所在地 | 山口県萩市椿青海4132 |
---|---|
宗 派 | 臨済宗南禅寺派 |
札 所 | ・中国三十三観音霊場 第20番 ・百八観音霊場 第25番 ・長門三十三観音霊場 第14番 ・萩八十八ヶ所めぐり霊場 第1・2番 |
由 緒 | 1656年、長州藩初代藩主・毛利秀就の菩提を弔うため、歓喜寺の跡地に創建したのが始まりといいます。1747年に失火により焼失。その後、1750年に長州藩6代藩主・毛利宗広が再建し、現在に至るそうです。残存する本堂・庫裏・書院・鐘楼門は1750年の再建時のもので、1755年に建立された経蔵を含めた5棟が国の重要文化財に指定されています。また初代藩主・秀就と、長州藩の偶数代藩主および夫人などのお墓がある毛利家墓所は国の史跡に指定されています。 |
HP | 霊椿山 大照院 |
大照院とは?
中国三十三観音霊場の第20番札所であります、大照院に到着。
このお寺の正式名称は霊椿山 大照院。
れいちんざん だいしょういんと読みます。
●大照院とは?
782〜805年、この地に月輪山 観音寺という天台宗の寺院があったという。
ちなみに、月輪山 観音寺は桓武天皇の勅願寺だったそうです。
その後、1334〜1335年に鎌倉・建長寺の義翁和尚が観音寺に来山し、大椿山 歓喜寺と改め、臨済宗に改宗。
しかし、戦乱により荒廃してしまったという。
江戸時代初期、関ヶ原の戦いで敗れた毛利氏は防長二州に転封。
そして毛利氏は居城を広島から萩に移し、萩城を築城しました。
西軍の総大将だった毛利輝元は、関ヶ原の戦いの責任をとって隠居していたため、輝元の子・秀就がわずか6歳で家督を継ぎ長州藩の初代藩主となりました。
1651年、初代藩主・秀就は57歳で死去。
そして、父・輝元の菩提寺・天樹院で火葬されたあと、歓喜寺に葬られました。
その後、1656年に長州藩2代藩主・毛利綱広が、父・秀就の菩提を弔うため歓喜寺の跡地に堂宇を再建。
そして、秀就の法号にちなんで大照院と改称し、山号も霊椿山に改めました。
しかし1747年に火災に遭い焼失。
そして、輝元の菩提寺である天樹院をここに移して合併したそうです。
しかし1750年、6代藩主・毛利宗広が堂宇を再建。
そのことにより天樹院は旧地に戻り、再び大照院として存続することに。
その後、1868年に塔頭寺院を合併し瑞応寺と改称しますが、1893年に再び大照院に復称し、現在に至ります。
ちなみに、残存する本堂・庫裏・書院・鐘楼門は1750年の再建時のもので、1755年に建立された経蔵を含めた5棟が国の重要文化財に指定されています。
さらに初代藩主・秀就と、長州藩の偶数代藩主および夫人などのお墓がある毛利家墓所は国の史跡に指定されています。
ちなみに長州藩の奇数代藩主の墓所は東光寺に。
そして藩祖・毛利輝元の墓所は天樹院跡にあります。
782〜805年、この地に月輪山 観音寺という天台宗の寺院があったという。
ちなみに、月輪山 観音寺は桓武天皇の勅願寺だったそうです。
その後、1334〜1335年に鎌倉・建長寺の義翁和尚が観音寺に来山し、大椿山 歓喜寺と改め、臨済宗に改宗。
しかし、戦乱により荒廃してしまったという。
江戸時代初期、関ヶ原の戦いで敗れた毛利氏は防長二州に転封。
そして毛利氏は居城を広島から萩に移し、萩城を築城しました。
西軍の総大将だった毛利輝元は、関ヶ原の戦いの責任をとって隠居していたため、輝元の子・秀就がわずか6歳で家督を継ぎ長州藩の初代藩主となりました。
1651年、初代藩主・秀就は57歳で死去。
そして、父・輝元の菩提寺・天樹院で火葬されたあと、歓喜寺に葬られました。
その後、1656年に長州藩2代藩主・毛利綱広が、父・秀就の菩提を弔うため歓喜寺の跡地に堂宇を再建。
