大寧寺の御朱印|大内義隆の終焉地|境内はまるで石塔の博物館|(山口県長門市)

所在地山口県長門市深川湯本門前1074−1
宗 派曹洞宗
由 緒1410年、大内氏の一族で、長門国・深川城主の鷲頭弘忠が深川城内に創建したのが始まり。1551年、大内義隆が家臣・陶隆房(晴賢)の謀反に遭い山口から脱出した際、このお寺に逃れたという。しかし陶軍に包囲され、大内義隆は自刃。そしてお寺は焼失したという。その後、毛利氏の庇護を受けて再建。しかし、1640年の火災で山門や本堂などを焼失。その後、再建されますが、明治時代に再び荒廃。しかしお寺の歴史的価値から保護保存の声が高まったそうです。そんなこんなで、昭和40年代以降に境内や本堂などが県・市の有形文化財に指定され、現在に至るそうです。
HP瑞雲萬歳山大寧護国禅寺
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大寧寺とは?

●境内図

山口県最古の温泉地・湯本温泉にあります大寧寺に到着。

大寧寺と書いてたいねいじと読みます。

なんとこのお寺は大内義隆の終焉地ならびに事実上の大内氏の滅亡地だという!

●大寧寺とは?

1410年、大内氏の一族で長門国・深川城の城主・鷲頭弘忠が、能登国・總持寺の僧・石屋真梁を招いて、深川城内に康福寺を創建したのが始まり。

その後、石屋禅師の弟子・智翁永宗が現在地に移転して大寧寺と改称したという。

ちなみに大寧寺の創建には周防・長門国の守護大名・大内教弘が開基、智翁永宗が開山という説もあるそうです。

最盛期には七堂伽藍を有する大寺院に発展し、全国に600以上の末寺を持つほどにまで繁栄したという。

さらに、当時このお寺は大学の役割をもっていたため、各地から多くの禅僧が集まり修行をしていたそうです。

そのため、通称・西の高野と呼ばれていたんだって。


1551年、大内義隆の重臣・陶隆房(晴賢)がクーデターを起こし、大内氏館を襲撃!

そんなこんなで、大内義隆は山口からの脱出を余儀なくされたという。

そしてこのお寺に逃れたそうです。

しかし陶軍に包囲された大内義隆は大寧寺の本堂内で自刃・・・。

そしてお寺は焼失してしまったという(大寧寺の変)


その後、毛利氏の庇護を受けて再建。

しかし、1640年の火災で山門や本堂などを焼失。

その後、再建されますが、第45世住職・簣運泰成が奇兵隊脱退騒動の処断に抗議したことにより、山口を追われる身となり愛知・豊川稲荷に落ち延びることに。

それ以降、藩の保護がなくなりお寺の維持管理ができなくなることに・・・。
そのため荒廃してしまったという。。

しかしお寺の歴史的価値の高さから保護保存の声が高まり、昭和40年代以降、境内や本堂などが県・市有形文化財に指定されたそうです。

それが現・大寧寺の姿なんだって。

そんなこんなで、参拝開始。
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盤石橋と山門跡と参道

●盤石橋


●盤石橋
・1668年架橋
・1764年再架橋
・長さ 14.2m
・幅 2.4m
・高さ 3m

まず最初に登場するのは大寧寺川に架かる盤石橋

この石橋は自然石を組み合せて積み上げただけの橋だという!

このような技法で架けられた橋をゲルバー橋と呼ぶそうです。

ゲルバー橋とは1868年に架橋された橋のことらしく、その名の通りハインリッヒ・ゲルバーさんというお方が考案した構造形式なんだって。


しかし!

この盤石橋の架橋は1764年!

ゲルバー橋より104年も古いという!

