南洲寺の御朱印~西郷隆盛の菩提寺~(鹿児島県鹿児島市)

所在地鹿児島県鹿児島市南林寺町23−22
宗 派臨済宗相国寺派
由 緒1557年、島津家15代当主・島津貴久が福昌寺の末寺として南林寺を建立。その後、島津貴久の菩提寺になったそうです。1869年、廃仏毀釈により廃寺。1876年、旧南林寺の一角に京都・相国寺の鹿児島仮出張布教所を建立。その後、1907年に南洲寺と改称し、西郷隆盛の菩提寺になったそうです。
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南洲寺とは?

●南洲寺とは?

~画像は説明板より~

西郷隆盛さんの菩提寺ならびに月照さんのお墓がある南洲寺に到着。

このお寺さんは、もともと南林寺という寺号で、島津氏15代当主・島津貴久さんの菩提寺だったそうです。

しかし、1869年に南林寺は廃寺

その後、1876年に旧南林寺の一角に京都・相国寺の鹿児島仮出張布教所を建立。

そして、1907年に南洲寺と改称し、西郷隆盛さんの菩提寺になったんだって。

ちなみに南洲とは西郷隆盛さんのことです。
最敬意を表して南洲翁と呼ばれています。

なぜ南洲なのかというと、西郷どんが島流しで沖永良部島にいた際、文筆活動を行ったときのペンネーム(号)が西郷南洲だったからといわれています。

今回の鹿児島旅では、南洲神社をはじめ南洲墓地や南洲公園や西郷南洲顕彰館など、様々な場所で南洲という文字を見ることができましたよ。

ちなみに山号は照国山
照国といえば、照国神社を連想してしまいます。

照国神社の祭神は照国大明神
照国大明神とは薩摩藩11代藩主・島津斉彬さんのことです。

西郷どんは島津斉彬さんの死後、後追い自殺をしようとしたくらい斉彬さんのことが好きでした。

このお寺は南洲、すなわち西郷隆盛さんの菩提寺。
そして、山号の照国は西郷どんが尊敬した斉彬さん。

照国山南洲寺・・・この文字を見るだけで、何だかグッとくるものがあります。
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山門と仁王像

●山門

●山門
・建立年不明
・瓦葺 三間一戸 切妻造

そんなこんなで、参拝開始。


●石造・仁王像

到着後、真っ先に目に飛び込んできたのは、個性丸出しの仁王さん。


腰のめくれ上がった部分が、なんだか浮き輪のようで面白いです。


斜めから見るとケンタウロスみたいになっちゃってます。


腰には切れ目があり、ソフビみたいにグルグル回りそう・・・!


そんな姿でマッスルポーズをキメられても!

みたいな感じで、ツッコミどころ満載な仁王さんでしたよ。
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本堂

●本堂

●本堂
・建立年不明
・瓦葺 入母屋造
・宗派 臨済宗相国寺派

そんなこんなで、山門をくぐって本堂へ。

なんだ、この違和感・・・あっ、向拝ながっ!


おそらくこの向拝は増設したものと思われます。

本堂前には1923年建立の石灯籠と手水鉢がありました。
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不動堂と不動明王像

●不動堂

●不動堂
・建立年不明
・瓦葺 宝形造

本堂前には不動堂がありました。


もともとこのお寺さんは、足利将軍家ゆかりの京都・相国寺の鹿児島仮出張布教所だったからか、お堂には足利家の家紋・二つ引両がありました。


●不動明王立像

●不動明王立像
・平安時代後期作
・像高 96cm
・鹿児島県指定文化財

堂内には平安時代後期作の不動明王さんがおられました。

どうやらこちらの不動明王さんは、現存する木造像としては鹿児島県最古のものなんだって!


~画像は説明板より~

もともとは鹿児島郡伊敷村(現・鹿児島市伊敷町)の不動堂に安置されていましたが、明治時代の廃仏毀釈の際、不動堂から持ち去られ南洲寺に移されたそうです。

南洲寺に移されたときは、像の前面が縦に割れ、左手や火炎光背に傷があったそうです。

また宝剣や羂索などは失われた状態だったんだって。


現在は補修復元がなされており、とても800年以上も前に作られたとは思えないくらい若々しい像容になっていました。
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月照上人のお墓

●月照上人のお墓

境内には月照上人のお墓がありました。


●月照上人とは?

