所在地 | 山口県萩市椿東1647 |
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宗 派 | 黄檗宗 |
由 緒 | 1691年、長州藩3代藩主・毛利吉就が建立したのが始まりといいます。1694年、毛利吉就の死後、大照院と並んで毛利家の菩提寺となり、3代藩主・吉就から11代藩主・斉元までの奇数代藩主と、その夫人および一族の墓所になったそうです。ちなみに偶数代藩主の墓所は大照院にあります。 |
HP | 山口県萩市にある毛利家・観光の寺院 黄檗宗 東光寺 |
東光寺とは?
大照院と並ぶ毛利家の菩提寺であります、東光寺に到着。
このお寺の正式名称は護国山 東光寺。
ごこくざん とうこうじと読みます。
おそらく寺号の東光は、東方の浄瑠璃世界に住む薬師瑠璃光如来が由来。
そして山号の護国は仁王護国経が由来と思われます。
●東光寺とは?
長州藩3代藩主・毛利吉就さんは、2代藩主・綱広の隠居により、1682年に若くして藩主になったそうです。
その後、吉就さんは江戸城内で萩出身の名僧・慧極と初対面し帰依したという。
そして、吉就さんは慧極のために寺院を建立しようとしましたが、当時は新しいお寺の建立が禁止されていたので、下関の廃寺であった東光寺と百済渡来の本尊・薬師如来をこの地に移すことに。
そんなこんなで1691年、黄檗宗総本山の宇治・萬福寺を手本にして伽藍を造営。 そして、慧極を開山に迎えたそうです。
それが東光寺の始まりといいます。
しかし東光寺の完成からわずか2年後に、吉就さんは27歳の若さでお亡くなりになったという。
以後、東光寺は長州藩3代藩主・吉就さんから11代藩主・斉元さんまでの奇数代藩主が眠る毛利家の菩提寺となりました。
ちなみに、初代藩主と偶数代藩主の墓所は臨済宗の名刹・大照院にあります。
最盛期には、約40の堂宇と80名以上の僧を数える大寺院に発展しますが、明治時代の廃藩置県後に総門・三門・鐘楼・大雄宝殿・大方丈・庫裡・土蔵を除く全ての堂宇が解体されたという。。
1966年、総門・三門・鐘楼・大雄宝殿が国の重要文化財に指定。
さらに1981年に毛利家墓所が国の史跡に指定され現在に至ります。
長州藩3代藩主・毛利吉就さんは、2代藩主・綱広の隠居により、1682年に若くして藩主になったそうです。
その後、吉就さんは江戸城内で萩出身の名僧・慧極と初対面し帰依したという。
そして、吉就さんは慧極のために寺院を建立しようとしましたが、当時は新しいお寺の建立が禁止されていたので、下関の廃寺であった東光寺と百済渡来の本尊・薬師如来をこの地に移すことに。
そんなこんなで1691年、黄檗宗総本山の宇治・萬福寺を手本にして伽藍を造営。 そして、慧極を開山に迎えたそうです。
それが東光寺の始まりといいます。
しかし東光寺の完成からわずか2年後に、吉就さんは27歳の若さでお亡くなりになったという。
以後、東光寺は長州藩3代藩主・吉就さんから11代藩主・斉元さんまでの奇数代藩主が眠る毛利家の菩提寺となりました。
ちなみに、初代藩主と偶数代藩主の墓所は臨済宗の名刹・大照院にあります。
最盛期には、約40の堂宇と80名以上の僧を数える大寺院に発展しますが、明治時代の廃藩置県後に総門・三門・鐘楼・大雄宝殿・大方丈・庫裡・土蔵を除く全ての堂宇が解体されたという。。
1966年、総門・三門・鐘楼・大雄宝殿が国の重要文化財に指定。
さらに1981年に毛利家墓所が国の史跡に指定され現在に至ります。
大照院の御朱印|圧巻!600基以上の灯籠が並ぶ毛利家墓所|中国三十三観音 第20番|(山口県萩市)
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駐車場に到着後、自販機に小銭を投入しようとしたら、手がすべってしまいドブ溝の中に落ちてしまいました。
