泉岳寺の御朱印|赤穂浪士は本当に義士だったのか!?(東京都港区)

所在地東京都港区高輪2丁目11−1
宗 派曹洞宗
由 緒1612年、徳川家康が幼少期に人質として身を寄せていた今川義元の菩提を弔うため、江戸城に近接する外桜田に創建したのが始まり。しかし1641年に寛永の大火で焼失。その後、1604〜1651年に江戸幕府3代将軍・徳川家光の命により現在地に移転再建したそうです。この移転の際、毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷の5大名が尽力して完成したことにより、以後5大名は檀越となり外護の任に当ったという。ちなみに浅野家と泉岳寺との付き合いはこの時が始まり。1702年12月14日の吉良邸への討ち入り、いわゆる赤穂事件以降は多くの参拝者が訪れるようになり、現在でも国内外から参拝者を集める東京屈指の人気のお寺となっております。
HP曹洞宗 江戸三ヶ寺 萬松山 泉岳寺
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泉岳寺とは?

●境内入口

浅野内匠頭ならびに赤穂浪士の墓所がある泉岳寺に到着。

このお寺の正式名称は萬松山 泉岳寺

萬松山 泉岳寺と書いてばんしょうざん せんがくじと読みます。


泉岳寺といえば、なんといっても忠臣蔵!

赤穂浪士!

しかし徳川家康今川義元ゆかりのお寺ということはあまり知られていません。

実はこのお寺は、1612年に徳川家康さんが幼少期に人質として身を寄せていた今川義元さんの菩提を弔うため、江戸城に近接する外桜田に創建したのが始まり。

ということで、開山は今川義元の孫といわれる門庵宗関和尚なんだって。

●山号の由来
山号の萬山はの松は徳川の前身・平氏の松なんだとか。

ほんでもって『松萬代に栄ゆる』という意味から萬松山と名付けられたんだって。

おそらく松平家(徳川家)は永久に栄えるという意味?

●寺号の由来
寺号の泉岳寺は、徳川にちなみ『源の泉、海岳に溢るる』という意味なんだとか。

おそらく源の泉の源とは徳川のルーツである源氏を意味しているのだと思われます。

海岳とは海や山のように深くて大きい恩恵という意味です。

ということで、徳川家康からの恩恵はめっちゃ溢れてる・・・という意味?

と言われても、泉岳寺 = 徳川というイメージが湧かない・・・

やはり泉岳寺は赤穂浪士なのだ!(笑)


お寺が現在地に移転してきたのは1604〜1651年。

当時の泉岳寺は現在の3倍近い寺領を有していたという。

さらに学寮だけでも9棟あり、約200人の学僧が修行してたんだって。

そんなこんなで、参拝開始。
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中門と大石内蔵助良雄銅像

●中門

●中門
・1836年再建
・1932年大修理
・銅板葺 切妻造 四脚門
・港区登録有形文化財

まず最初に登場するのは中門

・・・って、いきなり中門!?