そして、秀就の法号にちなんで大照院と改称し、山号も霊椿山に改めました。
しかし1747年に火災に遭い焼失。
そして、輝元の菩提寺である天樹院をここに移して合併したそうです。
しかし1750年、6代藩主・毛利宗広が堂宇を再建。
そのことにより天樹院は旧地に戻り、再び大照院として存続することに。
その後、1868年に塔頭寺院を合併し瑞応寺と改称しますが、1893年に再び大照院に復称し、現在に至ります。
ちなみに、残存する本堂・庫裏・書院・鐘楼門は1750年の再建時のもので、1755年に建立された経蔵を含めた5棟が国の重要文化財に指定されています。
さらに初代藩主・秀就と、長州藩の偶数代藩主および夫人などのお墓がある毛利家墓所は国の史跡に指定されています。
ちなみに長州藩の奇数代藩主の墓所は東光寺に。
そして藩祖・毛利輝元の墓所は天樹院跡にあります。
東光寺の御朱印|全国屈指の黄檗宗の名刹|大照院と並ぶ毛利家の菩提寺です|(山口県萩市)
所在地山口県萩市椿東1647宗 派黄檗宗由 緒1691年、長州藩3代藩主・毛利吉就が建立したのが始まりといいます。1694年、毛利吉就の死後、大照院と並んで毛利家の菩提寺となり、3代藩主・吉就から11代藩...
そんなこんなで、参拝開始。
鐘楼門
●鐘楼門
●鐘楼門
・1750年建立
・瓦葺 入母屋造
・三間一戸 軒唐破風付き二重門
・国指定重要文化財
●梵鐘
・1749年鋳造
・郡司四郎左衛門信房 作
まず最初に登場するのは二重門形式の鐘楼門。
一階部分はノペ〜とした土壁で、中央部分にはアーチ型の通路があるという!
舞台セットのようなハリボテ感が、かなり特徴的な門でしたよ。
火灯窓など随所随所に禅宗様の特徴が見られますが、アーチ型の通路は竜宮門の特徴・・・禅宗様と竜宮門の折衷様式かい?
何にしろ、初めて拝見する様式の門でした。
正面から見ると薄っぺらい建物に見えますが、角度を変えると重厚感のある建物にも見える・・・なんとも不思議な門だなぁ。
ちなみに、鐘楼門をくぐることはできませんでした。
そんなこんなで、迂回路を歩いて本堂へ向かうことに。
本堂へ続く道には古寺オーラ全開の素晴らしい光景が広がっていました。
崩れかけた石段・・・
今にも倒壊しそうな門・・・
完全に崩壊した土塀・・・
どれもこれもリアルで、気取った感じがなく、古ボケ加減が尋常ではありませんでした!
綺麗なお寺も好きですが、このような荒廃気味のリアル古寺を好む傾向がある私はテンションがレッドゾーンに突入・・・なんだなんだ、この幸せな時間は!
●鐘楼門
・1750年建立
・瓦葺 入母屋造
・三間一戸 軒唐破風付き二重門
・国指定重要文化財
●梵鐘
・1749年鋳造
・郡司四郎左衛門信房 作
まず最初に登場するのは二重門形式の鐘楼門。
一階部分はノペ〜とした土壁で、中央部分にはアーチ型の通路があるという!
舞台セットのようなハリボテ感が、かなり特徴的な門でしたよ。
火灯窓など随所随所に禅宗様の特徴が見られますが、アーチ型の通路は竜宮門の特徴・・・禅宗様と竜宮門の折衷様式かい?
何にしろ、初めて拝見する様式の門でした。
正面から見ると薄っぺらい建物に見えますが、角度を変えると重厚感のある建物にも見える・・・なんとも不思議な門だなぁ。
ちなみに、鐘楼門をくぐることはできませんでした。
そんなこんなで、迂回路を歩いて本堂へ向かうことに。
本堂へ続く道には古寺オーラ全開の素晴らしい光景が広がっていました。
崩れかけた石段・・・
今にも倒壊しそうな門・・・
完全に崩壊した土塀・・・
どれもこれもリアルで、気取った感じがなく、古ボケ加減が尋常ではありませんでした!
