所在地 | 鹿児島県南九州市知覧町郡17974 |
---|---|
祭 神 | 戊辰戦争から太平洋戦争までの知覧町出身の戦没者 |
由 緒 | 知覧町の知覧平和公園内に鎮座している神社です。1869年、戊辰戦争の戦没者を祀ったのが始りで、後に西南戦争から太平洋戦争までの戦没者を順次合祀。一時、豊玉姫神社内に移った後、1959年に現在地へ遷座したそうです。 |
HP | 知覧特攻平和会館 |
鳥居と参道と狛犬
●鳥居
知覧平和公園に鎮座してます知覧町護国神社に到着。
知覧町護国神社と書いてちらんちょうごこくじんじゃと読みます。
知覧といえば知覧茶、そして特攻・・・。
終戦間際、若者たちの命は知覧の空に消えていきました。
彼らが守ろうとした日本。
そして彼らが守ろうとした日本の未来。
彼らの未来に私たちは生きている・・・
そう思うと、胸が締め付けられてしまう私なのでありました。
●参道と石灯籠
参道脇にはたくさんの石灯籠がありました。
参道脇だけじゃなく、知覧平和公園内、さらには知覧平和公園に続く道にもおびただしい数の石灯籠が並んでいました。
よく見ると、石灯籠には特攻隊員の姿が彫刻されていました。
特攻の母といわれた鳥浜トメさんは、特攻平和観音像までの道に石灯籠を寄進する運動を進めていたといわれています。
もしかしてこの石灯籠は、決戦の空に散っていった特攻隊員と同じ数だけ建っているのかも?
●狛犬
●狛犬
・1959年奉納
・子取り・玉取り型
拝殿前には1959年に奉納された狛犬ちゃんがおられました。
由緒によると、この神社は一時期、豊玉姫神社内に移っていたみたいです。
その後、1959年に現在地へ遷座したといわれています。
そんなこんなで、この狛犬ちゃんはその時に奉納されたものと思われます。
知覧平和公園に鎮座してます知覧町護国神社に到着。
知覧町護国神社と書いてちらんちょうごこくじんじゃと読みます。
知覧といえば知覧茶、そして特攻・・・。
終戦間際、若者たちの命は知覧の空に消えていきました。
●知覧と特攻作戦
1941年の真珠湾攻撃によって太平洋戦争が開戦。
この地は1939年頃から陸軍飛行場としての調査が始められ、1940年に建設に着手。
太平洋戦争の開戦直後の1941年に、太刀洗陸軍飛行学校 知覧分教所として正式に開校されました。
翌年の1942年、第10期陸軍少年飛行兵78名が操縦教育を受けるため知覧駅に到着。
知覧駅を埋めた町民たちから熱狂的な大歓迎を受け、飛行場まで堂々の隊列行進をしたといわれています。
95式練習機(赤トンボ)による訓練は猛烈を極め、それまで静かだった知覧の町は一転して爆音に明け暮れることになりました。
この3年後、知覧が特攻基地になるとは町民の誰もが予想しなかったでしょう。
開戦当初は優勢だった日本軍ですが、次第に防戦一方となりました。
1945年になると本土全域が空襲を受けるようになり、ついにはアメリカ軍による沖縄上陸が目前まで迫ってきました。
なんとしても沖縄を守らなければならない・・・
そこで日本軍がとった作戦が特攻作戦。
特攻作戦は、これまでの敗勢を一気に挽回するための必死必中の体当たり攻撃。
航空機に搭載した爆弾もろとも敵艦に突っ込むという、世界戦史に類例を見ない一撃必殺・必死必中の特別攻撃作戦です。
特別攻撃隊、略して特攻隊。
別名・神風特別攻撃隊ともいいます。
もちろん作戦の決定・決行には賛否がありました。
しかし追い込まれた日本軍は、特攻作戦を決行するのでありました。
特攻作戦は、1944年のフィリピン戦線で初めて決行されました。
その際、米空母1隻を撃沈。
その他1隻にも損害を与えたそうです。
そうしたなか、アメリカ軍は特攻対策としてレーダー網を整備。
