所在地 | 山口県下関市長府中之町6−8 |
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宗 派 | 浄土宗 |
由 緒 | もともとこのお寺は土肥山の麓にあったそうです。当時は称念寺と号していたといいます。その後、1501年に教蓮社円誉琳琢上人が現在地に移転して再興。そして1657年に本覚寺と改称したそうです。しかし1896年に火災で焼失。さらに1900年にも焼失してしまったという。そんなこんなで、1903年に再建され現在に至るそうです。 |
山門(天馬門)
●乃木さん通り商店街
本日は長府の町を旅しております。
●山門(天馬門)
●山門(天馬門)
・平成時代建立
・瓦葺 入母屋造
・一間一戸 楼門(脇門付き)
そんなこんなで、昭和レトロな乃木さん通り商店街を歩いていると、お寺を発見。
そして山門をくぐろうとすると
馬っ!
見間違いかな?
と思って、眼鏡をかけてもう1度見る。
やっぱり馬だ!
今までそれなりにお寺を巡ってきたけれど、馬の木鼻は初めて拝見しましたよ!
ちなみにこの山門は天馬門と名付けられていました。
なぜ馬の木鼻なのかというと、答えは簡単。
前住職が馬好きだったから!
なんだか競馬の御利益がありそうなお寺だね。
一応、手を合わせて拝んでおこう!
本日は長府の町を旅しております。
●山門(天馬門)
●山門(天馬門)
・平成時代建立
・瓦葺 入母屋造
・一間一戸 楼門(脇門付き)
そんなこんなで、昭和レトロな乃木さん通り商店街を歩いていると、お寺を発見。
そして山門をくぐろうとすると
馬っ!
見間違いかな?
と思って、眼鏡をかけてもう1度見る。
やっぱり馬だ!
今までそれなりにお寺を巡ってきたけれど、馬の木鼻は初めて拝見しましたよ!
ちなみにこの山門は天馬門と名付けられていました。
なぜ馬の木鼻なのかというと、答えは簡単。
前住職が馬好きだったから!
なんだか競馬の御利益がありそうなお寺だね。
一応、手を合わせて拝んでおこう!
本堂
●本堂
●本堂
・建立年不明
・瓦葺 寄棟造
・本尊 阿弥陀如来
そんなこんなで、山門をくぐって本堂で参拝。
宝形造にしちゃ屋根の収まりが悪いなぁ・・・
と思ったら、やはり!
航空写真で確認したら寄棟造でした。
スッキリです(自己満)
それにしても、梁間方向に向拝を設けるのって珍しいですね!
そんなことより、このお寺さんはもともと土肥山の麓にあったそうです。
創建年は不詳ですが、現在地に移転したのが1501年といいますから、少なくとも室町時代には存在していたお寺さんのようです。
山門をくぐったところにはピラミッド型に積み上げた無縁仏がありました。
なんだか遺跡感がありますねぇ。
●本堂
・建立年不明
・瓦葺 寄棟造
・本尊 阿弥陀如来
そんなこんなで、山門をくぐって本堂で参拝。
宝形造にしちゃ屋根の収まりが悪いなぁ・・・
と思ったら、やはり!
航空写真で確認したら寄棟造でした。
スッキリです(自己満)
それにしても、梁間方向に向拝を設けるのって珍しいですね!
そんなことより、このお寺さんはもともと土肥山の麓にあったそうです。
創建年は不詳ですが、現在地に移転したのが1501年といいますから、少なくとも室町時代には存在していたお寺さんのようです。
山門をくぐったところにはピラミッド型に積み上げた無縁仏がありました。
なんだか遺跡感がありますねぇ。
田上菊舎のお墓
境内の墓地には江戸時代の女流俳人・田上菊舎さんのお墓がありました。
●田上菊舎とは?
田上菊舎とは、江戸時代中期〜後期に活躍した女流俳人です。
1753年、長府藩士・田上由永の長女として田耕村(現・下関市)で誕生。
本名は田上道。
幼いころから俳句を得意としていたそうです。
道さんは同じ村の村田利之助と結婚しますが、22歳のときに夫と死別。
その後、再婚の道は選ばず、全国を行脚しながら俳諧を究めたいと考えるようになったそうです。
そんなこんなで、1781年に萩の清光寺で得度して尼となり、俳諧の旅へ出ました。
そして1783年に菊舎と名乗るようになり、人生の大半を旅に生きたといわれています。
その行程はなんと8000km以上!
