龍福寺の御朱印|大内義隆の菩提寺|大内氏館跡にあります|(山口県山口市)

所在地山口県山口市大殿大路119
宗 派曹洞宗
由 緒1206年、現・山口市白石に創建した瑞雲寺がこのお寺の始まりといいます。創建当初は臨済宗でしたが、1454年に曹洞宗に改宗し、寺号を龍福寺に改めたそうです。1551年、大内義隆の家臣・陶晴賢が謀反を起こし焼失。大内義隆は、山口を追われ長門に逃亡するも、大寧寺にて自害。そんなこんなで、1557年に後奈良天皇の命を受けた毛利隆元が龍福寺を現在地に移転し、自害した大内義隆の菩提寺として復興させたそうです。1881年、山門など一部の堂宇を残して焼失。1883年、大内氏の氏寺・興隆寺の釈迦堂を移築して本堂とし現在に至るそうです。
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龍福寺とは?


本日はレンタサイクルで西の京山口市を旅しています。


室町時代、中国地方を支配していた大内氏は、明・朝鮮・琉球など東アジアとの交易・交流を盛んに行っていたことにより莫大な利益を得ていたという。

そんなこんなで、山口はをしのぐほどにまで繁栄。
京を模した町づくりは西の京と呼ばれる小京都となり、大内文化が花開きました。

当時、京は戦乱により荒れ地になっていたという。

そんなこんなで、京の戦乱を避けて公卿僧侶など、多くの文化人が山口を訪れたそうです。

小京都と呼ばれる場所は全国にたくさんありますが、実際に京の貴族が住み着いた場所は山口や越前など限られた場所だけです。

室町幕府にも影響力を持っていたといいますから、当時の大内氏の繁栄は相当なものだったんだろうなぁ!

そんな大内氏の館があった場所がここ龍福寺です!

龍福寺は大寧寺の変で自害した大内義隆さんの菩提寺なんだって。

●龍福寺とは?

1206年、大内氏3代当主・大内満盛さんが現・山口市白石に宝珠山 瑞雲寺を創建したのが始まりといいます。

創建当初は臨済宗の寺院だったそうです。

1454年、大内氏13代当主・大内教弘さんが雪心和尚を迎え中興開山とし曹洞宗に改宗。

そして山号・寺号を瑞雲山 龍福寺と改称したそうです。


しかし、大内氏16代当主・大内義隆さんが家臣・陶晴賢の謀反に遭い焼失。

大内義隆は山口を追われ長門に逃亡するも、大寧寺にて自害(大寧寺の変)


そんなこんなで、1557年に後奈良天皇の命を受けた毛利隆元さんが大内氏館跡がある現在地に移転再建し、大寧寺の変で自害した大内義隆の菩提寺として復興させたそうです。

ところが1881年、火災に遭い山門と禅堂を残して焼失。

その後、1883年に現・山口市大内御堀にあった大内家の氏寺・興隆寺から釈迦堂移築して本堂にしたそうです。

それが現在の本堂といわれています。

そんなこんなで、参拝開始。
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さきがけの松とサビエル布教の井戸

●境内入口と参道

まず最初に登場するのは山門に向けて一直線に伸びる参道

長さは100mほどあるでしょうか?

この参道は紅葉の名所として知られているらしく、シーズンになると紅葉のトンネルが見れるのだとか!


●さきがけの松

境内入口にはさきがけの松がありました。

どうやらこの木は、1895年に鴻東尋常高等小学校が開校した記念として植えられた松なんだって。

ほんでもって、翌年に山県有朋さんが訪れた際、子供達が将来に向って大きく羽ばたいて成長することを願って先駆けるとの意味からさきがけの松と命名。

そして、大殿地区の有志がこの石碑を建立したそうです。

ちなみに石碑の文字は山県有朋さんの揮毫なんだって。


●サビエル布教の井戸

参道途中にはサビエル布教の井戸もありました。

ザビエルさんは日本に初めてキリスト教を伝えたスペインの宣教師です。

そのザビエルさんに日本で最初に布教の許可を与えたのが大内義隆さんだという!

1551年、サビエルさんは山口・大殿大路の井戸のほとりで初めてキリスト教の布教をしたといわれています。

そんなこんなで、こちらはその井戸を再現したものなんだって。
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山門と手水鉢と鐘楼

●山門

●山門
・建立年不明
・瓦葺 切妻造 四脚門

そんなこんなで、参道を抜けると山門が登場。

山門には大内氏の家紋・大内菱がひるがえっていました。

どうでもいい話ですが、大内菱を見ると『山口に来た〜』っていう実感がわきます。


そんなことより、もともとこのお寺は山口市の白石という地にあったそうです。

それを毛利元就の長男・毛利隆元さんが現在地に移転し、大寧寺の変で自害した大内義隆さんの菩提寺として復興。

それが現在の龍福寺なんだって。

って、何で毛利隆元さんが!?


