東行庵の御朱印|高杉晋作と谷梅処の墓所|面白きこともなき世を面白く|(山口県下関市)

所在地山口県下関市吉田町1184
宗 派曹洞宗
札 所山陽花の寺二十四か寺 第8番
由 緒江戸時代末期、奇兵隊の軍監・山縣有朋が奇兵隊の本拠地に近い清水山の麓に無鄰菴という草庵を建立。1867年、高杉晋作が死去。遺言により高杉晋作の遺体は奇兵隊の本拠地に近いこの地に葬られました。愛人・おうのは高杉晋作の死後に出家し谷梅処と名乗りました。そして1869年、山縣有朋は谷梅処に無鄰菴を贈り、谷梅処は1909年に亡くなるまで生涯晋作の菩提を弔ったそうです。ちなみに現在の庵は、1884年に伊藤博文・山縣有朋・井上馨など全国諸名士の寄付により建立されたものです。その後、1966年に高杉晋作の没後100年を前に大修理。さらに境内に東行記念館を建立。さらに2010年に下関市立東行記念館として再開館し現在に至ります。
HP史跡・高杉晋作墓所 花の寺 宗教法人 東行庵
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東行庵とは?

●東行庵とは?

明治維新の革命児・高杉晋作さんの墓所がある東行庵に到着。

正式名称は清水山 東行庵。
東行庵と書いてとうぎょうあんと読みます。

功山寺挙兵(回天義挙)で知られる功山寺の末寺です。


ちなみに東行とは高杉晋作さんのです。

この東行という号は晋作さんが自ら付けたもので、歌人・西行にあやかって東行と号したんだって。

西に・・・センス抜群ですね!

ちなみに晋作さんは西行法師に憧れていたらしく、平和な世ならば詩人になりたかったと言っていたそうです。


もともとこの地には山縣有朋さんが建立した無鄰菴という草庵があったんだって。

晋作さんの死後、遺体は遺言により奇兵隊の本拠に近いこの地に土葬されました。

晋作さんにはおうのという愛人がいましたが、晋作さんの死後、おうのは他の男性と良い仲になってしまったという。

そんなこんなで、山縣有朋さんは高杉晋作の名を汚していけないという理由でおうのさんを出家させました。

そしておうのさんは谷梅処と名乗り尼として生きていきます。

その後、1869年に山縣有朋さんは無鄰菴を谷梅処にプレゼントし欧州に旅立ちました。

そんなこんなで、谷梅処は1909年に亡くなるまで晋作さんのお墓を守り続け、山縣有朋さんから頂いた無鄰菴で菩提を弔ったといわれています。


無鄰菴と聞いて真っ先に思い浮かぶのは京都の無鄰菴!

ちなみに京都の無鄰菴は山縣有朋さんの別邸です。

実は無鄰菴と名付けられた山縣邸は3つあり、1番最初に建立されたのが下関の無鄰菴だという!

ちなみに無鄰菴という名前は、草家がかったことが由来なんだって。


京都の無鄰菴といえば国の名勝に指定されている庭園が有名ですが、下関の無鄰菴(東行庵)も紅葉のスポットとして人気を集めています。

シーズン中は境内一帯に梅・紅葉・楓など四季折々の花木に彩られ、なかでも初代庵主・谷梅処が好んだ菖蒲はまるで高杉晋作さんを偲ぶかのように咲き誇っちゃいます。

そのことから、この東行庵は山陽花の寺二十四か寺の第8番札所となっております。

ちなみに菖蒲の数は約100種6000株とのことです。

ネットの情報によりますと、紅葉や菖蒲のピーク時は平日でも駐車場が満車状態になるそうですよ。
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東行庵

●東行庵

●東行庵
・1884年建立
・瓦葺 寄棟造

現在の庵は、1884年に旧藩主・毛利元昭山縣有朋伊藤博文井上馨など総勢143人の寄付により、高杉晋作の霊位礼拝堂として建立されたものなんだって。

庵内の仏壇には高杉晋作さんと高杉家、さらに山縣有朋さんなどの位牌も安置されているそうですよ。

ちなみに、梅処さんは建設資金の寄付を依頼するため、東京の井上馨さんを訪ねたといわれています。

梅処さんは東京に住む晋作の妻・雅子さんの家に遊びに行ったことがある・・・と、どこかで読んだことがあるのですが、もしかしたらこの時に遊びに行ったのかも?(推測)

とか思ってみたり。

妻・雅子さんと愛人・おうの(谷梅処)さんは、晋作さんがお亡くなりになる前にもご対面しています。

初対面のときは修羅場だったみたいですが、晋作さんの死後は良好な関係が続いていたのですね!


