所在地 | 山口県宇部市中宇部小串東1631 |
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祭 神 | ・福原元僴(福原越後)と家臣22柱 ・日清戦争・日露戦争などの戦没者 ・大東亜戦争で戦没した英霊3430柱 ・消防などの公務殉職者 |
由 緒 | 1865年、琴崎八幡宮で福原元僴(福原越後)の招魂祭を斎行したのがこの神社の始まりといいます。禁門の変(蛤御門の変)の責任をとって自刃した福原元僴と家臣22柱、日清戦争・日露戦争の戦没者、さらに大東亜戦争で戦没した英霊3430柱と消防など公務殉職者が祀られている神社です。 |
HP | 宇部護国神社(公式ホームページ) |
境内入口と鳥居
カーナビ君の指示通りに運転して迷子になるという想定外の珍事に見舞われながらも何とか宇部護国神社に到着。
宇部護国神社と書いてうべごこくじんじゃと読みます。
●境内入口
1866年、崩し山(現・維新山)に社殿を建立したのが始まりで、もともとは維新招魂社と称してしたそうです。
その後、1939年に宇部護国神社と改称。
しかし戦後、日本がGHQの占領統治下に置かれると、全国の護国神社は軍国主義施設とみなされ、社号から護国の文字を外すなど改称を余儀なくされました。
改称したほとんどの神社は、1952年のサンフランシスコ講和条約後に旧社号に復称しています。
そんなこんなで、この神社も例外にもれず維新山神社と改称した後、1953年に宇部護国神社に復称しているみたいです。
そんなこんなで、参拝開始。
●鳥居
●鳥居
・1944年建立
・神明鳥居(靖国鳥居)
まず最初に登場するのは靖国型の神明鳥居。
やはり護国系の神社には神明鳥居が似合いますねぇ。
●参道
そんなこんなで、鳥居をくぐって境内へ。
護国神社には指定護国神社と指定外護国神社があります。
どうやらこの宇部護国神社は指定外護国神社のようです。
基本的に指定外護国神社は、寂しい雰囲気が漂う小さな神社が多いですが、この宇部護国神社は指定護国神社に負けず劣らずの立派な神社でした(個人的感想)
手水舎(水琴窟)
●手水舎(水琴窟)
●手水舎
・建立年不明
・銅板葺 切妻造
そんなこんなで、手水舎でお清め。
なんと手水鉢は水琴窟になっているという!
しかも水琴窟としては日本最大級なんだと!
説明板によると、一般的に水琴窟の甕の大きさは50〜60cmくらいなんだって。
しかし、この水琴窟は高さ120cm、最大胴径80cmという特大の甕を使用しているという!
ちなみに、手水鉢は四国の青石とのことです。
そんなこんなで、水琴窟の音色を堪能♪
うぅ〜ん、良い音色♪
心が癒されますねぇ。
それにしても何だろぅ、このポーズ・・・
最近、チンパンジー化が加速してる!
●手水舎
・建立年不明
・銅板葺 切妻造
そんなこんなで、手水舎でお清め。
なんと手水鉢は水琴窟になっているという!
しかも水琴窟としては日本最大級なんだと!
説明板によると、一般的に水琴窟の甕の大きさは50〜60cmくらいなんだって。
しかし、この水琴窟は高さ120cm、最大胴径80cmという特大の甕を使用しているという!
ちなみに、手水鉢は四国の青石とのことです。
そんなこんなで、水琴窟の音色を堪能♪
うぅ〜ん、良い音色♪
心が癒されますねぇ。
それにしても何だろぅ、このポーズ・・・
最近、チンパンジー化が加速してる!
