所在地 | 山口県下関市細江町1丁目7−10 |
---|---|
宗 派 | 浄土真宗本願寺派 |
由 緒 | 1521~1528年、京都・本願寺の蓮如上人の弟子・釈正善が豊浦郡西市に創建したのが始まりといいます。その後、何度か移転。そして1732年、現在地に移転したそうです。江戸時代末期、松下村塾で高杉晋作とともに双璧といわれていた久坂玄瑞が、様々な身分からなる約50名を光明寺に集め光明寺党(有志隊)を結成。1863年、光明寺党は米船・ベンブローグに向けて砲弾を発射。この発射が攘夷決行の第一砲となったそうです。 儒学者・医者・商人・農民など様々な身分の人々で組織された光明寺党は、後に高杉晋作が結成する奇兵隊の母体となったことで知られています。 |
HP | 光明寺 浄土真宗本願寺派(西本願寺) of 光明寺 |
光明寺の説明板
本日は山口県下関市をプラプラと旅しています。
そんなこんなで、長門国分寺から大歳神社に向かって歩いてるとお寺を発見。
なんとこの光明寺は久坂玄瑞率いる光明寺党の本拠地だったお寺だという!
~画像は山口県萩市の久坂玄瑞進撃像~
ちなみに光明寺党とは、儒学者・医者・商人・農民など様々な身分の人々で結成された部隊のことです。
その部隊は、この光明寺を屯所としていたことから光明寺党と呼ばれるようになりました。
そして、この後に結成される奇兵隊の母体となった部隊でもあります。
光明寺党と攘夷戦争(下関戦争)
●光明寺党と攘夷戦争(下関戦争)
1853年、鎖国を行っていた日本に黒船が来航。
これに驚いた幕府は、各藩に対して江戸湾を警備させるために出動命令を下しました。
この命令に、最も迅速にかつ見事に対処したのが他ならぬ長州藩でした。
長州藩は黒船の来航を知ると、ただちに江戸藩邸の武器庫を開き、3門の火砲と100丁の銃で武装した500人の藩兵を編成。
幕府から出動命令が届いたときにはすでに態勢を整え、その夜のうちに大森海岸へ向かったといわれています。
長州藩は関ヶ原の戦いの敗戦で防長2国へ減封されて以来、徳川幕府へ対決意識を潜在させていました。
藩邸に武器庫を持たない藩が多い中、ただちに出動できたのは、長州藩がひたすら富国強兵の道を歩んできた1つの成果でありました。
~画像はWikipedia 日米修好通商条約より~
しかし1854年、黒船の威圧に抵抗できず日本は開国することになりました。
1858年、天皇の許可を得ず、幕府が無許可で日米修好通商条約に調印。
日米修好通商条約は日本に不利な条約だったため、日本国民は幕府と外国に不満を持ちました。
そこで外国を追っ払えという主張が広がりました。
この主張を攘夷といいます。
さらに不平等条約に調印した幕府に怒りを感じた人々に天皇中心の政治を行うべきという考えが広がりました。
それを尊王といいます。
そして尊王と攘夷が結びついて尊王攘夷という思想が生まれました。
特に尊王攘夷運動に熱心だったのが長州藩。
長州藩は明治維新の先駆けとして熱心かつ過激に尊王攘夷運動を起こしました。
1858年、井伊直弼は安政の大獄で尊王攘夷派を厳しく弾圧。
吉田松陰など多くの尊王攘夷派の志士が投獄・処刑されました。
この行き過ぎた弾圧により、井伊直弼は桜田門外の変で暗殺されました。
その後、幕府は失った信頼を取り戻すため、朝廷と協力して政治を行おうと考えました。
これを公武合体といいます。
しかし孝明天皇は攘夷派。
そんなこんなで、1863年に朝廷は幕府に攘夷を要求しました。
幕府はその年の5月10日に攘夷を行うと返答し、このことを諸藩にも通達しました。
そして攘夷決行の当日。
幕府も諸藩も攘夷を決行せず・・・。
ここで待ってましたと言わんばかりに長州藩が行動にでました。
長州藩は攘夷決行の場を下関の関門海峡と定め、藩兵を下関に集結させました。
その兵力は萩本藩から正規軍650人。
光明寺に駐屯していた久坂玄瑞率いる光明寺党50人。
長府・清末両藩から300人。
約1000人の兵が下関に集結したのでありました。
さらに、関門海峡に沿って壇ノ浦・亀山八幡宮・永福寺・専念寺・長府城山などに約25門の砲台が配置されました。
海岸には長州藩の軍艦である丙辰丸・庚申丸・壬戌丸・発亥丸の4隻が待機し、外国船への攻撃に備えました。
そして、久坂玄瑞の号令で亀山砲台(現・亀山八幡宮)から、関門海峡を航行するアメリカ船に対して砲撃を行いました。
下関戦争の始まりです!
