中山神社・愛新覚羅社の御朱印|明治維新の先駆者・中山忠光と愛新覚羅家を祀る|(山口県下関市)

所在地山口県下関市綾羅木本町7丁目10−8
祭 神中山忠光命・明治天皇・天照皇大神
由 緒1865年に創建。御祭神の中山忠光は明治天皇の叔父にあたり、幕末の動乱期に急進派の青年公卿として活躍しました。しかし1864年、20歳のときに刺客に襲われ暗殺されました。境内には中山忠光のお墓とともに、中国清朝最後の皇帝である愛新覚羅溥儀の弟・愛新覚羅薄傑と、妻で中山忠光のひ孫・浩、そして長女・慧生を祀る愛新覚羅社が鎮座しています。
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鳥居と神門と参道

●境内入口

綾羅木海岸の近くに鎮座する中山神社に到着。

この中山神社は、明治維新の先駆者であった青年公卿・中山忠光の墳墓の上に創建された神社です。

さらに愛新覚羅社には、ラストエンペラーで知られる愛新覚羅溥儀の弟・溥傑と、妻・と、長女・慧生が祀られています。


●社号標

●社号標
・1988年建立
・揮毫 愛新覚羅溥傑

まず最初に登場するのは社号標

題字は愛新覚羅溥傑さんの揮毫なんだって。

溥傑さんは書家としても知られているらしく、流水のような書体が人気とのことです。


ちなみに、こちらは溥傑さんの掛軸です。

ポップで可愛い書体ですねぇ。


●鳥居

●鳥居
・1928年建立
・明神鳥居

中山神社のザックリとした年表はこちら。

●中山神社の年表

●1865年11月
暗殺された中山忠光さんの鎮魂のため、長州藩の支藩・豊浦藩が墳墓のある場所に社殿を建立。
そして中山社と称したのが始まり。

●1875年7月
祭祀および修繕費などが官費支給となる。

●1886年2月
中山社という社号を廃して招魂社となる。
そして5月に社地を墳墓の東側500mの位置に分離

●1923年5月
社地を墳墓に隣接する現在地に移す。

●1928年5月
遷座祭を実施。
そして社号を中山神社とし県社に列した。

●1935年
別格官幣社へ昇格する機運がありましたが実現しませんでした。

●1995年
新たに明治天皇天照皇大神を祭神として祀る。


●神門(天松門)

●神門(天松門)
・1990年建立
・銅板葺 切妻造

そんなこんなで、鳥居をくぐると神門が登場。

この神門は別名・天松門と呼ばれているみたいです。


由緒によると、暗殺された中山忠光さんの遺体は綾羅木の浜の松林埋葬されたといわれています。

綾羅木の浜とは現在の綾羅木海岸のことだと思われます。

ということで、綾羅木海岸に近いこの神社は、かつて松林が広がっていたんだろうなぁ・・・とか想像しつつ。

もしかしたら天松門という名前は、におられる忠光さんと、林に埋葬された忠光さんにちなんで天と地を表したものなのかも知れませんね。


ちなみに扁額も愛新覚羅溥傑さんの書でした。


●参道

そんなこんなで、参道は松林になっていました。

この松林は綾羅木の浜の名残なのでしょうか?

はたまた故事にもとずいて植樹されたものなのでしょうか?
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拝殿と本殿と中山忠光

●拝殿

●拝殿
・1928年建立
・銅板葺 入母屋造

続いて、拝殿で参拝。

現在の社殿は、1928年に村の青年団が建立したものといわれています。


社殿の両サイドには翼殿のような建物が付属していました。

この形式は護国系の神社でよく見られるパターンです。

この神社の主祭神は人間神なので、ある意味、護国神社や招魂社の意味合いが強い神社なのかも知れませんね。


●幣殿
・1928年建立
・銅板葺 切妻造

●御饌所
・1928年建立
・銅板葺 切妻造

●回廊
・1987年建立
・銅板葺 切妻造

この社殿で特徴的なのは御饌所が設けられているところです。

この神社では、中山忠光さんの命日にあたる11月8日に栗祭・命日墓前祭が行われるそうです。

その栗祭では栗粥神饌としてお供えされるんだって。

これは田耕という地で隠居していた中山忠光さんに、地方の人がをあげて見舞うと大喜びしたことが由来といわれています。

さらに毎年8月第1土曜日には網曳祭が行われるそうです。

網曳祭では神饌としてお供えされるんだって。

これは中山忠光さんが川釣りの名人だったことが由来といわれています。


●本殿

●本殿
・1928年建立
・銅板葺 三間社流造

御祭神は中山忠光命・明治天皇・天照皇大神。

中山忠光さんは明治維新の先駆けとして活躍した公卿で、高杉晋作さんや坂本龍馬さんなどと同様、明治維新を見ずにお亡くなりになったお方です。

また明治天皇の叔父にあたるお方でもあります。

そのため、中山忠光さんと共に明治天皇と、祖神である天照皇大神が祀られています。

●中山忠光とは?