綺麗なお寺も好きですが、このような荒廃気味のリアル古寺を好む傾向がある私はテンションがレッドゾーンに突入・・・なんだなんだ、この幸せな時間は!
本堂と庭園
●本堂
●本堂
・1750年建立
・瓦葺 入母屋造
・桁行 25.3m
・梁間 18.0m
・国指定重要文化財
そんなこんなで、本堂に到着。
このお寺の宗派は臨済宗南禅寺派。
そして御本尊は聖観世音菩薩さんでした。
本堂は方丈形式になっていて、さらに屋根は錣屋根になっていました。
方丈形式の本堂は臨済宗寺院でよくお見かけしますが、錣屋根の方丈形式は初めて拝見しましたよ。
先ほどの鐘楼門もそうですが、このお寺のお堂は地味な個性をアピってきます。
屋根瓦の一部が石州瓦になっているところもなかなかの個性。
そして桁行が25m以上もあるという、かなり大規模なお堂となっておりました。
それにしても、本堂の古ボケ具合もなかなかのものでした。
この辺りは陽が入らないのでしょうか?
カビった壁が余計に古ボケ感を強めていました。
というか、柱や戸が朽ちかけていて微妙に傾いているような!
触れば崩れそうな・・・!
※2012年から改修工事中
ちなみに堂内では御本尊の他に、赤童子立像と義翁和尚倚像を拝観することができました。
●庭園
●庭園
・築庭年不明
・池泉回遊式庭園
そんなこんなで、本堂の裏にまわってみると庭園が広がっていました。
庭園は池泉回遊式になっていたのでお散歩してみることに。
季節のせいか、はたまた天気のせいか、何だか淋しい気分になるお庭だなぁ。
そんな中、やたらと広い笠の石灯籠が笑みを誘ってきました・・・貴婦人並みのUV対策だよ。
●本堂
・1750年建立
・瓦葺 入母屋造
・桁行 25.3m
・梁間 18.0m
・国指定重要文化財
そんなこんなで、本堂に到着。
このお寺の宗派は臨済宗南禅寺派。
そして御本尊は聖観世音菩薩さんでした。
本堂は方丈形式になっていて、さらに屋根は錣屋根になっていました。
方丈形式の本堂は臨済宗寺院でよくお見かけしますが、錣屋根の方丈形式は初めて拝見しましたよ。
先ほどの鐘楼門もそうですが、このお寺のお堂は地味な個性をアピってきます。
屋根瓦の一部が石州瓦になっているところもなかなかの個性。
そして桁行が25m以上もあるという、かなり大規模なお堂となっておりました。
それにしても、本堂の古ボケ具合もなかなかのものでした。
この辺りは陽が入らないのでしょうか?
カビった壁が余計に古ボケ感を強めていました。
というか、柱や戸が朽ちかけていて微妙に傾いているような!
触れば崩れそうな・・・!
