所在地 | 福岡県太宰府市観世音寺5丁目7−10 |
---|---|
宗 派 | 臨済宗妙心寺派 |
由 緒 | 753年、仏舎利を携えて来日した鑑真和上が、この地で初の授戒を行ったといいます。 その後761年、聖武天皇の勅願により天下の三戒壇の1つとして筑紫・観世音寺の境内に戒壇院を設置。 それがこのお寺の始まりといいます。以来、西海道唯一の戒壇として興隆を続けたそうです。 その後、一時衰退しますが、1669年に崇福寺の智玄和尚が本尊を修復。 1703年、黒田家の家臣・鎌田昌勝が再興して観世音寺から独立したそうです。 現在は、臨済宗妙心寺派・聖福寺の末寺として存続しています。 |
HP | 太宰府 戒壇院 公式ホームページ |
筑紫・戒壇院とは?
●筑紫・戒壇院とは?
鑑真さんが日本で初めて授戒を行った戒壇院に到着。
かつて府の大寺と呼ばれた筑紫観世音寺の隣にあります。
この戒壇院は、もともと観世音寺の境内にありましたが、江戸時代に観世音寺から独立し、現在は博多・聖福寺の末寺となっております。
●ザックリと簡単に鑑真和上とは?
奈良時代、日本では正式な授戒が行われていませんでした。
そのため、自己申告による授戒がまかり通ってしまい、日本国中に自称・僧侶がはびこってしまったという。
なぜ、自称・僧侶が増えたかというと、僧侶になることで課役が免除されるという特権があったからです。
そんなこんなで、課役免除を狙って出家する農民が多発し社会問題となっていました。
ちなみに、このような僧侶のことを私度僧といいます。
私度僧が増えると国の税収が減り、国家の弱体化を招くため、許可なく僧侶になることは禁止されていました。
こうした背景から、聖武天皇は正式な授戒の必要性を感じるようになりました。 そして、唐から高僧を招き入れ、正しい戒律を授戒できる僧の派遣を求めました。
しかし、当時は唐から日本への航海は生死をかけた危険な旅。
そのため、日本の呼びかけに応じる僧侶はいなかったという。
そこで立ち上がったのが鑑真さん!
鑑真さんは自ら日本に渡ることを決意しました。
そんなこんなで、鑑真さんは日本への渡航を試みますが、弟子たちの反対や嵐により5度の失敗・・・そして両目を失明をしてしまいました。
しかし鑑真さんは諦めずに渡航を試みます。
そして753年、6度目の挑戦でようやく日本に到着!
1回目の渡航チャレンジから約10年の月日が流れていたという。
九州に上陸した鑑真さんは、まず大宰府の観世音寺に入りました。
そして日本で初めての授戒を行います。
その後、平城京に向かい、奈良・東大寺に日本初の戒壇院を設けました。
そして、761年に日本で初めて授戒を行ったこの地に戒壇院を設立。
それがこの筑紫・戒壇院です!
同年に下野薬師寺にも戒壇院を設立しました。
そんなこんなで
筑紫・戒壇院を西戒壇。
奈良・戒壇院を中央戒壇。
下野・戒壇院を東戒壇として、日本で正しい授戒が行われるようになりました。
ちなみに筑紫・戒壇院は、奈良・戒壇院と下野・戒壇院ともに天下の三戒壇と呼ばれています。
しかし、西海道唯一の戒壇として興隆を続けてきた筑紫・戒壇院は、中世のころ観世音寺の荒廃とともに衰退。
1554年まで授戒が行われていたといわれています。
鑑真さんが日本で初めて授戒を行った戒壇院に到着。
かつて府の大寺と呼ばれた筑紫観世音寺の隣にあります。
この戒壇院は、もともと観世音寺の境内にありましたが、江戸時代に観世音寺から独立し、現在は博多・聖福寺の末寺となっております。
●ザックリと簡単に鑑真和上とは?