拝殿と本殿
●拝殿
●拝殿
・1955年建立
・銅瓦葺 入母屋造
続いて、拝殿で参拝。
もともとここには1944年に建立された社殿が建っていたみたいです。
しかし、その社殿は1945年の空襲で焼失。。
幸いにも御神霊は旧社殿に奉還していたため、難を免れたそうです。
その後、昭和23年頃から有志の間で社殿再建の話が盛り上がってきたという。
そんなこんなで、1953年に宇部護国神社御造営奉賛会を設立。
そして、全市民から600万円の浄財が寄せられて再建したのが現在の社殿なんだって。
拝殿には三枚花弁・桜紋の彫刻がありました。
護国の英霊を桜に例え、護国神社の多くが桜花紋を使用しています。
ちなみに、この神社は桜の名所としても知られているみたいです。
扁額には宇部護国神社の文字。
額縁にはターコイズカラーの貝殻?が埋め込まれていて、めちゃくちゃモダンな扁額となっておりました。
さらに社殿は、木造・石造・コンクリ・漆喰・ガラス・銅板という、ありとあらゆる材質が使われていました。
扁額に続き、これまたモダンな造りですねぇ。
昭和モダン特有の良い意味での怪しさに魅了されつつ、しばし社殿を観察していたひと時でした。
●本殿
●本殿
・1955年建立
・銅瓦葺 切妻造
御祭神は、長州藩を存続させるために禁門の変の責任をとって自刃した福原元僴(福原越後)と家臣22柱。
そして、日清戦争・日露戦争・大東亜戦争の戦没者と、消防などの公務殉職者。
先ほど訪れた万倉護国神社の御祭神は国司親相(国司信濃)さん。
その後訪れた天龍寺は国司氏の菩提寺。
天龍寺には国司親相(国司信濃)さんのお墓もありました。
国司親相(国司信濃)さんは、福原元僴(福原越後)とともに、禁門の変の責任をとって自刃した三家老の1人です。
そんなこんなで、本日は禁門の変の知識を強化させた1日となりました!
ちなみに、社殿前には福原元僴(福原越後)さんの銅像がありました。
●拝殿
・1955年建立
・銅瓦葺 入母屋造
続いて、拝殿で参拝。
もともとここには1944年に建立された社殿が建っていたみたいです。
しかし、その社殿は1945年の空襲で焼失。。
幸いにも御神霊は旧社殿に奉還していたため、難を免れたそうです。
その後、昭和23年頃から有志の間で社殿再建の話が盛り上がってきたという。
そんなこんなで、1953年に宇部護国神社御造営奉賛会を設立。
そして、全市民から600万円の浄財が寄せられて再建したのが現在の社殿なんだって。
拝殿には三枚花弁・桜紋の彫刻がありました。
護国の英霊を桜に例え、護国神社の多くが桜花紋を使用しています。
ちなみに、この神社は桜の名所としても知られているみたいです。
扁額には宇部護国神社の文字。
額縁にはターコイズカラーの貝殻?が埋め込まれていて、めちゃくちゃモダンな扁額となっておりました。
さらに社殿は、木造・石造・コンクリ・漆喰・ガラス・銅板という、ありとあらゆる材質が使われていました。
扁額に続き、これまたモダンな造りですねぇ。
昭和モダン特有の良い意味での怪しさに魅了されつつ、しばし社殿を観察していたひと時でした。
●本殿
●本殿
・1955年建立
・銅瓦葺 切妻造
御祭神は、長州藩を存続させるために禁門の変の責任をとって自刃した福原元僴(福原越後)と家臣22柱。
そして、日清戦争・日露戦争・大東亜戦争の戦没者と、消防などの公務殉職者。
先ほど訪れた万倉護国神社の御祭神は国司親相(国司信濃)さん。
その後訪れた天龍寺は国司氏の菩提寺。
天龍寺には国司親相(国司信濃)さんのお墓もありました。
国司親相(国司信濃)さんは、福原元僴(福原越後)とともに、禁門の変の責任をとって自刃した三家老の1人です。
そんなこんなで、本日は禁門の変の知識を強化させた1日となりました!
