早雲寺の御朱印情報|北条氏の菩提寺(神奈川県足柄下郡箱根町湯本)

所在地神奈川県足柄下郡箱根町湯本405
宗 派臨済宗大徳寺派
由 緒1521年、北条早雲の遺言により、早雲の子・北条氏綱が京都・大徳寺の第83世・以天宗清を招いて創建したお寺といわれています。1590年の小田原征伐の際、一時的に豊臣秀吉軍が本陣を置いたそうです。しかし、石垣山城が完成すると、早雲寺を含む一帯は焼き払われたという。その後、北条氏の庇護を失って荒廃しますが、1627年に僧・菊径宗存が再建。さらに、1648年に徳川幕府3代将軍・徳川家光から朱印状を与えられ復興したそうです。
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惣門と参道


後北条氏の菩提寺であります早雲寺に到着。

正式名称は金湯山 早雲寺

金湯山 早雲寺と書いてきんとうざん そううんじと読みます。

早雲寺は箱根湯本駅から徒歩15分、旧東海道の一部・箱根旧街道沿いにありました。


由緒によると、1521年、北条早雲さんの遺言により、早雲の子・北条氏綱さんが京都・大徳寺の第83世・以天宗清さんを招いて創建したお寺といわれています。

しかし、大徳寺の記録によると、早雲寺の創建年である1521年当時、以天宗清さんは大徳寺にいたんだそうな・・・(-“-;) ??

そのため、早雲寺の創建については2つの説があります。

●説①
1504〜1521年、北条早雲さんの依頼により箱根湯本に早雲庵と呼ぶべき前身寺院を建立したのが始まり。

そして早雲の死後に菩提寺に改めたとする説。

●説②
1521年、北条早雲さんの遺言により、子の北条氏綱さんが創建したという寺伝そのものが江戸時代の創作とする説。

この説では、1532〜1555年に創建したと唱えているみたい。

そんなこんなで、参拝開始。


●惣門(総門)

●惣門(総門)
・江戸時代前期再建
・銅板葺 切妻造 薬医門
・箱根町指定文化財

まず最初に登場するのは惣門

この門は江戸時代前期建立で、箱根町文化財に指定されております。


このお寺は1590年の小田原征伐の際、一時的に豊臣秀吉軍が本陣を置いていたんだって。

しかし、石垣山城が完成すると、早雲寺を含む一帯は焼き払われたという・・・。

その後、北条氏の庇護を失って荒廃しますが、1627年に僧・菊径宗存さんが再建。

さらに、1648年に徳川幕府3代将軍・徳川家光さんから朱印状を与えられ復興したそうです。

そんなこんなで、この惣門は1627年もしくは1648年の再建時に建立されたものかも知れませんね。


後北条氏の菩提寺ということで、惣門には北条氏の家紋・三つ鱗を確認することができました。


扁額には金湯山

温泉地ならではの山号ですね〜。


そして扁額には朝鮮國雪峯と書かれておりました。

どうやらこの扁額は朝鮮の雪峯さんの書みたい。

調べてみると、雪峯とは朝鮮通信使の金義信(キム・ウィシン)さんのことなんだって。

由緒には書いてなかったけど、もしかしたら朝鮮通信使が立ち寄ったお寺さんなのかなぁ?


ちなみに、惣門の前には異国感たっぷりの石像が立っていました。

もしかしたら、この石像も朝鮮通信使に関係するものかも知れませんね。


そんなこんなで、惣門をくぐって境内へ。


●参道

惣門をくぐると苔と新緑の世界に突入しました。

箱根湯本駅から徒歩圏内にも関わらず、駅周辺の賑わいとは全くの別世界。

ゴールデンウィークなのに参拝者はまばらで、とても落ち着いた雰囲気のお寺さんとなっておりました。


参道脇には古そうな石仏と何かのお社が鎮座していました。


●鎮守社?
・建立年不明
・銅板葺 入母屋造(春日造?)

こちらは鎮守社でしょうか?

説明板がなかったため、どなたがお祀りされているのかは謎です。

構造的には、ほぼ春日造。

春日造なのか、入母屋造なのか、判別がむずかしいお社でした。


そして、この石仏さんも説明板がなかったため由緒はわかりません。

大きな石仏さんの前には小さな石仏さん。

親子かな?