その結果、特攻隊は目標に体当たりをするどころか、近づくことさえ困難になってしまいました。
それでも日本は特攻作戦をやめず、1000人以上もの若い命が大空へ散っていきました。
特攻機は知覧基地を始め、宮崎県の都城など九州の各地などから出撃していきました。
なぜ知覧に知覧平和会館があるのかというと、知覧基地が本土最南端で沖縄から1番近い基地ということで、最も多くの特攻機が出撃したからです。
全特攻戦死者1036名のうち、約半数の439名が知覧基地から決戦の大空へ飛び立っていきました。
特攻で散っていった勇者たちの年齢は17歳から32歳。
平均年齢なんと21歳6ヶ月。
1941年の真珠湾攻撃によって太平洋戦争が開戦。
この地は1939年頃から陸軍飛行場としての調査が始められ、1940年に建設に着手。
太平洋戦争の開戦直後の1941年に、太刀洗陸軍飛行学校 知覧分教所として正式に開校されました。
翌年の1942年、第10期陸軍少年飛行兵78名が操縦教育を受けるため知覧駅に到着。
知覧駅を埋めた町民たちから熱狂的な大歓迎を受け、飛行場まで堂々の隊列行進をしたといわれています。
95式練習機(赤トンボ)による訓練は猛烈を極め、それまで静かだった知覧の町は一転して爆音に明け暮れることになりました。
この3年後、知覧が特攻基地になるとは町民の誰もが予想しなかったでしょう。
開戦当初は優勢だった日本軍ですが、次第に防戦一方となりました。
1945年になると本土全域が空襲を受けるようになり、ついにはアメリカ軍による沖縄上陸が目前まで迫ってきました。
なんとしても沖縄を守らなければならない・・・
そこで日本軍がとった作戦が特攻作戦。
特攻作戦は、これまでの敗勢を一気に挽回するための必死必中の体当たり攻撃。
航空機に搭載した爆弾もろとも敵艦に突っ込むという、世界戦史に類例を見ない一撃必殺・必死必中の特別攻撃作戦です。
特別攻撃隊、略して特攻隊。
別名・神風特別攻撃隊ともいいます。
もちろん作戦の決定・決行には賛否がありました。
しかし追い込まれた日本軍は、特攻作戦を決行するのでありました。
特攻作戦は、1944年のフィリピン戦線で初めて決行されました。
その際、米空母1隻を撃沈。
その他1隻にも損害を与えたそうです。
そうしたなか、アメリカ軍は特攻対策としてレーダー網を整備。
その結果、特攻隊は目標に体当たりをするどころか、近づくことさえ困難になってしまいました。
それでも日本は特攻作戦をやめず、1000人以上もの若い命が大空へ散っていきました。
特攻機は知覧基地を始め、宮崎県の都城など九州の各地などから出撃していきました。
なぜ知覧に知覧平和会館があるのかというと、知覧基地が本土最南端で沖縄から1番近い基地ということで、最も多くの特攻機が出撃したからです。
全特攻戦死者1036名のうち、約半数の439名が知覧基地から決戦の大空へ飛び立っていきました。
特攻で散っていった勇者たちの年齢は17歳から32歳。
平均年齢なんと21歳6ヶ月。
彼らが守ろうとした日本。
そして彼らが守ろうとした日本の未来。
彼らの未来に私たちは生きている・・・
そう思うと、胸が締め付けられてしまう私なのでありました。
●参道と石灯籠
参道脇にはたくさんの石灯籠がありました。
参道脇だけじゃなく、知覧平和公園内、さらには知覧平和公園に続く道にもおびただしい数の石灯籠が並んでいました。
よく見ると、石灯籠には特攻隊員の姿が彫刻されていました。
特攻の母といわれた鳥浜トメさんは、特攻平和観音像までの道に石灯籠を寄進する運動を進めていたといわれています。
もしかしてこの石灯籠は、決戦の空に散っていった特攻隊員と同じ数だけ建っているのかも?