ちなみに、社殿前には福原元僴(福原越後)さんの銅像がありました。
福原元僴(福原越後)と禁門の変
●福原元僴(福原越後)像福原元僴さんは、江戸時代末期に活躍した長州藩の永代家老。
通称・福原越後の名で知られるお方です。
ちなみに、福原元僴と書いてふくばらもとたけと読みます。
●福原元僴(福原越後)と禁門の変
江戸時代末期、外国船、いわゆる黒船がたびたび日本の近海に現れ、江戸幕府に対して開国を要求してきました。
そんな外国船を脅威と感じた志士たちは外敵を排除するために立ち上がります。
いわゆる攘夷です。
しかし徳川幕府は外国の要求をのんで開国しちゃいました。
そして攘夷派の志士たちは弱腰政策をする幕府を非難するようになりました。
そんなこんなで、下級武士を中心に尊王攘夷運動が起こりました。
尊王攘夷を掲げた志士たちの中心にいたのが長州藩士です。
そして武士だけではなく朝廷内にも尊王攘夷派がいました。
その中心にいたのが三条実美です。
1862年、薩摩藩主・島津久光が幕府の政治を改革して公武合体運動をすすめました(文久の改革)
当然、この改革により長州藩をはじめとする尊王攘夷派との関係が悪化。
長州藩と薩摩藩の対立が深まることになりました。
一方、朝廷内でも尊王攘夷派と公武合体派の対立が起きていました。
そんなこんなで、公武合体派の岩倉具視は尊王攘夷派の三条実美の罠にはまり、政治の世界から追いだされてしまいました。
その後も長州藩は京都で勢力をのばし、過激な活動で尊王攘夷を推し進めました。
イケイケの長州藩は、自分達の力で外国を追い払おうとして英・仏・蘭・米の連合艦隊と戦争したりもしました(下関戦争)
しかし武力では外国に勝てない・・・
そのことを思い知った長州藩は三条実美らの根回しで孝明天皇を神武天皇のお墓などに参拝させる計画を画策しました(大和行幸の詔)
これはどういうことかというと、孝明天皇が初代天皇・神武天皇のお墓を参拝して攘夷を祈願することで、幕府も攘夷を行うしかないという状況に追い込もうとしたわけです。
しかし孝明天皇は過激なことばかりする長州藩と関わりたくありませんでした。
一生懸命頑張っているのに、気がつけば孤立してしまった長州藩・・・。
しかし長州藩の暴走は止まりません。
そこで動き出したのが薩摩藩と会津藩。
1863年、薩摩藩と会津藩は御所の門を封鎖し、厳重な警備の中、大和行幸の延期と三条実美らの処遇についての話し合いを行いました(八月十八日の政変)
そのことを知った三条実美と長州藩は慌てて御所に駆け付け堺町門に集結。
しかし、時すでに遅し・・・。
門を守っていた薩摩藩・会津藩とにらみ合いになりますが、さすがの長州藩も御所に向けて砲撃することはできず・・・長州藩は退去することになりました。
これにより、長州藩が握っていた朝廷内での主導権は薩摩藩と会津藩に奪われることになりました。
主導権を奪われたことに納得がいかない長州藩・・・
翌年、八月十八日の政変で京都を追われた長州藩は、イギリスと密貿易を行なっていた薩摩船を撃沈させるなど、さらに過激な行動に出ました。
一方、幕府は尊皇攘夷派を取り締まるため、新選組を設置。
これにより、幕府と尊皇攘夷派の衝突はさらに激化。
そして1864年、京都の旅館・池田屋に潜伏していた長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派が襲撃されました(池田屋事件)
これにより、長州藩の福原元僴・国司親相・益田親施の三家老などが『藩主の冤罪を帝に訴える』ことを名目に挙兵を決意。
250人を超える遊撃隊を引き連れて入京。
それを追って長州藩兵3000人が伏見・嵯峨・山崎に布陣。
しかし、朝廷は長州藩の願いを聞き入れませんでした。
そのことにより、御所の蛤御門付近で長州藩と薩摩藩・会津藩の間で武力衝突が起こりました(禁門の変・蛤御門の変)