おそらくこの石仏はお地蔵さんと思われます。

それにしても苔が髪の毛みたいだね。

なんだか発毛の御利益がありそうなお地蔵さんだなぁ~。

ガッツリ拝んどこっ!
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山門と鐘楼

●山門(中門)

●山門(中門)
・2019年再建
・瓦葺 切妻造 四脚門

続いて、山門が登場。

もともとここには昭和30年代に建立された山門があったそうですが、隣に立っていた楠に押されて傷んでしまったんだって。

そんなこんなで、北条早雲さんの没後500年である2021年に合わせて再建されたのが現在の山門のようです。


かつては後北条氏の氏寺として発展し、湯本・小田原には、早雲寺を本寺とする末寺・塔頭がたくさんあったそうです。

最盛期には500名を超える僧侶がおり、関東随一の名刹として名を馳せていたそうですよ。


●鐘楼

●鐘楼
・1789〜1801年建立
・茅葺 入母屋造
・箱根町指定文化財

鐘楼は江戸時代後期建立で、箱根町文化財に指定されております。

素朴な茅葺き屋根が素敵な鐘楼でした。


●梵鐘
・1330年鋳造
・神奈川県指定文化財

なんと鐘楼に吊るされている梵鐘は1330年の鋳造だという。

このお寺が創建されたのは1521年

しかし梵鐘が鋳造されたのは1330年・・・(-“-;) ??

ということで、もともとこの梵鐘は別のお寺にあったものと思われます。


そんなことより、この梵鐘は豊臣秀吉の小田原征伐の際、石垣山の一夜城で使われた梵鐘なんだとか!

ということは、この梵鐘は北条氏の滅亡を目の当たりにしたということなんですね。

北条氏の終焉を見届けた梵鐘が北条氏の菩提寺に・・・なんかグッとくるね。
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本堂と庭園と開山堂

●本堂(方丈)

●本堂(方丈)
・1789〜1801年再建
・銅板葺 入母屋造
・箱根町指定文化財

続いて、本堂で参拝。

現在の本堂は銅板葺の入母屋造ですが、昭和30年代までは茅葺の寄棟造だったそうですよ。

もしかしたら茅葺から銅板葺に葺き替える際、屋根の形状も寄棟から入母屋に変更したのかなぁ?


御本尊は釈迦如来坐像

そして脇侍として文殊菩薩像普賢菩薩像が安置されているそうです。

そんなこんなで、御本尊は釈迦三尊像になってるみたいだね。

ちなみに釈迦三尊像は室町時代作とのことです。


なんと本堂内には絵師・狩野雪村さんが描いた16面の襖絵があるという!


是非とも拝見したい!


と思うも、拝観謝絶!

お猿さんも謝絶!

ちなみに本堂内の襖絵は、毎年11月に特別公開されるそうですよ。

本堂内に入れるのは特別公開がある3日間だけとのことです。


●早雲寺庭園(香爐峯)

●早雲寺庭園(香爐峯)
・江戸時代前期築庭
・枯山水庭園
・北条幻庵 作

本堂の裏には香炉峰という枯山水庭園がありました。

香炉峰とは、おそらく枕草子の一節『少納言よ 香炉峰の雪いかならむ』から名付けられたものと思われます。

ちなみに、香爐峯と書いてこうろほうと読みます。


寺伝によると、作庭者は北条早雲の末っ子・北条幻庵さん。

しかし、重森三玲・完途親子の研究によると、江戸時代前期に築庭されたお庭と推測されてるんだって。

早雲寺一帯は、豊臣秀吉の小田原征伐の際に焼き払われています。

そんなこんなで江戸時代の再興時に、かつてあった戦国時代の庭園を再現したのが現在の香炉峰と思われます。


●開山堂

●開山堂
・建立年不明
・茅葺 寄棟造

枯山水庭園からは開山堂を望むことができました。

その名の通り、早雲寺の開山・以天宗清さんをお祀りするお堂です。


ネットの情報によると、建立時期は近年。

鎌倉・円覚寺の舎利殿などを参考に建てられたお堂で、堂内には以天宗清像が安置されてるんだって。

●以天宗清とは?(いてんそうせい)

以天宗清さんは山城国出身。

京都・泉涌寺で得度した後、1519年に大徳寺83世となりました。

1521年、伊豆韮山の香山寺から早雲寺の開山に迎えられ、北条早雲・氏綱・氏康の帰依を受けたそうです。

その後、1542年に後奈良天皇より正宗大隆禅師の諡号を賜り、1553年に83歳でお亡くなりになりました。
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北条五代の墓

●北条五代の墓

●北条五代の墓
・1672年建立

続いて、北条五代のお墓を参拝。

北条五代とは、後北条氏の早雲・氏綱・氏康・氏政・氏直さんのことです。


●北条五代の墓(右から)
①北条早雲
②北条氏綱
③北条氏康
④北条氏政
⑤北条氏直

ちなみに、北条五代のとなってますが、実際には北条五代の供養塔なんだと!