1845年、中山神社の御祭神・中山忠光さんは、大納言・中山忠能さんの第5子として誕生。

明治天皇の母・中山慶子さんは中山忠光さんのです。

そんなこんなで、中山忠光さんは明治天皇の叔父となります。


中山忠光さんは幕末動乱の時代に尊皇討幕派の最も急進的な青年公卿でした。

中山忠光さんは若いときから諸藩の志士たちと交流がありました。

特に1862年以降は、武市半平太久坂玄瑞吉村虎太郎真木和泉などの尊皇攘夷急進派と交流し、次第に公家の尊皇攘夷派の代表的な存在となっていきました。

1863年、19歳の若さで国事寄人に任じられますが、下関での攘夷戦に参加するために官位を辞し、京都を脱して下関に向かうことに。

そして、下関の豪商・白石正一郎邸に寄宿した後、久留米に向かい獄中の真木和泉救出

当時朝廷は、尊皇攘夷派公武合体派に分かれていましたが、やがて三条実美をリーダーとする尊皇攘夷派が勢力をのばしていきました。

ちなみに尊王攘夷とは、天皇を守り外国人を追っ払うことです。

公武合体とは、天皇と幕府が協力して政治を行うことです。

そんなこんなで、公武合体派の岩倉具視は尊王攘夷派の三条実美の罠にはまり、政治の世界から追いだされてしまいました。

その後も長州藩は京都で勢力をのばし、過激な活動で尊王攘夷を推し進めました。

イケイケの長州藩は、自分達の力で外国を追い払おうとして英・仏・蘭・米の連合艦隊と戦争したりもしました。(下関戦争)

しかし武力では外国に勝てない・・・

そのことを思い知った長州藩は三条実美らの根回しで孝明天皇を神武天皇のお墓などに参拝させる計画を画策しました(大和行幸の詔)

これはどういうことかというと、孝明天皇が初代天皇・神武天皇のお墓を参拝し攘夷を祈願することで、幕府も攘夷を行うしかないという状況に追い込もうとしたのです。

そして1863年に孝明天皇の大和行幸の詔が下されました。

天皇の穣夷親征が決定したことにより、一部の尊皇攘夷急進派の志士など約30名が天誅組を結成。

そして中山忠光さんが中心となり奈良県五條市で討幕の挙兵をおこしました(天誅組の変)

ところが、公武合体派の公卿たちと会津・薩摩両藩の画策により長州藩は孤立することに。
そして、一変して孝明天皇の大和行幸はとりやめとなりました。

そのことにより、尊皇攘夷派の長州藩は京都から追放され、さらに三条実美をはじめとする七卿は長州へ落ちのびることになりました(七卿落ち)

そのため、中山忠光さんを首謀とした天誅組も朝敵の汚名を受けて孤立することに。

そして彦根・紀州の幕府軍に攻められ、参謀・吉村虎太郎などが悲壮な最期を遂げました。

その後、中山忠光さんは下関に落ちのび豪商・白石正一郎邸に潜伏しましたが、長府藩により幽閉され藩内の各所を転々とすることになりました。

このころ、長州藩では本藩・支藩ともにひたすら謝罪して幕府に従うことを勧める俗論党(保守派)が勢力をのばしていました。

そんなこんなで、中山忠光さんは長州に落ちのびた三条実美などの公卿と会合して再起を伺うことに。

しかし幕府の目が厳しく、中山忠光さんは三田尻から長州・川棚・湯玉・上畑と住居を転々とすることになりました。

そして1864年、幽閉先の田耕村杣地(豊北町)で長府藩の保守派により暗殺されました。

享年20歳。

ちなみに中山忠光さんは、後に明治政府から正四位を贈られています。
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中山忠光の墓所と辞世碑

●中山忠光の墓所

●中山忠光の墓所
・国指定史跡

社殿横の小高い場所には中山忠光さんのお墓がありました。


もともと中山忠光さんの遺体は、現在地から約50km離れた下関市豊北町田耕埋葬されていたそうです。

しかし、幕府が広島で検死を行うため、遺体を掘り起こしたという。

そして広島に送るため、夜中に下関の港まで遺体を運んでいました。

しかし、輸送中に夜が明けてしまったそうです。

当時、長州・長府藩は俗論党(保守派)が勢力を伸ばすなか、尊皇攘夷派が再起のチャンスを伺っていた時代でした。
ということで、中山忠光さんの遺体が尊皇攘夷派にバレてしまうと事態がややこしくなってしまいます。
そのため人目に付くことを避けるため、やむ無く現在地に埋葬しました。