~画像は説明板より~

ザックリと簡単に月照上人とは、江戸時代末期に活躍した尊皇攘夷派の僧侶です。
大老・井伊直弼の政策に意を唱え、反幕の姿勢をとったお方です。

1858年、安政の大獄で追われる身となり、西郷隆盛さんとともに京都を脱出して薩摩に逃れました。

しかし、幕府の追及をおそれた薩摩藩は、月照上人を追放することに・・・。

この対応に悲観した西郷隆盛さんは月照上人とともに入水自殺をはかります。

結果、月照上人は死亡・・・。
西郷隆盛さんは平野国臣に助けられ、奇跡的に蘇生しました。

ちなみに、西郷さんと月照さんにはBL説があります。

一説によると、海から引き上げられた時、2人は抱き合ったままだったとか。

愛した人が自分の腕の中で他界してたなんて・・・辛い。


ちなみに、墓石前の線香皿には波の模様がありました。
この波模様は入水した月照さんと何か関係あるのかなぁ?

石仏

●石仏

その他、境内にはたくさんの石仏さんがおられました。


3頭身の仁王さん。

これは可愛い!


こちらは迫力のある仁王さん。

よく見たら・・・

腕はないけどコブシはある!

ちょっとホラーです。


こちらは、山門前の仁王さん同様、腰の衣がめくれ上がった仁王さん。

これは鹿児島特有の仁王さんなんでしょうか?


こちらは多分、如意輪観音さん。
二臂なのが珍しいですね!


全体的に観音像が多かったです。


あと、写真では上手く伝えることができませんでしたが、大きな石祠もありましたよ。

南林寺由緒墓

●南林寺由緒墓

南洲寺の隣には南林寺由緒墓がありました。

この墓地は、旧南林寺にあった名がありながらも無縁仏となったお方の墓地のようです。


南林寺は、1869年に廃仏毀釈により廃寺となりますが、残った墓地はそのまま市民墓地として供用されたそうです。

しかし、1919年に市街地拡大工事のため撤去されることに・・・。
ほとんどの墓石は鹿児島市営の草牟田墓地・郡元墓地・露重墓地・興国寺墓地に移転したそうです。

南林寺には約13万5千基ものお墓があったそうですが、そのうち約3500基が残ったといいます。

現在は、そのうち名士や著名人など名のある無縁仏約40基が残っています。

西郷隆盛 史跡めぐり

●西郷隆盛洞窟

●西郷隆盛洞窟
・間口 3m
・入口の高さ 2.5m
・奥行き 4m

こちらは西郷どんが最後の5日間を過ごした洞窟です。


1877年、薩軍は九州各地で転戦したのち解散。

その後、城山に立て籠もり、最期までこの洞窟で指揮をとっていたんだって!


大きな西郷さん・・・
小さな洞窟・・・
最期の5日間・・・

・・・何か泣けるね。
ジーンときました。


ちなみに西郷隆盛洞窟はちょっとわかりづらい所にあります。

ですので、車の方は通り過ぎ注意です!
って、そんなこと余計なお世話ってか。

ちなみに私は1度通り過ぎました。


●せごどん像と洞窟

西郷隆盛洞窟のすぐ近くには、巨大なせごどん像がありました。

その像の後ろには再び洞窟が!

そんなこんなで、立ち寄る。


洞窟内には、目で見る西南戦争始末記という西南戦争のイラストが展示されていました。


ここで注意!

この洞窟と西郷隆盛洞窟を間違える人がいるらしいので立ち寄る際はご注意を!

余計なお世話かも知れませんが、実際に現地に行ってみると、間違えてしまう人の気持ちがわかるくらい、紛らわしい場所にありますよ!


●西郷隆盛終焉の地

1877年、薩軍が立てこもる城山を包囲した新政府軍は一斉に砲撃を開始。

薩軍は、敵陣目掛けて岩崎谷を駆け下り最後の抵抗を示しますが、2発の銃弾が西郷どんの腰と太ももを撃ち抜きました・・・。

晋どん、もうここらでよか

東を向き、皇居を伏し拝む西郷どんに別府晋介の介錯の太刀が振り下ろされました。

それが西郷どんの最期です・・・泣けるね。


ちなみに、こちらもちょっとわかりづらい所にありますので通り過ぎ注意です。

って、ほんと余計なお世話。

ここでも私は通り過ぎました・・・!


