
住 所 | 山口県宇部市大字西万倉496 |
---|---|
祭 神 | ・国司親相(信濃) ・禁門の変、四境戦争、西南戦争、日清戦争、日露戦争、大東亜戦争などで戦没した英霊204柱 |
由 緒 | 1866年、国司家当主・国司純行が、国司家の練兵場に父・国司親相(信濃)の招魂墓を建てたのが始まり。その後、禁門の変(蛤御門の変)と四境戦争(第二次長州征伐)の戦没者27人が合祀されました。1874年、官祭となり垰招魂社と呼ばれ、1939年に万倉護国神社と改称し、現在に至ります。 |
HP | 宮尾八幡宮 万倉護国神社 万倉天満宮 神葬祭 永代供養 |
鳥居
●鳥居

●鳥居
・1945年建立
・神明鳥居(靖国鳥居)
山口県宇部市の西万倉に鎮座する万倉護国神社に到着。
万倉護国神社と書いてまぐらごこくじんじゃと読みます。
まず最初に登場するのは靖国型の神明鳥居。
やはり護国系の神社には神明鳥居が似合いますねぇ。
ちなみに、万倉護国神社は宮尾八幡宮の兼務社となります。

護国神社の社格は、内務大臣が指定した指定護国神社(府社・県社相当)と、それ以外の指定外護国神社(村社相当)に分けられています。
ちなみに、この万倉護国神社は指定外護国神社となっております。

●鳥居
・1945年建立
・神明鳥居(靖国鳥居)
山口県宇部市の西万倉に鎮座する万倉護国神社に到着。
万倉護国神社と書いてまぐらごこくじんじゃと読みます。
まず最初に登場するのは靖国型の神明鳥居。
やはり護国系の神社には神明鳥居が似合いますねぇ。
ちなみに、万倉護国神社は宮尾八幡宮の兼務社となります。
●宮尾八幡宮の兼務社
・万倉護国神社
・広矛神社
・賀茂神社
・万倉護国神社
・広矛神社
・賀茂神社

護国神社の社格は、内務大臣が指定した指定護国神社(府社・県社相当)と、それ以外の指定外護国神社(村社相当)に分けられています。
ちなみに、この万倉護国神社は指定外護国神社となっております。
拝殿と本殿
●拝殿

●拝殿
・1942年建立
・銅板葺 平入り切妻造
続いて、拝殿で参拝。
今日の平和は、私達の為に犠牲となり尊い命を捧げられた英霊様によるものと深く感謝。
ちなみに、拝殿内には英霊の写真がズラーと掲げられていました。
さすがに写真を撮るのは控えさせて頂きました。

主祭神は国司親相(信濃)さん。
その他、禁門の変・四境戦争・西南戦争・日清戦争・日露戦争・大東亜戦争などで戦没した 英霊204柱が祀られていました。
●英霊204柱の内訳
●本殿

●本殿
・1942年建立
・銅板葺 神明造
本殿は台座部分に板が張られているため、一見ノッポな造りに見えますが、おそらく板張りの向こうには高床もしくは石積みの台座があると思われます。

●拝殿
・1942年建立
・銅板葺 平入り切妻造
続いて、拝殿で参拝。
今日の平和は、私達の為に犠牲となり尊い命を捧げられた英霊様によるものと深く感謝。
ちなみに、拝殿内には英霊の写真がズラーと掲げられていました。
さすがに写真を撮るのは控えさせて頂きました。

主祭神は国司親相(信濃)さん。
その他、禁門の変・四境戦争・西南戦争・日清戦争・日露戦争・大東亜戦争などで戦没した 英霊204柱が祀られていました。
●英霊204柱の内訳
1864年 | 禁門の変 | 19柱 |
1866年 | 四境戦争 | 12柱 |
1874年 | 佐賀の乱 | 2柱 |
1877年 | 西南戦争 | 4柱 |
1894〜 1895年 | 日清戦争 | 6柱 |
1900年 | 北清事変 | 1柱 |
1904〜 1905年 | 日露戦争 | 11柱 |
1918〜 1922年 | シベリア出兵 | 2柱 |
1935年 | 満州匪賊討伐 | 2柱 |
1937〜 1945年 | 日中戦争 | 13柱 |
1941〜 1945年 | 大東亜戦争 | 132柱 |
●本殿