奈良時代、日本では正式な授戒が行われていませんでした。
そのため、自己申告による授戒がまかり通ってしまい、日本国中に自称・僧侶がはびこってしまったという。
なぜ、自称・僧侶が増えたかというと、僧侶になることで課役が免除されるという特権があったからです。
そんなこんなで、課役免除を狙って出家する農民が多発し社会問題となっていました。
ちなみに、このような僧侶のことを私度僧といいます。
私度僧が増えると国の税収が減り、国家の弱体化を招くため、許可なく僧侶になることは禁止されていました。
こうした背景から、聖武天皇は正式な授戒の必要性を感じるようになりました。 そして、唐から高僧を招き入れ、正しい戒律を授戒できる僧の派遣を求めました。
しかし、当時は唐から日本への航海は生死をかけた危険な旅。
そのため、日本の呼びかけに応じる僧侶はいなかったという。
そこで立ち上がったのが鑑真さん!
鑑真さんは自ら日本に渡ることを決意しました。
そんなこんなで、鑑真さんは日本への渡航を試みますが、弟子たちの反対や嵐により5度の失敗・・・そして両目を失明をしてしまいました。
しかし鑑真さんは諦めずに渡航を試みます。
そして753年、6度目の挑戦でようやく日本に到着!
1回目の渡航チャレンジから約10年の月日が流れていたという。
九州に上陸した鑑真さんは、まず大宰府の観世音寺に入りました。
そして日本で初めての授戒を行います。
その後、平城京に向かい、奈良・東大寺に日本初の戒壇院を設けました。
そして、761年に日本で初めて授戒を行ったこの地に戒壇院を設立。
それがこの筑紫・戒壇院です!
同年に下野薬師寺にも戒壇院を設立しました。
そんなこんなで
筑紫・戒壇院を西戒壇。
奈良・戒壇院を中央戒壇。
下野・戒壇院を東戒壇として、日本で正しい授戒が行われるようになりました。
ちなみに筑紫・戒壇院は、奈良・戒壇院と下野・戒壇院ともに天下の三戒壇と呼ばれています。
しかし、西海道唯一の戒壇として興隆を続けてきた筑紫・戒壇院は、中世のころ観世音寺の荒廃とともに衰退。
1554年まで授戒が行われていたといわれています。
山門と土塀と鐘楼
●境内入口
そんなこんなで、参拝開始。
野原(?)の中に一直線に伸びる参道。
季節のせいか天気のせいか、やたらと古ぼけた景色に見えたひと時でした。
もともと、この戒壇院は観世音寺の境内にあったそうですが、今は戒壇院と観世音寺は宗派の違う別々の寺院。
でも戒壇院の場所は創建当時と変わってないんだって!
●参道
あぜ道のような参道を歩いてると、時の歩みが止まってしまったかのような・・・そんな気分になりました。
な〜んとなくこの風景は、江戸時代の風景とあんまり変わってないんだろうなぁ~とか思いつつ。
古寺感があって好きだなぁ、この風景。
●山門(南門)
●山門(南門)
・江戸時代建立
・瓦葺 薬医門
・太宰府市指定歴史的風致形成建造物
そんなこんなで、山門に到着。
現在の門は江戸時代に入ってからの建立。
創建当時は観世音寺の境内に面した門だけが開かれていたそうですよ。
上手く説明できないので、模型にて確認を。
創建当初は南側に門はなく、観世音寺の境内に面した東側にだけ門があったようです。
現在の伽藍は、江戸時代に再興されたものといいますから、その頃に南門が設けられたのでしょうか?
●戒壇石
山門前には、不許葷酒肉入境と書かれた石標がたっていました。
多分、葷酒肉は境内に入ることは許しませんよ〜的な意味だと思うんですが、葷酒肉の意味がわかんない・・・(^^;;
というか、読めない!
ということで調べてみることに。
どうやら、葷酒肉と書いてくんしゅにくと読むそうです。
匂いの強い野菜(ネギ・ニラ・ニンニクなど)や酒・肉は精が付きすぎて修行を妨げるため、清浄な寺内に入ることを許しません!
という意味らしいです。
やべぇなぁ、さっきニンニク盛り盛りのラーメン喰ったばっかりだよ!
ヨシっ、見なかったことにしよう!