●狛犬
●狛犬
・1959年奉納
・子取り・玉取り型
拝殿前には1959年に奉納された狛犬ちゃんがおられました。
由緒によると、この神社は一時期、豊玉姫神社内に移っていたみたいです。
その後、1959年に現在地へ遷座したといわれています。
そんなこんなで、この狛犬ちゃんはその時に奉納されたものと思われます。
拝殿と本殿
●拝殿●拝殿
・1959年建立
・銅板葺 平入り切妻造
現代の価値観では考えられないことが、当たり前だった時代・・・
平和の大切さを実感しつつ参拝。
今日の平和は私達のために犠牲となり尊い命を捧げられた方々のおかげです。
と、感謝の意を唱える。
●本殿
●本殿
・1959年建立
・銅板葺 妻入り切妻造
御祭神は戊辰戦争から太平洋戦争までの知覧町出身の戦没者。
●戊辰戦争
戊辰戦争は、江戸時代から明治時代への変遷の過程で行われた政府軍と旧幕府軍との内戦です(1868〜1869年)
●西南戦争
西南戦争は、西郷隆盛率いる薩軍と明治政府の間で行われた日本国内最後の内乱です(1877年)
●日清戦争
日清戦争は、日本と清国の間で行われた戦争です(1894〜1895年)
●日露戦争
日露戦争は、日本とロシア帝国の間で行われた戦争です(1904〜1905年)
●日中戦争
日中戦争は、日本と中華民国の間で行われた戦争です(1937〜1945年)
※1941年から太平洋戦争の一部となる。
●太平洋戦争
太平洋戦争は、日本とアメリカ・イギリスなどの連合軍の間で行われた戦争です。
戊辰戦争は、江戸時代から明治時代への変遷の過程で行われた政府軍と旧幕府軍との内戦です(1868〜1869年)
●西南戦争
西南戦争は、西郷隆盛率いる薩軍と明治政府の間で行われた日本国内最後の内乱です(1877年)
●日清戦争
日清戦争は、日本と清国の間で行われた戦争です(1894〜1895年)
●日露戦争
日露戦争は、日本とロシア帝国の間で行われた戦争です(1904〜1905年)
●日中戦争
日中戦争は、日本と中華民国の間で行われた戦争です(1937〜1945年)
※1941年から太平洋戦争の一部となる。
●太平洋戦争
太平洋戦争は、日本とアメリカ・イギリスなどの連合軍の間で行われた戦争です。
特攻勇士の像と母の像とT-6Gと隼
●特攻勇士の像 とこしえに
●特攻勇士の像 とこしえに
・1974年建立
・伊藤五百亀 作
知覧町護国神社の入口には特攻隊員の銅像がありました。
●母の像 やすらかに
●母の像 やすらかに
・1986年建立
そして、特攻勇士を見送るように母の像が建っていました。
特攻隊員の想い・・・
そして家族の想い・・・
それを思うだけでも涙が出ちゃいます。
●自衛隊練習機T-6G
特攻勇士の像の近くには航空機がありました。
この航空機は特攻機ではなく、戦後の自衛隊練習機T-6Gのようです。
●一式戦闘機・隼(復元)
さらに旧帝国陸軍一式戦闘機・隼の復元制作機もありました。
この復元機は、映画・俺は、君のためにこそ死ににいくの撮影で使用されたもののようです。
ちなみに、知覧からは120機の隼が飛び立ったといわれています。
特攻機は、まず開聞岳を目指して飛んでいったといいます。
知覧から沖縄本島まで約650km。
約2時間30分の飛行中、隊員たちは何を思っていたのだろう。。。
●特攻勇士の像 とこしえに
・1974年建立
・伊藤五百亀 作
知覧町護国神社の入口には特攻隊員の銅像がありました。
●母の像 やすらかに
●母の像 やすらかに
・1986年建立
そして、特攻勇士を見送るように母の像が建っていました。
特攻隊員の想い・・・
そして家族の想い・・・
それを思うだけでも涙が出ちゃいます。
●自衛隊練習機T-6G
特攻勇士の像の近くには航空機がありました。
この航空機は特攻機ではなく、戦後の自衛隊練習機T-6Gのようです。
●一式戦闘機・隼(復元)
さらに旧帝国陸軍一式戦闘機・隼の復元制作機もありました。