福原元僴隊と国司親相・来島又兵衛隊は、筑前藩が守る中立売門を突破して京都御所内に侵入するなど優勢に戦っていましたが、西郷隆盛率いる薩摩藩が加勢に駆けつけたことで長州藩は敗北。
戦いは1日で決着しました。
この争いで、長州藩が撃った砲弾が御所内に着弾。
さらに長州藩主父子が国司親相に与えた軍令状が発見されたことなどにより、長州藩は朝敵になりました。
そんなこんなで、孝明天皇は長州藩主・毛利慶親の追討令を発令。
そして第一次長州征伐が行われることになりました。
ちなみに、長州藩主・毛利慶親は、12代将軍・徳川家慶から賜った慶の偏諱を剥奪され、敬親と改名。
毛利敬親の養嗣子・毛利定広も13代将軍・徳川家定から賜った定の諱を剥奪され、広封に改名。
薩摩藩と会津藩に対しての恨みは相当なものだったらしく、長州藩兵は履物に薩賊会奸などと書き、踏みつけるようにして歩いていたといわれています。
そんなこんなで、幕府は長州藩主・毛利敬親と定広に禁門の変を起こした責任を問い伏罪をさせるため、尾張藩・越前藩・西国諸藩など35藩、総勢15万人を動員し、長州藩主父子がいる山口へ向かうことを決定(第一次長州征伐)
そこで、長州藩主・毛利敬親は、朝廷・幕府との交渉を岩国藩主・吉川経幹に託しました。
吉川経幹は極秘に岩国を訪れていた第一次長州征伐の参謀・西郷隆盛らと対面。
などを条件に、第一次長州征伐は戦わずして長州藩の敗北となりました。
その後、三家老の福原元僴・益田親施・国司親相は、禁門の変の責任を取るかたちで切腹を命じられ自刃。
広島の国泰寺で、総督・徳川慶勝による三家老の首実検が行われました。
ちなみに、その後の第二次長州征伐で幕府は長州藩に敗れ、急速に明治維新に傾くのでありました。
江戸時代末期、外国船、いわゆる黒船がたびたび日本の近海に現れ、江戸幕府に対して開国を要求してきました。
そんな外国船を脅威と感じた志士たちは外敵を排除するために立ち上がります。
いわゆる攘夷です。
しかし徳川幕府は外国の要求をのんで開国しちゃいました。
そして攘夷派の志士たちは弱腰政策をする幕府を非難するようになりました。
そんなこんなで、下級武士を中心に尊王攘夷運動が起こりました。
尊王攘夷を掲げた志士たちの中心にいたのが長州藩士です。
そして武士だけではなく朝廷内にも尊王攘夷派がいました。
その中心にいたのが三条実美です。
1862年、薩摩藩主・島津久光が幕府の政治を改革して公武合体運動をすすめました(文久の改革)
当然、この改革により長州藩をはじめとする尊王攘夷派との関係が悪化。
長州藩と薩摩藩の対立が深まることになりました。
一方、朝廷内でも尊王攘夷派と公武合体派の対立が起きていました。
そんなこんなで、公武合体派の岩倉具視は尊王攘夷派の三条実美の罠にはまり、政治の世界から追いだされてしまいました。
その後も長州藩は京都で勢力をのばし、過激な活動で尊王攘夷を推し進めました。
イケイケの長州藩は、自分達の力で外国を追い払おうとして英・仏・蘭・米の連合艦隊と戦争したりもしました(下関戦争)
しかし武力では外国に勝てない・・・
そのことを思い知った長州藩は三条実美らの根回しで孝明天皇を神武天皇のお墓などに参拝させる計画を画策しました(大和行幸の詔)
これはどういうことかというと、孝明天皇が初代天皇・神武天皇のお墓を参拝して攘夷を祈願することで、幕府も攘夷を行うしかないという状況に追い込もうとしたわけです。
しかし孝明天皇は過激なことばかりする長州藩と関わりたくありませんでした。
一生懸命頑張っているのに、気がつけば孤立してしまった長州藩・・・。
しかし長州藩の暴走は止まりません。
そこで動き出したのが薩摩藩と会津藩。
1863年、薩摩藩と会津藩は御所の門を封鎖し、厳重な警備の中、大和行幸の延期と三条実美らの処遇についての話し合いを行いました(八月十八日の政変)