まさかドブ溝がお賽銭箱になってしまうとはね。
悔しいけど、ドブ溝に手を合わせて合掌・・・(-人-〃)
そんなことより、萩市には萩城下町や松陰神社など数々の名所がありますが、お寺部門でいえばこの東光寺が規模・歴史・ビジュアル的に萩を代表する寺院だと思っております(個人的感想)
そんなこんなで、参拝開始。
総門
●総門
●総門
・1693年建立
・瓦葺 切妻造
・三間一戸 段違い八脚門
・国指定重要文化財
まず最初に登場するのは総門。
総門は中央部分の屋根が一段高い三間一戸の八脚門。
この形式の門は黄檗宗寺院でたまにお見かけしますが、正式名称がないのが不思議です。
このような段違いの門は、中華街とかにある牌楼門に通ずる中国様式の特徴ですが、正式名称がないのはとてもムズ痒いです・・・と思っているのは私だけ?
段違い門とか・・・
三棟門とか・・・
中央持ち上げ門とか・・・
凸門とか・・・
勝手に命名してみましたが、どんなもんでしょ?
そんなことより、総門に掲げられている護国山の扁額は慧極さんの筆なんだって。
慧極さんは、萩市出身の名僧で東光寺を開山したお方です。
屋根の上にはシャチホコ・・・と言いたいところですが、こちらシャチホコではなく魔伽羅(マカラ)という怪魚です。
魔伽羅はサンスクリット語でワニを意味するそうで、体が水でできている想像上の生き物です。
ちなみに魔伽羅は火災から守る役目を担っています。
これは黄檗宗寺院ならではの光景ですね。
●総門
・1693年建立
・瓦葺 切妻造
・三間一戸 段違い八脚門
・国指定重要文化財
まず最初に登場するのは総門。
総門は中央部分の屋根が一段高い三間一戸の八脚門。
この形式の門は黄檗宗寺院でたまにお見かけしますが、正式名称がないのが不思議です。
このような段違いの門は、中華街とかにある牌楼門に通ずる中国様式の特徴ですが、正式名称がないのはとてもムズ痒いです・・・と思っているのは私だけ?
段違い門とか・・・
三棟門とか・・・
中央持ち上げ門とか・・・
凸門とか・・・
勝手に命名してみましたが、どんなもんでしょ?
そんなことより、総門に掲げられている護国山の扁額は慧極さんの筆なんだって。
慧極さんは、萩市出身の名僧で東光寺を開山したお方です。
●慧極道明とは?
慧極さんは、黄檗宗の開祖・隠元さんの直弟子。
隠元さんに招かれて来日し、長崎・福済寺に住持した後、宇治・萬福寺の開山とともに萬福寺に入寺。
その後、1664年に徳川4代将軍・徳川家綱に謁見し、黄檗宗隆盛の基礎を築いたお方とのことです。
慧極さんは、黄檗宗の開祖・隠元さんの直弟子。
隠元さんに招かれて来日し、長崎・福済寺に住持した後、宇治・萬福寺の開山とともに萬福寺に入寺。
その後、1664年に徳川4代将軍・徳川家綱に謁見し、黄檗宗隆盛の基礎を築いたお方とのことです。
福済寺の御朱印~平和を見守る巨大観音~(長崎県長崎市)
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屋根の上にはシャチホコ・・・と言いたいところですが、こちらシャチホコではなく魔伽羅(マカラ)という怪魚です。
魔伽羅はサンスクリット語でワニを意味するそうで、体が水でできている想像上の生き物です。
ちなみに魔伽羅は火災から守る役目を担っています。
これは黄檗宗寺院ならではの光景ですね。
三門
●三門
●三門
・1812年建立
・瓦葺 入母屋造
・三間三戸 二重門
・国指定重要文化財
そんなこんなで、総門をくぐると総本山・萬福寺顔負けの立派な三門が登場(言い過ぎか)
どうやらこの門は、東光寺創建の121年後に長州藩10代藩主・毛利斉熙さんが寄進したもののようです。
桁行は11.6m。
梁間は6.7m。
高さは10m以上あるでしょうか?
