聖福寺の御朱印~日本最初の禅寺~(福岡県福岡市博多区)

所在地福岡県福岡市博多区御供所町6
宗 派臨済宗妙心寺派
由 緒1195年、源頼朝からこの地を賜り、栄西禅師が創建した日本最初の禅寺らしい。創建当初は方八町(約900m四方)に七堂伽藍を建立し、丈六の釈迦・弥勒・弥陀の三世仏を安置していたといわれており、最盛期には塔頭38院を数える大寺院になったそうです。室町時代、五山十刹制度の十刹第三位(後に第二位)となりますが、室町幕府の衰退と戦乱により荒廃。1587年の太閤町割では寺域を縮小されたそうです。1589年に第110世・耳峰禅師が2度目の再建をして現在の姿になったといいます。1587年に小早川隆景、1595年に豊臣秀吉、1600年に黒田長政が寺領を寄進。創建当初は臨済宗の単独寺院でしたが、栄西が京都に建仁寺を開山したあと建仁寺派に。江戸時代、黒田長政の命により妙心寺派になったそうです。
HP日本で最初の禅寺 – 安国山 聖福寺
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聖福寺とは?

●境内図

日本最初の禅寺であります聖福寺に到着。

・・・って、あれ?

日本最初の禅寺って京都の建仁寺って教えてもらったような???

いや、鎌倉の建長寺って聞いたこともあるぞ!

・・・はて(-“-;) ??

調べてみると、日本最初の禅寺が建仁寺というのは間違いらしい・・・(嘘を教えてもらった)

そして、建長寺は日本最初の禅寺ではなく日本で最初に禅寺と称したお寺らしいです。

うぅ〜ん、ややこしい(笑)


●栄西禅師と聖福寺

そんなことよりこのお寺は、1195年に日本の臨済宗開祖・栄西が宋から帰国したあと、宋人が建立した博多の百堂跡に寺院を創建したのが始まりといいます。

栄西は比叡山で天台教学を学びますが、それだけでは飽き足らず宋で禅宗を学びます。

そんなこんなで、宋での修行を終えた栄西は日本に帰国。
そして禅道場として聖福寺を創建したというわけです。

栄西は宋から禅の教えを持ち帰りますが、同時にも持ち帰り、全国に茶を広めました。
ということで、栄西は日本の喫茶文化を創始した人物として茶祖と称されています。

当時、お茶は薬として使用されていて、体を健康にすると考えられていたそうです。
そんなこんなで、栄西は宋からお茶の木を持ち帰り、聖福寺に植えたといわれています。

栄西が記した喫茶養生記には喫茶の効用について書かれているそうですよ。
聖福寺では今も茶道の文化が伝えられていて、四頭茶会という古式の茶会が行われてるんだって。


●御供所町

聖福寺は博多の御供所町というお寺の密集地帯にあります。

地図を見てビックリしたことは、御供所町の半分は聖福寺と塔頭寺院だということ!

さらにビックリすることに、全盛期の聖福寺は現在の4倍の寺領を有する大寺院だったという!

ということで、お寺密集地帯のこの地は聖福寺を中心につくられた町なんですね。

蒙古襲来(元寇)後。
1293年に鎌倉幕府はさらなる侵略に備えて、博多に鎮西探題を設置したそうです。
その際、聖福寺の伽藍配置中心線を基軸線のひとつに、半丁単位で町割りをし、鎌倉に習った強固な城郭都市に造り変えたそうですよ。

そんなこんなで鎌倉幕府は、鎌倉、京都と並んで日本の三大重要都市に位置づけたそうです。

ちなみに博多には聖福寺・崇福寺・承天寺という3つの古刹があります。 この3つのお寺は博多三禅窟と呼ばれています。
崇福寺の御朱印情報~黒田官兵衛・長政の墓所~(福岡県福岡市博多区)
所在地福岡県福岡市博多区千代4丁目7−79宗 派臨済宗大徳寺派由 緒1240年、湛慧が太宰府の横岳に建立したのが始まりといいます。1586年、島津氏と大友氏が争った岩屋城の戦いによって焼失しましたが、16...
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勅使門と総門と鐘楼