※2012年から改修工事中
ちなみに堂内では御本尊の他に、赤童子立像と義翁和尚倚像を拝観することができました。
●釈迦如来坐像
・平安時代後期作
・像高 235cm
・山口県指定文化財
●義翁和尚倚像
・鎌倉時代作
・像高 69cm
・山口県指定文化財
●赤童子立像
・鎌倉時代末期作
・像高 61cm
・檜材 寄木造 玉眼
・国指定重要文化財
赤童子は、ニニギの天孫降臨で知られる天児屋根命のことで、春日社の祭神の1つといわれています。
赤童子については他にほとんど類例がなく、奈良県大和郡山市の植槻神社に赤童子の絵画(室町時代作)があるくらいなんだって。
・平安時代後期作
・像高 235cm
・山口県指定文化財
●義翁和尚倚像
・鎌倉時代作
・像高 69cm
・山口県指定文化財
●赤童子立像
・鎌倉時代末期作
・像高 61cm
・檜材 寄木造 玉眼
・国指定重要文化財
赤童子は、ニニギの天孫降臨で知られる天児屋根命のことで、春日社の祭神の1つといわれています。
赤童子については他にほとんど類例がなく、奈良県大和郡山市の植槻神社に赤童子の絵画(室町時代作)があるくらいなんだって。
●庭園
●庭園
・築庭年不明
・池泉回遊式庭園
そんなこんなで、本堂の裏にまわってみると庭園が広がっていました。
庭園は池泉回遊式になっていたのでお散歩してみることに。
季節のせいか、はたまた天気のせいか、何だか淋しい気分になるお庭だなぁ。
そんな中、やたらと広い笠の石灯籠が笑みを誘ってきました・・・貴婦人並みのUV対策だよ。
書院と経蔵と庫裏
●書院
●書院
・1750年建立
・瓦葺 入母屋造
・西面 寄棟造
・北面 切妻造
・桁行 21.9m
・梁間 22.7m
・国指定重要文化財
ちなみに本堂には書院が接続されていました。
書院も国重文に指定されていて、本堂同様、建物の中からお庭を鑑賞できるようになっていました。
●経蔵
●経蔵
・1755年建立
・瓦葺 宝形造 土蔵造
・国指定重要文化財
さらに庭園には国重文の経蔵もありました。
内部を拝見することはできませんでしたが、経蔵内には八角輪蔵があるそうですよ。
以前は大般若経全部と大蔵経を収蔵していたみたいですが、現在は本堂に移されてるんだって。
ちなみに、経蔵の状態もよろしくなく、外壁はカビり、そして傾いてる・・・ような。
●庫裏
●庫裏
・1750年建立
・瓦葺 切妻造
・桁行 18.1m
・梁間 18.0m
・国指定重要文化財
庫裏は禅宗寺院でよく見られる本格的な庫裏建築でした。
中国地方には尾道の浄土寺や岡山の宝福寺など、いくつかの有名な庫裏がありますが、中国地方にてここまで大規模で本格的な庫裏建築はそうそう拝見することはできません。
いやはや、目の保養〜。
●書院
・1750年建立
・瓦葺 入母屋造
・西面 寄棟造
・北面 切妻造
・桁行 21.9m
・梁間 22.7m
・国指定重要文化財
ちなみに本堂には書院が接続されていました。
書院も国重文に指定されていて、本堂同様、建物の中からお庭を鑑賞できるようになっていました。
●経蔵
●経蔵
・1755年建立
・瓦葺 宝形造 土蔵造
・国指定重要文化財
さらに庭園には国重文の経蔵もありました。
内部を拝見することはできませんでしたが、経蔵内には八角輪蔵があるそうですよ。
以前は大般若経全部と大蔵経を収蔵していたみたいですが、現在は本堂に移されてるんだって。
ちなみに、経蔵の状態もよろしくなく、外壁はカビり、そして傾いてる・・・ような。
●庫裏
●庫裏
・1750年建立
・瓦葺 切妻造
・桁行 18.1m
・梁間 18.0m
・国指定重要文化財
庫裏は禅宗寺院でよく見られる本格的な庫裏建築でした。
中国地方には尾道の浄土寺や岡山の宝福寺など、いくつかの有名な庫裏がありますが、中国地方にてここまで大規模で本格的な庫裏建築はそうそう拝見することはできません。
いやはや、目の保養〜。
長州藩主 毛利家墓所
●長州藩主 毛利家墓所●長州藩主 毛利家墓所
・江戸時代造営
・国の史跡
そんなこんなで、大照院のハイライトであります、毛利家墓所へ。
この毛利家の墓所には長州藩初代藩主・毛利秀就さんと、2代藩主から12代藩主までの偶数代藩主と夫人および一族、秀就さんに殉死した7藩士のお墓があるそうです。
そして墓前には長州藩士が寄進した石灯籠が600基以上もあるという!
まるで藩士が隊列を組んでいるかのような!
圧巻というか悪寒を感じてしまうくらい整然とした光景でした!
大名の墓所というと一族だけの聖域というイメージがありますが、長州藩士が寄進した石灯籠を見ていると藩主と藩士の一体感を感じることができました。
もしかしたら、明治維新が成し遂げられたのは、藩主と藩士の結びつきの強さが1つの要因だったのかも?
