所在地 | 福岡県北九州市門司区旧門司1丁目7−18 |
---|---|
祭 神 | 応神天皇・神功皇后 市寸島比売命・多紀理比売命・多紀津比売命 |
由 緒 | 860年、宇佐神宮の分霊を勧請し、神功皇后着用の甲(かぶと)を神体として創建したのが始まりといいます。1185年、壇ノ浦の戦いで勝利した源範頼と源義経が参拝し、重藤弓・鏑矢を献上したそうです。1336年、足利尊氏が戦勝祈願。 戦国時代に毛利元就、江戸時代に小倉藩・小笠原氏などが社殿を造営。一時は県下有数規模の神社に発展しますが、1945年に空襲により全焼。現在の社殿は戦後に再建されたものです。 |
HP | 甲宗八幡宮 | 北九州市門司区にある源氏・平家ゆかりの神社 |
Contents
鳥居①と参道と狛犬
●甲宗八幡宮とは?
JR門司港駅から徒歩15分。
源平ゆかりの甲宗八幡宮に到着。 甲宗八幡宮と書いてこうそう八幡宮と読みます。
この神社の始まりは860年。
なんと1150年以上の歴史を持つ超古社だという!
860年、石清水八幡宮へ宇佐八幡宮の分霊を勧請する際、宇佐から京都へ向かう途中に勅使一行が門司関の霊峰・筆立山に滞在したそうです。
その時、上空に瑞雲がたなびき八流の幡を天降すという瑞兆が現れたため、この地に八幡神を分祀したそうです。
そして神功皇后が着用した甲(かぶと)を御神体として創建したのがこの神社の始まりなんだって。
ということで、社名の甲宗とは御神体の甲(かぶと)が由来のようですよ。
甲宗八幡宮から徒歩15分のところには、三韓征伐の際に神功皇后が創建した和布刈神社が鎮座しています。
そんなこんなで、門司は神功皇后ゆかりの地なんですね。
おそらく御神体の甲(かぶと)もその時に由来するものなんでしょう(推測)
この神社が鎮座する門司は九州の北端、関門海峡の近くにある港町です。
関門海峡は流れが強く古代から交通の要所とされてきました。
そのため門司関の守護神として、源範頼・源義経・足利尊氏・毛利元就・細川氏・小笠原氏などなど、たくさんの武将が崇敬したといわれています。
~画像は下関・壇ノ浦古戦場址~
関門海峡といえば壇ノ浦の合戦。
1185年の壇ノ浦の合戦の際、源氏の大将・源範頼が参詣して重藤弓を奉納。
そして必勝祈願をしたそうです。
その後、壇ノ浦の合戦で勝利した源範頼と源義経が社殿を造営したという。
そんなこんなで、この神社は源氏ゆかりの神社として知られてるんだって。
和布刈神社は平家が戦勝祈願をした地。
甲宗八幡宮は源氏が戦勝祈願をした地。
わずか1.2kmしか離れていないこの2社は対になってるんですね。
もし私が大将なら・・・
家来『今、敵将が戦勝祈願してますよ』
私『よし奇襲じゃ』
うぉぉぉぉぉーっ
イケイケドンドンでサクサク斬っちゃう。
私、マジ畜生です。
ちなみに平家は合戦前夜、和布刈神社で酒宴を開いたといわれています。
一方、源氏はこの神社でどのような行動をとっていたのでしょ?
私の勝手なイメージですが、源氏はピリッとした緊張感。
その後鎌倉時代、この神社は門司一帯を領していた門司氏の氏神となり門司六ヶ郷(楠原・柳・大積・伊川・吉志・片野)の総鎮守となります。
1336年、多々良浜の戦いに勝った足利尊氏が社殿の造営と社領の寄進。
戦国時代、大内氏から篤い崇敬を受け、大内義興・義隆・義長の3代にわたって社領を寄進。
大内氏の滅亡後、中国地方の大大名・毛利元就が社殿を造営。
江戸時代には小倉藩主・細川氏と小笠原氏の尊崇を受けたそうです。
しかし、江戸時代末期の第二次長州征伐(四境戦争)で社殿を焼失。
神宝も略奪されてしまったという。。。
とにかく各時代で数々のビッグネームが篤く崇敬し多いに繁栄した神社のようです。
そのため戦前までは県下有数規模の神社になるまで発展していたそうですが、1945年の空襲により全焼。
その後、1958年に現在の社殿が再建されたようです。
前置きが長い。
ちなみにここからも長い。
そんなこんなで参拝開始。
●参道
鳥居①をくぐると石階段が登場。
石階段の先に見える鳥居の場所にはもともと楼門が建っていたそうですが、戦時中の空襲で焼失してしまったという。
ちなみに石階段の途中には、戦後進駐軍がジープで駆け上がった痕跡が残されてるだって!