この復元機は、映画・俺は、君のためにこそ死ににいくの撮影で使用されたもののようです。
ちなみに、知覧からは120機の隼が飛び立ったといわれています。
特攻機は、まず開聞岳を目指して飛んでいったといいます。
知覧から沖縄本島まで約650km。
約2時間30分の飛行中、隊員たちは何を思っていたのだろう。。。
特攻平和観音堂と三角兵舎
●特攻平和観音堂
知覧町護国神社の隣には特攻平和観音堂がありました。
こちらには奈良・法隆寺の秘仏・夢違観音を模造した観音さまが安置されているという。
ちなみに観音さまの胎内には、特攻で戦死した1036名の名簿を納められているそうです。
特攻平和観音堂の境内には、大刀洗陸軍飛行学校 知覧教育隊の門柱もありました。
●三角兵舎(復元)
知覧町護国神社の後ろには、特攻隊員の宿舎・三角兵舎(復元)がありました。
当時は松林の中に半地下壕をつくり、敵の目をあざむくため屋根の上に杉の幼木をかぶせて擬装してあったといいます。
そんなこんなで、地上からは三角の屋根しか見えなかったため、三角兵舎と呼ばれていたそうです。
各地から集った特攻隊員は、2〜3日後にここから出撃。
出撃の前夜は、この三角兵舎で壮行会が催され、酒を汲みかわしながら隊歌をうたい、薄暗い裸電球の下で遺書を書き、また別れの手紙などをしたためていたそうです。
泣ける・・・。
知覧町護国神社の隣には特攻平和観音堂がありました。
こちらには奈良・法隆寺の秘仏・夢違観音を模造した観音さまが安置されているという。
ちなみに観音さまの胎内には、特攻で戦死した1036名の名簿を納められているそうです。
特攻平和観音堂の境内には、大刀洗陸軍飛行学校 知覧教育隊の門柱もありました。
●三角兵舎(復元)
知覧町護国神社の後ろには、特攻隊員の宿舎・三角兵舎(復元)がありました。
当時は松林の中に半地下壕をつくり、敵の目をあざむくため屋根の上に杉の幼木をかぶせて擬装してあったといいます。
そんなこんなで、地上からは三角の屋根しか見えなかったため、三角兵舎と呼ばれていたそうです。
各地から集った特攻隊員は、2〜3日後にここから出撃。
出撃の前夜は、この三角兵舎で壮行会が催され、酒を汲みかわしながら隊歌をうたい、薄暗い裸電球の下で遺書を書き、また別れの手紙などをしたためていたそうです。
泣ける・・・。
知覧特攻平和会館
●知覧特攻平和会館
知覧町護国神社の隣には知覧特攻平和会館があります。
広大な知覧平和公園のメインとなる施設です。
館内には、特攻隊員の写真・遺書・遺品を始め、海底から引き上げられた零式艦上戦闘機(実物)・四式戦闘機・疾風(実物)などなど多数の特攻遺品が展示されていました。
正直、言葉を失います。
ここがどんな施設なのか?
説明不要・・・このゼロ戦が物語ってくれます。
出撃前の隊員は皆さん笑顔なんだ・・・
家族を悲しませたくない気持ちからか、遺書はとても晴れ晴れしていて・・・悲しみの感情は見当たらないのです。。
明日、わが身が弾丸となるのに・・・
どこまでが本心なのか・・・
遺書には書けなかったであろう、少年や青年達の気持ちを思うと・・・ツラいです。
語り部さんによる講話もツラかったなぁ。
気がつけば4時間滞在・・・全てを見学する前に閉館時間がやってきました。
嗚呼、もっと早い時間に来ればよかったなぁ。
拝観後、しばらく無言になってしまった私と嫁・・・
知覧の夕空に敬礼して知覧平和公園を後にするのでありました。
そういえば知覧茶を買って帰りました。
家で知覧茶を飲むたび、特攻隊員の笑顔の写真を思い出してはしんみりとしている今日この頃です。
知覧町護国神社の隣には知覧特攻平和会館があります。
広大な知覧平和公園のメインとなる施設です。
館内には、特攻隊員の写真・遺書・遺品を始め、海底から引き上げられた零式艦上戦闘機(実物)・四式戦闘機・疾風(実物)などなど多数の特攻遺品が展示されていました。
正直、言葉を失います。
ここがどんな施設なのか?