と思わせるような光景でした。
過去、いくつかの藩主墓所を拝んできましたが、規模といい荘厳感といいトップクラスだと感じました。
そんなこんなで、大名の墓制・葬制を知る上でかなり貴重な史跡なのではないでしょうか。
●大照院の毛利家墓所
①初代藩主・毛利秀就(喜佐姫)
②2代藩主・毛利綱広(千姫)
③4代藩主・毛利吉広(小石姫)
④6代藩主・毛利宗広(勝姫)
⑤8代藩主・毛利治親(節姫)
⑥10代藩主・毛利斉熙(三津姫)
⑦12代藩主・毛利斉広(和姫)
※()内は夫人の名前
①初代藩主・毛利秀就(喜佐姫)
②2代藩主・毛利綱広(千姫)
③4代藩主・毛利吉広(小石姫)
④6代藩主・毛利宗広(勝姫)
⑤8代藩主・毛利治親(節姫)
⑥10代藩主・毛利斉熙(三津姫)
⑦12代藩主・毛利斉広(和姫)
※()内は夫人の名前
ちなみに長州藩毛利家の墓所は領内に4ヶ所あります。
①天樹院跡
・藩祖 毛利輝元
②大照院
・初代藩主 毛利秀就
・2〜12代の偶数代藩主
③東光寺
・3~11代の奇数代藩主
④香山墓所(瑠璃光寺)
・13代藩主 毛利敬親
・14代藩主 毛利元徳
あと、毎年8月13日に行われる萩・万灯会の迎え火では、この600基の石灯篭に灯が入り、幽玄な世界が広がるそうですよ。
いつか機会があったら拝見してみたいですなぁ。
そんなこんなで参拝後、御朱印を頂くために庫裏へ。
ちょw
さすがにこれには笑ってしまいました。
どこまで素敵なお寺なんだよ!
いやはや、素敵なお寺さんでした。
●東光寺の参拝記と御朱印情報
~奇数代藩主が眠る毛利家墓所~
~奇数代藩主が眠る毛利家墓所~
東光寺の御朱印|全国屈指の黄檗宗の名刹|大照院と並ぶ毛利家の菩提寺です|(山口県萩市)
所在地山口県萩市椿東1647宗 派黄檗宗由 緒1691年、長州藩3代藩主・毛利吉就が建立したのが始まりといいます。1694年、毛利吉就の死後、大照院と並んで毛利家の菩提寺となり、3代藩主・吉就から11代藩...
萩と毛利氏
●萩と毛利氏
戦国時代、毛利元就は中国・四国地方の10ヶ国(長門・周防・石見・安芸・備後・備中・出雲・伯耆・因幡・隠岐)を領する西国一の戦国大名となりました。
1600年、毛利元就の孫ならびに毛利家の当主・輝元は関ヶ原の戦いで西軍の総大将に祭り上げられることになりました。
関ヶ原の戦いは西軍80000以上。
東軍74000〜100000以上の戦いでした(諸説あり)
ご存知、関ヶ原の戦いは西軍・小早川秀秋の寝返りなどにより西軍の敗退。
ちなみに、小早川秀秋は毛利輝元の叔父・小早川隆景の養子です。
しかし、毛利氏の主力部隊は関ヶ原に参戦しませんでした。
一説によると、毛利氏が本気で出陣していたら、毛利氏だけで10万人を集めることができたともいわれています(諸説あり)
これが全部西軍に加わっていたら歴史は変わっていたかもしれませんね(浪漫)
そんなこんなで、西軍は敗れてしまうわけなのですが、毛利氏は負けたけど参戦していないのでお家安泰・・・と思っていたら、徳川家康は『わしは聞いておらん』と知らん顔。
結局、毛利氏は石高を120万石から36万9千石に減らされ、防長二州(周防・長門)に減封させられました。
毛利氏は交通の利便や気候などを考え、瀬戸内海側にお城を築城したかったのですが、徳川家康からの許可が下りず・・・結局、辺境の地であった萩に城を築くことになりました(諸説あり)
そんなこんなで、本拠を広島から萩に移し萩城を築城。
ちなみに、関ヶ原の戦いで西軍についた毛利氏・長宗我部氏・島津氏は、後の長州藩・土佐藩・薩摩藩・・・徳川政権下では何かと苦渋を味わった藩です。
これらの藩が中心となり、明治維新が成し遂げられるとは・・・さすがの家康さんもそこまでは読めなかったか。。
もしかしたら明治維新は、関ヶ原以降の徳川政権に対する270年間の恨みが原動力の1つだったのかも知れませんね。
萩といえば、幕末維新の先駆者・吉田松陰をはじめ、高杉晋作・久坂玄瑞・木戸孝允(桂小五郎)などなど、明治維新を牽引した志士たちの故郷として知られています。
それにしても、なぜ本州の隅っこの小さな町でこれほどまで多くの偉人が輩出されたのでしょう?