地方のお寺にしてはかなり大規模な門となっておりました。
建築様式はシンプルに禅宗様。
そして門の両サイドには山廊が付属していました。
関西のビッグ寺院ではよくお見かけしますが、地方のお寺さんで山廊付きの三門に出会うことはそうそうないです。
ちなみに2階部分には十八羅漢さんが安置されているそうです。
羅漢さんといえば十六羅漢・・・しかしこのお寺は十八羅漢だという!
このパターンは総本山の萬福寺と同じです。
もしかして、これは萬福寺に倣ったものなのかなぁ?
はたまた黄檗宗寺院の特徴なのかなぁ?
よくわかりませんが、萬福寺の例をとると通常の十六羅漢さんに加えて賓頭廬さんと慶友尊者さんがメンバーに加わっていると思われます。
三門には解脱門・最勝閣・布金祇園と書かれた3つの扁額が掲げられていました。
●三門
・1812年建立
・瓦葺 入母屋造
・三間三戸 二重門
・国指定重要文化財
そんなこんなで、総門をくぐると総本山・萬福寺顔負けの立派な三門が登場(言い過ぎか)
どうやらこの門は、東光寺創建の121年後に長州藩10代藩主・毛利斉熙さんが寄進したもののようです。
桁行は11.6m。
梁間は6.7m。
高さは10m以上あるでしょうか?
地方のお寺にしてはかなり大規模な門となっておりました。
建築様式はシンプルに禅宗様。
そして門の両サイドには山廊が付属していました。
関西のビッグ寺院ではよくお見かけしますが、地方のお寺さんで山廊付きの三門に出会うことはそうそうないです。
ちなみに2階部分には十八羅漢さんが安置されているそうです。
羅漢さんといえば十六羅漢・・・しかしこのお寺は十八羅漢だという!
このパターンは総本山の萬福寺と同じです。
もしかして、これは萬福寺に倣ったものなのかなぁ?
はたまた黄檗宗寺院の特徴なのかなぁ?
よくわかりませんが、萬福寺の例をとると通常の十六羅漢さんに加えて賓頭廬さんと慶友尊者さんがメンバーに加わっていると思われます。
三門には解脱門・最勝閣・布金祇園と書かれた3つの扁額が掲げられていました。
①解脱門の額
即非禅師 筆
②最勝閣の額
15世住持・大愚衍操禅師 筆
③布金祇園の額
15世住持・大愚衍操禅師 筆
即非禅師 筆
②最勝閣の額
15世住持・大愚衍操禅師 筆
③布金祇園の額
15世住持・大愚衍操禅師 筆
崇福寺の御朱印~日本最古の中国様式寺院~(長崎県長崎市)
所在地長崎県長崎市鍛冶屋町7−5宗 派黄檗宗由 緒1629年、長崎で貿易を行っていた福建省出身の華僑の人々が、福州から超然を招聘して創建したお寺です。中国様式としては日本最古の寺院で、興福寺、福済寺ととも...
