所在地 | 愛媛県今治市国分4-1-33 |
---|---|
宗 派 | 真言律宗 |
札 所 | 四国八十八ヶ所 第59番 |
前後札所 | ・前 → 第58番札所・仙遊寺 ・後 → 第60番札所・横峰寺 |
本 尊 | 薬師瑠璃光如来 |
真 言 | おん ころころ せんだりまとうぎ そわか |
由 緒 | 741年、聖武天皇の発願のもと全国に建立された国分寺の1つで、行基が開基したお寺といいます。平安時代初期、空海(弘法大師)がこの地を訪れ、五大尊の画像を奉納。また空海の弟子・真如も2年間滞在し、法華経一部を書写したそうです。939年の藤原純友の乱、1184年の源平合戦、1364年の細川頼之軍の侵攻、さらに1584年の長宗我部元親と伊予国守・河野通直の兵火で堂宇をことごとく焼失。しかし、その都度再興され現在に至るそうです。 |
HP | 金光山 最勝院 国分寺 – 四国八十八ヶ所霊場会 |
伊予国分寺とは?
四国八十八ヶ所の第59番札所であります伊予国分寺に到着。
第58番札所・仙遊寺から7.3km。
徒歩1時間30分。
車で15分のところに位置しています。
伊予国分寺と書いていよこくぶんじと読みます。
●伊予国分寺とは?
741年、聖武天皇の発願のもと全国に建立された国分寺の1つで、行基が開基したお寺といいます。
平安時代初期、弘法大師がこの地を訪れた際、五大尊の画像を奉納。
そして、四国八十八ヶ所の第59番札所に定めたそうです。
また、空海の弟子・真如も2年間滞在し、法華経一部を書写したそうです。
その後、939年の藤原純友の乱で焼失。
さらに1184年、源平合戦の戦火で焼失。
さらにさらに1364年には讃岐守護・細川頼之の侵攻により焼失。
まさかとは思ったが、1584年に長宗我部元親 vs 伊予国守・河野通直の天正の兵火で焼失。
このように幾度となく戦火にさらされて焼失しますが、その度に領主が再建。
しかし天正の兵火の以降、荒廃することに。。
1689年の四國禮霊場記には『茅葺の小堂が寂しく建つのみ』と記されているそうです。
その後、歴代住職の尽力により再興され現在に至るそうです。
741年、聖武天皇の発願のもと全国に建立された国分寺の1つで、行基が開基したお寺といいます。
平安時代初期、弘法大師がこの地を訪れた際、五大尊の画像を奉納。
そして、四国八十八ヶ所の第59番札所に定めたそうです。
また、空海の弟子・真如も2年間滞在し、法華経一部を書写したそうです。
その後、939年の藤原純友の乱で焼失。
さらに1184年、源平合戦の戦火で焼失。
さらにさらに1364年には讃岐守護・細川頼之の侵攻により焼失。
まさかとは思ったが、1584年に長宗我部元親 vs 伊予国守・河野通直の天正の兵火で焼失。
このように幾度となく戦火にさらされて焼失しますが、その度に領主が再建。
しかし天正の兵火の以降、荒廃することに。。
1689年の四國禮霊場記には『茅葺の小堂が寂しく建つのみ』と記されているそうです。
その後、歴代住職の尽力により再興され現在に至るそうです。
国分寺とは?
●国分寺とは?
