洞春寺の御朱印|毛利元就の菩提寺|毛利氏と共に歴史を歩んだお寺|(山口県山口市)

所在地山口県山口市水の上町5−27
宗 派臨済宗建仁寺派
札 所 ・中国三十三観音霊場 第16番
・百八観音霊場 第21番
・周防国三十三観音霊場 第30番
由 緒1572年、安芸国・吉田郡山城の城内に、毛利元就の菩提寺として創建したのが始まりといいます。関ヶ原の戦い後、毛利氏は防長二州に減封となり、居城を広島から萩に移しました。その際、吉田郡山城にあった洞春寺を山口に移転。その後、1606年に萩に移封した毛利家に従って萩城内に移転。 さらに1868年、毛利氏が萩から山口に本拠を移した際に毛利氏に従って現在地に移転したそうです。 晩年の毛利元就は、戦死した敵味方の兵士の霊を供養するため、法華経1000部を読経したそうです。 以来、その法要は欠かさず続けられており、独特な読経方法であることから長州法華と呼ばれているそうです。
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洞春寺とは?

●境内入口

山口市の人気観光スポット香山公園(瑠璃光寺)の隣にある洞春寺に到着。

このお寺の正式名称は正宗山 洞春寺
しょうしゅうざん とうしゅんじと読みます。

戦国時代、たった一代で中国地方を統一した中国の覇者・毛利元就さんの菩提寺として知られるお寺さんです。

●洞春寺とは?

1572年、毛利氏の居城である安芸国・吉田郡山城の城内に、毛利元就の菩提寺として創建したのが始まり。

開山は傑僧として知られる嘯岳鼎虎禅師といわれています。

ちなみに、洞春寺という寺号は毛利元就の戒名・洞春寺殿日頼洞春大居士が由来です。


その後1591年、毛利元就の孫・毛利輝元が毛利氏の居城を広島に移しました。

毛利輝元は、1600年の関ヶ原の戦い西軍の総大将に祭り上げられることに。
そして西軍は敗北。。

毛利軍の主力部隊は合戦に参加せず静観を決めていましたが、合戦後に石高を120万石から36万9千石に減らされ、防長二州(周防・長門)に減封させられました。

その際、吉田郡山城にあった洞春寺を山口に移転することに。


毛利輝元は関ヶ原の戦いの責任をとるかたちで隠居し、家督を幼い秀就に譲ることになりました。

そして、秀就は長州藩の初代藩主となり、毛利氏は居城を広島からへ移しました。

そんなこんなで、1606年に洞春寺は萩に移封した毛利家に従って萩城内移転


その後、洞春寺は約260年間、萩城内にありましたが、1868年、毛利氏が居城を萩から山口に移したことにより、洞春寺も毛利氏に従って現在地移転しました。


もともとこの地には、1400年に大内氏11代当主・大内盛見が創建した国清寺があったそうです。

現在、洞春寺に残る山門は国清寺時代の遺構といわれています。

ちなみに大内盛見は洞春寺の隣にある瑠璃光寺五重塔を造営したお方です。


洞春寺は常に毛利氏と共に歴史を歩み、そして毛利氏と共に移転を繰り返してきましたが、毛利元就の墓所は現在も吉田郡山城の城内にある洞春寺跡に残されています。

そんなこんなで、参拝開始。
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山門と中門と鐘楼門

●山門

●山門
・1404年建立
・檜皮葺 切妻造 四脚門
・国指定重要文化財

まず最初に登場するのは国重文の山門

現在、このお寺は毛利元就の菩提寺ですが、洞春寺が移転してくるまでは大内盛見が天下泰平・家内繁栄の祈願所として建立した国清寺があったそうです。

そんなこんなで、この山門は国清寺の遺構とのことです。

洞春寺は江戸時代に火災で焼失していますが、この山門は無事だったみたいですね!


