本経寺(明智藪)の御朱印情報~京都府京都市伏見区小栗栖小阪町5~

都道府県別
住 所京都府京都市伏見区小栗栖小阪町5
宗 派日蓮本宗
由 緒1506年、要法寺22世・日法が日蓮本宗本山・要法寺の末寺として建立したお寺です。1658年、要法寺22世・日祐が小栗栖檀林を開檀しました。1714年、火災で焼失。その後、再建。1872年、学制発布により、小栗栖檀林は廃檀したといいます。境内には明智光秀終焉の地といわれる明智藪があります。
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本堂

●明智光秀終焉の地である明智藪を管理するお寺


創建は1506年。
日蓮本宗本山・要法寺の末寺として建立したお寺のようです。ということで、明智光秀が落ち武者狩りに遭う前から存在していたお寺のようです。現在は本堂と庫裏のみが建つ小さな境内ですが、江戸時代には小栗栖檀林が置かれていたということなので、当時は今以上に繁栄していたのでしょう(推測)。

※ちなみに檀林とは僧侶の学問道場です。



本堂の扁額には題目殿と書かれておりました。
※ちなみに題目とは南無妙法蓮華経の7字のことです。

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明智日向守光秀公供養塔

●本堂横にひっそりと建つ明智光秀の供養塔



明智日向守光秀公供養塔・・・1998年建立

本堂横には、ひっそりと明智光秀の供養塔が建ってました。油断したら見逃しそうです。どうやらこの供養塔は近年に建立されたもののようです。


●日向守とは
名前に明智日向守光秀とあります。日向守とは、九州・日向国を管理する官職のことです。当時はまだ九州は織田家の勢力下ではなかったのでおかしな話しですが、後の西国攻めを見据えてのものだったと考えられております。

光秀は基本的には明智姓を使わず、文書には惟任日向守光秀と署名してます。光秀が出した手紙には年号を書いてないことが多いので、惟任や日向守といった署名で、その手紙がいつの時代に書かれたものかがわかるそうです。



安らかにお眠りください。

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明智薮

●そんなこんなで、光秀が落ち武者狩りに遭ったあの竹藪へ!



本経寺から徒歩1分の所に明智藪があります。立札があるので多分迷うことはないと思います。



この石碑の先に明智藪があります。不謹慎ながらも非常にワクワクしております。


●そんなこんなで、明智藪に到着!



1582年、本能寺の変で、織田信長自害の知らせを聞いた羽柴秀吉は、光秀軍を征伐する為、京に向かいます。そして山崎の地で光秀軍と秀吉軍が衝突します。いわゆる山崎の戦いです。しかし光秀に味方する者は少なく、準備不足もあり敗戦。光秀は滋賀・坂本を目指して敗走しますが、京都・小栗栖の竹藪を通過している際、落ち武者狩りに遭い落命しました。本能寺の変からわずか11日後のことでした。



竹藪から何者かに脇腹を刺されたという。
誰が光秀を襲ったのかは諸説あります。
説①・・・農民が竹槍で襲う。
説②・・・武装集団がガチの槍で襲う。



石碑の説明には信長の近臣・小栗栖館の武士集団 飯田一党と書かれてました。どうやらここでは武装集団の説を推してるみたいです。

光秀を襲ったのは農民です。と聞かされて育ってきましたが、近年の検証の結果、ある程度 戦を経験した武装集団ではないか?という見解がされてるみたいです。


それはそうと・・・



・・・・・





・・・・・・・・・・・





竹藪を伐採してるぅぅぅ!!!


マジですかっ!?!?!?


チェーンソーでバッスンバッスン切って、ボンボン投げてるんですよ!