●城山

●城山
・標高 約108m

西南戦争最後の激戦地となった山です。


●南洲墓地

南洲墓地には西南戦争で戦没した薩軍2023名の兵士が眠っています。

その中に、西郷どんのお墓もあります。


●南洲神社

南洲墓地の隣には西郷どんを祀る南洲神社もあります。


●西郷隆盛銅像

●西郷隆盛銅像
・1937年建立
・像高 5.76m
・台座 1.21m
・築山 7.27m
・計 14.24m

超大作です。


こちらの西郷隆盛銅像は、忠犬ハチ公の制作者・安藤照さんが約8年かけて製作した像なんだって。

軍服姿の西郷どん。
ちなみに西郷どんは日本初の陸軍大将です。


●西郷南洲顕彰館

西郷南洲顕彰館では、西郷どんの遺品や生涯のジオラマや西南戦争に関する資料などを拝観することができました。

ちなみに館内は撮影禁止です。


●町のせごどん


鹿児島市内はあちらこちらに西郷どんがおられ、めちゃめちゃ愛されてる感が伝わる町になっております。

オリジナル自販機の横には犬の置物がありました。
ということで、記念撮影。

上野の西郷どん風に撮りたかったんだけど、どんなポーズなのか思い出せず直立不動・・・(笑)

西郷隆盛とは?

●西郷隆盛とは?

ザックリと簡単に西郷隆盛とは、江戸時代末期に活躍した薩摩藩の武士です。

薩摩の下級武士でありながら、盟友・大久保利通とともに薩摩藩をリード

薩長同盟王政復古江戸城無血開城を成し遂げ、徳川幕府を倒して新政府の礎を作った明治維新の立役者です。


●西郷隆盛の年表
1827年薩摩国で誕生。幼名は小吉。
1839年友人の喧嘩を仲裁した際に腕を負傷。刀を握れなくなり武士になることを諦める。
1841年元服。吉之助と名乗る。
1844年薩摩藩の郡方書役助に任命され農民の貧しさを知る。
1850年島津斉彬に農政に関する意見書を提出。
1854年島津斉彬のお供として江戸に向かう。お庭方に任命される。
1855年吉兵衛と名乗る。
1856年徳川幕府13代将軍・徳川家定と島津斉彬の養女・篤姫が結婚。
1858年 島津斉彬が死去。後追い自殺をはかるが月照に止められて未遂に終わる。

薩摩に帰る。

幕府から目をそらすために三助と名乗る。

月照とともに入水自殺をはかるが奇跡的に助かる。
1859年 奄美大島に島流しにされる。
奄美大島で愛加那と結婚。

菊池源吾と名乗る。
1860年 愛加那との子・菊次郎が誕生。

江戸で桜田門外の変。
1861年 薩摩へ戻る。

大島三右衛門と名乗る。

京で寺田屋事件が起こる。
1862年 島津久光の怒りを買い、徳之島に島流しにされる。

続いて、冲永良部島に島流しにされる。

皮膚病を患う。

大島吉之助と名乗る。
1864年 薩摩へ戻る。

禁門の変が起こる。 西郷どんは薩摩軍を率い、長州軍に勝利。

第一次長州征伐。 幕府軍の参謀に任命される。

勝海舟と面談。

西郷吉之助と名乗る。
1865年イトと結婚。
1866年 坂本龍馬の仲介で薩長同盟を結ぶ。

第二次長州征伐。長州軍が勝利。
1867年 大政奉還。王政復古の大号令が発令され江戸幕府が廃止される。
1868年 戊辰戦争が勃発。
鳥羽伏見の戦い。

江戸幕府の勝海舟と会談し、江戸城を無血開城させる。
1869年 戊辰戦争が終結。

西郷隆盛と名乗る。

鹿児島藩大参事に任命される。
1871年 岩倉使節団が欧米視察に出発。
西郷どんは留守政府を任される。

廃藩置県。

明治政府の参議になる。
1873年 大久保利通らとの意見の相違が原因で、明治政府を辞めて鹿児島に戻る。
1874年 鹿児島に私学校を設立し、若者の教育を行う。
1877年 西南戦争が勃発。
新政府軍に敗れ自害する。
享年49歳。

御朱印情報

●御朱印の種類
・南洲寺の御朱印(大聖不動明王)

●御朱印の受付場所
・庫裏(寺務所)

●御朱印の受付時間
・不明

●御朱印の料金
・300円

●期間限定・特別御朱印
・なし

●オリジナル御朱印帳
・なし

・2018年5月3日 参拝
・2021年4月 更新
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参拝情報とアクセス

●拝観料
・無料

●最寄りの駅
・JR鹿児島中央駅から徒歩30分
・JR鹿児島中央駅から車で10分
・市電・天文館通駅から徒歩5分

●駐車場
・無料駐車場あり
 車で山門をくぐって境内のスペースに駐車

南洲寺の地図

 

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