これらの情報は全て帰宅後に知ったため、確認することはできず( ̄▽ ̄;)
●狛犬
●狛犬
・1924年奉納
鳥居①をくぐって石階段を上るとお座り型の狛犬ちゃんがお出迎えしてくれました。
グリグリのお目々に太い眉毛。
垂れ耳で体毛は薄毛の巻毛。
台座を掴むように指がはみ出しているのが特徴的でした。
JR門司港駅から徒歩15分。
源平ゆかりの甲宗八幡宮に到着。 甲宗八幡宮と書いてこうそう八幡宮と読みます。
この神社の始まりは860年。
なんと1150年以上の歴史を持つ超古社だという!
860年、石清水八幡宮へ宇佐八幡宮の分霊を勧請する際、宇佐から京都へ向かう途中に勅使一行が門司関の霊峰・筆立山に滞在したそうです。
その時、上空に瑞雲がたなびき八流の幡を天降すという瑞兆が現れたため、この地に八幡神を分祀したそうです。
そして神功皇后が着用した甲(かぶと)を御神体として創建したのがこの神社の始まりなんだって。
ということで、社名の甲宗とは御神体の甲(かぶと)が由来のようですよ。
甲宗八幡宮から徒歩15分のところには、三韓征伐の際に神功皇后が創建した和布刈神社が鎮座しています。
そんなこんなで、門司は神功皇后ゆかりの地なんですね。
おそらく御神体の甲(かぶと)もその時に由来するものなんでしょう(推測)
この神社が鎮座する門司は九州の北端、関門海峡の近くにある港町です。
関門海峡は流れが強く古代から交通の要所とされてきました。
そのため門司関の守護神として、源範頼・源義経・足利尊氏・毛利元就・細川氏・小笠原氏などなど、たくさんの武将が崇敬したといわれています。
~画像は下関・壇ノ浦古戦場址~
関門海峡といえば壇ノ浦の合戦。
1185年の壇ノ浦の合戦の際、源氏の大将・源範頼が参詣して重藤弓を奉納。
そして必勝祈願をしたそうです。
その後、壇ノ浦の合戦で勝利した源範頼と源義経が社殿を造営したという。
そんなこんなで、この神社は源氏ゆかりの神社として知られてるんだって。
和布刈神社は平家が戦勝祈願をした地。
甲宗八幡宮は源氏が戦勝祈願をした地。
わずか1.2kmしか離れていないこの2社は対になってるんですね。
もし私が大将なら・・・
家来『今、敵将が戦勝祈願してますよ』
私『よし奇襲じゃ』
うぉぉぉぉぉーっ
イケイケドンドンでサクサク斬っちゃう。
私、マジ畜生です。
ちなみに平家は合戦前夜、和布刈神社で酒宴を開いたといわれています。
一方、源氏はこの神社でどのような行動をとっていたのでしょ?