説明不要・・・このゼロ戦が物語ってくれます。
出撃前の隊員は皆さん笑顔なんだ・・・
家族を悲しませたくない気持ちからか、遺書はとても晴れ晴れしていて・・・悲しみの感情は見当たらないのです。。
明日、わが身が弾丸となるのに・・・
どこまでが本心なのか・・・
遺書には書けなかったであろう、少年や青年達の気持ちを思うと・・・ツラいです。
語り部さんによる講話もツラかったなぁ。
気がつけば4時間滞在・・・全てを見学する前に閉館時間がやってきました。
嗚呼、もっと早い時間に来ればよかったなぁ。
拝観後、しばらく無言になってしまった私と嫁・・・
知覧の夕空に敬礼して知覧平和公園を後にするのでありました。
そういえば知覧茶を買って帰りました。
家で知覧茶を飲むたび、特攻隊員の笑顔の写真を思い出してはしんみりとしている今日この頃です。
御朱印情報
●御朱印の種類
・なし
●御朱印の受付場所
・なし
●御朱印の受付時間
・なし
●御朱印の料金
・なし
●期間限定・特別御朱印
・なし
●オリジナル御朱印帳
・なし
・2022年11月5日 参拝
・2022年12月 更新
・なし
●御朱印の受付場所
・なし
●御朱印の受付時間
・なし
●御朱印の料金
・なし
●期間限定・特別御朱印
・なし
●オリジナル御朱印帳
・なし
・2022年11月5日 参拝
・2022年12月 更新
大和ミュージアムの観光記~戦艦ファンの聖地~(広島県呉市宝町)
大和ミュージアム●大和ミュージアムかつて鎮守府が設置され、東洋一の軍港として栄えた呉。当時、世界最大の戦艦と呼ばれた大和も、ここ呉で建造されました。戦後になってからも、日本最大のタンカー・日精丸な...
参拝情報とアクセス
●知覧町護国神社
・参拝時間 境内自由
・拝観料 無料
●知覧特攻平和会館
・開館期間 年中無休
・開館時間 9:00〜17:00
※入館は16:30まで。
都合により開館時間を変更すること有り。
●知覧特攻平和会館 入館料
・大人(個人) 500円
小・中学生(個人) 300円
・大人(団体) 400円
小・中学生(団体) 240円
※団体は30名以上。
●ミュージアム知覧共通券
大人 600円(通常800円)
小・中学生 400円(通常500円)
●最寄りの駅
・なし
●最寄りのバス停
・鹿児島交通バス
知覧特攻観音入口 バス停から徒歩3分
●最寄りのIC
・南薩縦貫道
南九州知覧ICから車で2分
・指宿スカイライン
知覧ICから車で15分
●駐車場
・駐車料金 無料
・駐車時間 24時間
・駐車台数 約500台
※知覧平和公園は特攻施設の他に、野球場・サッカー場・陸上競技場・テニスコート・プールなどがあり、駐車場は何ヶ所かに分かれています。
・参拝時間 境内自由
・拝観料 無料
●知覧特攻平和会館
・開館期間 年中無休
・開館時間 9:00〜17:00
※入館は16:30まで。
都合により開館時間を変更すること有り。
●知覧特攻平和会館 入館料
・大人(個人) 500円
小・中学生(個人) 300円
・大人(団体) 400円
小・中学生(団体) 240円
※団体は30名以上。
●ミュージアム知覧共通券
大人 600円(通常800円)
小・中学生 400円(通常500円)
●最寄りの駅
・なし
●最寄りのバス停
・鹿児島交通バス
知覧特攻観音入口 バス停から徒歩3分
●最寄りのIC
・南薩縦貫道
南九州知覧ICから車で2分
・指宿スカイライン
知覧ICから車で15分
●駐車場
・駐車料金 無料
・駐車時間 24時間
・駐車台数 約500台
※知覧平和公園は特攻施設の他に、野球場・サッカー場・陸上競技場・テニスコート・プールなどがあり、駐車場は何ヶ所かに分かれています。