●土塀
ちなみに、お寺を囲むカッコつけてない素朴な土塀は、太宰府市の歴史的風致形成建造物に指定されています。
そんなこんなで、山門をくぐる。
山門から望むこの風景が好きだなぁ。
●楼門の礎石
山門をくぐると門の礎石がありました。
どうやら、ここには1701年に建立された楼門が建っていたみたいです。
いつ頃、楼門はなくなったんだろうねぇ。
●鐘楼
●鐘楼
・1704年建立
・瓦葺 入母屋造 袴腰鐘楼
・福岡県指定有形文化財
●梵鐘
・1701年鋳造
・福岡県指定有形文化財
続いて、鐘楼前へ。
石積みの基壇の上にスマートに建つ鐘楼でした。
なんと、袴腰の半分が石積みだという!
石積みと腰板のハーフ&ハーフです。
ちょっと珍しいですね。
ちなみに、福岡県内で最古級の鐘楼らしいですよ。
そんなこんなで、参拝開始。
野原(?)の中に一直線に伸びる参道。
季節のせいか天気のせいか、やたらと古ぼけた景色に見えたひと時でした。
もともと、この戒壇院は観世音寺の境内にあったそうですが、今は戒壇院と観世音寺は宗派の違う別々の寺院。
でも戒壇院の場所は創建当時と変わってないんだって!
●参道
あぜ道のような参道を歩いてると、時の歩みが止まってしまったかのような・・・そんな気分になりました。
な〜んとなくこの風景は、江戸時代の風景とあんまり変わってないんだろうなぁ~とか思いつつ。
古寺感があって好きだなぁ、この風景。
●山門(南門)
●山門(南門)
・江戸時代建立
・瓦葺 薬医門
・太宰府市指定歴史的風致形成建造物
そんなこんなで、山門に到着。
現在の門は江戸時代に入ってからの建立。
創建当時は観世音寺の境内に面した門だけが開かれていたそうですよ。
上手く説明できないので、模型にて確認を。
創建当初は南側に門はなく、観世音寺の境内に面した東側にだけ門があったようです。
現在の伽藍は、江戸時代に再興されたものといいますから、その頃に南門が設けられたのでしょうか?
●戒壇石
山門前には、不許葷酒肉入境と書かれた石標がたっていました。
多分、葷酒肉は境内に入ることは許しませんよ〜的な意味だと思うんですが、葷酒肉の意味がわかんない・・・(^^;;
というか、読めない!
ということで調べてみることに。
どうやら、葷酒肉と書いてくんしゅにくと読むそうです。
匂いの強い野菜(ネギ・ニラ・ニンニクなど)や酒・肉は精が付きすぎて修行を妨げるため、清浄な寺内に入ることを許しません!
という意味らしいです。
やべぇなぁ、さっきニンニク盛り盛りのラーメン喰ったばっかりだよ!
ヨシっ、見なかったことにしよう!
●土塀
ちなみに、お寺を囲むカッコつけてない素朴な土塀は、太宰府市の歴史的風致形成建造物に指定されています。
そんなこんなで、山門をくぐる。
山門から望むこの風景が好きだなぁ。
●楼門の礎石
山門をくぐると門の礎石がありました。
どうやら、ここには1701年に建立された楼門が建っていたみたいです。
いつ頃、楼門はなくなったんだろうねぇ。
●鐘楼
●鐘楼
・1704年建立
・瓦葺 入母屋造 袴腰鐘楼
・福岡県指定有形文化財
●梵鐘
・1701年鋳造
・福岡県指定有形文化財
続いて、鐘楼前へ。
石積みの基壇の上にスマートに建つ鐘楼でした。
なんと、袴腰の半分が石積みだという!