奈良時代、地震や疫病や内乱などが相次ぎ社会情勢が不安定になりました。
そうした中、聖武天皇は仏教の力で国を護る!ということを決定しました。
そんなこんなで741年、聖武天皇は国分寺建立の詔を発令し、日本全国に68もの国分寺を造らせました。
この伊予国分寺もそのうちの1つです。
しかし、国司の怠慢や財政難などですぐに全国各地に建立されたという訳ではありませんでした。
そんな中、この伊予国分寺は平安時代初期に編纂された続日本紀に記載があることから比較的早い時期に創建されていたと思われます。
続日本紀には『756年、聖武天皇の周忌の際、伊予国を含む26ヶ国の国分寺に仏具などを下賜した』との記載があることから、遅くとも756年以前には存在していたと思われます。
全国各地に建立された国分寺は、国立のお寺として維持されていきますが、律令体制の衰退とともに国家的な援助ができなくなり荒廃する国分寺が増えていきました。
そして、廃寺となる国分寺も増えました。
しかし、宗派を変えるなどして存続を維持できたお寺もあったようです。
廃寺となった国分寺も、江戸時代に再興されることが多かったそうです。
そんなこんなで現在、全国にある国分寺は改宗をしたり再興をしたりして続いた国分寺で、純粋な国分寺とは性格も性質も違う新しく生まれ変わった国分寺となります。
そのため現在でも国分寺と名乗る寺院は多数存在しています。
このような寺院のことを後継寺院と呼びます。
ちなみに、四国4県にある国分寺は全て後継寺院となっております。
もともと伊予国分寺は、現在地より少し東にあったようで、境内から約100mほど離れたところに七重塔の礎石が残っています。 当時は全国屈指の規模を誇り、壮大な伽藍を有する国分寺だったみたいです。
ちなみに現在の伊予国分寺がある場所は、伊予国府があった場所といわれています。
鎌倉時代以降、西日本にある多くの国分寺は西大寺の叡尊の弟子である忍性・信空らによって再興され、西大寺の末寺(真言律宗)となりました。 その後、他国の多くの国分寺は他の宗派に改宗しながら存続していきますが、伊予国分寺は現在も真言律宗のまま存続しています。
ちなみに、国分寺には2種類あります。
①国分僧寺(写真左)
・正式名称は金光明四天王護国之寺
・男性の僧侶が在籍する国分寺
・総本山は奈良・東大寺
・在籍人数は常時20人
②国分尼寺(写真右)
・正式名称は法華滅罪之寺
・女性の僧侶が在籍する国分寺
・総本山は奈良・法華寺
・在籍人数は常時10人
一般的に国分寺といえば国分僧寺のことを指します。
ちなみに伊予国分尼寺は、伊予国分寺から約1.3km離れた桜井小学校付近にあったと推測されています。 桜井小学校の敷地からは白鳳期から奈良時代の瓦が出土しているそうですが、本格的な発掘調査が行われていないため真相は解明されてません。
奈良時代、地震や疫病や内乱などが相次ぎ社会情勢が不安定になりました。
そうした中、聖武天皇は仏教の力で国を護る!ということを決定しました。
そんなこんなで741年、聖武天皇は国分寺建立の詔を発令し、日本全国に68もの国分寺を造らせました。
この伊予国分寺もそのうちの1つです。
しかし、国司の怠慢や財政難などですぐに全国各地に建立されたという訳ではありませんでした。
そんな中、この伊予国分寺は平安時代初期に編纂された続日本紀に記載があることから比較的早い時期に創建されていたと思われます。
続日本紀には『756年、聖武天皇の周忌の際、伊予国を含む26ヶ国の国分寺に仏具などを下賜した』との記載があることから、遅くとも756年以前には存在していたと思われます。
全国各地に建立された国分寺は、国立のお寺として維持されていきますが、律令体制の衰退とともに国家的な援助ができなくなり荒廃する国分寺が増えていきました。
そして、廃寺となる国分寺も増えました。
しかし、宗派を変えるなどして存続を維持できたお寺もあったようです。
廃寺となった国分寺も、江戸時代に再興されることが多かったそうです。
そんなこんなで現在、全国にある国分寺は改宗をしたり再興をしたりして続いた国分寺で、純粋な国分寺とは性格も性質も違う新しく生まれ変わった国分寺となります。
そのため現在でも国分寺と名乗る寺院は多数存在しています。
このような寺院のことを後継寺院と呼びます。
ちなみに、四国4県にある国分寺は全て後継寺院となっております。