そのことを知った三条実美と長州藩は慌てて御所に駆け付け堺町門に集結。
しかし、時すでに遅し・・・。
門を守っていた薩摩藩・会津藩とにらみ合いになりますが、さすがの長州藩も御所に向けて砲撃することはできず・・・長州藩は退去することになりました。
これにより、長州藩が握っていた朝廷内での主導権は薩摩藩と会津藩に奪われることになりました。
主導権を奪われたことに納得がいかない長州藩・・・
翌年、八月十八日の政変で京都を追われた長州藩は、イギリスと密貿易を行なっていた薩摩船を撃沈させるなど、さらに過激な行動に出ました。
一方、幕府は尊皇攘夷派を取り締まるため、新選組を設置。
これにより、幕府と尊皇攘夷派の衝突はさらに激化。
そして1864年、京都の旅館・池田屋に潜伏していた長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派が襲撃されました(池田屋事件)
これにより、長州藩の福原元僴・国司親相・益田親施の三家老などが『藩主の冤罪を帝に訴える』ことを名目に挙兵を決意。
250人を超える遊撃隊を引き連れて入京。
それを追って長州藩兵3000人が伏見・嵯峨・山崎に布陣。
しかし、朝廷は長州藩の願いを聞き入れませんでした。
そのことにより、御所の蛤御門付近で長州藩と薩摩藩・会津藩の間で武力衝突が起こりました(禁門の変・蛤御門の変)
福原元僴隊と国司親相・来島又兵衛隊は、筑前藩が守る中立売門を突破して京都御所内に侵入するなど優勢に戦っていましたが、西郷隆盛率いる薩摩藩が加勢に駆けつけたことで長州藩は敗北。
戦いは1日で決着しました。
この争いで、長州藩が撃った砲弾が御所内に着弾。
さらに長州藩主父子が国司親相に与えた軍令状が発見されたことなどにより、長州藩は朝敵になりました。
そんなこんなで、孝明天皇は長州藩主・毛利慶親の追討令を発令。
そして第一次長州征伐が行われることになりました。
ちなみに、長州藩主・毛利慶親は、12代将軍・徳川家慶から賜った慶の偏諱を剥奪され、敬親と改名。
毛利敬親の養嗣子・毛利定広も13代将軍・徳川家定から賜った定の諱を剥奪され、広封に改名。
薩摩藩と会津藩に対しての恨みは相当なものだったらしく、長州藩兵は履物に薩賊会奸などと書き、踏みつけるようにして歩いていたといわれています。
そんなこんなで、幕府は長州藩主・毛利敬親と定広に禁門の変を起こした責任を問い伏罪をさせるため、尾張藩・越前藩・西国諸藩など35藩、総勢15万人を動員し、長州藩主父子がいる山口へ向かうことを決定(第一次長州征伐)
そこで、長州藩主・毛利敬親は、朝廷・幕府との交渉を岩国藩主・吉川経幹に託しました。
吉川経幹は極秘に岩国を訪れていた第一次長州征伐の参謀・西郷隆盛らと対面。
①禁門の変の責任者である三家老(福原元僴・国司親相・益田親施)を処分。
②長州藩主父子の謝罪状を提出。
③八月十八日の政変で長州に逃げ込んだ5人の公卿を太宰府へ移居させる。
④山口城を破棄する。
②長州藩主父子の謝罪状を提出。
③八月十八日の政変で長州に逃げ込んだ5人の公卿を太宰府へ移居させる。
④山口城を破棄する。
などを条件に、第一次長州征伐は戦わずして長州藩の敗北となりました。
その後、三家老の福原元僴・益田親施・国司親相は、禁門の変の責任を取るかたちで切腹を命じられ自刃。
広島の国泰寺で、総督・徳川慶勝による三家老の首実検が行われました。
ちなみに、その後の第二次長州征伐で幕府は長州藩に敗れ、急速に明治維新に傾くのでありました。
万倉護国神社(万倉招魂場)の御朱印|国司信濃を始め禁門の変・四境戦争の戦没者を祀る(山口県宇部市)
住 所山口県宇部市大字西万倉496祭 神・国司親相(信濃)・禁門の変、四境戦争、西南戦争、日清戦争、日露戦争、大東亜戦争などで戦没した英霊204柱由 緒1866年、国司家当主・国司純行が、国司家の...