菊舎さんは、俳諧だけでなく和歌・漢詩・書画・七絃琴・茶道なども極めたそうで、宇治・萬福寺で詠んだ山門を出れば日本ぞ茶摘うたの句や、京都・大徳寺で催した茶会や、奈良・法隆寺での開元琴の演奏などで名声を高めたそうです。
晩年は故郷の長府で過ごし72歳でお亡くなりになりました。
田上菊舎とは、江戸時代中期〜後期に活躍した女流俳人です。
1753年、長府藩士・田上由永の長女として田耕村(現・下関市)で誕生。
本名は田上道。
幼いころから俳句を得意としていたそうです。
道さんは同じ村の村田利之助と結婚しますが、22歳のときに夫と死別。
その後、再婚の道は選ばず、全国を行脚しながら俳諧を究めたいと考えるようになったそうです。
そんなこんなで、1781年に萩の清光寺で得度して尼となり、俳諧の旅へ出ました。
そして1783年に菊舎と名乗るようになり、人生の大半を旅に生きたといわれています。
その行程はなんと8000km以上!
菊舎さんは、俳諧だけでなく和歌・漢詩・書画・七絃琴・茶道なども極めたそうで、宇治・萬福寺で詠んだ山門を出れば日本ぞ茶摘うたの句や、京都・大徳寺で催した茶会や、奈良・法隆寺での開元琴の演奏などで名声を高めたそうです。
晩年は故郷の長府で過ごし72歳でお亡くなりになりました。
簡単に言うと女性版・芭蕉みたいな感じかな?
ちなみに、菊舎さんのお墓は長府に2ヶ所あるそうです。
田上家の菩提寺である本覚寺には遺髪を埋葬。
そして、本覚寺から約100m離れた徳応寺に遺骨が埋葬されているそうです。
松田さつのお墓
その他、墓地には浄瑠璃・加賀見山旧錦絵に登場するお初のモデル・松田さつさんのお墓があるそうですよ。
簡単に言うと女性版・忠臣蔵みたいな感じかな?
そんなこんなで、参拝終了。
山門と本堂と墓地があるだけの小さなお寺さんでした。
●松田さつとは?
松田さつとは、浄瑠璃・加賀見山旧錦絵に登場するお初のモデルになったといわれるお方です。
1701年、長府藩士・松田助八の娘として長府印内で誕生。
さつさんは20代の頃、浜田藩・松平家の江戸屋敷の側女・岡本道の召使いをしていたといいます。
ある日、岡本道は松平家の局・沢野の履物を間違えて履いてしまったという。
そのことにより、岡本道と沢野の間で争いが生じてしまい、追い詰められた岡本道は自害してしまったという。。
無念の死を遂げた道さん・・・
そこで、さつさんは主である岡本道の仇討ちをすることに!
そして、さつさんは沢野を刺し殺したという!
その後、さつさんは死のうとしましたが藩主・松平康豊が松尾と改名させて助けたそうです。
そして、さつさんは出家して妙真尼となり、岡本道と沢野の菩提を弔いながら生きたそうです。
松田さつとは、浄瑠璃・加賀見山旧錦絵に登場するお初のモデルになったといわれるお方です。
1701年、長府藩士・松田助八の娘として長府印内で誕生。
さつさんは20代の頃、浜田藩・松平家の江戸屋敷の側女・岡本道の召使いをしていたといいます。
ある日、岡本道は松平家の局・沢野の履物を間違えて履いてしまったという。
そのことにより、岡本道と沢野の間で争いが生じてしまい、追い詰められた岡本道は自害してしまったという。。
無念の死を遂げた道さん・・・
そこで、さつさんは主である岡本道の仇討ちをすることに!
そして、さつさんは沢野を刺し殺したという!
その後、さつさんは死のうとしましたが藩主・松平康豊が松尾と改名させて助けたそうです。
そして、さつさんは出家して妙真尼となり、岡本道と沢野の菩提を弔いながら生きたそうです。
簡単に言うと女性版・忠臣蔵みたいな感じかな?
そんなこんなで、参拝終了。
山門と本堂と墓地があるだけの小さなお寺さんでした。
御朱印情報
●御朱印の種類
・なし
●御朱印の受付場所
・なし
●御朱印の受付時間
・なし
●御朱印の料金
・なし
●期間限定・特別御朱印
・なし
●オリジナル御朱印帳
・なし
・2022年3月15日 参拝
・2022年4月 更新
・なし
●御朱印の受付場所
・なし
●御朱印の受付時間
・なし
●御朱印の料金
・なし
●期間限定・特別御朱印
・なし
●オリジナル御朱印帳
・なし
・2022年3月15日 参拝
・2022年4月 更新
参拝情報とアクセス
●開門時間
・不明
●拝観料
・無料
●最寄りの駅
・JR長府駅から徒歩30分
・JR長府駅から車で7分
●最寄りのバス停
・サンデン交通
城下町長府 バス停から徒歩7分
●最寄りのIC
・中国自動車道・関門自動車道
下関ICから車で15分
●駐車場
・なし
・不明
●拝観料
・無料
●最寄りの駅
・JR長府駅から徒歩30分
・JR長府駅から車で7分
●最寄りのバス停
・サンデン交通
城下町長府 バス停から徒歩7分
●最寄りのIC
・中国自動車道・関門自動車道
下関ICから車で15分
●駐車場
・なし