由緒によると、1672年に河内狭山藩4代藩主・北条氏治さんが北条早雲の命日である8月15日に建立した供養塔とのことです。

北条早雲・氏綱・氏康さんのお墓は豊臣秀吉の焼き討ちにより所在不明

北条氏政さんのお墓は小田原駅近くの伝心庵跡

そしてなぜか、なぜなのか北条氏直さんのお墓は広島県広島市海蔵寺にあるという!

●海蔵寺

北条氏直さんは、豊臣秀吉の小田原征伐で降伏させられた北条氏政の子です。

豊臣秀吉に敗れた氏政は自害しましたが、氏直さんは徳川家康の娘婿のため助命され、高野山に謹慎させられました。


史実によると、氏直さんは大坂でお亡くなりになっていますが、海蔵寺の伝承によると現・広島市西区草津で生涯を終えたのだとか!


早雲寺のお墓は供養塔ですし・・・。

ということで、氏直さんのお墓は海蔵寺説・・・可能性はゼロではないかも!

ちなみに海蔵寺に伝わる氏直さんの法名は松巌院殿大円徹公大居です。


北条早雲さんのお墓には、北条早雲ではなく伊勢新九郎と刻まれていました。


その他のお墓は、北条ではなく北條と刻まれていました。


●北条早雲(1432~1519)
北条早雲さんは戦国時代初期を代表する武将。
戦国時代の幕を開いたお方です。

俗名は伊勢新九郎長氏。

京都から駿河国の今川家に身を寄せ伊豆・相模を攻略して独立。

伊豆韮山で死去(享年88歳)


●北条氏綱(1486~1541)
北条氏綱さんは父・早雲の遺志を継ぎ武蔵・下総へ進出。

小田原北条氏の領国を拡大したお方です(享年56歳)


●北条氏康(1515~1571)
北条氏康さんは扇谷上杉家を滅ぼし、甲斐国の武田氏と越中国の上杉氏の関東進出を防ぐ。

領国経営に優れた手腕を発揮したお方です(享年57歳)


●北条氏政(1538~1590)
北条氏政さんの夫人は武田信玄の娘・黄梅院。

武田信玄の西上を後援しますが、信玄が没すると織田信長と連携して武田討伐に加担。

豊臣秀吉の小田原征伐に敗れ切腹(享年53歳)


●北条氏直(1562~1591)
北条氏直さんの夫人は徳川家康の娘・督姫。

下野宇都宮氏を降し、北条氏最大の領地を形成。

上野・真田昌幸の名胡桃城を奪取して豊臣秀吉と対立し敗れる。

徳川家康の助命により高野山に流されるも、翌年に死去(享年30歳)


●北条氏次の墓

●北条氏次の墓
・1890年建立

北条五代の墓の側には1つだけ形状の違うお墓が建っていました。

どうやらこちらは、北条氏直の子・氏次さんのお墓のようです。

ちなみに氏次さんは実在していたかどうかは怪しいんだとか・・・(-“-;) ??
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宗祇と稲津祇空と今大路道三玄鑑の墓

●宗祇の墓

さらに境内には室町時代を代表する連歌師・宗祇さんのお墓がありました。

宗祇さんは早雲寺でお亡くなりになり、お墓は静岡県裾野市の定輪寺にあるそうです。

って、静岡県裾野市の定輪寺!?

ということで、北条五代の墓同様、このお墓も供養塔のようです。

ちなみに、宗祇さんの亡骸は弟子の宗長らが担いで箱根越えしたそうです。

そして、富士山麓の定輪寺まで運んで葬ったんだって。


開山の以天宗清さんが大徳寺の住持を務めていたことから、早雲寺は茶道の千利休、能の世阿弥、絵画の長谷川等伯、連歌の宗祇宗長などの文化人を通じて大徳寺文化を東国にもたらす場として重要な役割を担っていたお寺なんだって。


●稲津祇空の墓

宗祇のお墓の隣には江戸時代中期の俳人・稲津祇空さんのお墓もありました。

●稲津祇空とは?
稲津祇空さんは大坂出身。

当初は青流という名前で活躍していましたが、1714年に早雲寺にある宗祇の墓前で剃髪し、宗祇から一字を取って祇空と号したそうです。

その後、敬雨と名を変え、さらに1731年、早雲寺に石霜庵を構え、玉笥山人と号したそうです。

1733年に死去。

その後、遺体は早雲寺に葬られたそうです。

ということで、こちらは供養塔ではなく本当のお墓のようですね。


●今大路道三玄鑑の墓

境内には今大路道三さんのお墓もありました。

今大路道三さんは江戸幕府2代将軍・徳川秀忠の侍医とのことです。

徳川秀忠の正室・崇源院(江姫)が重態に陥った際、今大路道三さんは京都から江戸へ向かったそうです。

しかしその途中、箱根で亡くなり早雲寺に葬られたんだそうな。


●庫裏

●庫裏
・建立年不明
・銅板葺 寄棟造

その他、境内には庫裏がありました。

建立年を確認することはできませんでしたが、見た感じ、それなりに古そうな建物でした。


そんなこんなで、参拝終了。

いやはや、素敵なお寺さんでした。

北条早雲とは?