しかしその後、高杉晋作さん率いる奇兵隊が中山忠光さんの埋葬地を探し当てることに成功。
そして埋葬地に木の墓標を建てました。

その後、1865年に豊浦藩が中山忠光さんの墳墓の上に社殿を造営。

それが中山神社の始まりといいます。

ちなみに、中山忠光さんが亡くなって37日後、高杉晋作さんはクーデターを起こしました(功山寺挙兵・回天義挙)

このクーデターの成功により、再び尊王攘夷派は勢力を拡大させていくのでありました。


墓石には藤原忠光卿と書いてありました。

どうやら中山家は藤原氏の出のようです。

しかし一説によると、長州藩が中山忠光さんを埋葬したことを隠すために藤原にしたという説もあるそうです。


●中山忠光朝臣命辞世碑

●中山忠光朝臣命辞世碑
・1934年建立

中山忠光さんの墓所の入口には辞世の句が刻まれた石碑がありました。

思ひきや野田の案山子の梓弓
引きも放たで朽ちはつるとは

ちなみに揮毫は山口県出身の海軍大将・末次信正さんでした。
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愛新覚羅社

●愛新覚羅社

続いて、社殿の左側に鎮座する愛新覚羅社を参拝。

愛新覚羅社と書いてあいしんかくらしゃと読みます。


●愛新覚羅社
・1988年建立
・銅板葺 神明造
・総檜造

●御祭神
・愛新覚羅溥傑命(ふけつ)
・愛新覚羅命(ひろ)
・愛新覚羅慧生命(えいせい)

愛新覚羅社には、1994年にお亡くなりになった清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀の弟・溥傑さんと、1987年に北京市でお亡くなりになった妻・さんと、1957年にピストル心中した長女・慧生さんが祀られています。


って、なんで下関愛新覚羅さんの神社が???

実は溥傑さんの妻・さんは、中山忠光さんのひ孫にあたるお方だという。

●愛新覚羅社とは?

中山忠光さんには溺愛していた恩地トミという側女がいました。

わずか20歳で暗殺された忠光さんですが、恩地トミさんは忠光さんとの子を身ごもっていました。

その子は仲子(南加)と名づけられ、公家で華族である嵯峨侯爵家に嫁いで嵯峨実勝を生みました。

その嵯峨実勝の子がさんです。

つまり浩さんは中山忠光さんのひ孫にあたるお方です。


当時、満州国に駐屯していた関東軍は日本と満州国を結ぶ親善結婚として、満州国皇帝・愛新覚羅溥儀の弟・溥傑日本人女性との結婚を画策していました。

そこで白羽の矢が立ったのがさん。
嵯峨家には全く相談がないまま溥傑さんのに選ばれたのでありました。

そんなこんなで、溥傑さんとさんは結婚
夫婦仲は良好だったといいます。

そして溥傑さんと浩さんの間に生まれた子が長女の慧生さんです。


浩さんの死後、遺言により中山神社境内愛新覚羅社が建てられ、愛新覚羅家の3柱が祀られました。

通常、社殿は東向きまたは南向きに建てられますが、愛新覚羅社は中国大陸に向かって西向きに建てられています。

ちなみに愛新覚羅社は、溥傑・浩夫妻の海を越えた愛の深さから恋愛の神さまとして信仰を集めているそうです。


1987年、溥傑さんは義弟・嵯峨公元に伴われて来日しました。

これは中山神社の境内に建立した愛新覚羅社にさんと慧生さんの分骨を納めるための来日でした。

その後、溥傑さんは嵯峨家(神奈川県川崎市)に滞在し皇族にお礼の挨拶回りを済ませ、溥傑の次女・福永樗生さんの家で水入らずのお正月を過ごしました。

溥傑さんは『この場に浩さんが生きていてくれたなら・・・』という気持ちを片時も忘れることはなかったといいます。

1988年、溥傑さんは新幹線で下関に向かい、中山神社の鎮座祭に祭主として参列しました。


もしかしたら、境内にある溥傑さんの書は、このときの鎮座祭に合わせて作られたものかも知れません。
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愛新覚羅溥傑・浩・慧生とは?

●愛新覚羅溥傑とは?