亀山砲台から発射した砲弾は外国船に届きませんでしたが、この砲撃はまさに近代日本の幕開けを告げる一撃だったのです!
ちなみに、この攻撃では庚申丸と発亥丸が12発の砲弾を撃ち込んで3発が命中したそうです。
しかし、わずかな損傷を与えただけでした。
攘夷のことなどなんのこっちゃわからない外国船は不意をつかれたため、自衛のために数発打ち返して、足早にその場を立ち去りました。
あっけない戦いでしたが、外国船を追い払ったことで長州藩の士気は爆上がり!
この戦いはすぐに萩城下に報告され、さらに長州藩主は朝廷に報告。
そして朝廷から褒勅が与えられ、長州藩の地位は爆上がり!
この一連の流れにより、長州藩全体は興奮するのでありました。
ちなみに翌年、報復攻撃を受けて長州藩はコテンパンに打ち負かされ壊滅的な敗北を喫してしまいました。
ちなみに、下関戦争が開戦される前、総奉行は正規軍に『幕府からの指示があるまで外国船を攻撃するな』と伝えていました。
そして光明寺党にも『軽率な行動はするな』と伝えていました。
しかし光明寺党は軍議の結果、外国船を攻撃しました。
つまり下関戦争の開戦は光明寺党の独断によるものだったのです。
ちなみに下関戦争の前年、久坂玄瑞は吉田松陰の師・佐久間象山から攘夷の難しさを説かれていました。
それでもあえて攘夷を決行した久坂玄瑞。
かつて久坂玄瑞は
『私は性格が軟弱だ。しかし自分を棄ててまでするほどではないとして何もしないなら事を起こす能力がないのと同じだ』
と自らを鼓舞しています。
そんなこんなで、下関戦争の開戦、つまり明治維新への幕開けを告げた1発の砲弾は、久坂玄瑞の軟弱な性格を撃ち払う一撃でもあったのですね。
1853年、鎖国を行っていた日本に黒船が来航。
これに驚いた幕府は、各藩に対して江戸湾を警備させるために出動命令を下しました。
この命令に、最も迅速にかつ見事に対処したのが他ならぬ長州藩でした。
長州藩は黒船の来航を知ると、ただちに江戸藩邸の武器庫を開き、3門の火砲と100丁の銃で武装した500人の藩兵を編成。
幕府から出動命令が届いたときにはすでに態勢を整え、その夜のうちに大森海岸へ向かったといわれています。
長州藩は関ヶ原の戦いの敗戦で防長2国へ減封されて以来、徳川幕府へ対決意識を潜在させていました。
藩邸に武器庫を持たない藩が多い中、ただちに出動できたのは、長州藩がひたすら富国強兵の道を歩んできた1つの成果でありました。
~画像はWikipedia 日米修好通商条約より~
しかし1854年、黒船の威圧に抵抗できず日本は開国することになりました。
1858年、天皇の許可を得ず、幕府が無許可で日米修好通商条約に調印。
日米修好通商条約は日本に不利な条約だったため、日本国民は幕府と外国に不満を持ちました。
そこで外国を追っ払えという主張が広がりました。
この主張を攘夷といいます。
さらに不平等条約に調印した幕府に怒りを感じた人々に天皇中心の政治を行うべきという考えが広がりました。
それを尊王といいます。
そして尊王と攘夷が結びついて尊王攘夷という思想が生まれました。
特に尊王攘夷運動に熱心だったのが長州藩。
長州藩は明治維新の先駆けとして熱心かつ過激に尊王攘夷運動を起こしました。
1858年、井伊直弼は安政の大獄で尊王攘夷派を厳しく弾圧。
吉田松陰など多くの尊王攘夷派の志士が投獄・処刑されました。
この行き過ぎた弾圧により、井伊直弼は桜田門外の変で暗殺されました。