山門は余計な装飾が一切なく、とてもシンプルな造りになっていました。

特に彫刻のない蟇股は当時の禅風山門の特色をよくあらわしています。

ネットの情報によると、材料の一部は江戸時代の後補とのことです。

ちなみに山門をくぐることはできませんでした。


●参道

洞春寺は、山口の人気スポット・瑠璃光寺(香山公園)のほぼ隣に位置しています。

観光客で賑わい優雅で華々しい瑠璃光寺とは対象的に、人の気配がなくシーンとした洞春寺。

瑠璃光寺が賑やかだったぶん、洞春寺の無音が心に優しかったです。

いやはや、無音のBGMが心に響きます。


●中門

●中門
・建立年不明
・瓦葺 切妻造 棟門(変則)

そんなこんなで、参道を抜けると中門に到着。

若干、屋根が丸みをおびているという珍しい門でした。

どことなく平唐門を意識したような造りになっていて、地味な個性をアピールしていました。


あと、両部鳥居のような4本の控え柱が特徴的な門でした。

そんなこんなで、一見、四脚門のように見えますが、基本構造は棟門となります!

棟門と平唐門と両部鳥居の折衷門!?

こんな門は初めて拝見しましたよ!


●鐘楼門

●鐘楼門
・江戸時代中期建立
・瓦葺 入母屋造
・山口市指定有形文化財

ちなみに中門の隣には山口市の有形文化財に指定されている鐘楼門がありました。

洞春寺は江戸時代の文化年間と宝永年間に2度火災に遭っていますが、この門は宝永の火災後に再建されたそうなので江戸時代中期の建立と思われます。
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本堂と観音堂

●本堂

●本堂
・江戸時代再建
・瓦葺 入母屋造
・御本尊 聖観世音菩薩

続いて、本堂で参拝。

建立年を確認することはできませんでしたが、堂内に長州藩諸隊の1つ鴻城隊による刀傷がありましたので、少なくとも江戸時代末期には存在していたお堂のようです。

ちなみに長州藩諸隊とは、幕末期に長州藩で編成された、藩士以外の様々な身分の者からなる部隊の総称です。

長州藩諸隊の有名どころでいえば、奇兵隊・遊撃隊・報国隊・力士隊などがあります。


戦国時代、群雄割拠の中、戦を繰り返した毛利元就さんは、戦死した敵味方の兵士の英霊を供養するために法華経1000部を読誦したといいます。

以来、洞春寺ではその法要を欠かさず続けているそうです。

その読誦方法は独特なものらしく、長州法華と呼ばれてるんだって。


●観音堂

●観音堂
・1430年建立
・銅板葺 一重裳階付き入母屋造
・国指定重要文化財

続いて、国重文の観音堂を参拝。

もともとこの観音堂は、1430年に大内持盛が現・山口市滝町に創建した観音寺にあったお堂だという。

観音寺は後に勝音寺と改称し、さらに江戸時代に大通院と改めたそうです。

幕末にはお寺が衰退しこの観音堂のみが残ったそうですが、朽廃がひどくなったため、1915年に現在地移築したんだって。



お堂は火灯窓や裳階が付いた仏殿様式となっていました。

このタイプの仏殿は、下関市の功山寺や広島市の不動院の仏殿で見られる様式です。

銅板葺なのがちょっと残念ですが、おそらくかつては檜皮葺もしくは柿葺だったのではないか・・・と、勝手に思っています。


写真はありませんが、堂内は四半敷になっていました。

そして厨子が荒々しい岩屋造りになっているという!

これは一見の価値ありです!
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庫裏

●庫裏

そんなこんなで、御朱印を頂くために庫裏へ。


庫裏内は古いニオイが充満していました。

建立年はわかりませんが、このニオイはきっと江戸時代のニオイ・・・間違ってたらスミマセン(適当)

あっ、あと見事に見逃して帰りましたが、境内には明治維新で活躍した長州ファイブの1人・井上馨さんのお墓もあるそうです!


そんなこんなで、参拝終了。

いやはや、素敵なお寺さんでした。
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毛利元就とは?


毛利元就さんは戦国時代きっての策略家として有名で、安芸国の国人領主から、たった一代中国地方統一を成し遂げた戦国大名です。

策略家として知られる元就さんですが、記録に残る限り220以上の戦いに参戦しているそうです。

ちなみに勝率は8割以上!

このことからも、だけではなくの方も優れた武将だったみたいです。


●三矢の訓(三本の矢)

そんな知的で勇猛な元就さんですが、実は家族思いで筆まめな方としても知られています。

元就さんの書状の特徴はとにかく長くてクドいところ(笑)

現在もたくさんの書状が残っていますが、その中でも特に有名なのが三子教訓状
いわゆる三矢の訓(三本の矢)です。

その書状の長さは約3mもあるというから驚きです!