お寺の方に伺ってみたところ、どうやらアメリカのお店(?)工場(?)を建設するらしく、その為の道づくりなんだとか。『情緒がなくなっちゃって・・・』と笑いながら話すお寺の方・・・でも目は寂しげでした。

いやはや・・・竹藪がなくなっちゃうんじゃないかと心配してしまうレベルでした。こんだけ見通しがよくなると、もう落ち武者狩りの心配はなさそうだけど。

●明智藪の所在地

京都府京都市伏見区小栗栖小阪町 本教寺の寺領

お寺の方の許可を得て、本教寺の駐車場に車を止めて徒歩で向かいました。
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明智光秀の胴塚

●明智光秀の胴塚。本当の終焉地はここ。



光秀は小栗栖の竹藪で落ち武者狩りに遭った後、傷を負いながらも数百メートル逃げます・・・しかし最期の時がやってきます。

これ以上、逃げるのは無理だと悟った光秀は、溝尾庄兵衛の介錯により、自害しました。光秀の首は介錯をした溝尾庄兵衛によって隠されたといいます。そして光秀の胴体はここに埋葬されました。


光秀の首塚の候補は各地に点在してますが、胴塚はここにしかありません。
光秀さんフォーエバー。


ちなみに光秀の胴塚はだいぶ目立たない場所にありました。

本経寺から徒歩20分
車で3~4分の所にありました。
ヤンマーの精米所が目印です。

●明智光秀胴塚の所在地

京都府京都市山科区勧修寺御所内町36
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明智光秀とは

●ザックリと簡単に明智光秀とは

1516年?
1528年?
1540年?
明智城城主・明智光綱の長男として誕生。
1556年斉藤義龍によって明智城が落城。浪人ののち越前の朝倉義景に仕える。
1571年比叡山焼き討ちの武功で近江国(滋賀県)5万石を与えられる。
1572年近江国に坂本城を築城する。
1578年丹波国に亀山城を築城する。
1579年丹波国と丹後国を平定。信長から感状をもらう。丹波国29万石を与えらる。光秀は丹波の重要な地として福知山に城下町を作る。
1582年本能寺の変で信長・信忠父子を自害に追い込む。 羽柴秀吉との山崎の戦いに敗れた後、敗走中に落ち武者狩りに遭い自害。


明智光秀は戦国時代に活躍した武将です。

生年月日は不詳で青年期など若い時代の歴史は明確には分かっていませんが、美濃国(現・岐阜県) に、明智城城主・明智光綱の長男として生まれたようです。

当初は斉藤道三に仕えてましたが、道三が滅ぼされた後は浪人となり、各地を転々としたみたいです。

その後、1566〜1568年頃に織田信長に仕えます。史実上、明確に光秀が活躍するのはこの頃からです。光秀が40歳の頃です。

そして1568年に足利義昭の上洛に加わりました。1570年の金ヶ崎の戦いでは撤退時の防戦に成功して織田信長を救いました。

1571年の比叡山焼き討ちで、光秀は実行部隊として武功を挙げました。その功績が認められ、信長から近江国を与えられます。そして坂本城の築城を開始し、1572年に完成しました。

その後も、高屋城の戦い・長篠の戦い・越前一向一揆と、馬車馬のごとく働きます。そして丹波国攻略の命がくだり、丹波国の平定、さらに丹後国も平定します。信長は光秀の働きを絶賛しました。

1579年、丹波国29万石を与えられます。光秀は丹波の重要な地として福知山に城下町を作ります。

1582年、光秀は羽柴秀吉の毛利討伐の支援を命じられました。 早朝、光秀は中国地方に向けて出陣しますが、突然転進。信長が宿にしていた本能寺を襲います。いわゆる本能寺の変です。光秀軍10000人 vs 信長軍100人。 信長は本能寺に火を放ち自害しました。

信長自害の知らせを聞いた秀吉は、ただちに毛利軍と和睦。 そして光秀軍を征伐する為、京に向かいます。いわゆる中国大返し。

そして光秀軍と秀吉軍が衝突します。いわゆる山崎の戦いです。 しかし光秀に味方する者は少なく、準備不足もあり、敗戦。光秀は坂本を目指して敗走しますが、落ち武者狩りに遭い自害しました。本能寺の変からわずか11日後のことでした。

山崎の戦いの翌日、光秀の首は秀吉軍に届き、京都の本能寺で晒された後、粟田口に埋葬されました。とありますが、光秀の首塚は各地に点在している為、どれが本当の首塚なのかは現時点ではわかりません。ちなみに胴塚は1ヶ所のみです。

御朱印情報


御朱印は本堂横の庫裏で頂きました。

本経寺の地図

 

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