鐘楼と参道
●鐘楼
●鐘楼
・1694年建立
・瓦葺 一重裳階付き入母屋造
・国指定重要文化財
続いて、鐘楼が登場。
中国の風を感じる黄檗宗特有の鐘楼でした。
一見、二重の建物に見えますが、下の屋根は裳階となるため、実際は一重の建物となります。
●梵鐘
・1694年鋳造
・郡司喜兵衛・源太夫父子 作
・長州藩4代藩主・毛利吉広 寄進
拝見することはできませんでしたが、梵鐘には開山・慧極さんによる銘文が刻まれているそうです。
その銘文の日付は1694年5月15日。
1694年5月15日は東光寺を創建した毛利吉就さんの葬儀が行われた翌日となります。
この梵鐘を寄進したのは長州藩4代藩主・毛利吉広さん。
吉広さんは、兄・吉就さんの菩提を弔うために寄進したのでしょうか?
このような由緒があるからか、この梵鐘は太平洋戦争中の金属類回収令の供出から除外されたみたいです。
●参道
境内はとても広いです。
仙台藩伊達家の大年寺、鳥取藩池田家の興禅寺とともに黄檗宗三大叢林(禅林)の1つといわれるだけあって、名刹っぷりは相当なものでした。
最盛期には、約40の堂宇と80名以上の僧を数える大寺院に発展したそうです。
がっ!
明治時代の廃藩置県後に総門・三門・鐘楼・大雄宝殿・大方丈・庫裡・土蔵を除く全ての堂宇が解体されてしまったという。。
ちなみに、こちらは1804〜1830年頃の境内図です。
(下手クソな絵でスミマセン)
緑色が解体された堂宇。
赤色は現存する堂宇です。
黄檗宗寺院の特徴の1つとして、総本山・萬福寺を始め、長崎の聖福寺などに弥勒菩薩(布袋)を安置する天王殿があります。
どうやら、この境内図を見る限りかつてはこの東光寺にも天王殿があったみたいですね。
そんなこんなで、名刹の面影を感じつつ参道をテクテク。
●鐘楼
・1694年建立
・瓦葺 一重裳階付き入母屋造
・国指定重要文化財
続いて、鐘楼が登場。
中国の風を感じる黄檗宗特有の鐘楼でした。
一見、二重の建物に見えますが、下の屋根は裳階となるため、実際は一重の建物となります。
●梵鐘
・1694年鋳造
・郡司喜兵衛・源太夫父子 作
・長州藩4代藩主・毛利吉広 寄進
拝見することはできませんでしたが、梵鐘には開山・慧極さんによる銘文が刻まれているそうです。
その銘文の日付は1694年5月15日。
1694年5月15日は東光寺を創建した毛利吉就さんの葬儀が行われた翌日となります。
この梵鐘を寄進したのは長州藩4代藩主・毛利吉広さん。
吉広さんは、兄・吉就さんの菩提を弔うために寄進したのでしょうか?
このような由緒があるからか、この梵鐘は太平洋戦争中の金属類回収令の供出から除外されたみたいです。
●参道
境内はとても広いです。
仙台藩伊達家の大年寺、鳥取藩池田家の興禅寺とともに黄檗宗三大叢林(禅林)の1つといわれるだけあって、名刹っぷりは相当なものでした。
最盛期には、約40の堂宇と80名以上の僧を数える大寺院に発展したそうです。
がっ!