私の勝手なイメージですが、源氏はピリッとした緊張感。
その後鎌倉時代、この神社は門司一帯を領していた門司氏の氏神となり門司六ヶ郷(楠原・柳・大積・伊川・吉志・片野)の総鎮守となります。
1336年、多々良浜の戦いに勝った足利尊氏が社殿の造営と社領の寄進。
戦国時代、大内氏から篤い崇敬を受け、大内義興・義隆・義長の3代にわたって社領を寄進。
大内氏の滅亡後、中国地方の大大名・毛利元就が社殿を造営。
江戸時代には小倉藩主・細川氏と小笠原氏の尊崇を受けたそうです。
しかし、江戸時代末期の第二次長州征伐(四境戦争)で社殿を焼失。
神宝も略奪されてしまったという。。。
とにかく各時代で数々のビッグネームが篤く崇敬し多いに繁栄した神社のようです。
そのため戦前までは県下有数規模の神社になるまで発展していたそうですが、1945年の空襲により全焼。
その後、1958年に現在の社殿が再建されたようです。
前置きが長い。
ちなみにここからも長い。
そんなこんなで参拝開始。
●参道
鳥居①をくぐると石階段が登場。
石階段の先に見える鳥居の場所にはもともと楼門が建っていたそうですが、戦時中の空襲で焼失してしまったという。
ちなみに石階段の途中には、戦後進駐軍がジープで駆け上がった痕跡が残されてるだって!
これらの情報は全て帰宅後に知ったため、確認することはできず( ̄▽ ̄;)
●狛犬
●狛犬
・1924年奉納
鳥居①をくぐって石階段を上るとお座り型の狛犬ちゃんがお出迎えしてくれました。
グリグリのお目々に太い眉毛。
垂れ耳で体毛は薄毛の巻毛。
台座を掴むように指がはみ出しているのが特徴的でした。
鳥居②と手水舎と出光佐三
●鳥居②
●鳥居②
・1973年奉納
・出光佐三が寄進
なんと鳥居②は出光佐三さんが奉納したものだという!
出光佐三さんは、海賊とよばれた男で知られる出光興産の創業者です。
1911年、門司港に出光商会を創設。
佐三さんは灯油よりも安価であった軽油に着目して事業を成功させ、既存の油商人から海賊と呼ばれて恐れられるほど成長を果たしました。
佐三さんは神への信仰が篤く、故郷・宗像大社や、出光商会を起業した門司港の鎮守神・甲宗八幡宮を深く崇敬していたそうです。
ちなみに佐三さんが篤く信仰した宗像大社は、数十億円の私財を投じて、約30年かけて再建した神社です。
再建にあたり、佐三さんは宗像神社史の編纂に着手。
そして、沖ノ島で初の学術調査を実施。
この調査により、4~9世紀の祭祀遺物が大量に発見され、沖ノ島は海の正倉院と呼ばれるようになりました。
そんなこんなで現在、世界遺産に登録されている宗像・沖ノ島と関連遺産群は、佐三さんの功績がめちゃくちゃデカいという!
ちなみに扁額は出光佐三さんの筆なんだって!
佐三さんは、1926年にこの神社で結婚式(再婚)を挙げられています。
●手水舎
●手水舎
・1986年奉納
・銅板葺 切妻造
・出光昭介が寄進
続いて手水舎でお清め。
なんとこの手水舎は出光佐三さんの長男・出光昭介さんが寄進したものだという。
●鳥居②
・1973年奉納
・出光佐三が寄進
なんと鳥居②は出光佐三さんが奉納したものだという!
出光佐三さんは、海賊とよばれた男で知られる出光興産の創業者です。
1911年、門司港に出光商会を創設。
佐三さんは灯油よりも安価であった軽油に着目して事業を成功させ、既存の油商人から海賊と呼ばれて恐れられるほど成長を果たしました。
佐三さんは神への信仰が篤く、故郷・宗像大社や、出光商会を起業した門司港の鎮守神・甲宗八幡宮を深く崇敬していたそうです。
ちなみに佐三さんが篤く信仰した宗像大社は、数十億円の私財を投じて、約30年かけて再建した神社です。
再建にあたり、佐三さんは宗像神社史の編纂に着手。
そして、沖ノ島で初の学術調査を実施。
この調査により、4~9世紀の祭祀遺物が大量に発見され、沖ノ島は海の正倉院と呼ばれるようになりました。
そんなこんなで現在、世界遺産に登録されている宗像・沖ノ島と関連遺産群は、佐三さんの功績がめちゃくちゃデカいという!
ちなみに扁額は出光佐三さんの筆なんだって!