北条早雲さんは室町時代後期に活躍した武将で後北条氏の祖です。

北条早雲という名で知られていますが、本人は1度も北条早雲と名乗っておらず、実際の名前は伊勢新九郎盛時伊勢宗瑞だという!

素浪人から戦国大名に上り詰めた元祖下剋上として知られていますが、近年の研究では室町幕府の重臣の家に生まれ、幕府官僚となり、将軍直属軍に所属したなどなど、これまでの通説とは違うことが判明しているんだとか。

名前を伊勢から北条に変えたのは、早雲の子・氏綱

伊勢は西国の地名ということで、関東の武士にとってはよそ者のイメージがありました。

一方の北条は、早雲が最初に支配した伊豆の地名で関東でも馴染み深い

そんなこんなで、氏綱は関東支配の正当性を主張するために、姓を北条に変えました。

これにより後北条氏が誕生。

このような経緯から、早雲は後北条氏の祖といわれています。 

●北条早雲とは?

1450年頃、備中国の伊勢盛定の息子として誕生(諸説あり)。

元服後は、室町幕府8代将軍・足利義政の弟・義視に仕えました。

しかし、1467年に応仁の乱が起こると、義視は伊勢に逃れることに。


その後、早雲は義視のもとを去り、姉が嫁いでいた駿河国(現・静岡県)の守護大名・今川家の家臣となりました。

しかし、1476年に今川家の当主・義忠が戦死。

そのことにより、分家筋の小鹿範満との間で後継者争いが起こりました。

義忠には龍王丸という男児がいましたが、まだ6歳という若さ・・・。

そこで早雲は甥である龍王丸に味方し、小鹿範満に『龍王丸が大人になるまで、範満が家督を代行してはどうか』と提案しました。

しかし、龍王丸が成人しても範満は家督を譲りませんでした。

見かねた早雲は範満の館を襲撃して範満と弟の小鹿孫五郎を殺害しました。

そんなこんなで、今川家の当主となった龍王丸は、褒美として早雲に興国寺城を与えました(現・静岡県沼津市)。

ちなみに、龍王丸は今川義元の父です。

その頃、伊豆を支配していた足利政知(堀越公方)が病死。

政知の長男・茶々丸不良少年だったため、異母兄弟の次男が後を継ぐことになっていました。

そこで茶々丸は次男母親殺害

無理矢理、当主(堀越公方)となりました。


その後、殺害された次男と同じ母から生まれた三男・義澄が、室町幕府11代将軍に就任。

義澄は母と兄のをとるため、早雲に茶々丸を討つように命じました。

そんなこんなで、1493年。
早雲は伊豆に攻め込みました(伊豆討ち入り

茶々丸は願成就院に逃げ込みますが自害しました。

そして早雲は韮山城(現・伊豆の国市)を新たな居城として伊豆国の統治を始めました。


その後、大森氏の居城・小田原城を奪取。

さらに三浦氏を滅ぼし、相模国統一を成し遂げました。

そして1519年、韮山城でお亡くなりになりました。

そんなこんなで、伊豆討ち入り以降、早雲の活躍は下剋上の象徴として長く語り継がれることになりました。

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御朱印情報


参拝後、御朱印を頂くために庫裏を尋ねてみましたが、玄関に『御朱印はお受けしておりません』という貼り紙が!

ネットの情報によると、毎年11月初旬に行われる特別公開(3日間)のときのみ御朱印が頂けるそうですよ。

●御朱印
・あり(特別公開のとき)

●御朱印の受付場所
・不明

●御朱印の受付時間
・不明

●御朱印の料金
・不明

●期間限定・特別御朱印
・不明

●オリジナル御朱印帳
・なし

・2023年4月30日 参拝
・2023年6月 更新

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参拝情報とアクセス

●開門時間
・不明

●拝観料
・無料

●最寄りの駅
・箱根登山鉄道
 箱根湯本駅から徒歩15分

・箱根登山鉄道
 箱根湯本駅から車で3分

●最寄りのバス停
・箱根登山バス
 早雲公園前 バス停から徒歩2分

●最寄りのIC
・箱根新道
 山崎ICから車で3分

・箱根新道
 須雲川ICから車で5分

●駐車場
・無料の専用駐車場あり

早雲寺の地図

 

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