崇福寺の御朱印情報~黒田官兵衛・長政の墓所~(福岡県福岡市博多区)

都道府県別
所在地福岡県福岡市博多区千代4丁目7−79
宗 派臨済宗大徳寺派
由 緒1240年、湛慧が太宰府の横岳に建立したのが始まりといいます。1586年、島津氏と大友氏が争った岩屋城の戦いによって焼失しましたが、1600年に福岡藩初代藩主・黒田長政が現在地に再建。以後、黒田氏の菩提寺として庇護を受けたそうです。
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山門

●境内図

福岡藩主・黒田家の菩提寺であります崇福寺に到着。

黒田家といえば天才軍師・黒田官兵衛。
そして、官兵衛の息子・黒田長政。

このお寺には、官兵衛・長政を始め、歴代福岡藩主、黒田家ゆかりの人物のお墓があるという!

そんなこんなで、本日は黒田さんのお墓参りをすることに。


●山門

●山門
・江戸時代中期建立
・1920年移築
・本瓦葺 切妻造 二層造
・福岡県指定有形文化財

まず最初に登場するのは無骨な箱型の門!
お世辞にもスマートとはいえない・・・。

入母屋だったら見た目のバランスが取れていたと思うのですが、切妻のため横の広がりがなく、どうにもこうにもBOX感が否めない・・・ブサイクだなぁ。

この個性丸出しの山門は、実はもともと福岡城の本丸表御門だったという!

1918年に陸軍により払い下げられ、1920年に崇福寺の山門として移築したんだって!

そういわれると、どう見ても城門造り!
急にカッコよく見えてきた!(どないやねん)

ということで、この門は数少ない福岡城の遺構として大変貴重なものとなっております。


それにしても何でそんな貴重なものがここに・・・答えは簡単!
それはここが黒田家の菩提寺だからです!

江戸から明治維新を迎えるまで、ずーと黒田家が福岡城主を務めてきました。
ということで、この門は黒田家との関係の深さがうかがえる一品となっております。


~画像は福岡城の説明板より~

ちなみにこちらが移築される前の本丸表御門です。

どうやら当時は一層部がV字になっていたみたいです。
現在の山門に比べて背も低い。

ということで、崇福寺の山門は移築後に一層部を改築したみたいですね。


山門には西都法窟と書かれた扁額が掲げられていました。
これは1243年に官寺として認められた時に後嵯峨天皇より下賜された勅額なんだって。

続いて1層部分を観察。
三間一戸の門ですが、戸の部分が中央より右にズレています。
どうやら左側に潜戸を設けているため、このような形態になっているようです。

基本、寺社界は左右対称の世界ですが、こちらの門は元城門のため寺社のセオリーは通用しない模様。


続いて、横から観察。

正面からは二重門のように見えますが、実は下の屋根はだという! しかも切妻の庇だという!

語れるほどお城巡りをしてないのであれですが、切妻の二層造って結構珍しいんじゃないのでしょうか?

どうなんでしょ?


ちなみに2階の内部には、如意輪観音さんや、黒田官兵衛の肖像画や、十字架が刻まれた瓦などが展示されているそうです。

これらのお宝は特別公開のときに拝観できるそうですよ。
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唐門と鐘楼と旧書院など

●表門

そんなこんなで、山門をくぐって参道を抜けると、本堂などがあるメインエリアに到着。

しかし!

表門をくぐることができませんでした・・・(ToT)
いわゆる拝観謝絶です!

いつもこうなのか、たまたま今日だけなのかはわかりませんが、なんとなく観光寺ではなさそうです。(あくまで推測)

そんなこんなで、門前で手を合わせて参拝。
そして塀の外から撮影開始。


●旧書院(寺務所)

~表門から撮影~

●旧書院(寺務所)
・建立年不明
・瓦葺 妻入り切妻造

境内図によると、こちらは旧書院のようです。
現在は寺務所として使用しているみたいです。


●鐘楼

●鐘楼
・建立年不明
・瓦葺 入母屋造
・袴腰鐘楼


●唐門

●唐門
・江戸時代初期改築
・瓦葺 向唐門
・福岡県指定有形文化財

この唐門は名島城より移築された門なんだって。

名島城とは、黒田家が福岡に入る前に小早川家が城主を務めていたお城です。
関ヶ原の合戦後、官兵衛・長政親子が中津城から福岡城へ移る際に一時居城としていたそうです。

ちなみに、長政さんが福岡城を築城する際、名島城を全て解体して福岡城の建材として使ったといわれています。
ということで、現存する名島城の遺構は福岡城の名島門とこの唐門だけなんだって!