佐三さんは、1926年にこの神社で結婚式(再婚)を挙げられています。
宗像大社 辺津宮の御朱印~宗像神社・厳島神社の総本社~(福岡県宗像市田島)
所在地福岡県宗像市田島2331祭 神市杵島姫神社 格式内社(名神大)・旧官幣大社・別表神社由 緒創建年は不詳。古事記・日本書紀によると、天照大神と素戔嗚尊の誓約の際、天照大神が素戔嗚の剣を噛み砕き...
●手水舎
・1986年奉納
・銅板葺 切妻造
・出光昭介が寄進
続いて手水舎でお清め。
なんとこの手水舎は出光佐三さんの長男・出光昭介さんが寄進したものだという。
拝殿と本殿と隅楼
●拝殿
●拝殿
・1958年移築再建
・瓦葺 千鳥破風付き入母屋
そんなこんなで拝殿で参拝。
広〜い屋根のわりに小さな千鳥破風・・・バランスの悪さというかなんというか・・・神社建築としてはかなり違和感を感じる建物でした。
ということで調べてみることに。
どうやらこの拝殿は1945年の空襲後に、門司区長谷にあった武徳殿(武道場)を移築したものだということが判明。
ということで、もともとこの建物は神社建築ではなかったのですね。
なんかスッキリ。
木鼻は獏。
大瓶束的な部分には、八幡系神社のシンボル・左三つ巴紋の神紋。
拝殿正面には國輝と書かれた扁額が掲げられていました。
扁額には宮小路康文という名が見えました。
宮小路康文さん・・・どなたでしょ?
調べてみると、宮小路康文さんは福岡を代表する書家らしいです。
宮小路康文さんは、大宰府安楽寺(現・太宰府天満宮)の社僧として生まれ、幕末・明治における書家の第一人者として活躍したお方だという。
●本殿
●本殿
・建立年不明
・瓦葺 千鳥破風付き流造
続いて本殿へ。
このように境内からは本殿の全貌を確認することができませんでした。
ということで、門司港レトロハイマートの展望室から激写。
本殿は千鳥破風付きの流造という、ちょっと珍しい造りになっていました。
かなり大がかりな造りで、3間社、もしくは5間社はあるかと思われます。
●祭神
・応神天皇
・神功皇后
・宗像三女神
(市寸島比売命・多紀理比売命・多紀津比売命)
祭神は八幡系神社でお馴染みのラインナップでした。
御神体は神功皇后が着用していた甲(かぶと)です。
なんと、この御神体は50年に1度行われる大祭で拝観できるんだって!
前回の大祭が2008年。
そして次回の大祭は2058年となります。
・・・生きてるかなぁ。
生きてても覚えてるかなぁ!
●南隅楼と北隅楼
なんと拝殿前には2つの中華風建造物があるという!
中華街とかにありそうな、わりとガチめの中華料理店っぽい建物です。
なんだこりゃ?
記憶を遡ってみると、京都・平安神宮で拝見した蒼龍楼と白虎楼に似てる!
ということで調べてみると、なんとこの建物は京都・平安神宮の蒼龍楼・白虎楼と同じく風水に基づいて建立されたものらしいですよ!
珍しく私の予想が当たった!
●南隅楼
・建立年不明
・銅瓦葺 入母屋造 楼閣造(?)
そんなこんなで、正面向かって右側(南)のこの建物は南隅楼と呼ばれてるんだって。
五行説では南方は朱雀という霊獣が守護しているといわれています。
●南隅楼の鳥居
・2008年奉納
南隅楼には小さな鳥居がありました。
鳥居をくぐって健康祈願しちゃお〜的なパターンの鳥居でしょうか?
ガリガリ日本代表の私でもくぐれそうにない小ささでした。
●北隅楼
・建立年不明
・銅瓦葺 入母屋造 楼閣造(?)