●本殿
・1942年建立
・銅板葺 神明造
本殿は台座部分に板が張られているため、一見ノッポな造りに見えますが、おそらく板張りの向こうには高床もしくは石積みの台座があると思われます。
万倉招魂場
●万倉招魂場

●万倉招魂場
・2006年移設
続いて、社殿の横にある万倉招魂場を参拝。


招魂場の1番奥には国司親相(信濃)さんを祀る石祠。
そして、その両サイドにはたくさんの墓碑が建ち並んでいました。
そのうち19基が禁門の変の戦没者とのことです。
それにしても、山口県には招魂場が多いです。
一説によると、全国には104社の官祭招魂社があるそうです。
そのうち、山口県内には22社の招魂社があるんだって。
なんと、全国の招魂社の23%が山口県に集中しているのだという!
そんなこんなで、招魂社の数は山口県が全国最多となっております。
ちなみに、山口県に次いで多いのは鹿児島県の17社。
山口県と鹿児島県を合わせると39社。
これは全国にある招魂社の38%、実に約4割を占めているという!
しかしなんで山口県と鹿児島県に招魂社が多いのか・・・!?
答えは簡単。
長州藩と薩摩藩は明治維新の主力となった藩で、第一次・二次長州征伐(四境戦争)や戊辰戦争や西南戦争など幕末から明治時代の一連の戦いで命を落とした方が多かったからです。
そんなこんなで、明治維新で官軍となった長州藩や薩摩藩などでは、藩の地域ごとに戦没者を祀る招魂社がたくさんつくられたというわけなんですね。


●万倉招魂場
・2006年移設
続いて、社殿の横にある万倉招魂場を参拝。
●万倉招魂場とは?

1867年、国司家の菩提寺・天龍寺の向かいにある国司家の練兵場に、国司親相の招魂墓を建てたのが万倉招魂場の始まり。
そして2006年、現在地に墓碑を移して万倉招魂場と改称しました。

1867年、国司家の菩提寺・天龍寺の向かいにある国司家の練兵場に、国司親相の招魂墓を建てたのが万倉招魂場の始まり。
そして2006年、現在地に墓碑を移して万倉招魂場と改称しました。