そんなことより三矢の訓は、元就さんが3人の息子にあてた教訓状をもとに作られた説話です。

●3人の息子
①毛利隆元(長男)
②吉川元春(次男)
③小早川隆景(三男)

●三矢の訓の意味
一本の矢では簡単に折れる
しかし三本の矢はなかなか折れない
そんなこんなで、3人で力を合わせなさい

元就さんは、毛利家の将来のために息子たちの結束を説いたという逸話です。


余談ですが、Jリーグ・サンフレッチェ広島という名前は三矢の訓が由来です。

●サンフレッチェの由来
サン → 日本語の
フレッチェ → イタリア語で

チームのロゴにも三本の矢がデザインされています。


あと、広島県の海田市駐屯地に司令部を置く陸上自衛隊第13旅団部隊章も三矢の訓をモチーフにしています。


●百万一心(ひゃくまんいっしん)

元就さんが吉田郡山城の拡張工事をした際、どうしても石垣の一部が崩れてしまうことから人柱が必要だという声が上がったという。

しかし元就さんは『人柱はならぬ』と言って許さず、変わりに百万一心と彫られたを人柱の変わりに埋めるように命じたそうです。

すると無事に工事が終わったという。

ちなみに百万一心とは、百万の民の心を1つにすれば成し遂げられるという意味だそうです。

の字の一画を省くと一日と読め、
の字を書き崩すと一力に読めるという。

そんなこんなで、百万の民の心とは一日一力一心
日を同じにし、力を同じにし、心を同じにするという意味だといわれています。

つまり一致団結し協力することの大切さを説いた名言です。


●我、天下を競望せず

元就さんは死の間際、息子や孫たちに『我、天下を競望せず』と言ったそうです。

元就さんは中国の覇者となり天下を狙えるほど勢力を拡大しましたが、天下は望まないと意思表明しました。

これは毛利家が天下を狙えるほど一枚岩でないことを知っていたからとも、天下よりも毛利家の繁栄を望んでいたからともいわれています。

もしかしたら、過度な野望を持てば身を滅ぼすことになる・・・という戒めなのかもしれませんね。


●毛利元就の年表
1497年 安芸の国人領主・毛利弘元の次男として誕生。

幼名は松寿丸。
1500年 毛利元就の兄・興元が毛利家の当主となる。

毛利元就は隠居した父に従い猿掛城へ移住。
1506年 父・弘元が家臣の謀反により死去。

家臣に所領を奪われ、幼い元就は城を追いだされて乞食になる。

その後、養母の杉大方に育てられる。
1511年 元服する。

そして多治比元就と名乗り、分家を立てて多治比殿と呼ばれるようになる。
1516年 兄・興元が死去。

興元の嫡男・幸松丸が毛利家の家督を継ぎ、叔父にあたる元就は後見人を務めることになる。
1517年 有田中井出の戦いで初陣。
安芸の国人・武田氏が安芸の国人・吉川氏の守る城へ攻め入る。
毛利元就は吉川氏の援軍として戦に参戦し勝利を飾る。

安芸の国人・吉川国経の娘を正室に迎える。
1523年 毛利家の跡継ぎである幸松丸が死去。

毛利元就が毛利家の当主となり、安芸の吉田郡山城に入城。

後継者を決める際、次男・元就か3男・元綱かで家臣団が対立。
その際、元就派は元綱と元綱派の家臣を粛清・自刃させ毛利家をひとつにまとめる。
1525年 尼子氏と手を切り、大内氏の傘下に入る。
1529年 尼子派の安芸の国人・高橋氏を攻め滅ぼし安芸国内で領土を広げる。
1537年 毛利元就の長男・隆元を大内義隆の元へ人質に送り、大内氏との関係を強化する。
1540年 長男・隆元が大内氏から毛利家へ戻ることを許される。