もともと伊予国分寺は、現在地より少し東にあったようで、境内から約100mほど離れたところに七重塔の礎石が残っています。 当時は全国屈指の規模を誇り、壮大な伽藍を有する国分寺だったみたいです。
ちなみに現在の伊予国分寺がある場所は、伊予国府があった場所といわれています。
鎌倉時代以降、西日本にある多くの国分寺は西大寺の叡尊の弟子である忍性・信空らによって再興され、西大寺の末寺(真言律宗)となりました。 その後、他国の多くの国分寺は他の宗派に改宗しながら存続していきますが、伊予国分寺は現在も真言律宗のまま存続しています。
ちなみに、国分寺には2種類あります。
①国分僧寺(写真左)
・正式名称は金光明四天王護国之寺
・男性の僧侶が在籍する国分寺
・総本山は奈良・東大寺
・在籍人数は常時20人
②国分尼寺(写真右)
・正式名称は法華滅罪之寺
・女性の僧侶が在籍する国分寺
・総本山は奈良・法華寺
・在籍人数は常時10人
一般的に国分寺といえば国分僧寺のことを指します。
ちなみに伊予国分尼寺は、伊予国分寺から約1.3km離れた桜井小学校付近にあったと推測されています。 桜井小学校の敷地からは白鳳期から奈良時代の瓦が出土しているそうですが、本格的な発掘調査が行われていないため真相は解明されてません。
そんなこんなで、参拝開始。
境内入口と手水舎と鐘楼
●境内入口
この伊予国分寺は標高105.3mの唐子山の麓にあります。
現在の伊予国分寺は、もともと伊予の国府があった場所で、政治の中心地ならびに伊予の仏教拠点としての役割を果たした伊予文化の発祥地的な場所だったという。
ちなみに、もともとは現在地から約150mほど離れた場所にお寺があったそうです。
現在、その地には七重塔の礎石があり、当時の面影を今に伝えています。
境内入口には山門はなく、シンプルな参道があるのみでした。
このお寺は4度の兵火で焼き尽くされています。
そのことで、再建を繰り返すうちに山門を造ることを諦めちゃったのかも知れません。
●手水舎
●手水舎
・建立年不明
・瓦葺 切妻造
そんなこんなで、まずは手水舎でお清め。
私が参拝した当時はこのようなシンプルな手水舎でしたが、現在は薬壷から水が出る近代的な手水舎になっているみたいです。
●鐘楼
●鐘楼
・建立年不明
・瓦葺 入母屋造
続いて、鐘楼で鐘をひと撞き・・・
と思ったら、鐘を撞くことはできませんでした。
ということで、心の中でエアーゴ〜ン♪
この伊予国分寺は標高105.3mの唐子山の麓にあります。
現在の伊予国分寺は、もともと伊予の国府があった場所で、政治の中心地ならびに伊予の仏教拠点としての役割を果たした伊予文化の発祥地的な場所だったという。
ちなみに、もともとは現在地から約150mほど離れた場所にお寺があったそうです。
現在、その地には七重塔の礎石があり、当時の面影を今に伝えています。
境内入口には山門はなく、シンプルな参道があるのみでした。
このお寺は4度の兵火で焼き尽くされています。
そのことで、再建を繰り返すうちに山門を造ることを諦めちゃったのかも知れません。
●手水舎
●手水舎
・建立年不明
・瓦葺 切妻造
そんなこんなで、まずは手水舎でお清め。
私が参拝した当時はこのようなシンプルな手水舎でしたが、現在は薬壷から水が出る近代的な手水舎になっているみたいです。
●鐘楼
●鐘楼
・建立年不明
・瓦葺 入母屋造
続いて、鐘楼で鐘をひと撞き・・・
と思ったら、鐘を撞くことはできませんでした。
ということで、心の中でエアーゴ〜ン♪
本堂と大師堂
●本堂
●本堂
・1789年建立
・瓦葺 入母屋造
●本尊
・薬師瑠璃光如来
●真言
・おん ころころ せんだりまとうぎ そわか
続いて、本堂で参拝。
この本堂は江戸時代後期に再建されたもので、伊予国分寺最古の建造物となります。
本尊は行基作と伝わる薬師瑠璃光如来さん。 ちなみに瑠璃光とは薬師如来さんのことです。
ということで、薬師瑠璃光如来とは薬師薬師如来如来ということになります。
・・・ちがうか。
●大師堂
●大師堂
・建立年不明
・瓦葺 宝形造
・本尊 弘法大師
続いて、大師堂を参拝。
南無大師遍照金剛・・・
南無大師遍照金剛・・・
南無大師遍照金剛・・・
本堂と大師堂は廊下のような建物で繋がっていました。
帰宅後に知ったのですが、本堂と大師堂の間にある廊下のような建物は、実は金毘羅堂だという!