招魂場の1番奥には国司親相(信濃)さんを祀る石祠。
そして、その両サイドにはたくさんの墓碑が建ち並んでいました。
そのうち19基が禁門の変の戦没者とのことです。
それにしても、山口県には招魂場が多いです。
一説によると、全国には104社の官祭招魂社があるそうです。
そのうち、山口県内には22社の招魂社があるんだって。
なんと、全国の招魂社の23%が山口県に集中しているのだという!
そんなこんなで、招魂社の数は山口県が全国最多となっております。
ちなみに、山口県に次いで多いのは鹿児島県の17社。
山口県と鹿児島県を合わせると39社。
これは全国にある招魂社の38%、実に約4割を占めているという!
しかしなんで山口県と鹿児島県に招魂社が多いのか・・・!?
答えは簡単。
長州藩と薩摩藩は明治維新の主力となった藩で、第一次・二次長州征伐(四境戦争)や戊辰戦争や西南戦争など幕末から明治時代の一連の戦いで命を落とした方が多かったからです。
そんなこんなで、明治維新で官軍となった長州藩や薩摩藩などでは、藩の地域ごとに戦没者を祀る招魂社がたくさんつくられたというわけなんですね。
●山口県の招魂社
①桜山神社(桜山招魂社)
②赤妻神社(赤妻招魂社)
③大島神社(八田山招魂社)
④朝日山護国神社(朝日山招魂社)
⑤栄山神社(山手招魂社)
⑥中山神社(勝野原招魂社)
⑦麻郷護国神社(惣田山招魂社)
⑧防府市護国神社(桑山招魂社)
⑨宇部護国神社(維新山招魂社)
⑩厚狭神社(物見山招魂社)
⑪良城神社(吉敷招魂社)
⑫下松護国神社(山添招魂社)
⑬湯野神社(後山招魂社)
⑭舟木護国神社(鳶ヶ巣招魂社)
⑮江良神社(江良招魂社)
⑯万倉護国神社(峠招魂社)
⑰岩国護国神社(関所山招魂社)
⑱萩市護国神社(長添山招魂社)
⑲三蔭山神社(三蔭山招魂社)
⑳冨田護国神社(永源山招魂社)
㉑土原護国神社(浮島招魂社)
㉒光峨嵋山護国神社(峨嵋山招魂社)
①桜山神社(桜山招魂社)
②赤妻神社(赤妻招魂社)
③大島神社(八田山招魂社)
④朝日山護国神社(朝日山招魂社)
⑤栄山神社(山手招魂社)
⑥中山神社(勝野原招魂社)
⑦麻郷護国神社(惣田山招魂社)
⑧防府市護国神社(桑山招魂社)
⑨宇部護国神社(維新山招魂社)
⑩厚狭神社(物見山招魂社)
⑪良城神社(吉敷招魂社)
⑫下松護国神社(山添招魂社)
⑬湯野神社(後山招魂社)
⑭舟木護国神社(鳶ヶ巣招魂社)
⑮江良神社(江良招魂社)
⑯万倉護国神社(峠招魂社)
⑰岩国護国神社(関所山招魂社)
⑱萩市護国神社(長添山招魂社)
⑲三蔭山神社(三蔭山招魂社)
⑳冨田護国神社(永源山招魂社)
㉑土原護国神社(浮島招魂社)
㉒光峨嵋山護国神社(峨嵋山招魂社)

桜山神社(櫻山招魂社)の御朱印|日本初の招魂場|靖国神社の原型となった神社|(山口県下関市)
所在地山口県下関市上新地町2-6祭 神幕末・明治維新で殉じた志士達391柱由 緒1864年、高杉晋作の発議により攘夷戦争で戦死した志士を祀る招魂場を創建。当初は奇兵隊の戦死者を祀るものとしてつくられました...
国司信濃像と国司公顕彰碑
●国司信濃像

●国司信濃像
・1964年建立
境内には、禁門の変の責任をとって自刃した国司親相(信濃)さんの像がありました。

国司親相さんは、江戸時代末期に活躍した武士で長州藩の家老です。
通称・ 国司信濃の名で知られるお方です。
国司親相と書いてくにし ちかすけと読みます。
●国司公顕彰碑

●国司公顕彰碑
・1892年建立
境内には国司公顕彰碑もありました。
もともとこの顕彰碑は、垰招魂場に建っていたそうです。
ちなみに、題字は長州藩最後の藩主・毛利元徳さんの筆なんだって。


●国司信濃像
・1964年建立
境内には、禁門の変の責任をとって自刃した国司親相(信濃)さんの像がありました。

国司親相さんは、江戸時代末期に活躍した武士で長州藩の家老です。
通称・ 国司信濃の名で知られるお方です。
国司親相と書いてくにし ちかすけと読みます。
● 国司親相(信濃)と禁門の変

江戸時代末期、外国船、いわゆる黒船がたびたび日本の近海に現れ、江戸幕府に対して開国を要求してきました。
そんな外国船を脅威と感じた志士たちは外敵を排除するために立ち上がります。
いわゆる攘夷です。
しかし徳川幕府は外国の要求をのんで開国しちゃいました。
そして攘夷派の志士たちは弱腰政策をする幕府を非難するようになりました。
そんなこんなで、下級武士を中心に尊王攘夷運動が起こりました。
尊王攘夷を掲げた志士たちの中心にいたのが長州藩士です。
そして武士だけではなく朝廷内にも尊王攘夷派がいました。
その中心にいたのが三条実美です。