吉田郡山城の戦い
尼子軍30000の兵が元就の居城・吉田郡山城に攻め込む。
毛利軍は3000の兵で応戦。
後に大内義隆からの援軍もあり勝利する。
1542年第一次 月山富田城の戦い
大内義隆を総大将とした大内軍に従軍。
尼子氏の本拠地である出雲の月山富田城へ攻め込むが大敗北。
1544年 元就の3男・隆景を安芸の国人・小早川氏養子にする。
その後、隆景は小早川家の当主となる。
1546年 元就は隠居し、家督を長男・隆元に譲る。

※実権は元就が握ったまま。
1547年 次男・元春を安芸の国人・吉川興経の養子にする。
1550年 吉川興経を強制的に隠居させ、次男・元春吉川家の当主となる。
元就は遺恨を残さないため、吉川興経とその息子らを家臣に殺害させる。

毛利両川体制が確立。
毛利元就の息子がそれぞれ小早川家・吉川家の当主になったことにより、毛利家を支える大きな基盤が出来る。

※毛利両川とは吉家と小早家のこと。
1551年大寧寺の変
大内義隆の家臣・陶晴賢が謀反を起こし、大内義隆自害
そして大内義隆の養子・義長を大内氏の当主とし、陶晴賢が大内氏の実権を握る。

元就は大内氏を見限り、敵対する国人勢力を攻めて勢力を拡大させる。
1553年 大内氏との関係が悪化し、陶晴賢と決裂。

元就の孫・輝元が誕生。
1555年厳島の戦い
陶軍20000の兵が元就の築いた厳島・宮尾城に侵攻。
毛利軍は3000〜4000兵。
そこに小早川水軍・村上水軍が参戦し、挟み撃ちをして勝利。

陶晴賢はこの戦で自害
総大将を失った陶・大内氏は急速に弱体化し、有力武将達が次々と毛利の傘下に入る。
1557年 元就は、大内氏の当主・義長を討ち、大内氏滅亡させる。

その結果、元就は長門・周防などの領地を手に入れ勢力を大きく拡大させる。
1560年 尼子家当主・尼子晴久が死去。
尼子氏が弱体化する。
1562年 尼子氏の本拠地・出雲へ侵攻。
1563年 元就の長男・隆元死去
隆元の嫡子・幸鶴丸が家督を継ぐが、11歳の若さだったため、元就が後見して政治・軍事を執行する二頭体制が敷かれる。
1565年第二次 月山富田城の戦い
尼子氏の居城・月山富田城を包囲し兵糧攻めを行う。
1566年 尼子軍は籠城を継続できなくなり、尼子義久が降伏。
そして尼子氏滅亡

こうして元就は一代にして、中国地方8ヶ国を支配する中国の覇者となる。

その後、織田信長の協力を得た尼子氏の残党や九州の大友氏との対決に苦戦。
しかし、山中鹿之介率いる尼子氏の残党軍を討伐。

大友氏とは和睦する。
1567年 元就は隠居しようとするが、輝元から隠居しないように懇願されたため隠居を断念。
1569年 元就は病にかかったまま立花城の戦いに出陣。
これが最後の戦となる。
1571年 75歳で死去
死因は老衰とも食道癌とも。

御朱印情報

●御朱印の種類
・中国三十三観音霊場の御朱印
・百八観音霊場の御朱印
・周防国三十三観音霊場の御朱印

●御朱印の受付場所
・庫裏(納経所)

●御朱印の受付時間
・8:00~17:00

●御朱印の料金
・各300円

●期間限定・特別御朱印
・なし

●オリジナル御朱印帳
・なし

・2009年3月21日 参拝
・2022年7月 更新

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参拝情報とアクセス

●開門時間
・8:00~17:00

●拝観料
・無料

●最寄りの駅
・JR上山口駅から徒歩25分
・JR上山口駅から車で8分

・JR山口駅から徒歩30分
・JR山口駅から車で5分

●最寄りのバス停
・防長交通
 洞春寺 バス停で下車 徒歩1分

・山口市コミュニティバス
 大内ルートに乗車
 香山公園五重塔前 バス停で下車 徒歩3分

・山口市コミュニティバス
 大内ルートに乗車
 県庁東門 バス停で下車 徒歩3分

●最寄りのIC
・中国自動車道
 山口ICから車で15分

●駐車場
・香山公園駐車場利用(無料)

※洞春寺の近くに香山公園第二駐車場がありますので、そちらに駐車すると便利です。

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洞春寺の地図

 

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