明治時代の廃藩置県後に総門・三門・鐘楼・大雄宝殿・大方丈・庫裡・土蔵を除く全ての堂宇が解体されてしまったという。。
ちなみに、こちらは1804〜1830年頃の境内図です。
(下手クソな絵でスミマセン)
緑色が解体された堂宇。
赤色は現存する堂宇です。
黄檗宗寺院の特徴の1つとして、総本山・萬福寺を始め、長崎の聖福寺などに弥勒菩薩(布袋)を安置する天王殿があります。
どうやら、この境内図を見る限りかつてはこの東光寺にも天王殿があったみたいですね。
そんなこんなで、名刹の面影を感じつつ参道をテクテク。
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大雄宝殿(本堂)
●大雄宝殿(本堂)
●大雄宝殿
・1698年建立
・瓦葺 一重裳階付き入母屋造
・国指定重要文化財
続いて、大雄宝殿で参拝。
黄檗宗では本堂のことを大雄宝殿と呼びます。
ちなみに、大雄とはお釈迦さまのことです。
ということで大雄宝殿とは、お釈迦さまがいる宝殿という意味になります。
そんなこんなで、御本尊は釈迦如来さん。
脇侍として、大迦葉尊者と阿難尊者が安置されています。
通常、日本では釈迦三尊像の脇侍は文殊菩薩と普賢菩薩がポピュラーですが、黄檗宗では釈迦如来・大迦葉尊者・阿難尊者の三尊像がポピュラーな本尊となります。
鐘楼同様、見た目は2重の建物に見えますが、下の屋根は裳階となりますので、実際は一重のお堂となります。
棟には火焔付き二重宝珠。
組物は三ツ斗出組。
堂内は土間。
柱は全て方柱(角柱)。
障子の桟が日本と逆。
複雑な技術を駆使した格子天井などに唐寺建築の特徴をみることができました。
あと、帰宅後に知ったのですが、このお堂には月台と呼ばれるスペースが設けられているという!
月台って何だ???
調べてみると、月台とは行事や法要の際、堂内に入りきれなかった人のために設けた場所のことなんだって。
ちなみにガイドさんのお話によると、この鬼瓦はNHK大河ドラマ・太閤記のオープニングに登場した瓦とのことです。
●大雄宝殿
・1698年建立
・瓦葺 一重裳階付き入母屋造
・国指定重要文化財
続いて、大雄宝殿で参拝。
黄檗宗では本堂のことを大雄宝殿と呼びます。
ちなみに、大雄とはお釈迦さまのことです。
ということで大雄宝殿とは、お釈迦さまがいる宝殿という意味になります。
そんなこんなで、御本尊は釈迦如来さん。
脇侍として、大迦葉尊者と阿難尊者が安置されています。
通常、日本では釈迦三尊像の脇侍は文殊菩薩と普賢菩薩がポピュラーですが、黄檗宗では釈迦如来・大迦葉尊者・阿難尊者の三尊像がポピュラーな本尊となります。
鐘楼同様、見た目は2重の建物に見えますが、下の屋根は裳階となりますので、実際は一重のお堂となります。
棟には火焔付き二重宝珠。
組物は三ツ斗出組。
堂内は土間。
柱は全て方柱(角柱)。
障子の桟が日本と逆。
複雑な技術を駆使した格子天井などに唐寺建築の特徴をみることができました。
あと、帰宅後に知ったのですが、このお堂には月台と呼ばれるスペースが設けられているという!
月台って何だ???
調べてみると、月台とは行事や法要の際、堂内に入りきれなかった人のために設けた場所のことなんだって。
ちなみにガイドさんのお話によると、この鬼瓦はNHK大河ドラマ・太閤記のオープニングに登場した瓦とのことです。
方丈・書院と開梛
●方丈・書院●方丈・書院
・1792年建立
・瓦葺 入母屋造
続いて、方丈へ。
通常、方丈は住職さんが住む居間のことをいいますが、この方丈は禅問答をする忽室・寝室・茶室を集約した建物として建立されたんだって。
さらにこの方丈には長州藩主・毛利家がお墓参りに訪れた際に休憩所として使用した座敷もあるそうです。
その他、方丈内には東光寺を開山した慧極さんの位牌と尊像、さらに毛利家・奇数代藩主の位牌を安置しているそうです。
ちなみに方丈の玄関は2ヶ所あり、向かって左側は殿様用、右側は家臣用の玄関といわれています。
●開梛(かいぱん)
方丈前の回廊には禅宗寺院のマストアイテムであります開梛がありました。
開梆は魚梆もしくは魚板とも呼ばれ、腹を叩いて時刻を知らせるためのものです。
ちなみに開梆は木魚の原型といわれています。
口にくわえている玉は、人間の心に潜む貪・瞋・痴という煩悩のかたまりで、腹を叩くことによって煩悩の玉を吐き出させるという意味があります。
●貪瞋痴とは?