その後、幕府は失った信頼を取り戻すため、朝廷と協力して政治を行おうと考えました。
これを公武合体といいます。
しかし孝明天皇は攘夷派。
そんなこんなで、1863年に朝廷は幕府に攘夷を要求しました。
幕府はその年の5月10日に攘夷を行うと返答し、このことを諸藩にも通達しました。
そして攘夷決行の当日。
幕府も諸藩も攘夷を決行せず・・・。
ここで待ってましたと言わんばかりに長州藩が行動にでました。
長州藩は攘夷決行の場を下関の関門海峡と定め、藩兵を下関に集結させました。
その兵力は萩本藩から正規軍650人。
光明寺に駐屯していた久坂玄瑞率いる光明寺党50人。
長府・清末両藩から300人。
約1000人の兵が下関に集結したのでありました。
さらに、関門海峡に沿って壇ノ浦・亀山八幡宮・永福寺・専念寺・長府城山などに約25門の砲台が配置されました。
海岸には長州藩の軍艦である丙辰丸・庚申丸・壬戌丸・発亥丸の4隻が待機し、外国船への攻撃に備えました。
そして、久坂玄瑞の号令で亀山砲台(現・亀山八幡宮)から、関門海峡を航行するアメリカ船に対して砲撃を行いました。
下関戦争の始まりです!
亀山砲台から発射した砲弾は外国船に届きませんでしたが、この砲撃はまさに近代日本の幕開けを告げる一撃だったのです!
ちなみに、この攻撃では庚申丸と発亥丸が12発の砲弾を撃ち込んで3発が命中したそうです。
しかし、わずかな損傷を与えただけでした。
攘夷のことなどなんのこっちゃわからない外国船は不意をつかれたため、自衛のために数発打ち返して、足早にその場を立ち去りました。
あっけない戦いでしたが、外国船を追い払ったことで長州藩の士気は爆上がり!
この戦いはすぐに萩城下に報告され、さらに長州藩主は朝廷に報告。
そして朝廷から褒勅が与えられ、長州藩の地位は爆上がり!
この一連の流れにより、長州藩全体は興奮するのでありました。
ちなみに翌年、報復攻撃を受けて長州藩はコテンパンに打ち負かされ壊滅的な敗北を喫してしまいました。
ちなみに、下関戦争が開戦される前、総奉行は正規軍に『幕府からの指示があるまで外国船を攻撃するな』と伝えていました。
そして光明寺党にも『軽率な行動はするな』と伝えていました。
しかし光明寺党は軍議の結果、外国船を攻撃しました。
つまり下関戦争の開戦は光明寺党の独断によるものだったのです。
ちなみに下関戦争の前年、久坂玄瑞は吉田松陰の師・佐久間象山から攘夷の難しさを説かれていました。
それでもあえて攘夷を決行した久坂玄瑞。
かつて久坂玄瑞は
『私は性格が軟弱だ。しかし自分を棄ててまでするほどではないとして何もしないなら事を起こす能力がないのと同じだ』
と自らを鼓舞しています。
そんなこんなで、下関戦争の開戦、つまり明治維新への幕開けを告げた1発の砲弾は、久坂玄瑞の軟弱な性格を撃ち払う一撃でもあったのですね。
そんなこんなで、参拝開始。
境内入口と本堂
●境内入口
もともとこのお寺には1935年に建立された山門があったそうですが、1945年の太平洋戦争で焼失してしまったみたいです。
その空襲では周囲の民家が焼失。
その炎は石垣まで迫ったそうですが、久坂玄瑞ら光明寺党の浪士たちが居住した本堂は焼失を免れたそうです。
●本堂
●本堂
・1774年建立
・瓦葺 入母屋造
・本尊 阿弥陀如来立像
本堂は1774年建立。
太平洋戦争での空襲の際、焼夷弾が屋根を直撃して大きな穴が開いたそうですが、焼失を免れたという!(不発弾?)