ちなみに、こちらが晋作さんの妻・雅子さんです。

雅子さんは萩城下で1番の美人といわれていたそうですよ。

晋作さんと雅子さんの結婚生活は約7年でしたが、晋作さんは各地を転々としていたため、2人で過ごしたのは1年半ほどといわれています。
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高杉晋作の墓所

●高杉晋作の墓所

そんなこんなで、高杉晋作さんのお墓に到着。

晋作さんは結核により27歳の若さでお亡くなりになりました。

遺言により、遺体は奇兵隊の本拠に近いこの地に土葬されたそうです。


1839年、高杉晋作さんは萩市で長州藩士の長男として誕生。

18歳のときに生涯の師・吉田松陰松下村塾に入門したのを機に、稀代の革命戦略家として頭角を現します。

24歳のとき下関戦争に参加し、長州藩が外国艦隊にフルボッコにされたのを機に、新鋭部隊・奇兵隊を結成。

以後、各地で倒幕戦を指揮し明治維新のさきがけとなりましたが、1867年に結核のためお亡くなりになりました。

明治維新を見ることもなく、雷電風雨の如く太く短い人生でした。


●辞世の句
面白きこともなき世を面白く

お亡くなりになる日、晋作さんは筆と紙を求め、最期の力をふりしぼって『面白きこともなき世を面白く』と書きました。

そして力尽き、筆を落としてしまいます。

そこで枕元にいた野村望東尼が『すみなすものは心なりけり』と下の句を書きました。

それを読んだ晋作さんは『おもろいのぅ』と微笑んで息を引きとりました。

・・・

・・・・・

といわれていますが、一説によると『面白きこともなき世を面白く』という句はお亡くなりになる前年にはすでに詠まれていたといわれています。

と、冷めるようなことを言ってみる m(_ _)m

安らかにお眠りください。


高杉晋作さんの墓所には毛利元徳伊藤博文木戸孝允井上馨さんが寄進した石灯籠が立っていました。

そうそうたるメンバーですね!

ちなみに高杉晋作さんの墓所は国の史跡に指定されています。
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谷梅処(梅処尼)の墓所

●谷梅処(梅処尼)の墓所

高杉晋作さんの墓所からちょっと離れたところには愛人・おうの(谷梅処)さんのお墓もありました。

生前、晋作さんはおうのさんに

ぼくが死んだら墓守になりなさい
そうすれば皆もおうのを見捨てはすまい

遺言したそうです。

遺言どおり、おうのさんは出家して谷梅処と名乗り、生涯お墓を守り続けました。

ちなみに晋作さんは梅の花が好きだったそうです。

ある日、晋作さんはおうのさんに梅處と記してあった茶杓をプレゼントしたそうです。
それが梅処という名前の由来なのでは?

といわれています。

●谷梅処(おうの)とは?

はっきりとした出自は不明ですが、梅処さんは1843年にお生まれになり、11歳のときに下関の遊廓、妓楼・堺屋に売られて芸妓になったといわれています。

源氏名は此の糸
通称はおうの

おっとりとして従順な性格だったといわれています。


ちなみに下関の遊廓は、壇の浦の戦いで滅亡した平家の女官が生活のために遊女となって身を売ったのが始まりといわれ、遊廓があった稲荷町は日本遊廓の発祥地といわれています。

おそらく高杉晋作さんや伊藤博文さんなどの志士も遊廓に通っていたのでしょう。


晋作さんと出会ったのはおうのさんが20歳のときといわれています。
このとき萩には18歳の妻・雅子さんがいましたが、晋作さんは下関にいるときはなるべくおうのさんと一緒にいたといわれています。


晩年の晋作さんは持病の結核が悪化してしまい、おうのさんと野村望東尼の介抱を受けながら療養生活を送っていました。

おうのさんは野村望東尼を母のように慕い、望東尼の指示に従い晋作さんを看病していたそうです。

ある日、望東尼が風邪を引いて寝込んだときのこと。
望東尼は3階に。
晋作さんは1階で寝ていたそうですが、2人は寝込んだまま歌と詩のやりとりをするので、おうのさんは足が疲れるほど階段を上ったり降りたりしたという逸話が残っています。


晋作さんの死後、おうのさんは別の男性と良い仲になってしまいますが、晋作さんの名を汚していけないという山縣有朋の指示に従い、尼となって梅処と名乗ることになりました。