とお思いでしょうが、もともと大内氏と毛利氏は同盟関係でした。

安芸国の国人領主だった毛利元就さんは大内義隆さんから多くの厚意援助を受けていたといいます。

そんなこんなで、長年にわたる恩を感じた元就さんはその御礼として大内氏の館を訪れ、深く御礼を申し上げたそうです。

そのことをたいそう喜んだ義隆さんは、元就さんを手厚く接待したといわれています。


1537年、元就さんは長男・毛利隆元さんを人質として義隆さんの元に送り出し、大内氏との関係を強化しています。

義隆さんは人質の隆元さんをたいそう可愛いがったそうです。

このようなことからも、隆元さんが義隆さんの菩提寺として復興したのも納得!

毛利氏が大内氏を滅亡させたのは、陶氏に乗っとられた後の大内氏ですので、毛利氏は義隆さんのを討ったようなもの。

その後、毛利氏は陶氏を滅亡させて長門・周防国を手に入れ、後に中国地方を統一。

毛利氏は義隆さんに相当な恩義を感じていたに違いない・・・と、勝手に思っています。


●手水鉢

そんなこんなで、山門をくぐって手水鉢でお清め。


●鐘楼(しあわせのかね)

●鐘楼(しあわせのかね)
・1993年建立
・瓦葺 入母屋造
・総欅造

続いて、鐘楼で鐘をひと撞き。

ゴ〜〜〜ン♪

うぅ〜ん、いい音色♪

この梵鐘は、大内義隆さんが1553年に九州葦屋の名工・大江宣秀に作らせた興隆寺の梵鐘(国重文)を縮小複製したものなんだって。


それはそうと、なんとこちらは1日に3回自動で鐘撞きをするというオート鐘楼だという!

●自動鐘撞きの時間
①6:00(暁鐘)
②12:00(日中鐘)
③18:00(昏鐘)

※自動で鳴る時間以外は、自由に鐘を撞くことができます。

ちなみに、現在の時刻は14:00過ぎ・・・待つのは得意ですが、さすがの私もあと4時間は待てない(笑)
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釈迦堂(本堂)

●釈迦堂(本堂)

●釈迦堂(本堂)
・1479年建立
・檜皮葺 入母屋造
・御本尊 釈迦如来
・国指定重要文化財

続いて、本堂で参拝。

もともと本堂は1521年建立とされていましたが、解体修理のときに発見された部材や墨書などにより1479年の建立に改められました。

優雅に伸びる美しい檜皮葺の屋根。
栄華を極めた大内氏の菩提寺にふさわしいお上品なお堂となっておりました。


もともとの本堂は移築後、約100年が経ち大規模な修理が必要になったんだって。

そんなこんなで、2005〜2011年にかけて保存修理工事が行われ、建立当初の室町時代の姿に戻されたんだと!

それが現在の本堂なんだって。


それにしても・・・室町時代の姿がなんでガラス戸なんだよ〜!

これじゃ素敵なお堂が台無しだぁ・・・(-“-;)

そんなこんなで、なるべくガラス戸を視界に入れないようにして、なおかつ薄目にしてお堂を拝見してきました。


ガラス戸がない横からの姿は100点満点!

完璧です!


~画像は2009年3月21日 撮影~

ちなみに、こちらは改修工事中の本堂です。

前回訪れたときは巨大な素屋根に手を合わせるという虚しい参拝となりました。


これは寺社巡りあるあるだから仕方のないことですが、めちゃくちゃ楽しみにしていただけにダメージが特大!

何だろう・・・お寺巡りをしてるというより、工場見学をしているような気分でしたよ。


そんなことより、境内には旧本堂の部材や鬼瓦が置かれていました。

って、檜皮葺屋根なのに鬼瓦!?

と思ったら、改修工事前の本堂は瓦葺だったみたいですね。


~画像はリーフレットより~

リーフレットの画像を見る限り、ガラス戸じゃなく障子戸だったみたいだし・・・随分と姿を変えたなぁ〜。


あと、懸魚が落ちていたのですが、こちらも旧本堂のものでしょうか?