そんなこんなでこの盤石橋は、ゲルバー橋より以前に日本に同じ技術があったことを証明する文化財的価値が高い橋なんだって。


ちなみにこの盤石橋は、岩国市の錦帯橋、山口市の虹橋とともに防長三奇橋の1つとのことです。

錦帯橋は有名だから知ってるけど、虹橋は聞いたことないなぁ・・・

と思ったら、1984年に完成した一の坂ダムによって水没してしまったみたいです。

ということで、虹橋は現存していません。


そんなこんなで、盤石橋を渡る。

あっ、盤石橋と書いてばんじゃくきょうと読みます。


●山門跡


盤石橋を渡ると山門跡に到着。

どうやら、もともとここには1677年に毛利家の家老・益田元堯さんが再建した山門が建っていたみたいです。

しかし明治時代末期、毛利家の庇護を受けられなくなったため維持管理が困難に・・・。

そのため明治時代末期に倒壊してしまったみたいです。


●倒壊前の山門
・1677年再建
・檜皮葺 入母屋造
・三間三戸 二重門

説明板の写真を見る限り、倒壊前の山門は立派な二重門だったみたいですね。

あと、現存する礎石を見る限り、おそらく禅宗様の山門だったと思われます。


ちなみに、現在、山門再建のための寄付を募っているみたいです。

再建にかかる費用は6億円

復元設計図を見る限り、檜皮葺ではなく瓦葺の二重門として再建するみたいですね。


それにしても、説明板のこのウニョウニョは何でしょ???

虫の足跡かぃ???

芸術的にキモいんですけどっ!


●参道

かつて大寧寺は約109m × 約109mの寺域に山門・本堂・開山堂・庫裡・客寮・小庫裡・耆宿寮・僧堂・衆寮・東司などの諸堂が建ち並ぶ大寺院だったそうです。

現在、諸堂の数は減っていますが、広大な寺域は健在でしたよ。

ちなみに境内全体は山口県指定史跡となっております。
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本堂と梵鐘

●本堂

●本堂
・江戸時代建立
・1829年移築
・瓦葺 入母屋造
・山口県指定有形文化財

そんなこんなで、本堂で参拝。

由緒書きによると、このお寺は大寧寺の変で焼失後、毛利氏の庇護により再建

しかし、1640年に野火により山門や本堂などが焼失してしまったみたいです。。

そんなこんなで、1829年に焼け残った衆寮を本堂として移築

それが現在の本堂なんだって。


ちなみに衆寮とは僧の寄宿寮のことです。

衆寮をもとに造られた本堂は珍しいらしく、仏教寺院の本堂としては山口県下最大級とのことです。


このお寺の正式名称は、瑞雲山 大寧護国禅寺

曹洞宗ということで、御本尊は釈迦如来さんでした。

それにしても、青が眩し過ぎます。
正直、目が痛いです!


正面の外観は梁間5間・桁行5間でしたが、堂内は梁間7間・桁行5間となっておりました。

外陣は24畳 + 両脇陣に18畳!
内陣は16畳 + 両脇陣に12畳!

上手く写真で伝えることができませんでしたが、かなり大きなお堂でしたよ。


●梵鐘
・1396年鋳造
・高さ 97.3cm
・長門市指定有形文化財

本堂には長門市の有形文化財に指定されている梵鐘が吊るされていました。

梵鐘に刻まれた銘文によると、1396年に筑前国葦屋津(現・福岡県遠賀郡芦屋町)で鋳造されたもののようです。


その他、本堂では大内氏の家紋・大内菱を確認することができました。

大内菱を見ると山口に来た〜という実感が湧きますねぇ。


ちなみに本堂前にはお堀のような池がありました。

どうやらこちらは放生池のようです。
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開山堂と準堤観音堂

●開山堂

●開山堂
・建立年不明
・瓦葺 入母屋造

本堂の左側には開山堂がありました。

なんと、堂内には住吉大明神像が安置されているという!

なんで開山堂に住吉神が???

●大寧寺と湯本温泉

山口県最古の温泉として知られる湯本温泉

湯本温泉の元湯である恩湯は、室町時代に第3世住職・定庵殊禅が住吉大明神からのお告げによって発見した温泉といわれています。


室町時代、大寧寺の第3世住職・定庵殊禅が境内を散策していると、石の上で座禅を組む老翁に出会ったという。

そこで定庵殊禅は老翁に名をたずねることにしました。

するとその老翁は住吉の神と名乗ったという!