どうやら、もともと泉岳寺には総門中門山門という3つの門があったみたいです。

しかし総門はなくなり、中門と山門だけが残ったんだって。

という理由から一発目に登場するのが中門というわけなんですね〜。


中門は一間一戸の四脚門。

両サイドに袖塀が付いていて、向かって右側は通用門と番小屋がありました。


下り棟には泉。

そして大棟には大内内蔵助の家紋・右二つ巴紋と、ドアノッカーのような輪っかがありました。


扁額には萬松山と書かれておりました。

どうやらこちらは中国明時代の禅僧・為霖道霈の筆のようです。


ちなみに、この中門は港区の有形文化財登録されてるんだって。

調べてみると、港区の文化財には港区指定文化財と港区登録文化財があるみたい。

この中門は指定ではなく登録文化財のようです。


そんなこんなで、中門をくぐって境内へ。


●大石内蔵助良雄銅像

●大石内蔵助良雄銅像
・1921年寄進

すると大石内蔵助さんの銅像がお出迎えしてくれました。

この銅像は浪曲の宗家・桃中軒雲右衛門さんの発願により鋳造されたものなんだって。

鋳造後、所有が転々としていましたが泉岳寺に寄進され、1921年に除幕されたんだとか。


元禄羽織を着た大石内蔵助さんが、連判状を手にして東の空(江戸方向)をじっとにらんでいる姿を表したものらしいです。

ちなみに大石内蔵助さんは赤穂藩のナンバー2

忠臣蔵の主人公で、吉良邸討ち入りのリーダーです。
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山門

●山門

●山門
・1832年再建
・瓦葺 入母屋造
・三間一戸 二重門
・港区登録有形文化財

続いて、山門が登場。

この山門は1832年に再建されたもので、中門同様、港区の有形文化財登録されています。


ネットの情報によると、2階部分には十六羅漢が安置されてるんだって。

ほんでもって、1階部分の天井には江戸三龍の1つである銅彫大蟠龍がはめ込まれている・・・とのことですが、見事に見逃して帰りました!


木鼻は禅宗様。

その他、柱の粽や饅頭型の礎盤や四半敷にも禅宗様の特徴を確認することができました。


扁額には泉岳寺と書かれておりました。

この文字は晋唐の墨跡研究者・大野約庵の揮毫なんだとか。
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本堂と鐘楼と澤木興道老師像

●本堂

●本堂
・1953年再建
・瓦葺 入母屋造

続いて、本堂で参拝。

旧本堂は第二次世界大戦の空襲で消失。

現在の本堂は1953年に再建されたものなんだって。


御本尊は釈迦牟尼仏

その他、曹洞宗の宗祖・道元禅師瑩山禅師、そして大石内蔵助さんの守り本尊である摩利支天(秘仏)などが安置されてるんだって。

摩利支天は実体がない、もしくは見えないといわれているためか小さい像が多く、大石内蔵助さんは討ち入りの際に(まげ)の中に摩利支天の小像を入れていたそうです。

その他、楠木正成さんや足利尊氏さん毛利元就さんや徳川家康さんなどの武将たちも、摩利支天の尊像や旗印とともに合戦に出陣したといわれています。


木鼻は象と獅子。

蟇股は五三の桐でした。


●扁額
・1819年作
・中将源齊宣 書

扁額には獅子吼と書かれておりました。

調べてみると、獅子吼とはお釈迦様の説法のことなんだとか。

ちなみに獅子吼の文字は中将源齊宣さんの揮毫とのこと。

中将源齊宣とは薩摩藩9代藩主・島津斉宣さんのことで、天璋院篤姫の祖父として知られるお方です。


●鐘楼

●鐘楼
・建立年不明
・瓦葺 入母屋造

●梵鐘
・1913年鋳造

本堂左横の一般参拝者立入禁止エリアには鐘楼がありました。

ちなみに江戸時代〜明治時代まで使われていた梵鐘は、現在ウィーンの国立民族博物館に所蔵されているそうです。


●澤木興道老師像

さらに、本堂の左横には澤木興道というお方の銅像がありました。

説明板によると、仏法の究極である坐禅をもって生涯を貫いた20世紀にもっとも活躍した禅僧の1人とのこと。
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赤穂義士墓所と赤穂事件

●赤穂義士墓所 入口

続いて、赤穂浪士のお墓がある赤穂義士墓所へ。

ちなみに、赤穂浪士とは播磨赤穂藩に属していた大石内蔵助をはじめとする47名の藩士のことです。

赤穂藩は赤穂事件によってお家取り潰しとなってしまいます。

そのため、藩士ではなく浪士という言い方になっています。

赤穂浪士は主君への忠義を讃えられ、その死後に赤穂義士と呼ばれるようになりました。

昔は年末になると毎年のように忠臣蔵のドラマが放送されていたけど、最近はテレビで見なくなったなぁ~。

コントでも見なくなった。


忠臣蔵とは江戸時代中期に起こった赤穂事件をもとにした物語なんだけど、忠臣蔵と赤穂事件はちょっと違うんだ。

●忠臣蔵と赤穂事件

忠臣蔵とは、元禄赤穂事件を題材とした歌舞伎または人形浄瑠璃における演目の1つ・仮名手本忠臣蔵の通称です。

そんなこんなで、元禄赤穂事件を元にした創作が忠臣蔵というわけなんだ。

ほんでもって、江戸時代にあった実際の事件のことを赤穂事件と呼ぶんだ。


●ザックリと簡単に赤穂事件とは?