・貪(とん) → 貪り(むさぼり)
・瞋(じん) → 怒り
・痴(ち) → 愚かさ
・貪(とん) → 貪り(むさぼり)
・瞋(じん) → 怒り
・痴(ち) → 愚かさ
ちなみに、本格的に木魚を使い始めたのは黄檗宗の開祖・隠元さんといわれています。
●その他の堂宇
・庫裏 1959年建立
・土蔵 1722年建立
・位牌堂 1933年建立
・庫裏 1959年建立
・土蔵 1722年建立
・位牌堂 1933年建立
毛利家墓所
●毛利家墓所●毛利家墓所
・江戸時代造営
・国の史跡
そんなこんなで、東光寺のハイライトであります、毛利家墓所へ。
この毛利家の墓所には長州藩3代藩主から11代藩主までの奇数代藩主と夫人および一族のお墓があるという!
そして墓前には長州藩士が寄進した石灯籠が500基以上もあるという!
偶数代藩主を祀る大照院はおぞましいほどの石灯籠が整然と立ち並んでいましたが、東光寺の石灯籠は左右均等に立ち並んでいて、どこかしら美を意識したような造りになっていました。
大名の墓所というと一族だけの聖域というイメージがありますが、長州藩士が寄進した石灯籠を見ていると藩主と藩士の一体感を感じることができました。
もしかしたら、明治維新が成し遂げられたのは、藩主と藩士の結びつきの強さが1つの要因だったのかも?
と思わせるような光景でした。
●東光寺の毛利家墓所
①3藩主・毛利吉就
②5代藩主・毛利吉元
③7代藩主・毛利重就
④9代藩主・毛利斉房
⑤11代藩主・毛利斉元
①3藩主・毛利吉就
②5代藩主・毛利吉元
③7代藩主・毛利重就
④9代藩主・毛利斉房
⑤11代藩主・毛利斉元
ちなみに長州藩毛利家の墓所は領内に4ヶ所あります。
①天樹院跡
・藩祖 毛利輝元
②大照院
・初代藩主 毛利秀就
・2〜12代の偶数代藩主
③東光寺
・3~11代の奇数代藩主
④香山墓所(瑠璃光寺)
・13代藩主 毛利敬親
・14代藩主 毛利元徳
あと、毎年8月13日に行われる萩・万灯会の迎え火では、この500基の石灯篭に灯が入り、幽玄な世界が広がるそうですよ。
いつか機会があったら拝見してみたいですなぁ。
そんなこんなで、参拝終了。
いやはや、素敵なお寺さんでした。
●大照院の参拝記と御朱印情報
~偶数代藩主が眠る毛利家墓所~
~偶数代藩主が眠る毛利家墓所~
大照院の御朱印|圧巻!600基以上の灯籠が並ぶ毛利家墓所|中国三十三観音 第20番|(山口県萩市)
所在地山口県萩市椿青海4132宗 派臨済宗南禅寺派札 所・中国三十三観音霊場 第20番・百八観音霊場 第25番・長門三十三観音霊場 第14番・萩八十八ヶ所めぐり霊場 第1・2番由 緒16...