これは吉田松陰の教育はもちろん、長州藩がこれらの人材を支援できるほど潤っていたことが大きな要因だといわれています。
長州藩の石高は36万9千石といわれていますが、実際は100万石ぐらいあったとも!
そんなこんなで、長州藩には幕末の志士たちを支える力があったということですね。
長州藩13代藩主・毛利敬親は、家臣の言うことに対して何でも『そうせい』と答えることからそうせい公と陰口をたたかれていましたが、要所では重大な決断をし明確な指示を与えていました。
そうせい公というカッコ悪い異名もつ藩主ですが、実は聞く耳を持った藩主で、さまざまな決断と改革を行い、人々が活躍できる環境を整え、時代を動かす有能な人材を育てた幕末のリーダーだったのでした。
関ヶ原の戦いで総大将に祭り上げられた毛利輝元。
そして、小早川秀秋の寝返り。
幕末期の毛利氏の決断と、維新を成し遂げた長州藩士。
戦国時代以降、時代の節目には毛利氏が絡んでいます。
現代においても、山口県は内閣総理大臣を最も多く輩出している県として知られています。
時代を動かす毛利チルドレン・・・スゴいよ長州!
~画像は全てWikipediaより~
戦国時代、毛利元就は中国・四国地方の10ヶ国(長門・周防・石見・安芸・備後・備中・出雲・伯耆・因幡・隠岐)を領する西国一の戦国大名となりました。
1600年、毛利元就の孫ならびに毛利家の当主・輝元は関ヶ原の戦いで西軍の総大将に祭り上げられることになりました。
関ヶ原の戦いは西軍80000以上。
東軍74000〜100000以上の戦いでした(諸説あり)
ご存知、関ヶ原の戦いは西軍・小早川秀秋の寝返りなどにより西軍の敗退。
ちなみに、小早川秀秋は毛利輝元の叔父・小早川隆景の養子です。
しかし、毛利氏の主力部隊は関ヶ原に参戦しませんでした。
一説によると、毛利氏が本気で出陣していたら、毛利氏だけで10万人を集めることができたともいわれています(諸説あり)
これが全部西軍に加わっていたら歴史は変わっていたかもしれませんね(浪漫)
そんなこんなで、西軍は敗れてしまうわけなのですが、毛利氏は負けたけど参戦していないのでお家安泰・・・と思っていたら、徳川家康は『わしは聞いておらん』と知らん顔。
結局、毛利氏は石高を120万石から36万9千石に減らされ、防長二州(周防・長門)に減封させられました。
毛利氏は交通の利便や気候などを考え、瀬戸内海側にお城を築城したかったのですが、徳川家康からの許可が下りず・・・結局、辺境の地であった萩に城を築くことになりました(諸説あり)
そんなこんなで、本拠を広島から萩に移し萩城を築城。
ちなみに、関ヶ原の戦いで西軍についた毛利氏・長宗我部氏・島津氏は、後の長州藩・土佐藩・薩摩藩・・・徳川政権下では何かと苦渋を味わった藩です。
これらの藩が中心となり、明治維新が成し遂げられるとは・・・さすがの家康さんもそこまでは読めなかったか。。
もしかしたら明治維新は、関ヶ原以降の徳川政権に対する270年間の恨みが原動力の1つだったのかも知れませんね。
萩といえば、幕末維新の先駆者・吉田松陰をはじめ、高杉晋作・久坂玄瑞・木戸孝允(桂小五郎)などなど、明治維新を牽引した志士たちの故郷として知られています。
それにしても、なぜ本州の隅っこの小さな町でこれほどまで多くの偉人が輩出されたのでしょう?
