万倉護国神社の御朱印~山口県宇部市大字西万倉496~

都道府県別
住 所山口県宇部市大字西万倉496
祭 神主祭神は国司親相(信濃)・その他、禁門の変・四鏡戦・西南戦争・日清戦争・日露戦争・大東亜戦争などで戦没した英霊204柱
由 緒1866年、国司家当主・国司純行が、国司家の練兵場に父・国司親相(信濃)の招魂墓を建てたのが始まり。その後、禁門の変(蛤御門の変)と四鏡戦の戦没者27人が合祀されました。1874年、官祭となり垰招魂社と呼ばれました。1939年、万倉護国神社となりました。
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禁門の変や四鏡戦などの戦没者を祀る神社

●今日の平和は、私達の為に犠牲となり尊い命を捧げられた英霊様によるものと深く感謝。

主祭神は国司親相(信濃)。
その他、禁門の変・四鏡戦・西南戦争・日清戦争・日露戦争・大東亜戦争などで戦没した 英霊204柱が祀られてます。拝殿内には英霊の写真がズラーと掲げられてました。

社殿は拝殿・本殿ともに神明造。本殿は台座部分に板が張られており、一見ノッポな造りに見えますが、おそらく板張りの向こうには石積みの台座があると思われます。
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国司親相(信濃)像

●国司親相(信濃)とは

江戸時代末期に活躍した武士で長州藩の重臣です。 1863年、久坂玄瑞らと共に下関海峡で長州藩初の攘夷実行として アメリカ船・ペングローブの砲撃を指揮しました。 この功績により国司親相は下関防備総奉行に任じられますが、 長州藩は八月十八日の政変で京都から追放され、七興落ちとなりました。 その後、池田屋事件で吉田稔麿が命を落とすと、 久坂玄瑞・益田親施・福原元僴・来島又兵衛らと共に軍勢を率いて京都に上洛し 禁門の変が起こりました。しかし長州藩は惨敗・・・長州に撤退することとなりました。 その後、第一次長州征伐が起こります。幕府の参謀・西郷隆盛が和睦の条件として 国司親相ら三家老の切腹を命じました。 そして国司親相は徳山・澄泉寺にて切腹。 首は塩漬けにされて広島・国泰寺にて首実検が行われました。 1888年、国司親相の御霊は靖国神社に合祀されました。
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社殿の横には万倉招魂場があります

●社殿横には万倉招魂場の墓碑がズラリ

1867年、国司家の菩提寺・天龍寺の向かいにある国司家の練兵場に、国司親相の招魂墓を建てたのが万倉招魂場の始まり。そして2006年、現在地に墓碑を移し万倉招魂場と改称しました。

社殿横には約200の墓碑が建ち並んでます。そのうち19の墓碑が禁門の変の戦没者らしいです。
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その他の見所

●奉納砲弾・・・縦向きじゃなく横向きの奉納弾ってちょっと珍しいと思いました。

●井上幾太郎像・・・井上幾太郎は明治~昭和時代に活躍した日本陸軍の軍人。万倉出身で、陸軍大将にまで上り詰めた人らしいです。

●国司公顕彰碑・・・1892年建立

●鳥居・・・1945年建立 神明鳥居(靖国鳥居)
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御朱印

御朱印は宮尾八幡宮で頂きました。

万倉護国神社は宮尾八幡宮の兼務社です。

万倉護国神社の地図

 

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