愛新覚羅溥傑とは、ラストエンペラーで知られる清朝最後の皇帝で、後に満州国皇帝にもなった愛新覚羅溥儀です。

溥傑さんは、日本に留学し陸軍大学・陸軍士官学校を卒業。
太平洋戦争中は、満州国皇帝になった兄・溥儀を支えましたが日本は敗戦

溥儀さんと溥傑さんは、ソ連軍に捕まることを避けて日本軍機で日本へ逃亡・・・のはずが経由地の奉天の飛行場で赤軍空挺部隊に捕らえられてしまったという。。

そして、ソ連強制収容所収監されました。

その後、1950年に戦犯として中国政府に拘留されました。

しかし日本にいた娘・慧生さんが、国務院総理・周恩来に『父親と一緒に暮したい』と手紙を出したことにより釈放されました。

その後、溥傑さんは中華人民共和国 全国人民代表大会 常任委員や、全国政治協会商会議 常任委員として中国との国交回復および両国の友好に尽力しました。


1994年、溥傑さんは北京でお亡くなりになりました。

遺骨は溥傑さんの生前からの希望によってさん・慧生さんの遺骨とともに日本中国分骨されました。

ちなみに日本側の遺骨は愛新覚羅社に納められ、中国側の遺骨は3人ともに中国妙峰山上空より散骨されました。


●愛新覚羅浩とは?

愛新覚羅とは、中山神社の主祭神・中山忠光さんのひ孫にあたるお方です。

1914年、公家で華族である嵯峨侯爵家長女として誕生。

日本国と満州国を結ぶ親善結婚として愛新覚羅溥傑さんと結婚しました。

しかし、戦後は満州国の崩壊による逃避行や、文化大革命で拘束されるなど、波瀾の人生を送ることとなりました。

浩さんの死後『死んだら、中国に近く嵯峨家にゆかりのある中山神社に祀って欲しい』という遺言により、中山神社境内に愛新覚羅社が建てられ、浩さんと慧生さんの遺骨が納められました。

●愛新覚羅浩の歌碑

ちなみに、愛新覚羅社の隣には浩さんの歌を綴った石碑がありました。

中日親善の為に
ふた國の永久の
むすびの
かすがいに
なりはてたき
我がいのちかな

愛新覚羅浩


●愛新覚羅慧生とは?

愛新覚羅慧生とは、溥傑と浩さんの長女です。

1957年、学習院大学在学中に交際していた大久保武道と天城山(静岡県)でピストル心中をしてお亡くなりになりました(天城山心中)

享年19歳。

宝物殿と祖霊社

●宝物殿

●宝物殿
・1996年建立

愛新覚羅社のすぐ近くには溥傑さんやさんの遺品などを収蔵する宝物館がありました。

これらの遺品は、溥傑さんの次女・嫮生さんなどが寄進したものなんだって。


その他、宝物館には中山忠光さんの太刀を始め、天誅組ゆかりの品。

そして、伊藤博文さんを始め、山縣有朋さん・岸信介さん・佐藤栄作さん・安倍晋三さんという、山口県出身内閣総理大臣の書も拝観できました。

さらに吉田松陰さん・勝海舟さん・三条実美さん・松平慶永さんの書もありました。

とにかく内容の濃いラインナップになっていて、かなり満足度の高い宝物館となっていました!

●宝物館の拝観情報
・拝観料 志納
・開館時間 10:00〜15:00
・休館日 年中無休


●祖霊社

あと、愛新覚羅社と向き合うかたちで祖霊社が鎮座していました。


境内にはが放し飼いにされていましたよ。


そんなこんなで、参拝終了。

いやはや、素敵な神社でした。

御朱印情報

●御朱印の種類
・中山神社の御朱印

●御朱印の受付場所
・授与所(社務所)

●御朱印の受付時間
・不明

●御朱印の料金
・300円

●期間限定・特別御朱印
・なし

●オリジナル御朱印帳
・なし

・2022年3月15日 参拝
・2022年4月 更新
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参拝情報とアクセス

●開門時間
・不明

●境内拝観料
・無料

●宝物館の拝観情報
・拝観料 志納
・開館時間 10:00〜15:00
・休館日 年中無休

●最寄りの駅
・JR綾羅木駅から徒歩15分
・JR綾羅木駅から車で5分

●最寄りのバス停
・サンデン交通
 中山神社前 バス停で下車 徒歩すぐ

●最寄りのIC
・中国自動車道・関門自動車道
 下関ICから車で15分


●駐車場

●駐車場
・無料の専用駐車場あり

駐車場は境内入口の鳥居をくぐったところにありました。

中山神社の地図

 

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