると胴体がスパッと斬られていましたよ!


飾りにはの彫刻がありました。

ちなみにの彫刻には火災除けの意味があります。

もしかしたら、下関空襲で焼失を免れたのはこの彫刻のおかげだったのかも知れませんね!
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本堂

●本堂

●本堂
・1996年建立
・瓦葺 寄棟造
・本尊 阿弥陀如来

どうやらこの本堂は日清講和条約締結100周年を記念して建立されたもののようです。

引接寺は日清講和条約のために来日した清国全権大使・李鴻章さんの宿所となったお寺なんだって。

ちなみに李鴻章と書いてり こうしょうと読むそうです。

そして講和条約とは戦争を終結させるための条約という意味です。
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日清講和条約とは?

●日清講和条約とは?

1895年3月20日、日清戦争で圧倒的な勝利をおさめた日本は、料亭・春帆楼清国と講和会議を行いました。

この会議には日本全権の伊藤博文や陸奥宗光、清国全権の李鴻章をはじめ両国の代表11名が出席しました。

しかし3月24日。
3回目の会議を終えた李鴻章が宿所の引接寺へ帰る途中、小山豊太郎という青年に銃で襲撃されてしまったという!

銃弾は李鴻章の左目の下に命中。。
李鴻章は命からがら引接寺に逃げ帰りますが、この事件により交渉は中断してしまいました。

一報を受けた伊藤博文や陸奥宗光はすぐに見舞いに行ったそうです。
さらに明治天皇をはじめ各方面からも多くの見舞いが寄せられたといいます。

ちなみに李鴻章は『このようなことは、多少、覚悟して来ましたよ』と語っていたそうです。


しかし4月10日。
李鴻章は顔に銃弾がめり込んだまま講和会議に戻ってきました。

事件前は大通りを通って引接寺から春帆楼に向かっていましたが、事件後は裏道を通って春帆楼に向かうことになりました。

そのことにより、現在、引接寺と春帆楼を結ぶ裏道は李鴻章道という名が付けられています。

そんなこんなで、度重なる会議の末、4月17日に日清講和条約調印されました。

●日清講和条約の締結内容

①清国は朝鮮の独立を認めること
朝鮮はもともと清国の支配下に置かれていました。
朝鮮の独立を認めることにより、日本は大陸進出の足がかりを手に入れました。

②清国は遼東半島を日本に譲り渡すこと
遼東半島は中国で2番目に大きい半島です。
この半島は戦略上とても重要な地だったそうです。

③清国は台湾と澎湖諸島を日本に譲り渡すこと
ちなみに台湾は第二次世界大戦終戦まで日本の領土でした。

④清国は賠償金として日本に2億両(テール)を支払うこと
2億両を日本円に換算すると約3億円といわれています。
ちなみに賠償金の83%が軍艦建造などの日露戦争に備えた軍事費として使われたといわれています。
その他、八幡製鉄所(現・北九州市)はこの賠償金で造られたそうです。

⑤沙市・重慶・蘇州・杭州の開港と開市
当時、外国人は限られた場所でしか貿易ができませんでした。
この条約により清国で貿易することが可能になりました。

⑦清国は日本に揚子江航行権を与えること

⑥清国は日本に最恵国待遇を与えること

などなど。

ちなみに日清講和条約は下関条約馬関条約とも呼ばれています。

これは、当時下関が馬関と呼ばれていたのが由来といわれています。

中国では現在も馬関条約と呼んでるんだって。


●日清講話記念館

●日清講話記念館
・1937年建立
・国の登録有形文化財

ちなみに引接寺から徒歩3分のところに日清講話記念館があります。

館内では講和会議で使用された調度品や資料などが拝観できます。


●春帆楼とふく料理

あと、下関名物のふく料理は、1888年に伊藤博文春帆楼で食したのを機に禁制が解かれたといわれています。

小早川隆景の菩提寺

●小早川隆景の菩提寺

朝鮮通信使と日清講和会議の歴史ですっかり影が薄くなっていますが、このお寺は小早川隆景さんの菩提寺なんだって。

1598年、隆景さんの遺言により藤堂高虎さんが菩提寺として再建したといわれています。

小早川隆景さんは毛利元就の3男で、次男・吉川元春とともに毛利両川として毛利氏の発展に尽くしたお方です。

また豊臣秀吉から五大老の1人に任じられたお方でもあります。

晩年の隆景さんは筑前1国・筑後2郡・肥前1郡半を治めています。

このお寺は門司(北九州市)から移転してきたといいますし、下関は毛利氏の領地ですし、そういうこともあってこのお寺を菩提寺に指定したのかな?(推測)

その他の見どころ

●何かのお堂

●何かのお堂
・建立年不明
・瓦葺 寄棟造

続いて、本堂の隣にあるお堂を参拝。

一体全体、何のお堂なのでしょ。
御本尊がどなたなのかもわからずに参拝するのはどうかと思いますが・・・(汗)

お寺の方に聞いて帰ればよかったです!


ちなみに屋根には鴟尾と徳川家の家紋・三つ葉葵がありました。


本堂の鴟尾は金色。
何かのお堂はいぶし銀。

屋根だけを見ていると、なんだか奈良にいるような気がしましたよ。


●石仏

石仏が安置されたお堂には金の衣をまとった石仏さんがおられました。


●宝篋印塔
境内には宝篋印塔もありました。


宝篋印塔は隅飾の形状で、おおよその建立年代がわかります。

宝篋印塔の隅飾は時代が下るにつれて、お花のように広がっていきます。

ということで、この宝篋印塔は隅飾が広がっているので、江戸時代以降に建立された可能性が高いです。


その他、境内にはたくさんの石仏さんがおられました。

そんなこんなで、参拝終了。

素敵なお寺さんでした。

御朱印情報

●御朱印の種類
・引接寺の御朱印(阿弥陀如来)

●御朱印の受付場所
・庫裏

●御朱印の受付時間
・不明

●御朱印の料金
・300円

●期間限定・特別御朱印
・なし

●オリジナル御朱印帳
・なし

・2016年8月11日 参拝
・2022年4月 更新
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参拝情報とアクセス

●開門時間
・不明

●拝観料
・無料

●最寄りの駅
・JR下関駅から徒歩35分
・JR下関駅から車で10分

●最寄りのバス停
・サンデン交通
 唐戸 バス停から徒歩6分

●最寄りのIC
・中国自動車道・関門自動車道
 下関ICから車で10分

●駐車場
・なし

※駐車場はありませんので、近隣の有料駐車場を利用することになります。

引接寺の地図

 

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