これは気づかなかった〜!
金毘羅さん・・・スルーしてしまって申し訳ございませんでした!
●本堂
・1789年建立
・瓦葺 入母屋造
●本尊
・薬師瑠璃光如来
●真言
・おん ころころ せんだりまとうぎ そわか
続いて、本堂で参拝。
この本堂は江戸時代後期に再建されたもので、伊予国分寺最古の建造物となります。
本尊は行基作と伝わる薬師瑠璃光如来さん。 ちなみに瑠璃光とは薬師如来さんのことです。
ということで、薬師瑠璃光如来とは薬師薬師如来如来ということになります。
・・・ちがうか。
●大師堂
●大師堂
・建立年不明
・瓦葺 宝形造
・本尊 弘法大師
続いて、大師堂を参拝。
南無大師遍照金剛・・・
南無大師遍照金剛・・・
南無大師遍照金剛・・・
本堂と大師堂は廊下のような建物で繋がっていました。
帰宅後に知ったのですが、本堂と大師堂の間にある廊下のような建物は、実は金毘羅堂だという!
これは気づかなかった〜!
金毘羅さん・・・スルーしてしまって申し訳ございませんでした!
握手修行大師像と薬師のつぼ
●握手修行大師像
境内には握手ができる大師像がありました。
まるで握手会みたいだね!
忙しいのに申し訳ありません。
握手をした後で説明板を読んでしまったため、何度も握手をしてしまいました。。
●薬師のつぼ
お届け物です・・・って、ふざけた写真ですみません。。
薬師のつぼの写真がこれしかなかったのでお許しを・・・m(_ _)m
薬師のつぼには目・頭・足など体の部位が彫られていました。
どうやら身体の悪いところの部位をさすりながら薬師如来さんの真言を唱えると病気回復の御利益があるそうですよ。
その他、境内には書院・七福神石仏・弁財天祠がありました。
境内には握手ができる大師像がありました。
まるで握手会みたいだね!
説明板には
願い事は1つにしてください。
あれもこれもはいけません。
お大師様も忙しいのですから!
と書いてありました。
願い事は1つにしてください。
あれもこれもはいけません。
お大師様も忙しいのですから!