●勅使門

●勅使門
・1700年頃建立
・瓦葺 切妻造 薬医門

そんなこんなで、参拝開始。
まず最初に登場したのは勅使門

文字通り、天皇の使者である勅使が出入りするための門です。
ということで、一般の参拝者はくぐることができません。



勅使門の前には扶桑最初禅窟と書かれた石柱がありました。

扶桑最初禅窟とは日本最初の禅寺という意味らしいですよ。

古代中国では、日の出る東海の中にある神木のことを扶桑と呼んでいたらしいです。
日の出る東海の中にある神木とは日本のことを指す言葉。
つまり、扶桑 = 日本という意味なんだって。


●総門

●総門
・建立年不明
・瓦葺 切妻造 四脚門

勅使門をくぐることはできないので、一般の参拝者はこちらの門をくぐることになります。

噂によると、この総門は名島城の門を移築したといわれています。

名島城とは、黒田家が福岡に入る前に小早川家が城主を務めていたお城です。
関ヶ原の合戦後、官兵衛・長政親子が中津城から福岡城へ移る際に一時居城としていたそうです。

ちなみに、長政さんが福岡城を築城する際、名島城を全て解体して福岡城の建材として使ったといわれています。
ということで、現存する名島城の遺構はほぼ残ってないという!


●参道

そんなこんなで、総門をくぐると参道に突入。

境内は木々に包まれていて禅宗寺院特有のピリついた空気が支配していました。

本日は雨のせいか参拝者は私ひとり。
雨と足音と耳鳴りだけがBGM。
鼻息が荒れる極上空間となっていました。

禅宗寺院ということで、境内は勅使門・山門・仏殿・方丈が一直線に並ぶ伽藍配置になっています。


●鐘楼

●鐘楼
・1759年改築
・瓦葺 入母屋造 袴腰鐘楼

参道脇にはシブい袴腰鐘楼がありました。

この鐘楼は、1589年に第110世・耳峯玄熊が建立。
1759年に第122世・盤谷紹適が改築したものといわれています。

1976年まで国重文の銅鐘(朝鮮鐘)が吊るされていたそうですが、現在その梵鐘は保存のために取り外され、代わりに黄鐘調の梵鐘が吊るされています。
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山門と仏殿

●山門

●山門
・1911年再建
・瓦葺 入母屋造 二重門

続いて登場したのは風格のある重厚な山門
堂々としたたたずまいで、ナイスなプロポーションでした。

山門の正面には、後鳥羽上皇の勅額であります扶桑最初禅窟の扁額が掲げられていました。
1866年に山門が焼失した際、幸いにもこの勅額は落下して焼失を免れたという!


楼上には、山崎朝雲作の十六羅漢像と仏師・高田又四郎作の千手観音像が安置されているそうです。


●仏殿

●仏殿
・2012年再建
・瓦葺 裳階付き入母屋造

続いて登場したのは優雅な屋根を持つ仏殿
まるで鳥が大きく羽根を広げて羽ばたいているような!
なかなか思い切った造りのお堂だなぁ!

もともとここには、1589年再建、1673年改修の仏堂があったそうです。
しかし、太平洋戦争の戦火により焼失。。。

その後、再建。

そして創建800年を迎える2012年に増築され現在のかたちになったそうです。

ちなみに、2重のお堂に見えますが、下の屋根は裳階になるため、実際は1階建てのお堂となります。


扁額に大雄宝殿と書かれてたり、丸窓があったりするので、どうにもこうにも黄檗感のある建物ですが、このお寺は臨済宗。


そんなこんなで
はいドーン!

堂内には金色に輝く丈六仏がおられました!

●三世仏
・阿弥陀如来立像(左)
 2006年作
 像高 約4.8m
 脱活乾漆造

・釈迦如来立像(中)
 2012年作
 像高 ???
 脱活乾漆造

・弥勒如来立像(右)
 2009年作
 像高 約4.8m
 脱活乾漆造  

この3体を合わせて三世仏と呼びます。

・阿弥陀さん → 過去
・お釈迦さん → 現在
・弥勒さん → 未来

阿弥陀さんは、亡くなった人を浄土にお連れすることから優しく温味にあふれた仏。
弥勒さんは、未来に釈迦仏に代わって現れる仏として若々しくスマートに。
お釈迦さんは、全ての衆生を救う道を求め、厳しい姿で全てを包み込む。

この三世仏は、このようなイメージで作られたそうですよ。


ビックリすることに、こちらの巨大仏は全て脱活乾漆造だという!
ここまで巨大な脱活乾漆造は初めて拝見したので、さすがに鼻息が荒れました。

そして、やはり気になるのが目が覚めるような鮮やかなブルーヘアー!
たまにこういうお婆ちゃんを見かけるなぁ!