萩と毛利氏
●萩と毛利氏
戦国時代、毛利元就は中国・四国地方の10ヶ国(長門・周防・石見・安芸・備後・備中・出雲・伯耆・因幡・隠岐)を領する西国一の戦国大名となりました。
1600年、毛利元就の孫ならびに毛利家の当主・輝元は関ヶ原の戦いで西軍の総大将に祭り上げられることになりました。
関ヶ原の戦いは西軍80000以上。
東軍74000〜100000以上の戦いでした(諸説あり)
ご存知、関ヶ原の戦いは西軍・小早川秀秋の寝返りなどにより西軍の敗退。
ちなみに、小早川秀秋は毛利輝元の叔父・小早川隆景の養子です。
しかし、毛利氏の主力部隊は関ヶ原に参戦しませんでした。
一説によると、毛利氏が本気で出陣していたら、毛利氏だけで10万人を集めることができたともいわれています(諸説あり)
これが全部西軍に加わっていたら歴史は変わっていたかもしれませんね(浪漫)
そんなこんなで、西軍は敗れてしまうわけなのですが、毛利氏は負けたけど参戦していないのでお家安泰・・・と思っていたら、徳川家康は『わしは聞いておらん』と知らん顔。
結局、毛利氏は石高を120万石から36万9千石に減らされ、防長二州(周防・長門)に減封させられました。
毛利氏は交通の利便や気候などを考え、瀬戸内海側にお城を築城したかったのですが、徳川家康からの許可が下りず・・・結局、辺境の地であった萩に城を築くことになりました(諸説あり)
そんなこんなで、本拠を広島から萩に移し萩城を築城。
ちなみに、関ヶ原の戦いで西軍についた毛利氏・長宗我部氏・島津氏は、後の長州藩・土佐藩・薩摩藩・・・徳川政権下では何かと苦渋を味わった藩です。
これらの藩が中心となり、明治維新が成し遂げられるとは・・・さすがの家康さんもそこまでは読めなかったか。。
もしかしたら明治維新は、関ヶ原以降の徳川政権に対する270年間の恨みが原動力の1つだったのかも知れませんね。
萩といえば、幕末維新の先駆者・吉田松陰をはじめ、高杉晋作・久坂玄瑞・木戸孝允(桂小五郎)などなど、明治維新を牽引した志士たちの故郷として知られています。
それにしても、なぜ本州の隅っこの小さな町でこれほどまで多くの偉人が輩出されたのでしょう?
これは吉田松陰の教育はもちろん、長州藩がこれらの人材を支援できるほど潤っていたことが大きな要因だといわれています。
長州藩の石高は36万9千石といわれていますが、実際は100万石ぐらいあったとも!
そんなこんなで、長州藩には幕末の志士たちを支える力があったということですね。
長州藩13代藩主・毛利敬親は、家臣の言うことに対して何でも『そうせい』と答えることからそうせい公と陰口をたたかれていましたが、要所では重大な決断をし明確な指示を与えていました。
そうせい公というカッコ悪い異名もつ藩主ですが、実は聞く耳を持った藩主で、さまざまな決断と改革を行い、人々が活躍できる環境を整え、時代を動かす有能な人材を育てた幕末のリーダーだったのでした。
関ヶ原の戦いで総大将に祭り上げられた毛利輝元。
そして、小早川秀秋の寝返り。
幕末期の毛利氏の決断と、維新を成し遂げた長州藩士。
戦国時代以降、時代の節目には毛利氏が絡んでいます。
現代においても、山口県は内閣総理大臣を最も多く輩出している県として知られています。
時代を動かす毛利チルドレン・・・スゴいよ長州!