拾って帰りたい・・・ような(冗談です!)
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宝現霊社

●宝現霊社

●宝現霊社
・江戸時代中期建立
・銅板葺 流造

境内には宝現霊社という鎮守社がありました。

この社には大内氏の祖・琳聖太子から大内義隆さんまでの大内氏の歴代当主の神霊が祀られているそうです。

宝現霊社は大内教弘さんが築山館に創建したのが始まりといわれ、大内氏の当主が代々祭祀を行っていたんだって。

大内氏の滅亡後は毛利氏が祭祀を行っていたそうですよ。

ほんでもって、明治時代に一時、多々良神社と称していたそうですが、その後に再び宝現霊社に復称したんだって。

ちなみに、大内氏の祖は百済の王族・琳聖太子といわれています。

その後、多々良姓を名乗り、盛房さんの代から大内姓と名乗りました。

この社が、明治時代に多々良神社と称していたのはこのような経緯があったのですね。


余談ですが、大内氏当主の◯代を表すとき、先祖の琳聖太子初代とする場合と、大内姓を名乗った盛房さんを初代にする場合の2通りのパターンがあります。

●琳聖太子を初代とする場合
第16代・大内盛房
第17代・大内弘盛
第18代・大内満盛
第19代・大内弘成
第20代・大内弘貞
第21代・大内弘家
第22代・大内重弘
第23代・大内弘幸
第24代・大内弘世
第25代・大内義弘
第26代・大内盛見
第27代・大内持世
第28代・大内教弘
第29代・大内政弘
第30代・大内義興
第31代・大内義隆
第32代・大内義長


●大内盛房を初代とする場合
第1代・大内盛房
第2代・大内弘盛
第3代・大内満盛
第4代・大内弘成
第5代・大内弘貞
第6代・大内弘家
第7代・大内重弘
第8代・大内弘幸
第9代・大内弘世
第10代・大内義弘
第11代・大内盛見
第12代・大内持世
第13代・大内教弘
第14代・大内政弘
第15代・大内義興
第16代・大内義隆
第17代・大内義長

そんなこんなで、ネット上では同じ大内義隆でも第16代と第31代が見られ、結局のところ何代なのよ〜的な気持ちの悪い状態になっています。

しかし、第16代も第31代も正解!
これは気持ち悪いですね〜。

ちなみに、このブログでは大内盛房さんを初代として表記しています。

豊後岩と大内義隆の供養塔・辞世の句碑

●豊後岩

境内には豊後岩という苔むした石がありました。

●豊後岩とは?

周防・長門・安芸・備後・石見・豊前・筑前の7ヶ国を支配し、富と権力は天下に並ぶものがなかったという大内氏。

当時、世の中は戦に明け暮れていましたが、山口平和を保っていたそうです。

そのため戦乱を避けるように、たくさんの公卿文化人が西の京・山口を訪れていたという。

大内氏はその来客をもてなすため、館に壮麗なお庭を築庭していたといいます。

その庭園には流水があり、また当時としては珍しかった蘇鉄が植えられ、庭石は全て豊後国から舟で運んできたものだったという。

しかしこれらの岩は、雨の夜になると豊後の国を恋しがって『豊後に帰りたい』と泣いていたそうです。

大内氏の滅亡後、庭園は荒廃。。

そして現在、庭園はなくなり豊後岩だけがここに残り、栄華を極めた在りし日の大内氏の姿を偲ばせています。

あんなに帰りたがっていた岩は今も帰れないまま・・・今も泣いてるのかなぁ。


●大内義隆主従の供養塔

●大内義隆主従の供養塔
・2000年建立
・石造 宝篋印塔

この塔は義隆さんの450回大遠忌の際に建立されたものなんだって。


なんとこの供養塔は、義隆さんが自害した大寧寺にある大内義隆のお墓を原寸大に複製したものだという。


ちなみに、こちらが大寧寺にある義隆さんのお墓です。

確かに似てるけど、何かが違うような・・・!

あと、見事に写真を撮り忘れましたが、近くには石造・十三重塔もありました。

これは義隆さんに従って戦死した冷泉隆豊などの忠臣公家供養するのために建立されたもののようです。


●大内義隆の辞世の句碑

こちらは大内義隆さんの辞世の句碑です。


討つ者も 討たるる者も 諸ともに
如露亦如電 応作如是観

(討つ者も 討たれる者も 人生は露や雷のように短く儚いものだ)