続いて正面向かって左側(北)にある北隅楼へ。
五行説では北方は玄武という霊獣が守護しているといわれています。
北隅楼には、おみくじ掛けと絵馬掛けがありました。
そんなこんなで、神社建築じゃない拝殿と和建築じゃない隅楼が醸し出すオーラが独特すぎる神社でした。
●拝殿
・1958年移築再建
・瓦葺 千鳥破風付き入母屋
そんなこんなで拝殿で参拝。
広〜い屋根のわりに小さな千鳥破風・・・バランスの悪さというかなんというか・・・神社建築としてはかなり違和感を感じる建物でした。
ということで調べてみることに。
どうやらこの拝殿は1945年の空襲後に、門司区長谷にあった武徳殿(武道場)を移築したものだということが判明。
ということで、もともとこの建物は神社建築ではなかったのですね。
なんかスッキリ。
木鼻は獏。
大瓶束的な部分には、八幡系神社のシンボル・左三つ巴紋の神紋。
拝殿正面には國輝と書かれた扁額が掲げられていました。
扁額には宮小路康文という名が見えました。
宮小路康文さん・・・どなたでしょ?
調べてみると、宮小路康文さんは福岡を代表する書家らしいです。
宮小路康文さんは、大宰府安楽寺(現・太宰府天満宮)の社僧として生まれ、幕末・明治における書家の第一人者として活躍したお方だという。
●本殿
●本殿
・建立年不明
・瓦葺 千鳥破風付き流造
続いて本殿へ。
このように境内からは本殿の全貌を確認することができませんでした。
ということで、門司港レトロハイマートの展望室から激写。
本殿は千鳥破風付きの流造という、ちょっと珍しい造りになっていました。
かなり大がかりな造りで、3間社、もしくは5間社はあるかと思われます。
●祭神
・応神天皇
・神功皇后
・宗像三女神
(市寸島比売命・多紀理比売命・多紀津比売命)
祭神は八幡系神社でお馴染みのラインナップでした。
御神体は神功皇后が着用していた甲(かぶと)です。
なんと、この御神体は50年に1度行われる大祭で拝観できるんだって!
前回の大祭が2008年。
そして次回の大祭は2058年となります。
・・・生きてるかなぁ。
生きてても覚えてるかなぁ!
●南隅楼と北隅楼
なんと拝殿前には2つの中華風建造物があるという!
中華街とかにありそうな、わりとガチめの中華料理店っぽい建物です。
なんだこりゃ?
記憶を遡ってみると、京都・平安神宮で拝見した蒼龍楼と白虎楼に似てる!
ということで調べてみると、なんとこの建物は京都・平安神宮の蒼龍楼・白虎楼と同じく風水に基づいて建立されたものらしいですよ!
珍しく私の予想が当たった!
●南隅楼
・建立年不明
・銅瓦葺 入母屋造 楼閣造(?)
そんなこんなで、正面向かって右側(南)のこの建物は南隅楼と呼ばれてるんだって。
五行説では南方は朱雀という霊獣が守護しているといわれています。
●南隅楼の鳥居
・2008年奉納
南隅楼には小さな鳥居がありました。
鳥居をくぐって健康祈願しちゃお〜的なパターンの鳥居でしょうか?
ガリガリ日本代表の私でもくぐれそうにない小ささでした。
●北隅楼
・建立年不明
・銅瓦葺 入母屋造 楼閣造(?)
続いて正面向かって左側(北)にある北隅楼へ。
五行説では北方は玄武という霊獣が守護しているといわれています。
北隅楼には、おみくじ掛けと絵馬掛けがありました。
そんなこんなで、神社建築じゃない拝殿と和建築じゃない隅楼が醸し出すオーラが独特すぎる神社でした。
平知盛の墓・供養塚
●平知盛の墓・供養塚
なんと境内には平家の大将・平知盛のお墓があるという!
どこにあるのかなぁと思ったら、社殿の隣の玉垣の奥の奥にありました。
すごく見えずらく遠いところにあったので目一杯ズームにして、肉眼というよりカメラで確認。
それにしても、なんで知盛さんのお墓がここに!?
~画像は下関・壇ノ浦古戦場址~
壇ノ浦の合戦で、平家一門の最期を全て見届けた知盛さんは『見るべきものは全て見た』という名言を残し、重しのために2つの鎧を身にまとい、平家長さんと手を取り合って入水しました。
享年34歳。
その後、知盛さんの遺体は門司関へ漂着。
これを憐れんだ里人が、筆立山の壇ノ浦を見渡せる場所に知盛さんの遺体を葬ったといわれています。
しかし1953年の水害の際、墓石と供養塔は筆立山の麓へ流出。
その後、墓石と供養塔を甲宗八幡宮の境内に移したんだって。
ちなみに対岸の下関には壇ノ浦古戦場趾の碑と源義経・平知盛像がありますよ。
なんと境内には平家の大将・平知盛のお墓があるという!