そんなこんなで、定庵殊禅は老翁を大寧寺に招くことに。
そして老翁は仏道修行に励むことになったんだって!

そして定庵殊禅は仏道の奥義を印可する菩薩大戒と錦の袈裟を老翁に授けました。

老翁はその恩に報いるため『温泉を出しておきましたのでご利用ください』と告げたという。

そして大きなに変身して、雷鳴を轟かせながら空に昇っていったんだと!


そんなこんなで、この開山堂には袈裟を着た住吉大明神像が安置されているという!

さらになんと、住吉大明神像の前には當山傳法第四位當国一宮住吉大明神と記された位牌も安置されてるんだって!

大寧寺では住吉神をとして供養してるんだね!

ちなみに湯本温泉の源泉(恩湯)は、現在も大寧寺の所有なんだって。


●準堤観音堂

●準堤観音堂
・建立年不明
・銅板葺 妻入り入母屋造

続いて、準堤観音堂を参拝。

堂内には素敵な準堤観音さんがおられました。


何だか胴上げされてるみたいだね。
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毛利家重臣・上杉憲実・三条公頼の墓など

●毛利家重臣墓群


●毛利家重臣墓群
・山口県指定史跡

境内にはたくさんの墓石が建ち並んでいました。

その数、なんと250基以上!


墓石名簿には、毛利氏の重臣で萩藩の財政再建に尽力した益田元祥さんを始め、宍戸・乃美・熊谷・児玉・宍道・内藤・桂・井原・山内・天野・堅田・国司・粟屋・佐世・志道・榎本・赤川氏などなど、毛利氏家臣の名前がズラリ!

このように藩の重臣のお墓が集中している例は全国的に珍しいことなんだって。



墓石の形態は五輪塔・宝篋印塔・自然石塔・板碑型・石憧型・笠塔婆型・磨崖形式などなど、日本でみられる石塔形式がほぼ揃っているという!

まるで石塔の博物館のようだね!


このお寺の墓石群は宝篋印塔のお墓が多いのですが、通常の宝篋印塔に比べて相輪が異常に太いという!

これはこの地方特有の様式なのでしょうか???


●上杉憲実のお墓

墓石群の中には関東管領だった上杉憲実さんのお墓もありました。

上杉憲実さんは鎌倉府で関東管領を務め、足利学校を再興するなど、高い学識で知られるお方のようです。

って、何で関東の方がここに???

●大寧寺と上杉憲実

上杉憲実さんは室町幕府と鎌倉府の対立により、自分の主君を死に追いやることになったという。

そんなこんなで憲実さんは、幕府内の政争に疲れ、さらに罪の意識から僧となって放浪の旅に出たそうです。
そして大寧寺に辿り着いたのだという。

そして第4代住職・竹居正猷和和尚の弟子となり、晩年をこの地で過ごしたといわれています。


●鷲頭弘忠のお墓

こちらは大寧寺を開基した鷲頭弘忠さんのお墓です。

ちなみに鷲頭氏は大内氏に滅ぼされました。


さらに墓石群を散策・・・と言いたいところですが、これ以上の散策は無理そう。。

実は数日前に発生した伊予難地震の影響で、たくさんの墓石が崩れていたという・・・無惨。

そんなこんなで、崩れた墓石を1ヶ所にまとめる作業員さんを興味深く拝見。

大変な作業だなぁ。

見た感じ、適当に集めてるように見えるけど『この墓石は◯◯さんで、あの墓石は◯◯さんで・・・』みたいな感じで把握しているのかな?


とかなんとか思いつつ、大内義隆さんのお墓がある裏山を登ることに。


●経蔵跡

裏山の参道途中には経蔵跡がありました。

なんとここは大寧寺の変の際、大内義隆の重臣・冷泉隆豊さんが最後まで奮闘した場所だという。

●冷泉隆豊と経蔵

大寧寺の変とは、大内義隆の重臣・陶晴賢が起こしたクーデターです。

大内義隆さんはこのクーデターにより、山口から逃げ出して大寧寺に立て籠るわけなのですが、あえなく陶軍包囲されてしまいました。

そんなこんなで、大内義隆さんは自害。。
そして、冷泉隆豊さんはその介錯を務めました。

その後、冷泉隆豊さんは経蔵に籠って陶軍と奮戦するも力尽きて割腹。。

そして冷泉隆豊さんは自分のお腹からハラワタをつかみ出して投げつけたんだと!!!