1862年、薩摩藩主・島津久光が幕府の政治を改革して公武合体運動をすすめました(文久の改革)
当然、この改革により長州藩をはじめとする尊王攘夷派との関係が悪化。
長州藩と薩摩藩の対立が深まることになりました。
一方、朝廷内でも尊王攘夷派と公武合体派の対立が起きていました。
そんなこんなで、公武合体派の岩倉具視は尊王攘夷派の三条実美の罠にはまり、政治の世界から追いだされてしまいました。
その後も長州藩は京都で勢力をのばし、過激な活動で尊王攘夷を推し進めました。
イケイケの長州藩は、自分達の力で外国を追い払おうとして英・仏・蘭・米の連合艦隊と戦争したりもしました(下関戦争)
しかし武力では外国に勝てない・・・
そのことを思い知った長州藩は三条実美らの根回しで孝明天皇を神武天皇のお墓などに参拝させる計画を画策しました(大和行幸の詔)
これはどういうことかというと、孝明天皇が初代天皇・神武天皇のお墓を参拝して攘夷を祈願することで、幕府も攘夷を行うしかないという状況に追い込もうとしたわけです。
しかし孝明天皇は過激なことばかりする長州藩と関わりたくありませんでした。
一生懸命頑張っているのに、気がつけば孤立してしまった長州藩・・・。

しかし長州藩の暴走は止まりません。
そこで動き出したのが薩摩藩と会津藩。
1863年、薩摩藩と会津藩は御所の門を封鎖し、厳重な警備の中、大和行幸の延期と三条実美らの処遇についての話し合いを行いました(八月十八日の政変)
そのことを知った三条実美と長州藩は慌てて御所に駆け付け堺町門に集結。
しかし、時すでに遅し・・・。
門を守っていた薩摩藩・会津藩とにらみ合いになりますが、さすがの長州藩も御所に向けて砲撃することはできず・・・長州藩は退去することになりました。
これにより、長州藩が握っていた朝廷内での主導権は薩摩藩と会津藩に奪われることになりました。
主導権を奪われたことに納得がいかない長州藩・・・

翌年、八月十八日の政変で京都を追われた長州藩は、イギリスと密貿易を行なっていた薩摩船を撃沈させるなど、さらに過激な行動に出ました。
一方、幕府は尊皇攘夷派を取り締まるため、新選組を設置。
これにより、幕府と尊皇攘夷派の衝突はさらに激化。
そして1864年、京都の旅館・池田屋に潜伏していた長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派が襲撃されました(池田屋事件)
これにより、長州藩の国司親相・ 福原元僴・益田親施の三家老などが『藩主の冤罪を帝に訴える』ことを名目に挙兵を決意。
250人を超える遊撃隊を引き連れて入京。
それを追って長州藩兵3000人が伏見・嵯峨・山崎に布陣。

しかし、朝廷は長州藩の願いを聞き入れませんでした。
そのことにより、御所の蛤御門付近で長州藩と薩摩藩・会津藩の間で武力衝突が起こりました(禁門の変・蛤御門の変)
国司親相・来島又兵衛隊と福原元僴隊は、筑前藩が守る中立売門を突破して京都御所内に侵入するなど、優勢に戦っていましたが、西郷隆盛率いる薩摩藩が加勢に駆けつけたことで長州藩は敗北。
戦いは1日で決着しました。
この争いで、長州藩が撃った砲弾が御所内に着弾。
さらに長州藩主父子が国司親相に与えた軍令状が発見されたことなどにより、長州藩は朝敵になりました。
そんなこんなで、孝明天皇は長州藩主・毛利慶親の追討令を発令。
そして第一次長州征伐が行われることになりました。