どこにあるのかなぁと思ったら、社殿の隣の玉垣の奥の奥にありました。
すごく見えずらく遠いところにあったので目一杯ズームにして、肉眼というよりカメラで確認。
それにしても、なんで知盛さんのお墓がここに!?
~画像は下関・壇ノ浦古戦場址~
壇ノ浦の合戦で、平家一門の最期を全て見届けた知盛さんは『見るべきものは全て見た』という名言を残し、重しのために2つの鎧を身にまとい、平家長さんと手を取り合って入水しました。
享年34歳。
その後、知盛さんの遺体は門司関へ漂着。
これを憐れんだ里人が、筆立山の壇ノ浦を見渡せる場所に知盛さんの遺体を葬ったといわれています。
しかし1953年の水害の際、墓石と供養塔は筆立山の麓へ流出。
その後、墓石と供養塔を甲宗八幡宮の境内に移したんだって。
ちなみに対岸の下関には壇ノ浦古戦場趾の碑と源義経・平知盛像がありますよ。
その他の見どころ
●筆立山稲荷神社
●筆立山稲荷神社
・宇加之御魂神を祀る
もともとこの稲荷社は筆立山の山頂に鎮座していたそうです。
しかし、1953年の水害で山頂への道が閉ざされたことにより現在地に遷座したんだって。
●大神貴文翁像と石碑
境内には空き地(?)のようなスペースがあって、そこにたくさんの石碑が横並びにたっていました。
大神貴文翁像・小倉歩兵第114連隊第7中隊慰霊碑・火野葦平詩碑・川江直種翁歌碑・日露戦争の忠魂碑・復興記念碑・明治維新百年記念碑・村田為吉翁之碑
●引退灯籠
その他、引退した灯籠がまとめられていました。
見ようによっては、ちょっとしたアートです。
●兜着用体験
どうやら兜の着用体験ができるようです。
しかし、対象者は子供と大人の女性。
ということで着用できず・・・。
●筆立山稲荷神社
・宇加之御魂神を祀る
もともとこの稲荷社は筆立山の山頂に鎮座していたそうです。
しかし、1953年の水害で山頂への道が閉ざされたことにより現在地に遷座したんだって。
●大神貴文翁像と石碑
境内には空き地(?)のようなスペースがあって、そこにたくさんの石碑が横並びにたっていました。
大神貴文翁像・小倉歩兵第114連隊第7中隊慰霊碑・火野葦平詩碑・川江直種翁歌碑・日露戦争の忠魂碑・復興記念碑・明治維新百年記念碑・村田為吉翁之碑
●引退灯籠
その他、引退した灯籠がまとめられていました。
見ようによっては、ちょっとしたアートです。
●兜着用体験
どうやら兜の着用体験ができるようです。
しかし、対象者は子供と大人の女性。
ということで着用できず・・・。
周辺の見どころ
●門司港
甲宗八幡宮から徒歩10分。
人気観光スポット・門司港レトロに到着。
1889年開港した門司港は九州の最北端に位置し、明治時代から戦前にかけて国際貿易港として繁栄した港町です。
門司港周辺には、赤煉瓦造りの洋館や大正・昭和時代の木造建築が建ち並んでいて、レトロでモダンな雰囲気をそのまま箱詰めした町になっております。
●海峡ドラマシップ
海峡ドラマシップの無料エリアでは大正時代の町並みを再現したストリートがありました。
結構、徹底した造りだったので、それほど感性の感度を上げなくてもレトロな時代にタイムスリップできちゃいました。
その他、大パノラマな絶景ビューやコスプレコーナーもありました。
●焼きカレー
定番の門司名物・焼きカレーも食べちゃいました。
アッチアチでした!
昭和30年代、山田屋という和食店が余ったカレーをグラタン風にオーブンで焼いたのが焼きカレーの始まりなんだって。
●門司港 ⇔ 下関(唐戸)
ちなみに関門連絡船に乗ると、門司港から下関(唐戸)へ一気にワープできます。
乗船時間はたった5分!