そんな壮絶な最期を遂げた場所がこの経蔵跡というわけです。

●冷泉隆豊の辞世の句
見よや立つ 煙も雲も 半天に
さそいし風の 音も残さず


ちなみに大内義隆さんのお墓へ続く坂道は冷泉坂と呼ばれているそうです。


●三条公頼のお墓

大内義隆のお墓の近くには、三条公頼さんのお墓もありました。

三条公頼さんは、戦国時代の公卿で左大臣として活躍したお方のようです。

そして武田信玄の義父にあたるお方だという。

って、なんで公卿のお墓がここに???

●大寧寺と三条公頼

もともと公家の収入源は全国各地にある荘園でした。

しかし、戦国時代の戦乱により荘園はことごとく横領され、公家は収入源を失ってしまいました。

そんなこんなで、公家は経済的行き詰まることとなり、地方の大名に援助してもらっていました。

その中でも大内氏は面倒見が良かったみたいで多くの公家を養っていたといわれています。

戦国時代、この地は三条家の荘園(深川庄)だったこともあり、大内氏三条家は深い関係にあったみたいです。

そんなこんなで1551年、三条公頼さんは大内義隆さんに招かれて山口を訪れていたという。

しかし運悪く、陶晴賢のクーデターに巻き込まれてしまったという!

そんなこんなで、山口を脱出した大内義隆さんを追って深川荘に向かうことになった三条公頼さん・・・

しかしその途中、三条公頼さんは陶軍に襲われされてしまいました。。

三条公頼さん・・・運が悪いにもほどがあります。。

大内義隆の墓・兜掛けの岩・姿見の池

●大内義隆のお墓

そんなこんなで、裏山の参道を登りきると大内義隆さんのお墓に到着。

大内義隆さんは陶晴賢のクーデター、いわゆる大寧寺の変自害したお方です。

ということで、大寧寺は大内義隆さんの終焉地
そして、栄華を誇った大内氏の事実上の滅亡地となります。

●大内義隆とは?

1507年、周防・長門・石見・豊前4ヶ国の太守であった大内氏第15代当主・大内義興の嫡子として大内氏館で誕生。

母は長門守護代・内藤弘矩の娘です。

1528年、父・義興が死去したため、家督を相続し大内氏の第16代当主となりました。

大内家では家督相続の度に内乱が発生していましたが、義隆さんが相続したときは政権が安定していたこともあって内乱は起こりませんでした。

義隆さんは、1530年から1536年にかけて九州に出兵し、豊後国・大友氏や筑前国・少弐氏や肥前国・龍造寺家と争い、北九州地方を平定。

そして大陸貿易の利権を掌握しました。


1540年、山陰・山陽8ヶ国を支配していた守護大名・尼子晴久安芸国へ侵攻

そして大内氏の支配下にあった毛利元就の居城・吉田郡山城で合戦が繰り広げられました。

その際、大内氏は陶晴賢を総大将とした援軍を送りこみ、毛利氏とともに尼子軍を撃破(吉田郡山城の戦い)

以後、尼子氏と戦を繰り返すことになり、尼子方の安芸武田氏友田氏を滅ぼして安芸国を勢力下に置きました。

しかし1542年、義隆さんは自ら攻めこんだ尼子氏の居城・月山富田城大敗を喫することに(月山富田城の戦い)