おうのさんは友人に、このときの様子をこう語っています。

ある日、突然『婚礼がある』といわれ、無理やり荷物と一緒に馬に乗せられて吉田に連れてこられた

拉致じゃん(笑)

そして、伊藤博文さんと井上馨さんに無理やり剃髪させられたという(諸説あり)

その後、1869年に山縣有朋さんから無鄰菴を頂き、晋作さんのもう1つの姓であるを継いで谷梅処となりました。

以来、無鄰菴に住み晋作さんの菩提を弔ってきましたが、生活が苦しくなったので東京にいる井上馨さんを訪ねて相談しました。

そこで井上馨さんは山縣有朋・木戸孝允・山田顕義・河瀬真孝・宍戸璣などの長州の同志に募り、月々の手当を受け取れるように取り計らってくれました。

さらに山縣有朋・井上馨・伊藤博文・山田顕義の呼びかけにより1550円の寄付を集め東行庵が建立され梅処さんに贈られました。

ちなみに梅処さんは般若心経しか知らなかったため、村人に三味線や踊りを教えていたといわれています。


以後、67歳でお亡くなりになるまで、晋作さんの菩提を弔い、墓所を守り続けたといいます。

生前、梅処さんは東行庵から3kmほど離れた常関寺お墓を建立していたそうです。
どうやら晋作さんの墓所のそばに葬られるつもりはなかったみたいです。

しかしそれを哀れんだ村人が、梅処さんの七回忌の際に現在地に移転したんだって。

それが現在東行庵にあるお墓といわれています。
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高杉東行顕彰碑と高杉晋作陶像

●高杉東行顕彰碑

●高杉東行顕彰碑
・1911年建立
・高さ 3.2m
・幅 1.5m

高杉晋作さんの墓所の近くには巨大な顕彰碑もありました。

この顕彰碑は、1911年に井上馨さんによって除幕されたもののようです。

碑文の作者は初代総理大臣の伊藤博文さん。
揮毫は明治の三筆といわれた杉孫七郎さん。

顕彰碑には小さな文字でギッシリと晋作さんの業績が刻まれていました。

肉眼では何を書いてるのかサッパリわかりませんでしたが、碑文の冒頭には動けば雷電の如く発すれば風雨の如しという名言が刻まれてるんだって!


梅処さんは晋作さんの顕彰碑が建てられるのをとても楽しみにしていましたが、巨大な顕彰碑のため到着が予定日より遅れ、一緒に建立されるはずだった福田公明さんの顕彰碑の方が先に到着してしまったそうです。

そのため梅処さんは『旦那のが来ない、旦那のが来ない』と毎日言っていたという。

そんなこんなで、梅処さんは顕彰碑の到着を待ち続けていましたが、数日後、完成を見ることなく亡くなってしまいました。

・・・泣けますねぇ。


●高杉晋作陶像

●高杉晋作陶像
・1956年建立
・像高 2.02m
・陶器製

高杉東行顕彰碑を過ぎると、高杉晋作さんの陶像が登場。

全身像なのに胸像とはおかしなことを言うな〜と思っていたら、像ではなく像!

なんとこの像は陶器製だったという!

目が悪いのか、頭が悪いのか・・・。


しかし何だろう・・・台座の大きさのわりに小さな像です。

ちょっと違和感がありますねぇ。

調べてみると、もともとここには山縣有朋さんの銅像が建っていたんだって!

しかしその像は1943年に撤去されたという(金属類回収令?)

その後、山縣有朋像の代わりに設置されたのがこの像なんだって。

台座と比べて像が小ぶりなのはこういった理由があったのですね。


~画像は日和山公園(下関市)にて~

ちなみに東行庵の陶像は、晋作さんの没後90年祭の事業として下関市の日和山公園に建立された晋作像の試し焼きとして作られたものなんだって。

奇兵隊及び諸隊士の墓と奇兵隊陣屋跡

●奇兵隊及び諸隊士の墓

晋作さんの墓所の近くには奇兵隊士のお墓がズラ〜と並んでいました。

その数、なんと140基!


ちなみに東行庵から約1km離れたところには奇兵隊が本拠を置いていた奇兵隊陣屋跡があります。


その他、境内には聖観世音菩薩像高杉家のお墓、2代庵主・梅仙ならびに3代庵主・玉仙のお墓、著名人の歌碑文学碑などがありました。

東行記念館と晋作餅

●東行記念館

●東行記念館
・1966年開設

東行記念館は、高杉晋作100年祭記念事業の1つとして全国有志の寄付により1966年に開設。

その後、2010年に東行記念館の2階部分を下関市立東行記念館として開設したそうです。

そんなこんなで、東行記念館を拝観してきました。


1階講堂のステージ上には御本尊の白衣観音菩薩像を安置。


そしてステージの両サイドには萩焼の吉田松陰像と木造の高杉晋作像が安置されていました!