これは吉田松陰の教育はもちろん、長州藩がこれらの人材を支援できるほど潤っていたことが大きな要因だといわれています。
長州藩の石高は36万9千石といわれていますが、実際は100万石ぐらいあったとも!
そんなこんなで、長州藩には幕末の志士たちを支える力があったということですね。
長州藩13代藩主・毛利敬親は、家臣の言うことに対して何でも『そうせい』と答えることからそうせい公と陰口をたたかれていましたが、要所では重大な決断をし明確な指示を与えていました。
そうせい公というカッコ悪い異名もつ藩主ですが、実は聞く耳を持った藩主で、さまざまな決断と改革を行い、人々が活躍できる環境を整え、時代を動かす有能な人材を育てた幕末のリーダーだったのでした。
関ヶ原の戦いで総大将に祭り上げられた毛利輝元。
そして、小早川秀秋の寝返り。
幕末期の毛利氏の決断と、維新を成し遂げた長州藩士。
戦国時代以降、時代の節目には毛利氏が絡んでいます。
現代においても、山口県は内閣総理大臣を最も多く輩出している県として知られています。
時代を動かす毛利チルドレン・・・スゴいよ長州!
~画像は全てWikipediaより~
御朱印情報
●御朱印の種類
・中国三十三観音霊場の御朱印
・百八観音霊場の御朱印
・長門三十三観音霊場の御朱印
●御朱印の受付場所
・庫裏(納経所)
●御朱印の受付時間
・4~11月 8:00~17:00
・12~3月 8:00~16:30
●御朱印の料金
・各300円
●期間限定・特別御朱印
・奉祝令和 観音初参り
●オリジナル御朱印帳
・なし
・2009年3月20日 参拝
・2022年6月 更新
・中国三十三観音霊場の御朱印
・百八観音霊場の御朱印
・長門三十三観音霊場の御朱印
●御朱印の受付場所
・庫裏(納経所)
●御朱印の受付時間
・4~11月 8:00~17:00
・12~3月 8:00~16:30
●御朱印の料金
・各300円
●期間限定・特別御朱印
・奉祝令和 観音初参り
●オリジナル御朱印帳
・なし
・2009年3月20日 参拝
・2022年6月 更新
萩の世界遺産巡り|情熱と試行錯誤の産業革命|(山口県萩市)
萩の世界遺産とは?ヤバいです。首のヘルニアがヤバいのです。ずっと右手がシビレてるのですよ。握力はなんと驚愕の20!調べてみると、女子以下。小学6年生(男子)並みの握力だという。ということで、お医...
参拝情報とアクセス
●開門時間
・4~11月 8:00~17:00
・12~3月 8:00~16:30
●定休日
・無休
●拝観料
・大人・大学生・高校生 200円
・中学・小学生 100円
●最寄りの駅
・JR萩駅から徒歩15分
・JR萩駅から車で5分
●最寄りのバス停
・萩循環まぁーるバス(西回り・東回り)
大照院入口 バス停から徒歩3分
※萩循環まぁーるバスの詳細はこちら。
●最寄りのIC
・中国自動車道
美祢東JCTから小郡萩道路(無料)へ
終点・絵堂ICから車で20分
●駐車場
・無料の専用駐車場あり(10台)
・4~11月 8:00~17:00
・12~3月 8:00~16:30
●定休日
・無休
●拝観料
・大人・大学生・高校生 200円
・中学・小学生 100円
●最寄りの駅
・JR萩駅から徒歩15分
・JR萩駅から車で5分
●最寄りのバス停
・萩循環まぁーるバス(西回り・東回り)
大照院入口 バス停から徒歩3分
※萩循環まぁーるバスの詳細はこちら。
●最寄りのIC
・中国自動車道
美祢東JCTから小郡萩道路(無料)へ
終点・絵堂ICから車で20分
●駐車場
・無料の専用駐車場あり(10台)