最後の如露亦如電 応作如是観とは金剛般若経から引用したものです。

如露亦如電 応作如是観の意味は『露や雷のように短く儚い』。

そんなこんなで、義隆さんは人生の無常感を詠って自害したのですね。

貴族のような生き方をした義隆さんは、それが原因で謀反を起こされ自害。。。

安らかにお眠りください。
あの世で蹴鞠を楽しんでください・・・南無。

大内氏館跡

●大内氏館跡

続いて、このお寺のハイライトでございます大内氏館跡を散策。

大内氏館とは、室町時代に大内氏9代当主・大内弘世さんが周防国・長門国の本拠として造営した館です。

ここで歴代当主が政務をとっていたそうですよ。

最盛期には東西160m、南北170m以上の敷地をもつ巨大な館だったんだって。


見た感じはお寺に庭園が付属してるっぽいですが、実際は大内氏館跡の上にお寺が建っています。

そのため、現在もお寺の下に館の遺構があると思われます。

ちなみに大内氏館跡は、続日本100名城の1つですが、見た目は城郭というよりも御殿でした。

そこもまた京都に憧れを抱いた大内氏らしい姿ですね。

かつては、お堀と土塁に囲まれた中に造営されていたそうですが、現在は池泉庭園や土塁の一部を見ることができるくらいで、華やかだった時代の面影を見ることはできません。

ちなみに、こちらが大内氏の勢力図です。

勢力図を見るだけでも、大内氏がいかに巨大で繁栄していたかがわかりますね。


●大内弘世さん時代
・赤
・長門・周防・石見

●大内義弘さんの時代
・赤・青・橙
・長門・周防・石見・豊前
 淡路・和泉・紀伊

●大内盛見さんの時代
・赤・青・黄
・長門・周防・石見・豊前・備後

●大内義興さんの時代
・赤・青・黄・紫・桃・緑
・長門・周防・石見・豊前
 備後・安芸・筑前・山城

●大内義隆さんの時代
・赤・青・紫・黄・桃
・長門・周防・石見・豊前
 安芸・備後・筑前


こちらは室町時代作庭と推測されている池泉回遊式庭園です。

これが豊後岩の由緒にあったお庭なのでしょうか?


こちらは石組かまど跡です。

このかまど跡は、池泉庭園と同時期に造られたそうです。

かまど跡周辺からは調理具などの日常雑器が見つかったんだって。

そのことから、この場所は台所と考えられているそうです。


こちらは石組井戸跡です。

こちらも石組かまど跡と同じく、池泉庭園と同時期に造られたもののようです。

この井戸からは、金箔を貼った土師器皿が3枚出土したそうですよ。


こちらは塼列建物跡という遺構です。
塼列と書いてせんれつと読むそうです。

こちらも池泉庭園と同時期に造られたもののようです。

中世の遺跡において塼列建物の多くがであることから、この建物も大内氏館に造られた蔵の1つと考えられてるんだって。


その他、館跡には石組水路建物基壇がありました。

龍福寺資料館

●龍福寺資料館

最後に龍福寺資料館を拝観してきました。

館内では大内氏ゆかりの品々を拝観することができましたよ。

大内氏歴代当主の肖像画が展示されていたのですが、大内政弘さんを描いたものはここでしか見ることができない貴重な1枚なんだとか!

あと大内義隆さんの肖像画は山口県の有形文化財に指定されていました。

●絹本着色大内義隆画像
・室町時代作
・縦77cm × 横37.8cm
・山口県指定有形文化財


●大内義興公 馬上展望像

資料館の入口には勇ましい騎馬像もありました。

どうやらこの銅像は炎の陶工と呼ばれた月形那比古さんの作品のようです。

調べてみると、月形那比古さんは鬼志野焼を創始した陶芸家として有名な方のようです。

そんなこんなで、参拝終了。

もぅ、大内さんだらけでお腹いっぱいです。

屁をこいたら、きっと大内さんが出てくるね!

いやはや、素敵なお寺さんでした。

大内義隆とは?


1507年、周防・長門・石見・豊前4ヶ国の太守であった大内氏第15代当主・大内義興の嫡子として大内氏館で誕生。

母は長門守護代・内藤弘矩の娘です。

1528年、父・義興が死去したため、家督を相続し大内氏の第16代当主となりました。

大内家では家督相続の度に内乱が発生していましたが、義隆さんが相続したときは政権が安定していたこともあって内乱は起こりませんでした。

義隆さんは、1530年から1536年にかけて九州に出兵し、豊後国・大友氏や筑前国・少弐氏や肥前国・龍造寺家と争い、北九州地方を平定。

そして大陸貿易の利権を掌握しました。


1540年、山陰・山陽8ヶ国を支配していた守護大名・尼子晴久安芸国へ侵攻

そして大内氏の支配下にあった毛利元就の居城・吉田郡山城で合戦が繰り広げられました。

その際、大内氏は陶晴賢を総大将とした援軍を送りこみ、毛利氏とともに尼子軍を撃破(吉田郡山城の戦い)