そして、この戦いで寵愛していた養嗣子・大内晴持んでしまったという。

義隆さんは、愛する大内晴持を失ったことで領土的野心、さらに政治的関心ってしまいました。

以後、義隆さんは文治政治をとることになりました。


この頃、を模して造られた山口は西の京と呼ばれるほど繁栄していて、栄華を極めていました。

義隆さんは和歌や連歌や芸能など、公家文化へ関心を示し、束帯姿で牛車に乗るなど、まるで貴族のような暮らしをするようになりました。


1551年、義隆さんはフランシスコ・ザビエルと会見。

ザビエルは天皇に献上するために用意していたゴア司教の親書・望遠鏡・洋琴・置時計・ガラス製の水差し・鏡・眼鏡・書籍・絵画・小銃など、数々の品を義隆さんに献上

そして義隆さんは、山口でキリスト教の布教活動を許可しました。

なんとこれは、1569年に織田信長がルイス・フロイスと京都で会見する18年も前の話になります。

しかしこの義隆さんの風流さが、家臣・陶晴賢がクーデターを起こすきっかけになってしまったのです。

義隆さんは武断派を遠ざけ、公家文化人などを重用するようになりました。
そのことにより、家臣や国人の不満は高まっていくことに・・・。


そして1551年、武断派の陶晴賢は文化風流に傾倒する義隆さんへの不満が爆発し、謀反の兵を挙げました。

そんなこんなで、義隆さんは山口を脱出して親族である津和野の吉見氏を頼ろうとしますが、暴風雨のために舟を出すことができず。。

ということで、大寧寺に逃げることにしました。

大寧寺に到着した義隆さんは、入山の前に逃避行で乱れた髪を整えるため、近くのに顔を映しました。

しかし、水面に自分の姿が映らなかったという。

このことにより、義隆さんは自らの運命を悟り、大寧寺の本堂で潔く自害しました(大寧寺の変)

享年45歳。


ちなみに4年後の1555年、陶晴賢は毛利元就との戦いに敗れて滅亡しました(厳島の戦い)

画像は広島県廿日市市の洞雲寺にある陶晴賢のお墓です。


●大内義隆の辞世の句

討つ者も 討たるる者も 諸ともに  如露亦如電 応作如是観

(討つ者も 討たれる者も 人生は露や雷のように短く儚いものだ)

1410年、大寧寺を開創した大内家の一族・鷲頭氏

1448年、鷲頭氏を滅亡させた大内氏。

1551年、大内氏を滅亡させた陶氏。

1555年、陶氏を滅亡させた毛利氏。

まさに義隆さんの辞世の句のような歴史ですね!


●兜掛けの岩と姿見の池

ちなみに境内入口付近には兜掛けの岩姿見の池がありました。


こちらは、山口を追われた義隆さんが、大寧寺の境内に入る前、乱れた髪を整えるために脱いだ兜を掛けた岩といわれています。


そして髪を整えるため、この池に顔を映そうとしましたが、水面に自分の姿が映らず。。

そんなこんなで、義隆さんは自らの運命を悟り、大寧寺の本堂で潔く自害したといわれています。


せっかくなので池をのぞいてみることに・・・

映った!一安心!


●大内義隆公主従の墓所

大内義隆さんのお墓の近くには家臣の墓石がズラリと並んでいました。

その数、33基!

墓石を見るだけでも大寧寺の変の壮絶さが伝わりましたよ。


●大内義隆郷之墓

ちなみに、大寧寺から約15km離れた長門市俵山にも大内義隆さんのお墓がありました。

十六羅漢と長門豊川稲荷

●十六羅漢と石仏


その他、境内には十六羅漢さんや、草間彌生ちっくな石仏さんもおられました。


●長門豊川稲荷

あと大寧寺に隣接して長門豊川稲荷が鎮座していました。


そんなこんなで、参拝終了。

いやはや、素敵なお寺さんでした。

御朱印情報

●御朱印の種類
・大寧寺の御朱印

●御朱印の受付場所
・庫裏

●御朱印の受付時間
・不明

●御朱印の料金
・300円

●期間限定・特別御朱印
・なし

●オリジナル御朱印帳
・なし

・2014年3月22日 参拝
・2022年5月 更新
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参拝情報とアクセス

●開門時間
・不明

●拝観料
・無料

●最寄りの駅
・JR長門湯本駅から徒歩15分
・JR長門湯本駅から車で5分

●最寄りのバス停
・サンデン交通
 湯本温泉入口 バス停から徒歩10分

●最寄りのIC
・中国自動車道
 美祢ICから車で30分

●駐車場
・無料の専用駐車場あり

大寧寺の地図

 

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