御霊神社の御朱印~明智光秀ゆかりの神社~(京都府福知山市)

住 所京都府福知山市字中ノ238
祭 神宇賀御霊大神・明智光秀
由 緒 もともとは福知山城下の大榎の下に鎮座し、五穀豊穣・保食神を祀っていた神社らしいです。1704年、丹波福知山藩初代藩主・朽木稙昌の代に明智光秀の霊を合祀して御霊神社と称しました。1705年、御霊会(御霊の鎮魂儀礼)が行われ、1918年に現在地に遷座しました。
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明智光秀を祀る御霊神社

●御霊公園

神社前は御霊公園という大きな公園があります。
どうやら東向きに鎮座する神社のようです。光秀さんの故郷である美濃国を向いてるのか、はたまた京の本能寺か・・・終焉の地・明智藪か・・・そんなことを思いつつ境内へ。


明智光秀は、本能寺の変で主君・織田信長を倒したことから逆臣として知られてますが、地元民の間では福知山の基礎を築いた名君として慕われてるようです。

光秀は丹波を平定した後、福知山を拠点として福知山城を修造し、由良川の氾濫を防ぐ為に長い堤防を築きました。さらには屋敷にかかる税・地子銭免除し、商都として栄えさせたという。そんなこんなで、領民からの支持は絶大で、その感謝の気持ちは現在も福知山の人々に語り継がれているという!



一般的に御霊神社とは、非業の死をとげた人の霊の祟りを恐れて、その霊を鎮めるために祀った神社ですが、この神社では光秀を福知山城下の人々に慕われた冤罪者として祀っているという。

明治時代には謀反人である光秀を崇めることを禁止され、光秀に関する一切の資料を廃棄するよう通達された時代もあったそうです。そんな厳しい時代でも、地元民は感謝の気持ちを持ち続けてたという。

何だかグッときちゃいました。



境内は光秀だらけです。
これだけでも、どんだけ光秀が地元民に慕われているかがわかります。

再び、グッときちゃいました。

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拝殿と本殿

●拝殿

●拝殿
・銅板葺 唐破風付き入母屋造

建立年は確認できてませんが、なんとなく1918年の遷座時の建立?のような気がします。


神紋は明智家の家紋である桔梗紋

木鼻は象と獅子。
大体、象の木鼻はエロ目ですが、ここの象の目はバッキバキです。


●本殿

●本殿
・銅板葺 千鳥破風付き流造

拝殿同様、建立年は確認できてませんが、こちらも1918年の遷座時の建立?のような気がします。

ちなみに御神体は光秀直筆の古文書・和久左衛門太夫長利追及下知状です。


本殿の脇障子が素敵でした。
南側の脇障子には蜘蛛に乗っかる武将。
北側の脇障子にはに乗っかる武将。

これは天も地も平定するという意味だそうです。

てっきり光秀さんかと思いましたよ。

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境内社

●叶神社

●叶石
・祭神・・・思兼神・手力男命を祀る
・岩石の種類・・・礫岩
・俗称・・・子持ち石

なんと、神様がこの神社に奉納した霊石という。


受験合格・必勝祈願・縁談・災難厄除などに御利益があるとのことですが、由緒書きに各自の努力の上と書いてあるところで目が止まる。
やはり祈るだけじゃダメなのかぁ。


●恵比須神社

5つの神社が合祀されてます。
●恵比須神社・・・事代主大神を祀る
●秋葉神社・・・秋葉権現を祀る
●天満神社・・・菅原道真を祀る
●福島稲荷神社・・・宇迦之御魂神を祀る
●養蚕神社・・・保食神?蚕の神?


●堤防神社

●堤防神社
御神体は、なんと堤防
もしかしたら日本で唯一かも?

川の氾濫と戦ってきた福知山ならではの神社ですね。

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狛犬

●狛犬

●子取り型の狛犬
子がつぶれて破裂寸前です。これは可愛い!

●玉取り型の狛犬
玉が落ちる寸前です。何気に珍しいです。

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頼山陽の石碑

●頼山陽の石碑
境内には頼山陽の漢詩が彫られた石碑がありました。


題は本能寺
光秀さんディスられてる・・・

オリジナル絵馬など

●オリジナル絵馬

当然、光秀の絵馬なんだろうなぁ~と思ったら、光秀じゃなく秀満
明智左馬介光春とは明智秀満のことです。


2020年の大河は麒麟がくるです。
光秀目線の本能寺の変はどう描かれるのか楽しみです!

明智光秀とは?

●ザックリと簡単に明智光秀とは

1516年?
1528年?
1540年?
明智城城主・明智光綱の長男として誕生。
1556年斉藤義龍によって明智城が落城。浪人ののち越前の朝倉義景に仕える。
1571年比叡山焼き討ちの武功で近江国(滋賀県)5万石を与えられる。
1572年近江国に坂本城を築城する。
1578年丹波国に亀山城を築城する。
1579年丹波国と丹後国を平定。信長から感状をもらう。丹波国29万石を与えられる。光秀は丹波の重要な地として福知山に城下町を作る。
1582年本能寺の変で信長・信忠父子を自害に追い込む。 羽柴秀吉との山崎の戦いに敗れた後、敗走中に落ち武者狩りに遭い自害。


明智光秀は戦国時代に活躍した武将です。

生年月日は不詳で青年期など若い時代の歴史は明確には分かっていませんが、美濃国(現・岐阜県) に、明智城城主・明智光綱の長男として生まれたようです。

当初は斉藤道三に仕えてましたが、道三が滅ぼされた後は浪人となり、各地を転々としたみたいです。

その後、1566〜1568年頃に織田信長に仕えます。史実上、明確に光秀が活躍するのはこの頃からです。光秀が40歳の頃です。

そして1568年に足利義昭の上洛に加わりました。1570年の金ヶ崎の戦いでは撤退時の防戦に成功して織田信長を救いました。

1571年の比叡山焼き討ちで、光秀は実行部隊として武功を挙げました。その功績が認められ、信長から近江国を与えられます。そして坂本城の築城を開始し、1572年に完成しました。

その後も、高屋城の戦い・長篠の戦い・越前一向一揆と、馬車馬のごとく働きます。そして丹波国攻略の命がくだり、丹波国の平定、さらに丹後国も平定します。信長は光秀の働きを絶賛しました。

1579年、丹波国29万石を与えられます。光秀は丹波の重要な地として福知山に城下町を作ります。

1582年、光秀は羽柴秀吉の毛利討伐の支援を命じられました。 早朝、光秀は中国地方に向けて出陣しますが、突然転進。信長が宿にしていた本能寺を襲います。いわゆる本能寺の変です。光秀軍10000人 vs 信長軍100人。 信長は本能寺に火を放ち自害しました。

信長自害の知らせを聞いた秀吉は、ただちに毛利軍と和睦。 そして光秀軍を征伐する為、京に向かいます。いわゆる中国大返し。

そして光秀軍と秀吉軍が衝突します。いわゆる山崎の戦いです。 しかし光秀に味方する者は少なく、準備不足もあり、敗戦。光秀は坂本を目指して敗走しますが、落ち武者狩りに遭い自害しました。本能寺の変からわずか11日後のことでした。

山崎の戦いの翌日、光秀の首は秀吉軍に届き、京都の本能寺で晒された後、粟田口に埋葬されました。とありますが、光秀の首塚は各地に点在している為、どれが本当の首塚なのかは現時点ではわかりません。ちなみに胴塚は1ヶ所のみです。

御朱印情報


御朱印は授与所で頂きました。
初穂料 300円
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御霊神社の地図

 

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