ちなみに福岡市内最古の唐門らしいですよ。


その他、本堂・開山堂・経蔵・禅堂・庫裏などがあるそうです。

ちなみに経蔵は江戸時代後期建立で福岡県の有形文化財に指定されています。
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福岡藩主 黒田家墓所

●藤水門

●藤水門
・1999年建立
・瓦葺 切妻造 棟門

そんなこんなで、お待ちかねのお墓参り。
説明板によると、この藤水門が黒田家墓所の入口だという。

かつては特別な日以外は墓所に立ち入れなかったそうですが、この門ができてからは自由に入場できるようになったんだって。


●黒田家墓所

藤水門をくぐると、まさかの芝生世界!
私の中で墓所といえば石畳とか飛び石とかのイメージでしたが、芝生が登場するとは想定外!

どことなく洋風な墓所でした!

黒田官兵衛、またの名をドン・シメオン。
もしかしたら官兵衛さんがキリシタンだから洋風に???


開放的なグリーンの世界にはドーンドーンドーンと巨大な墓石が並んでいました!

まるでRPGの世界に飛び込んでしまったかの様な! なんだか勇者になったような気がしたひと時でした。

もともとこの墓所は、現在の5倍以上の規模だったんだって!(ひぇっ)

当時は歴代藩主の御霊屋・石塔・灯篭・20基以上の墓石が乱立する墓所だったそうです。

しかし空襲や風化で荒廃・・・

1950年に改葬工事が行われ、現在のように横1列に墓石を並べたそうですよ。

20基以上あった墓石を12基に。
官兵衛さんや長政さんなどを除き、他の方々はグループ分けして合祀したんだって。

ちなみに改葬工事の時、官兵衛さんの墓石からは遺骨が出てこなかったそうです・・・ということで、ここに官兵衛さんは眠っていません(^^;)

これはミステリーですねぇ〜!


●黒田官兵衛(如水)のお墓

そんなこんなで
はいドーン!

こちらが官兵衛さんのお墓です!

巨大!


おもひおく 言の葉なくて つひに行く
道はまよはじ なるにまかせて

(この世に思い残すことはもう何もない
今は迷うことなく心静かに旅立つだけ)

1604 年3月20日。
官兵衛さんが長政さんに向けて詠んだ辞世の句です。

官兵衛さんは家臣の殉死を禁じ、葬儀も質素に執り行うようにと長政さんに命じたそうです。

死期が近づいた官兵衛さんのもとには多くの家臣が訪れたといいます。
官兵衛さんは、お見舞いに来た家臣に対して悪口や働きっぷりを酷い言葉で罵ったそうです。

相当、口悪く言ったみたいで、家臣たちは戸惑って官兵衛さんのもとから去っていったそうです。

見かねた長政さんが『家臣を罵るのはおやめください』と官兵衛さんにいったとか。

すると官兵衛さんは『すべてお前のためにやっているのだ。私から心が離れれば家臣たちはお前に忠義を尽くして勤めるだろう。そうなれば家中をまとめやすいだろう。』と。

・・・どこまでカッコいいんだ、このお方は!


●黒田長政のお墓

続いて、長政さんのお墓がドン!

これまた巨大!

どうやら、こちらの墓石は改葬工事の際、新たに作られたものらしいですよ。

説明板に、墓所南端にはもともとあった墓石の遺構が残されている的なことが書いてありました。


それがこちら。

説明板を読んでなかったら億%スルーするところでしたよ!