石積みと腰板のハーフ&ハーフです。
ちょっと珍しいですね。
ちなみに、福岡県内で最古級の鐘楼らしいですよ。
本堂と盧舎那仏
●本堂
●本堂
・1680年再建
・瓦葺 重層入母屋造
・本尊 盧舎那仏
・福岡県指定有形文化財
905年の古文書や古絵図によると、もともとは東西に横長の正堂と礼堂が2棟が並んでいたそうです。
また1148年の古文書には、柱間は5間と記されているそうです。
ということで、今とは全然違う寺容だったみたいですね。
現在の本堂は、江戸時代に福岡藩の家臣・鎌田昌勝や豪商・浦了無によって再興されたものらしいです。
もともと戒壇院は、観世音寺の境内にあるお堂の1つでしたが、1703年に藩命によって博多禅宗四ヶ寺の管理となり、博多・聖福寺の末寺になったといいます。
博多・聖福寺は日本初の禅寺です。
そのこともあってか、戒壇院の本堂は禅宗様になっていました。
外観は二層のお堂に見えますが、下の屋根は裳階のため、実際は一層の建物です。
本堂というより仏殿と呼びたくなるお堂ですね。
そんなこんなで堂内をのぞくと、そこにはアドレナリンが大噴出しちゃう素敵な古仏がっ!
否が応でも鼻息が荒れます!
おっといかん!
すっかりニンニク臭のことを忘れてた!
バレる、息するな!
そんなことより、本尊前の床が一段高くなっています。
なんとこの段が受戒の場となる戒壇だという!
ここに天竺(インド)・唐(中国)・奈良(日本)の三国の土が納められているという!
かつてはここで授戒が行われ、そして正式な僧が誕生したということですね!
いやはや、感動です。
●本尊・盧舎那仏
●本尊 盧舎那仏坐像
・平安時代末期作
・像高 149cm
・ヒノキ 寄木造
・国指定重要文化財
本尊は、奈良・東大寺と同じ盧舎那仏でした。
盧舎那仏といえば、東大寺・唐招提寺などで知られていますが、実は盧舎那仏は作例の少ない仏像さんだったりします。
うぅぅ寒い・・・焚き火の前でやるポーズ。
もしくはキャッチャー。
このポーズは説法印というポーズで、文字通りお釈迦さんが説法をするときに結ぶ印相です。
ただでさえ作例が少ない仏像さんなのに、説法印を結ぶ盧舎那仏は相当珍しいと思います!
もちろん初めて拝見しました。
ちなみに11体の化仏が素敵な光背は後補のものらしいです。
●文殊菩薩と弥勒菩薩
●文殊・弥勒菩薩立像
・江戸時代中期作
・像高 約145cm
・太宰府市指定文化財
本尊・盧舎那仏の両サイドには文殊菩薩さんと弥勒菩薩さんがおられました。
どうやら向かって右が文殊菩薩像。
向かって左が弥勒菩薩像のようです。
基本的に文殊さんも弥勒さんも宝冠を被っていますが、こちらのお二方はお地蔵さんのように剃髪してるという!
説法印の盧舎那仏も珍しいですが、剃髪の文殊・弥勒さんもだいぶ珍しいです。
その他、境内には鑑真和上の供養塔・鑑真和上が唐から持ち帰った菩提樹・浦了無の供養塔んどがあります。
いやはや、素敵なお寺さんでした。
●本堂
・1680年再建
・瓦葺 重層入母屋造
・本尊 盧舎那仏
・福岡県指定有形文化財
905年の古文書や古絵図によると、もともとは東西に横長の正堂と礼堂が2棟が並んでいたそうです。
また1148年の古文書には、柱間は5間と記されているそうです。
ということで、今とは全然違う寺容だったみたいですね。
現在の本堂は、江戸時代に福岡藩の家臣・鎌田昌勝や豪商・浦了無によって再興されたものらしいです。
もともと戒壇院は、観世音寺の境内にあるお堂の1つでしたが、1703年に藩命によって博多禅宗四ヶ寺の管理となり、博多・聖福寺の末寺になったといいます。
博多・聖福寺は日本初の禅寺です。
そのこともあってか、戒壇院の本堂は禅宗様になっていました。
外観は二層のお堂に見えますが、下の屋根は裳階のため、実際は一層の建物です。
本堂というより仏殿と呼びたくなるお堂ですね。
そんなこんなで堂内をのぞくと、そこにはアドレナリンが大噴出しちゃう素敵な古仏がっ!
否が応でも鼻息が荒れます!
おっといかん!