ちなみに、長州藩主・毛利慶親は、12代将軍・徳川家慶から賜った慶の偏諱を剥奪され、敬親と改名。
毛利敬親の養嗣子・毛利定広も13代将軍・徳川家定から賜った定の諱を剥奪され、広封に改名。
薩摩藩と会津藩に対しての恨みは相当なものだったらしく、長州藩兵は履物に薩賊会奸などと書き、踏みつけるようにして歩いていたといわれています。

そんなこんなで、幕府は長州藩主・毛利敬親と定広に禁門の変を起こした責任を問い伏罪をさせるため、尾張藩・越前藩・西国諸藩など35藩、総勢15万人を動員し、長州藩主父子がいる山口へ向かうことを決定(第一次長州征伐)
そこで、長州藩主・毛利敬親は、朝廷・幕府との交渉を岩国藩主・吉川経幹に託しました。
吉川経幹は極秘に岩国を訪れていた第一次長州征伐の参謀・西郷隆盛らと対面。
などを条件に、第一次長州征伐は戦わずして長州藩の敗北となりました。
その後、三家老の国司親相 ・福原元僴・益田親施は、禁門の変の責任を取るかたちで切腹を命じられ自刃。
広島の国泰寺で、総督・徳川慶勝による三家老の首実検が行われました。
ちなみに、その後の第二次長州征伐で幕府は長州藩に敗れ、急速に明治維新に傾くのでありました。
1888年、国司親相の御霊は靖国神社に合祀。
さらに、1891年には正四位が贈られています。

江戸時代末期、外国船、いわゆる黒船がたびたび日本の近海に現れ、江戸幕府に対して開国を要求してきました。
そんな外国船を脅威と感じた志士たちは外敵を排除するために立ち上がります。
いわゆる攘夷です。
しかし徳川幕府は外国の要求をのんで開国しちゃいました。
そして攘夷派の志士たちは弱腰政策をする幕府を非難するようになりました。
そんなこんなで、下級武士を中心に尊王攘夷運動が起こりました。
尊王攘夷を掲げた志士たちの中心にいたのが長州藩士です。
そして武士だけではなく朝廷内にも尊王攘夷派がいました。
その中心にいたのが三条実美です。

1862年、薩摩藩主・島津久光が幕府の政治を改革して公武合体運動をすすめました(文久の改革)
当然、この改革により長州藩をはじめとする尊王攘夷派との関係が悪化。
長州藩と薩摩藩の対立が深まることになりました。
一方、朝廷内でも尊王攘夷派と公武合体派の対立が起きていました。
そんなこんなで、公武合体派の岩倉具視は尊王攘夷派の三条実美の罠にはまり、政治の世界から追いだされてしまいました。
その後も長州藩は京都で勢力をのばし、過激な活動で尊王攘夷を推し進めました。
イケイケの長州藩は、自分達の力で外国を追い払おうとして英・仏・蘭・米の連合艦隊と戦争したりもしました(下関戦争)
しかし武力では外国に勝てない・・・
そのことを思い知った長州藩は三条実美らの根回しで孝明天皇を神武天皇のお墓などに参拝させる計画を画策しました(大和行幸の詔)
これはどういうことかというと、孝明天皇が初代天皇・神武天皇のお墓を参拝して攘夷を祈願することで、幕府も攘夷を行うしかないという状況に追い込もうとしたわけです。
しかし孝明天皇は過激なことばかりする長州藩と関わりたくありませんでした。
一生懸命頑張っているのに、気がつけば孤立してしまった長州藩・・・。

しかし長州藩の暴走は止まりません。
そこで動き出したのが薩摩藩と会津藩。
1863年、薩摩藩と会津藩は御所の門を封鎖し、厳重な警備の中、大和行幸の延期と三条実美らの処遇についての話し合いを行いました(八月十八日の政変)
そのことを知った三条実美と長州藩は慌てて御所に駆け付け堺町門に集結。
しかし、時すでに遅し・・・。
門を守っていた薩摩藩・会津藩とにらみ合いになりますが、さすがの長州藩も御所に向けて砲撃することはできず・・・長州藩は退去することになりました。
これにより、長州藩が握っていた朝廷内での主導権は薩摩藩と会津藩に奪われることになりました。
主導権を奪われたことに納得がいかない長州藩・・・