と書いてありました。
忙しいのに申し訳ありません。
握手をした後で説明板を読んでしまったため、何度も握手をしてしまいました。。
●薬師のつぼ
お届け物です・・・って、ふざけた写真ですみません。。
薬師のつぼの写真がこれしかなかったのでお許しを・・・m(_ _)m
薬師のつぼには目・頭・足など体の部位が彫られていました。
どうやら身体の悪いところの部位をさすりながら薬師如来さんの真言を唱えると病気回復の御利益があるそうですよ。
その他、境内には書院・七福神石仏・弁財天祠がありました。
春日神社
●春日神社
ちなみに伊予国分寺の隣には春日神社がありました。
どうやら明治時代の神仏分離令まで、伊予国分寺と春日神社は神仏習合の形態をとっていたみたいです。
由緒によると、1050年に国分寺の第12世・雲海が伊予国分寺の鎮守として奈良・春日大社から御分霊を勧請。
そして、伊予国分寺の境内に杜殿を建立して祀ったのが始まりなんだって。
御祭神は、春日神のうちの2柱である天児屋根命と比売大神。
境内には、八幡神杜・楠本神杜・山之神杜・国分神杜の境内社がありましたよ。
そんなこんなで、参拝終了。
第60番・横峰寺へ続く。
ちなみに伊予国分寺の隣には春日神社がありました。
どうやら明治時代の神仏分離令まで、伊予国分寺と春日神社は神仏習合の形態をとっていたみたいです。
由緒によると、1050年に国分寺の第12世・雲海が伊予国分寺の鎮守として奈良・春日大社から御分霊を勧請。
そして、伊予国分寺の境内に杜殿を建立して祀ったのが始まりなんだって。
御祭神は、春日神のうちの2柱である天児屋根命と比売大神。
境内には、八幡神杜・楠本神杜・山之神杜・国分神杜の境内社がありましたよ。
そんなこんなで、参拝終了。
第60番・横峰寺へ続く。
次の札所
横峰寺の御朱印|四国霊場 第60番|伊予最大の遍路ころがし。そして伊予の関所寺|四国八十八ヶ所 車遍路の旅(愛媛県西条市)
所在地愛媛県西条市小松町石鎚2253宗 派真言宗御室派札 所・四国八十八ヶ所 第60番・四国 (東予) 七福神・大黒天前後札所・前 → 第59番札所・伊予国分寺・後 → 第61番札所・香...
御朱印情報
●御朱印の種類
・四国八十八ヶ所の御朱印
●御朱印の受付場所
・納経所
●御朱印の受付時間
・7:00~17:00
●御朱印の料金
・500円
●期間限定・特別御朱印
・なし
●オリジナル御朱印帳
・なし
・2011年5月21日 参拝
・2024年3月 最終更新
・四国八十八ヶ所の御朱印
●御朱印の受付場所
・納経所
●御朱印の受付時間
・7:00~17:00
●御朱印の料金
・500円
●期間限定・特別御朱印
・なし
●オリジナル御朱印帳
・なし
・2011年5月21日 参拝
・2024年3月 最終更新
横峰寺の御朱印|四国霊場 第60番|伊予最大の遍路ころがし。そして伊予の関所寺|四国八十八ヶ所 車遍路の旅(愛媛県西条市)
所在地愛媛県西条市小松町石鎚2253宗 派真言宗御室派札 所・四国八十八ヶ所 第60番・四国 (東予) 七福神・大黒天前後札所・前 → 第59番札所・伊予国分寺・後 → 第61番札所・香...
参拝情報とアクセス
●拝観料
・無料
●宿坊
・なし
●前後札所
・第58番札所・仙遊寺へ7.3km
徒歩1時間30分
車で15分
・第60番札所・横峰寺へ33.5km
徒歩6時間45分
車で55分
●最寄りの駅
・JR伊予富田駅から徒歩30分
・JR伊予富田駅から車で5分
●最寄りのバス停
・せとうちバス
桜井団地循環もしくは唐子台循環に乗車
国分寺 バス停で下車 徒歩3分
●最寄りのIC
・今治小松自動車道
今治湯ノ浦ICから車で10分
・西瀬戸自動車道(しまなみ海道)
今治ICから車で15分
●駐車場
・有料の専用駐車場あり(20台)
●駐車場料金
・普通車 200円
・無料
●宿坊
・なし
●前後札所
・第58番札所・仙遊寺へ7.3km
徒歩1時間30分
車で15分
・第60番札所・横峰寺へ33.5km
徒歩6時間45分
車で55分
●最寄りの駅
・JR伊予富田駅から徒歩30分
・JR伊予富田駅から車で5分
●最寄りのバス停
・せとうちバス
桜井団地循環もしくは唐子台循環に乗車
国分寺 バス停で下車 徒歩3分
●最寄りのIC
・今治小松自動車道
今治湯ノ浦ICから車で10分
・西瀬戸自動車道(しまなみ海道)
今治ICから車で15分
●駐車場
・有料の専用駐車場あり(20台)
●駐車場料金
・普通車 200円