~画像は全てWikipediaより~
戦国時代、毛利元就は中国・四国地方の10ヶ国(長門・周防・石見・安芸・備後・備中・出雲・伯耆・因幡・隠岐)を領する西国一の戦国大名となりました。
1600年、毛利元就の孫ならびに毛利家の当主・輝元は関ヶ原の戦いで西軍の総大将に祭り上げられることになりました。
関ヶ原の戦いは西軍80000以上。
東軍74000〜100000以上の戦いでした(諸説あり)
ご存知、関ヶ原の戦いは西軍・小早川秀秋の寝返りなどにより西軍の敗退。
ちなみに、小早川秀秋は毛利輝元の叔父・小早川隆景の養子です。
しかし、毛利氏の主力部隊は関ヶ原に参戦しませんでした。
一説によると、毛利氏が本気で出陣していたら、毛利氏だけで10万人を集めることができたともいわれています(諸説あり)
これが全部西軍に加わっていたら歴史は変わっていたかもしれませんね(浪漫)
そんなこんなで、西軍は敗れてしまうわけなのですが、毛利氏は負けたけど参戦していないのでお家安泰・・・と思っていたら、徳川家康は『わしは聞いておらん』と知らん顔。
結局、毛利氏は石高を120万石から36万9千石に減らされ、防長二州(周防・長門)に減封させられました。
毛利氏は交通の利便や気候などを考え、瀬戸内海側にお城を築城したかったのですが、徳川家康からの許可が下りず・・・結局、辺境の地であった萩に城を築くことになりました(諸説あり)
そんなこんなで、本拠を広島から萩に移し萩城を築城。
ちなみに、関ヶ原の戦いで西軍についた毛利氏・長宗我部氏・島津氏は、後の長州藩・土佐藩・薩摩藩・・・徳川政権下では何かと苦渋を味わった藩です。
これらの藩が中心となり、明治維新が成し遂げられるとは・・・さすがの家康さんもそこまでは読めなかったか。。
もしかしたら明治維新は、関ヶ原以降の徳川政権に対する270年間の恨みが原動力の1つだったのかも知れませんね。
萩といえば、幕末維新の先駆者・吉田松陰をはじめ、高杉晋作・久坂玄瑞・木戸孝允(桂小五郎)などなど、明治維新を牽引した志士たちの故郷として知られています。
それにしても、なぜ本州の隅っこの小さな町でこれほどまで多くの偉人が輩出されたのでしょう?
これは吉田松陰の教育はもちろん、長州藩がこれらの人材を支援できるほど潤っていたことが大きな要因だといわれています。
長州藩の石高は36万9千石といわれていますが、実際は100万石ぐらいあったとも!
そんなこんなで、長州藩には幕末の志士たちを支える力があったということですね。
長州藩13代藩主・毛利敬親は、家臣の言うことに対して何でも『そうせい』と答えることからそうせい公と陰口をたたかれていましたが、要所では重大な決断をし明確な指示を与えていました。
そうせい公というカッコ悪い異名もつ藩主ですが、実は聞く耳を持った藩主で、さまざまな決断と改革を行い、人々が活躍できる環境を整え、時代を動かす有能な人材を育てた幕末のリーダーだったのでした。
関ヶ原の戦いで総大将に祭り上げられた毛利輝元。
そして、小早川秀秋の寝返り。
幕末期の毛利氏の決断と、維新を成し遂げた長州藩士。
戦国時代以降、時代の節目には毛利氏が絡んでいます。
現代においても、山口県は内閣総理大臣を最も多く輩出している県として知られています。
時代を動かす毛利チルドレン・・・スゴいよ長州!
~画像は全てWikipediaより~
御朱印情報
●御朱印の種類
・東光寺の御朱印
●御朱印の受付場所
・拝観受付
●御朱印の受付時間
・8:30~17:00
●御朱印の料金
・300円
●期間限定・特別御朱印
・なし
●オリジナル御朱印帳
●サイズ
・16cm × 11cm
●料金
・1000円
・2009年3月20日 参拝
・2015年10月18日 再訪
・2022年6月 更新
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参拝情報とアクセス
●開門時間
・8:30~17:00
●定休日
・無休
●拝観料
・大人・大学生・高校生 300円
・中学・小学生 150円
●最寄りの駅
・JR東萩駅から徒歩25分
・JR東萩駅から車で5分
●最寄りのバス停
・萩循環まぁーるバス(東回り)
東光寺前 バス停から徒歩1分
※萩循環まぁーるバスの詳細はこちら。
●最寄りのIC
・中国自動車道
美祢東JCTから小郡萩道路(無料)へ
終点・絵堂ICから車で30分
●駐車場
・無料の専用駐車場あり(20台)
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