下関(唐戸)には、唐戸市場・海響館(水族館)・からっと横丁をはじめ、徒歩圏内に赤間神宮・亀山八幡宮・海峡ゆめタワー・壇之浦古戦場址などなど見所が特盛です。
甲宗八幡宮から徒歩10分。
人気観光スポット・門司港レトロに到着。
1889年開港した門司港は九州の最北端に位置し、明治時代から戦前にかけて国際貿易港として繁栄した港町です。
門司港周辺には、赤煉瓦造りの洋館や大正・昭和時代の木造建築が建ち並んでいて、レトロでモダンな雰囲気をそのまま箱詰めした町になっております。
●海峡ドラマシップ
海峡ドラマシップの無料エリアでは大正時代の町並みを再現したストリートがありました。
結構、徹底した造りだったので、それほど感性の感度を上げなくてもレトロな時代にタイムスリップできちゃいました。
その他、大パノラマな絶景ビューやコスプレコーナーもありました。
●焼きカレー
定番の門司名物・焼きカレーも食べちゃいました。
アッチアチでした!
昭和30年代、山田屋という和食店が余ったカレーをグラタン風にオーブンで焼いたのが焼きカレーの始まりなんだって。
●門司港 ⇔ 下関(唐戸)
ちなみに関門連絡船に乗ると、門司港から下関(唐戸)へ一気にワープできます。
乗船時間はたった5分!
下関(唐戸)には、唐戸市場・海響館(水族館)・からっと横丁をはじめ、徒歩圏内に赤間神宮・亀山八幡宮・海峡ゆめタワー・壇之浦古戦場址などなど見所が特盛です。
御朱印情報
●御朱印の種類
・甲宗八幡宮の御朱印
●御朱印の受付場所
・授与所
●御朱印の受付時間
・9:30〜17:00
●御朱印の料金
・500円
●期間限定・特別御朱印
・小倉織と美濃和紙
(ストライプの透かし和紙)
●オリジナル御朱印帳
・小倉織朱印帳
・3000円
江戸時代、小倉織は小倉藩の特産物だったそうです。
小倉織の袴は槍で突かれても矛先を通さないくらい丈夫なんだって。
そのため災難除けとして全国で有名になったそうです。
・2021年3月 更新
・甲宗八幡宮の御朱印
●御朱印の受付場所
・授与所
●御朱印の受付時間
・9:30〜17:00
●御朱印の料金
・500円
●期間限定・特別御朱印
・小倉織と美濃和紙
(ストライプの透かし和紙)
小倉織と美濃和紙が融合したストライプの透かし和紙で特別な御朱印を作りました。 pic.twitter.com/4ptkyHfJG7
— 甲宗八幡宮公式 (@kosohachimangu) February 16, 2021
●オリジナル御朱印帳
・小倉織朱印帳
・3000円
江戸時代、小倉織は小倉藩の特産物だったそうです。
小倉織の袴は槍で突かれても矛先を通さないくらい丈夫なんだって。
そのため災難除けとして全国で有名になったそうです。
・2016年8月13日 参拝譜代大名小笠原氏が治めた小倉藩。
— 甲宗八幡宮公式 (@kosohachimangu) April 25, 2020
その小倉藩特産の小倉織。
小倉藩から特別の崇敬を受けた甲宗八幡宮で小倉織のお守りとご朱印帳を授与しております。
現在、全色揃っております。
時節柄、郵送でも対応しております。 pic.twitter.com/yHYDMD8ilk
・2021年3月 更新
参拝情報とアクセス
●開門時間
・境内自由
●拝観料
・無料
●拝観料
・無休
●アクセス
●最寄りの駅
・JR門司港駅から徒歩15分
●最寄りのバス停
・西鉄バス・甲宗八幡宮前から徒歩すぐ
●駐車場
・無料の専用駐車場あり
・境内自由
●拝観料
・無料
●拝観料
・無休
●アクセス
●最寄りの駅
・JR門司港駅から徒歩15分
●最寄りのバス停
・西鉄バス・甲宗八幡宮前から徒歩すぐ
●駐車場
・無料の専用駐車場あり