それからしばらくトタン板で補修してしのいだそうです。
そして1996年、約60年ぶりに屋根が修理されたという。
60年間もトタン屋根でしのいだとは!
そんなことより、本堂の柱には血気盛んな光明寺党の浪士がつけた刀痕があるという!
見事に見逃して帰りましたよ!
その他、光明寺には艦首像にまつわる言い伝えが残っているそうです。
長州藩の軍艦・発亥丸は、イギリス製のランリック号を購入したものでした。
ある日、光明寺党の隊士たちが発亥丸の艦首につけられていた艦首像を切り取り、そして光明寺・本堂の階段下に置いたという。
そして本堂を出入りする度に、その艦首像を蹴とばしていたという!
いやはや、攘夷に対しての並々ならぬ意気込みを感じるエピソードですね。
もしかしたら、艦首像を蹴飛ばすことは攘夷に対する隊士の結束だったのかも知れませんね。
踏絵みたいなものだったのかも知れません。
もともとこのお寺には1935年に建立された山門があったそうですが、1945年の太平洋戦争で焼失してしまったみたいです。
その空襲では周囲の民家が焼失。
その炎は石垣まで迫ったそうですが、久坂玄瑞ら光明寺党の浪士たちが居住した本堂は焼失を免れたそうです。
●本堂
●本堂
・1774年建立
・瓦葺 入母屋造
・本尊 阿弥陀如来立像
本堂は1774年建立。
太平洋戦争での空襲の際、焼夷弾が屋根を直撃して大きな穴が開いたそうですが、焼失を免れたという!(不発弾?)
それからしばらくトタン板で補修してしのいだそうです。
そして1996年、約60年ぶりに屋根が修理されたという。
60年間もトタン屋根でしのいだとは!
そんなことより、本堂の柱には血気盛んな光明寺党の浪士がつけた刀痕があるという!
見事に見逃して帰りましたよ!
その他、光明寺には艦首像にまつわる言い伝えが残っているそうです。
長州藩の軍艦・発亥丸は、イギリス製のランリック号を購入したものでした。
ある日、光明寺党の隊士たちが発亥丸の艦首につけられていた艦首像を切り取り、そして光明寺・本堂の階段下に置いたという。
そして本堂を出入りする度に、その艦首像を蹴とばしていたという!
いやはや、攘夷に対しての並々ならぬ意気込みを感じるエピソードですね。
もしかしたら、艦首像を蹴飛ばすことは攘夷に対する隊士の結束だったのかも知れませんね。
踏絵みたいなものだったのかも知れません。
光明寺と金子みすゞ
●光明寺と金子みすゞ
残念ながら本堂の中に入ることはできませんでしたが、堂内には天人像の彫刻があるそうです。
なんと、童謡詩人・金子 みすゞさんの天人という作品は、この天人像を題材にして作った詩だという!