金家来神社
●金家来神社
続いて、境内社の金家来神社を参拝。
金家来神社と書いてかなやごじんじゃと読みます。
この神社は、2018年に島根県安来市の金屋子神社から金屋子神を勧請したのが始まりなんだって。
金屋子神は、日本のたたら製鉄の生みの親。
金運招福・魔除け・五殻農穣・産業発展の神様として崇敬されています。
また、悪縁断絶や貧乏縁を断ち切って金運や幸福を招くという御利益もあるみたいです。
そしてなんと!
金を生み出す神様ということで、社殿内は黄金に仕上げられているという!
さらに神前には太刀。
天井には雲龍図があるという。
なんだかお殿様がいそうな社でしたよ。
護国神社においてここまで贅沢なお社はなかなか珍しいんじゃないかと!
そんなこんなで、参拝終了。
いやはや、素敵な神社でした。
続いて、境内社の金家来神社を参拝。
金家来神社と書いてかなやごじんじゃと読みます。
この神社は、2018年に島根県安来市の金屋子神社から金屋子神を勧請したのが始まりなんだって。
金屋子神は、日本のたたら製鉄の生みの親。
金運招福・魔除け・五殻農穣・産業発展の神様として崇敬されています。
また、悪縁断絶や貧乏縁を断ち切って金運や幸福を招くという御利益もあるみたいです。
そしてなんと!
金を生み出す神様ということで、社殿内は黄金に仕上げられているという!
さらに神前には太刀。
天井には雲龍図があるという。
なんだかお殿様がいそうな社でしたよ。
護国神社においてここまで贅沢なお社はなかなか珍しいんじゃないかと!
そんなこんなで、参拝終了。
いやはや、素敵な神社でした。
御朱印情報
●御朱印の種類
・宇部護国神社の御朱印
・金家来神社の御朱印
●御朱印の受付場所
・社務所(授与所)
●御朱印の受付時間
・不明
※宮司さんが不在の場合あり
●御朱印の料金
・無料
●期間限定・特別御朱印
・なし
●オリジナル御朱印帳
・なし
・2018年4月19日 参拝
・2023年1月 更新
・宇部護国神社の御朱印
・金家来神社の御朱印
●御朱印の受付場所
・社務所(授与所)
●御朱印の受付時間
・不明
※宮司さんが不在の場合あり
●御朱印の料金
・無料
●期間限定・特別御朱印
・なし
●オリジナル御朱印帳
・なし
・2018年4月19日 参拝
・2023年1月 更新
参拝情報とアクセス
●開門時間
・境内自由
●拝観料
・無料
●最寄りの駅
・JR宇部新川駅から徒歩35分
・JR宇部新川駅から車で10分
●最寄りのバス停
・宇部市交通局
宗隣寺上 バス停から徒歩6分
・宇部市交通局
小羽山入口 バス停から徒歩7分
●最寄りのIC
・山陽自動車道
宇部ICから車で10分
●駐車場
・無料の専用駐車場あり(約20台)
・境内自由
●拝観料
・無料
●最寄りの駅
・JR宇部新川駅から徒歩35分
・JR宇部新川駅から車で10分
●最寄りのバス停
・宇部市交通局
宗隣寺上 バス停から徒歩6分
・宇部市交通局
小羽山入口 バス停から徒歩7分
●最寄りのIC
・山陽自動車道
宇部ICから車で10分
●駐車場
・無料の専用駐車場あり(約20台)