それにしても、ひどい雨だなぁ。
九州に来ると、よく雨が歓迎してくれる・・・。

ということで、しばし雨宿り。
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庫裡と方丈

●庫裡

境内を奥に進むと方丈や禅堂などがある伽藍の心臓部に到着。


しかし拝観謝絶!

先ほど訪れた崇福寺に続き拝観謝絶2連発です。
このお寺は観光寺というより、純粋な禅の道場としてお寺の本来の姿を守り切っています。
私みたいな浮ついた俗人はシャットアウトです。


なぜか謝絶という文字を見た瞬間、嫌われ者になった気分になりました(笑)
拒絶じゃないだけマシか。

ということで、庫裡の表門から撮影。


しかし拝観謝絶と書かれていましたが、御朱印を頂くときに庫裡の玄関に立入ることができました。

謝絶からのウエルカムでした。


●方丈

●方丈
・1573~1593年再建(?)
・瓦葺 入母屋造

庫裡の隣に方丈の姿を確認することができました。

この方丈は、もともと肥前・名護屋城の御殿だったそうです。

公式ホームページによると、この方丈は耳熊玄熊和尚が再建と書いてありました。
耳熊玄熊さんを調べてみると、天正年間に活躍したお坊さんということで、この方丈は1573~1593年再建?

それを1601年に黒田如水(官兵衛)と長政さんが現在地に移築したそうです。

江戸時代末期、雨漏りがひどくなり、福岡藩に度々修復の要請をしたそうですが叶わず・・・棟が崩落してしまったそうです。

再建修理が行われたのは1845年といいます。
その後、1930年と1987年に改修が行われ、現在に至るそうです。
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唐門と博多塀と無染池

●唐門

●唐門
・1762年建立
・瓦葺 向唐門

仏殿の裏には唐門がありました。
どうやらこちらは方丈の唐門のようです。


●博多塀

境内には博多塀もありました。

博多塀とは、豊臣秀吉さんが進めた博多町割(太閤町割)、いわゆる戦災復興の際に生まれた土塀です。 見ての通り、塀にはが塗り込められています。

秀吉さんが来る前の博多は、毛利・大友・島津氏たちの争奪戦に巻き込まれて見渡す限りの焼け野原だったそうです。 そんなこんなで、この博多塀は戦火による焼け石焼け瓦などを塗り込めたリサイクル土塀というわけなんです。


ちなみに博多町割(太閤町割)を任されたお方は、黒田官兵衛石田三成など。

秀吉さんは、朝鮮出兵の物資補給基地として博多を重要視していたといいます。

緻密な測量と風水を駆使した都市計画は博多の繁栄の礎となり、この時に行われた町割が現在の博多の街の原型となっています。

ということで、この博多塀は復興のシンボルなんですね。


その他、こんな素敵な瓦土塀もありました。


●無染池

山門の前には無染池という池がありました。
いわゆる放生池です。

ひょうたんの形をしていることから、瓢池とも呼ばれてるそうですよ。


●オリジナル瓦

寺紋は笹竜胆でした。

その他、円覚寺・護聖院・広福庵・節信院・瑞応庵・幻住庵・西光寺などの塔頭寺院がありました。

御朱印情報

●御朱印情報

御朱印は庫裡で頂けます。

庫裡の表門には、御用のない方は入れませんという立札がありますが、御朱印は立派な御用なので門をくぐって庫裡の玄関に行けば問題ないと思います(多分)。

庫裡の玄関に寺務所の受付がありますので、そちらで声を掛ければ優しく対応をしてくれます。

ちなみに私は、勝手に門をくぐって怒られたらヘコんじゃうので、門をくぐる前に『門をくぐっていいですか?』と電話で確認しました(笑)

●御朱印の種類
・聖福寺の御朱印

●御朱印の受付場所
・庫裡(寺務所)

●御朱印の受付時間
・不明

●御朱印の料金
・直書き 500円
・書置き 300円

●期間限定・特別御朱印
・なし

●オリジナル御朱印帳
・なし

・2013年9月7日 参拝
・2021年2月 更新
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アクセス

●最寄りの駅
・JR博多駅から徒歩15分
・地下鉄・祇園駅から徒歩5分
・地下鉄・呉服町駅から徒歩15分

●最寄りのバス停
・西鉄バス 祇園町から徒歩8分
・西鉄バス 奥の堂から徒歩8分

●駐車場
・専用駐車場あり

聖福寺の地図

 

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