みすゞさんもこのお寺を参拝したのですね。
ちなみに光明寺から徒歩15分にところに金子みすゞ顕彰碑(寿公園)がありました。
さらに光明寺から徒歩20分にところには金子みすゞ詩の小径がありました。
●廣井良図顕彰碑
●廣井良図顕彰碑
・1905年建立
その他、境内には廣井良図顕彰碑がありました。
1868年、廣井良図さんは光明寺に硯湾学舎という私塾を開いたそうです。
その功績を称えて、教え子や関係者が建立したのがこの顕彰碑なんだって。
そんなこんなで、参拝終了。
本堂がドーンと建つのみの小さな境内でしたが、維新浪漫がコテ盛りに詰まったお寺さんでしたよ。
残念ながら本堂の中に入ることはできませんでしたが、堂内には天人像の彫刻があるそうです。
なんと、童謡詩人・金子 みすゞさんの天人という作品は、この天人像を題材にして作った詩だという!
みすゞさんもこのお寺を参拝したのですね。
●天人
ひとり日暮れの草山で
夕やけ雲をみてゐれば
いつか参った寺のなか
暗い欄間の彩雲に
笛を吹いてた天人の
やさしい眉をおもひ出す
きっと、私の母さんも
あんなきれいな雲のうへ
うすい衣着て舞ひながら
いま、笛吹いてゐるのだろ
夕やけ雲をみてゐれば
なんだか笛の音がする
かすかに遠い音がする
ひとり日暮れの草山で
夕やけ雲をみてゐれば
いつか参った寺のなか
暗い欄間の彩雲に
笛を吹いてた天人の
やさしい眉をおもひ出す
きっと、私の母さんも
あんなきれいな雲のうへ
うすい衣着て舞ひながら
いま、笛吹いてゐるのだろ
夕やけ雲をみてゐれば
なんだか笛の音がする
かすかに遠い音がする
ちなみに光明寺から徒歩15分にところに金子みすゞ顕彰碑(寿公園)がありました。
さらに光明寺から徒歩20分にところには金子みすゞ詩の小径がありました。
●廣井良図顕彰碑
●廣井良図顕彰碑
・1905年建立
その他、境内には廣井良図顕彰碑がありました。
1868年、廣井良図さんは光明寺に硯湾学舎という私塾を開いたそうです。
その功績を称えて、教え子や関係者が建立したのがこの顕彰碑なんだって。
そんなこんなで、参拝終了。
本堂がドーンと建つのみの小さな境内でしたが、維新浪漫がコテ盛りに詰まったお寺さんでしたよ。
御朱印情報
●御朱印の種類
・なし
●御朱印の受付場所
・なし
●御朱印の受付時間
・なし
●御朱印の料金
・なし
●期間限定・特別御朱印
・なし
●オリジナル御朱印帳
・なし
・2016年8月11日 参拝
・2022年4月 更新
・なし
●御朱印の受付場所
・なし
●御朱印の受付時間
・なし
●御朱印の料金
・なし
●期間限定・特別御朱印
・なし
●オリジナル御朱印帳
・なし
・2016年8月11日 参拝
・2022年4月 更新
参拝情報とアクセス
●開門時間
・不明
●拝観料
・無料
●最寄りの駅
・JR下関駅から徒歩15分
・JR下関駅から車で5分
●最寄りのバス停
・サンデン交通
細江 バス停で下車 徒歩2分
・サンデン交通
入江口 バス停で下車 徒歩2分
●最寄りのIC
・中国自動車道・関門自動車道
下関ICから車で12分
●駐車場
・無料の専用駐車場あり(2台)
・不明
●拝観料
・無料
●最寄りの駅
・JR下関駅から徒歩15分
・JR下関駅から車で5分
●最寄りのバス停
・サンデン交通
細江 バス停で下車 徒歩2分
・サンデン交通
入江口 バス停で下車 徒歩2分
●最寄りのIC
・中国自動車道・関門自動車道
下関ICから車で12分
●駐車場
・無料の専用駐車場あり(2台)