以後、尼子氏と戦を繰り返すことになり、尼子方の安芸武田氏友田氏を滅ぼして安芸国を勢力下に置きました。

しかし1542年、義隆さんは自ら攻めこんだ尼子氏の居城・月山富田城大敗を喫することに(月山富田城の戦い)

そして、この戦いで寵愛していた養嗣子・大内晴持んでしまったという。

義隆さんは、愛する大内晴持を失ったことで領土的野心、さらに政治的関心ってしまいました。

以後、義隆さんは文治政治をとることになりました。


この頃、を模して造られた山口は西の京と呼ばれるほど繁栄していて、栄華を極めていました。

義隆さんは和歌や連歌や芸能など、公家文化へ関心を示し、束帯姿で牛車に乗るなど、まるで貴族のような暮らしをするようになりました。


1551年、義隆さんはフランシスコ・ザビエルと会見。

ザビエルは天皇に献上するために用意していたゴア司教の親書・望遠鏡・洋琴・置時計・ガラス製の水差し・鏡・眼鏡・書籍・絵画・小銃など、数々の品を義隆さんに献上

そして義隆さんは、山口でキリスト教の布教活動を許可しました。

なんとこれは、1569年に織田信長がルイス・フロイスと京都で会見する18年も前の話になります。

しかしこの義隆さんの風流さが、家臣・陶晴賢がクーデターを起こすきっかけになってしまったのです。

義隆さんは武断派を遠ざけ、公家文化人などを重用するようになりました。
そのことにより、家臣や国人の不満は高まっていくことに・・・。


そして1551年、武断派の陶晴賢は文化風流に傾倒する義隆さんへの不満が爆発し、謀反の兵を挙げました。

そんなこんなで、義隆さんは山口を脱出して親族である津和野の吉見氏を頼ろうとしますが、暴風雨のために舟を出すことができず。。

ということで、大寧寺に逃げることにしました。

大寧寺に到着した義隆さんは、入山の前に逃避行で乱れた髪を整えるため、近くのに顔を映しました。

しかし、水面に自分の姿が映らなかったという。

このことにより、義隆さんは自らの運命を悟り、大寧寺の本堂で潔く自害しました(大寧寺の変)

享年45歳。


ちなみに4年後の1555年、陶晴賢は毛利元就との戦いに敗れて滅亡しました(厳島の戦い)

画像は広島県廿日市市の洞雲寺にある陶晴賢のお墓です。


●大内義隆の辞世の句

討つ者も 討たるる者も 諸ともに
如露亦如電 応作如是観

(討つ者も 討たれる者も 人生は露や雷のように短く儚いものだ)

1410年、大寧寺を開創した大内家の一族・鷲頭氏

1448年、鷲頭氏を滅亡させた大内氏。

1551年、大内氏を滅亡させた陶氏。

1555年、陶氏を滅亡させた毛利氏。

まさに義隆さんの辞世の句のような歴史ですね!

御朱印情報

●御朱印の種類
・龍福寺の御朱印

※私が参拝したときは佛心でしたが、近年は本尊 釋迦如来・禅心・福壽無量と書かれているようです。

●御朱印の受付場所
・庫裏(納経所)

●御朱印の受付時間
・9:00~17:00

●御朱印の料金
・300円

●期間限定・特別御朱印
・なし

●オリジナル御朱印帳
・なし

・2009年3月21日 参拝
・2015年9月5日 再訪
・2022年7月 更新
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参拝情報とアクセス

●開門時間
・9:00~17:00

●拝観料
・境内無料

●龍福寺資料館
・9:00~17:00
・年中無休
・高校生以上 200円
 小・中学生 150円

※コロナ禍により臨時休館あり

●最寄りの駅
・JR上山口駅から徒歩10分
・JR上山口駅から車で2分

●最寄りのバス停
・山口市コミュニティバス(大内ルート)
 日赤病院西口 バス停から徒歩3分

・山口市コミュニティバス(大内ルート)
 野田 バス停から徒歩3分

・山口市コミュニティバス(大内ルート)
 八坂神社前 バス停から徒歩4分

※山口市コミュニティバス(大内ルート)の路線図・時刻表はこちら

●最寄りのIC
・中国自動車道
 山口ICから車で15分

・中国自動車道
 小郡ICから車で15分

●駐車場
・無料の専用駐車場あり(約40台)

龍福寺の地図

 

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