すっかりニンニク臭のことを忘れてた!
バレる、息するな!
そんなことより、本尊前の床が一段高くなっています。
なんとこの段が受戒の場となる戒壇だという!
ここに天竺(インド)・唐(中国)・奈良(日本)の三国の土が納められているという!
かつてはここで授戒が行われ、そして正式な僧が誕生したということですね!
いやはや、感動です。
●本尊・盧舎那仏
●本尊 盧舎那仏坐像
・平安時代末期作
・像高 149cm
・ヒノキ 寄木造
・国指定重要文化財
本尊は、奈良・東大寺と同じ盧舎那仏でした。
盧舎那仏といえば、東大寺・唐招提寺などで知られていますが、実は盧舎那仏は作例の少ない仏像さんだったりします。
うぅぅ寒い・・・焚き火の前でやるポーズ。
もしくはキャッチャー。
このポーズは説法印というポーズで、文字通りお釈迦さんが説法をするときに結ぶ印相です。
ただでさえ作例が少ない仏像さんなのに、説法印を結ぶ盧舎那仏は相当珍しいと思います!
もちろん初めて拝見しました。
ちなみに11体の化仏が素敵な光背は後補のものらしいです。
●文殊菩薩と弥勒菩薩
●文殊・弥勒菩薩立像
・江戸時代中期作
・像高 約145cm
・太宰府市指定文化財
本尊・盧舎那仏の両サイドには文殊菩薩さんと弥勒菩薩さんがおられました。
どうやら向かって右が文殊菩薩像。
向かって左が弥勒菩薩像のようです。
基本的に文殊さんも弥勒さんも宝冠を被っていますが、こちらのお二方はお地蔵さんのように剃髪してるという!
説法印の盧舎那仏も珍しいですが、剃髪の文殊・弥勒さんもだいぶ珍しいです。
その他、境内には鑑真和上の供養塔・鑑真和上が唐から持ち帰った菩提樹・浦了無の供養塔んどがあります。
いやはや、素敵なお寺さんでした。
御朱印情報
●御朱印の種類
・戒壇院の御朱印(毘盧舎那仏)
●御朱印の受付場所
・庫裏
(不在の場合は庫裏玄関に書置きあり)
●御朱印の受付時間
・不明
●御朱印の料金
・400円
●期間限定・特別御朱印
・なし
●オリジナル御朱印帳
・なし ・2009年2月1日 参拝
・2011年2月12日 再訪
・2017年10月10日 再訪
・2021年2月 更新
・戒壇院の御朱印(毘盧舎那仏)
●御朱印の受付場所
・庫裏
(不在の場合は庫裏玄関に書置きあり)
●御朱印の受付時間
・不明
●御朱印の料金
・400円
●期間限定・特別御朱印
・なし
●オリジナル御朱印帳
・なし ・2009年2月1日 参拝
・2011年2月12日 再訪
・2017年10月10日 再訪
・2021年2月 更新
参拝情報とアクセス
●開門時間
・不明
●拝観料
・無料
●定休日
・無休
●最寄りの駅
・西鉄・五条駅から徒歩10分
・西鉄・太宰府駅から徒歩20分
・西鉄・都府楼前から徒歩20分
●バス
・コミュニティーバス・まほろば号
観世音寺前で下車 徒歩すぐ
・博多バスターミナルより太宰府行直通バス
太宰府市役所で下車 徒歩5分
●車
・九州自動車道・太宰府ICから約10分
・九州自動車道・筑紫野ICから約15分
●駐車場
・無料の専用駐車場あり
・不明
●拝観料
・無料
●定休日
・無休
●最寄りの駅
・西鉄・五条駅から徒歩10分
・西鉄・太宰府駅から徒歩20分
・西鉄・都府楼前から徒歩20分
●バス
・コミュニティーバス・まほろば号
観世音寺前で下車 徒歩すぐ
・博多バスターミナルより太宰府行直通バス
太宰府市役所で下車 徒歩5分
●車
・九州自動車道・太宰府ICから約10分
・九州自動車道・筑紫野ICから約15分
●駐車場
・無料の専用駐車場あり