翌年、八月十八日の政変で京都を追われた長州藩は、イギリスと密貿易を行なっていた薩摩船を撃沈させるなど、さらに過激な行動に出ました。
一方、幕府は尊皇攘夷派を取り締まるため、新選組を設置。
これにより、幕府と尊皇攘夷派の衝突はさらに激化。
そして1864年、京都の旅館・池田屋に潜伏していた長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派が襲撃されました(池田屋事件)
これにより、長州藩の国司親相・ 福原元僴・益田親施の三家老などが『藩主の冤罪を帝に訴える』ことを名目に挙兵を決意。
250人を超える遊撃隊を引き連れて入京。
それを追って長州藩兵3000人が伏見・嵯峨・山崎に布陣。

しかし、朝廷は長州藩の願いを聞き入れませんでした。
そのことにより、御所の蛤御門付近で長州藩と薩摩藩・会津藩の間で武力衝突が起こりました(禁門の変・蛤御門の変)
国司親相・来島又兵衛隊と福原元僴隊は、筑前藩が守る中立売門を突破して京都御所内に侵入するなど、優勢に戦っていましたが、西郷隆盛率いる薩摩藩が加勢に駆けつけたことで長州藩は敗北。
戦いは1日で決着しました。
この争いで、長州藩が撃った砲弾が御所内に着弾。
さらに長州藩主父子が国司親相に与えた軍令状が発見されたことなどにより、長州藩は朝敵になりました。
そんなこんなで、孝明天皇は長州藩主・毛利慶親の追討令を発令。
そして第一次長州征伐が行われることになりました。

ちなみに、長州藩主・毛利慶親は、12代将軍・徳川家慶から賜った慶の偏諱を剥奪され、敬親と改名。
毛利敬親の養嗣子・毛利定広も13代将軍・徳川家定から賜った定の諱を剥奪され、広封に改名。
薩摩藩と会津藩に対しての恨みは相当なものだったらしく、長州藩兵は履物に薩賊会奸などと書き、踏みつけるようにして歩いていたといわれています。

そんなこんなで、幕府は長州藩主・毛利敬親と定広に禁門の変を起こした責任を問い伏罪をさせるため、尾張藩・越前藩・西国諸藩など35藩、総勢15万人を動員し、長州藩主父子がいる山口へ向かうことを決定(第一次長州征伐)
そこで、長州藩主・毛利敬親は、朝廷・幕府との交渉を岩国藩主・吉川経幹に託しました。
吉川経幹は極秘に岩国を訪れていた第一次長州征伐の参謀・西郷隆盛らと対面。
①禁門の変の責任者である三家老(国司親相・福原元僴・益田親施)を処分。
②長州藩主父子の謝罪状を提出。
③八月十八日の政変で長州に逃げ込んだ5人の公卿を太宰府へ移居させる。
④山口城を破棄する。
②長州藩主父子の謝罪状を提出。
③八月十八日の政変で長州に逃げ込んだ5人の公卿を太宰府へ移居させる。
④山口城を破棄する。
などを条件に、第一次長州征伐は戦わずして長州藩の敗北となりました。
その後、三家老の国司親相 ・福原元僴・益田親施は、禁門の変の責任を取るかたちで切腹を命じられ自刃。
広島の国泰寺で、総督・徳川慶勝による三家老の首実検が行われました。
ちなみに、その後の第二次長州征伐で幕府は長州藩に敗れ、急速に明治維新に傾くのでありました。
1888年、国司親相の御霊は靖国神社に合祀。
さらに、1891年には正四位が贈られています。
●国司公顕彰碑

●国司公顕彰碑
・1892年建立
境内には国司公顕彰碑もありました。
もともとこの顕彰碑は、垰招魂場に建っていたそうです。
ちなみに、題字は長州藩最後の藩主・毛利元徳さんの筆なんだって。