長政さんは官兵衛さんの息子。
徳川家康が関ヶ原の戦いで一番の功労者と評価したお方です。
そして福岡藩・初代藩主で、福岡の基礎を築いたお方でもあります。

現在地に崇福寺を移転し、黒田家の菩提寺としたのもこのお方です。


その他、4代藩主・綱政、6代藩主・継高、7代藩主・治之、9代藩主・斉隆、10代藩主・斉清などのお墓がありました。

ちなみに、2代藩主・忠之、3代藩主・光之、8代藩主・治高の墓所は東長寺にあります。
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その他の見どころ

●旭地蔵尊

山門をくぐってすぐのところには旭地蔵尊を安置する地蔵堂がありました。

堂内でお参りをしようと思いましたが、お婆ちゃんが百度参りをしていたので、邪魔しちゃいかんと思い近寄りませんでした。

どうやら、このお寺は百度参りが有名なお寺らしいですよ。


●心宗庵

山門をくぐってすぐのところには心宗庵という塔頭もありました。

どうやら、崇福寺で唯一の塔頭らしいです。


●石仏群


塀には、おぞましい数の石仏さんがズラ~と並んでいました。

石仏さんに統一感はなく、力作からヘタウマから置物まで多種多様な仏さんが並べられていました。

石仏さんの前にコンクリートの側溝があるのが面白かったです。
この側溝は香炉として活躍中。


ちなみに来年の大河ドラマは官兵衛さんです!
タイトルは軍師官兵衛!

(2013年9月7日 参拝)
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黒田孝高(官兵衛)とは?

●ザックリと簡単に黒田官兵衛とは?

黒田官兵衛とは、戦国時代~江戸時代初期にかけて活躍した武将です。

官兵衛という名で知られていますが、実際の名は黒田孝高
隠居した後は、黒田如水と名乗りました。

官兵衛は軍事的才能に優れ、主に織田信長や豊臣秀吉の下で働き、戦はもちろん調略や他大名との交渉など、幅広く活躍したお方です。

また、秀吉の参謀役として有名な軍師・竹中半兵衛とともに両兵衛二兵衛と称されるお方です。


●黒田孝高(官兵衛)の年表
1546年潘磨国の姫路城主・小寺職隆の嫡男として誕生。
1567年光姫を正室に迎える。
家督を継いで姫路城主となる。
1568年松寿丸(黒田長政)をもうける。
1569年姫路城を攻めてきた赤松政秀を撃退し、官兵衛の名が世に知れ渡る。
1575年信長と謁見。
秀吉に仕える。
1578年謀反をおこした荒木村重を説得するため単身で有岡城に乗り込む。しかし捕縛され約1年間幽閉される。
1579年有岡城の落城にともない救出される。
1580年三木城を攻略。
1万石を手に入れ大名となる。
1581年兵糧攻めで鳥取城を攻略。
1582年備中高松城を水攻めで攻略。
本能寺の変で織田信長が自害。
中国大返しを豊臣秀吉に提言。
山崎の戦いで明智光秀軍を破る。
1586年九州平定のため豊前国へ入国。
1588年 中津城の築城を開始。
中津城内で宿敵・城井鎮房をだまし討ち。合元寺で城井鎮房の家臣を皆殺しにする。
1589年家督を長政に譲る。
1590年小田原征伐に参加。
使者として活躍し小田原城を無血開城させる。
1591年 秀吉の命により名護屋城の縄張を行う。
1592年名護屋城を出兵拠点として総大将・宇喜多秀家の軍師として朝鮮に渡る。
1593年名を黒田如水と改める。
1598年豊臣秀吉が死去。
1600年関ヶ原の戦いに乗じ、九州をほぼ平定。
関ヶ原の戦いで活躍した長政は、筑前52万石を与えられる。
1601年福崎の地を福岡と改称し、福岡城の築城を開始。
1604年死去。
崇福寺に葬られる。

御朱印情報

●ネットの声
・御朱印はありません
・御朱印をやめてしまった
・朱印はしておりませんという貼紙があった
・書ける人が不在という貼紙があった
・やめちゃいましたね
・あきらめましょう

かと思えば

・ねばって御朱印を頂けた
・地蔵尊祭り時のみ旭地蔵尊の御朱印が頂ける

などなど・・・

皆さんの声を総合的に判断すると、御朱印はやってないと思った方がよさそうです!

ちなみに私は門前払いでした(笑)

崇福寺の地図

 

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