まるで松陰先生と晋作さんが御本尊の脇侍のようでしたよ!

これは面白いですねぇ。
愉快愉快。


~画像はパンフレットより~

2階では晋作さんと梅処さんの遺品遺墨奇兵隊明治維新に関する展示物を拝観することができました。

撮影禁止のため写真はありませんが、かなり見応えのあるラインナップになっていましたよ。


どうでもいい話ですが、嫁はんが手掛けた雑誌を置いてくれてました!

これには嫁はんも大喜び!

どうもありがとうございました!


●晋作餅(清風亭)

東行庵の目の前には清風亭というお土産さん・お食事処がありました。

清風亭では名物の晋作餅を食べることができました。

晋作餅は、高杉晋作の没後120年の記念として作られた餅で、清風亭本田菓秀庵で食べることができます。

甘さをおさえたアンコをシソを練りこんだ餅で包み、鉄板で香ばしく焼いたお餅でした。

見事に写真を撮り忘れましたが、サッパリとして美味しかったです!


そんなこんなで、参拝終了。

素敵な時間を過ごすことができました。

高杉晋作とは?

●高杉晋作とは?

高杉晋作とは、幕末に長州藩の尊王攘夷の志士として活躍したお方です。

身分制度にとらわれない軍隊・奇兵隊を結成し、長州藩のリーダーとして江戸幕府と戦った革命児です。

辞世の句は面白き事もなき世を面白く すみなすものは心なりけり

高杉晋作のもとで働いていた伊藤博文が動けば雷電の如く 発すれば風雨の如しと語ったほど、とてつもない行動力の持ち主だったみたいです。


●高杉晋作の年表
1839年(0歳)長門国の長州藩士・高杉小忠太の子として誕生。
1852年(13歳) 長州藩の藩校・明倫館に入学。
1857年(18歳) 吉田松陰の松下村塾に通う。
1859年(20歳) 吉田松陰の刑死を知る。
1860年(21歳) 山口町奉行・井上平右衛門の次女・雅子と結婚
1862年(23歳)幕府使節随行員として上海へ留学。
友人・久坂玄瑞らとともに江戸・品川御殿山に建設中だったイギリス公使館の焼き討ちを行う。
1863年(24歳)下関戦争に参加。
長州藩が関門海峡で外国船を砲撃し、アメリカ・フランスと衝突。
晋作は敗北した長州藩の代表として外国との交渉を担当。

奇兵隊を結成する。
本拠は阿弥陀寺(現・赤間神宮)。

禁門の変が勃発。
長州藩は京都を追放される。
1864年(25歳) 下関戦争の敗戦処理として英・仏・蘭・米のとの講和談判をまとめる。
晋作はほぼ全ての提示条件を受け入れたが、領土の租借は頑なに受け入れなかった。

第一次長州征伐が勃発。
長州藩は幕府軍に降参するが、晋作はこれに反対し功山寺挙兵

晋作は幕府に従う長州藩が許せなかった。
1865年(26歳) 功山寺での挙兵が成功し、長州藩は幕府と戦うことになる。
1866年(27歳)第二次長州征伐が勃発。
晋作もこの戦いに参加し幕府軍に勝利する。
1867年(27歳) 肺結核で死去

享年27歳。

御朱印情報


●御朱印の種類
・東行庵の御朱印

●御朱印の受付場所
・東行記念館

●御朱印の受付時間
・9:30~17:00

●御朱印の料金
・300円

●期間限定・特別御朱印
・なし

●オリジナル御朱印帳
・あり(数量限定)
・料金 1500円

・2012年7月15日 参拝
・2022年4月 更新
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参拝情報とアクセス

●拝観料
・境内無料

●東行記念館
・開館時間 9:30~17:00
(入館は16:30まで)

・休館日 毎週月曜日(祝日の場合は開館)
     祝日の翌日
     年末年始(12月28日~1月4日)

・拝観料 大人300円
     大学生200円
     18歳以下無料

●最寄りの駅
・JR小月駅から徒歩1時間10分
・JR小月駅から車で10分

●最寄りのバス停
・JR小月駅からバスで14分
 東行庵入口 バス停で下車 徒歩5分

●最寄りのIC
・中国自動車道
 小月ICから車で15分

●駐車場
・無料の専用駐車場あり(100台)

東行庵の地図

 

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