宇部護国神社・金家来神社の御朱印情報|禁門の変の責任をとって自刃した福原元僴(越後)を祀る(山口県宇部市)
所在地山口県宇部市中宇部小串東1631祭 神・福原元僴(福原越後)と家臣22柱・日清戦争・日露戦争などの戦没者・大東亜戦争で戦没した英霊3430柱・消防などの公務殉職者由 緒1865年、琴崎八...
井上幾太郎像と奉納砲弾
●井上幾太郎像

●井上幾太郎像
・1956年建立
さらに境内には井上幾太郎さんの像もありました。
井上幾太郎さんは明治~昭和時代に活躍した日本陸軍の軍人。
万倉出身で、陸軍大将にまで上り詰めた方のようです。

題字は毛利家30代当主・毛利元道さんの筆。

ちなみに、拝殿の扁額は井上幾太郎さんの筆でした。
●奉納砲弾

その他、境内には奉納砲弾もありました。

縦向きじゃなく横向きの奉納砲弾ってちょっと珍しいと思いました。
そんなこんなで、参拝終了。
平和な時代に感謝です。

●井上幾太郎像
・1956年建立
さらに境内には井上幾太郎さんの像もありました。
井上幾太郎さんは明治~昭和時代に活躍した日本陸軍の軍人。
万倉出身で、陸軍大将にまで上り詰めた方のようです。

題字は毛利家30代当主・毛利元道さんの筆。

ちなみに、拝殿の扁額は井上幾太郎さんの筆でした。
●奉納砲弾

その他、境内には奉納砲弾もありました。

縦向きじゃなく横向きの奉納砲弾ってちょっと珍しいと思いました。
そんなこんなで、参拝終了。
平和な時代に感謝です。
御朱印情報
●御朱印の種類
・万倉護国神社の御朱印
●御朱印の受付場所
・宮尾八幡宮の社務所(授与所)
※宮尾八幡宮は、万倉護国神社から徒歩10分のところにあります。
●御朱印の受付時間
・不明
●御朱印の料金
・300円
●期間限定・特別御朱印
・なし
●オリジナル御朱印帳
・なし
・2018年4月19日 参拝
・2023年1月 更新

・万倉護国神社の御朱印
●御朱印の受付場所
・宮尾八幡宮の社務所(授与所)
※宮尾八幡宮は、万倉護国神社から徒歩10分のところにあります。
●御朱印の受付時間
・不明
●御朱印の料金
・300円
●期間限定・特別御朱印
・なし
●オリジナル御朱印帳
・なし
・2018年4月19日 参拝
・2023年1月 更新

宮尾八幡宮の御朱印|6種の御朱印|大正時代のおみくじ機が・・・!?(山口県宇部市)
住 所山口県宇部市大字西万倉1773祭 神主祭神応神天皇・神功皇后・仲哀天皇相殿神田心比売命・多岐津比売命・市杵島比売命由 緒創建年は不詳。創建には諸説あり、別府古宮台から遷座した説と、神...
参拝情報とアクセス
●開門時間
・境内自由
●拝観料
・無料
●最寄りの駅
・JR厚東駅から車で7分
・JR宇部駅から車で15分
●最寄りのバス停
・船鉄バス
若者センター前 バス停から徒歩2分
・船鉄バス
万倉 バス停から徒歩5分
・船鉄バス
中ノ浴 バス停から徒歩7分
●最寄りのIC
・山陽自動車道(宇部下関線)
小野田ICから車で15分
●駐車場
・境内前に駐車スペースあり
・境内自由
●拝観料
・無料
●最寄りの駅
・JR厚東駅から車で7分
・JR宇部駅から車で15分
●最寄りのバス停
・船鉄バス
若者センター前 バス停から徒歩2分
・船鉄バス
万倉 バス停から徒歩5分
・船鉄バス
中ノ浴 バス停から徒歩7分
●最寄りのIC
・山陽自動車道(宇部下関線)
小野田ICから車で15分
●駐車場
・境内前に駐車スペースあり