1702年3月14日。

この日は江戸城で朝廷からの使者(勅使)を返礼する儀式が行われており、幕府にとってとっても大切な日でした。

勅使たちの接待役を務めていたのが赤穂藩主・浅野内匠頭さんです。

そう、赤穂浪士たちの主君です。

当時、浅野内匠頭さんは35歳。
短気キレやすい性格として知られています。

そして儀式の礼儀作法の指導役だったのが吉良上野介さんです。

当時、吉良上野介さんは61歳。
名門・吉良家は幕府高家筆頭の家柄。
吉良上野介さんは、とても近寄り難く態度や行いがちょっと嫌味に感じるタイプの人だったみたい。


浅野内匠頭さんと吉良上野介さんとの間で何があったのかは謎ですが、江戸城本丸の松の廊下で浅野内匠頭さんが吉良上野介さんを小刀で斬りつける事件が起きてしまいました。

吉良上野介さんは眉間と背中を切られるも傷は浅く軽傷ですみました。

そして浅野内匠頭さんは居合わせた者に取り押さえられることに。

この出来事に激怒したのが江戸幕府5代将軍・徳川綱吉さん。

事件があった松の廊下は儀式を行う白書院に通じており、重大な儀式を血で穢されたことが許せませんでした。

その後、儀式は場所を変えて行われましたが、徳川綱吉さんの怒りは収まらず、その日のうちに浅野内匠頭さんは切腹を命じられることに。

そして赤穂浅野家はお家取り潰しとなりました。

対する吉良上野介さんはというとおとがめなし

当時は喧嘩が起きた場合は両者に非がある、いわゆる喧嘩両成敗という慣習があったのですが、徳川綱吉さんの独断で浅野内匠頭さんを加害者(切腹)、吉良上野介さんを被害者(おとがめなし)とし、非常に不平等な裁定を下しました。


さらに浅野内匠頭さんは藩主であるにも関わらず、切腹は屋敷内でなく田村屋敷の庭先で行われることに。

これは流石に大名にふさわしくないと反対意見が出ましたが将軍の命令なので逆らえず。。

そして無念の最後を遂げた浅野内匠頭さんの亡骸は、家臣により田村屋敷から運び出され高輪の泉岳寺に葬られました。

ちなみに、なぜ浅野内匠頭さんは吉良上野介さんを斬りつけたのか・・・それは今もです。

一般的によく言われるのは、吉良上野介さんに賄賂を渡していなかったからとか、様々な嫌がらせパワハラを受けていたからとか、嘘の指導をして浅野内匠頭さんが恥をかいたとか、をめぐるトラブルなど、様々な説がありますが、詳しい取り調べもないまま浅野内匠頭さんはその日のうちに切腹したため斬りつけた動機はわからず・・・。

さらに吉良上野介さんも『身に覚えがない』と黙秘したため真相はいまだ闇の中です。


吉良上野介さんに何の罰も与えられなかったこと、そして赤穂藩のお家取り潰しという結果に納得ができない赤穂藩士たちは、藩主の無念を晴らすために赤穂藩のお家取り潰し撤回と赤穂浅野家再興の運動を行います。

しかし思うようにいかず。。

この頃、江戸では『浅野の侍はいつ吉良邸に討ち入るのか』といったが流れていました。

そうこうしていると吉良上野介さんの息子が、養子に入っている上杉家に引き取られる可能性が出てきました。

上杉家が相手となると討ち入りが困難になる・・・

さらに幕府の命により浅野内匠頭さんの弟・浅野大学さんが広島藩の浅野本家にお預けとなりました。

これで浅野大学さんを立てて赤穂浅野家を再興するという計画も消えました。


そんなこんなで赤穂藩の筆頭家老・大石内蔵助さんが中心となり会議を開くことに。

その結果、主君の仇討ちとして吉良上野介さんを討ち取ることを決めたのでした。

赤穂事件の始まりです!(やっと)


吉良邸への討ち入りは1702年12月14日に決定。

この日は主君・浅野内匠頭さんの命日です。

きっと浪士達は不思議な因縁を感じたことでしょう。

そんなこんなで、大石内蔵助さんを筆頭にした47人の浪士たちは吉良邸に討ち入り!

まったくの無防備だった吉良側はほとんど抵抗できず。

この事件で吉良側は屋敷にいた約150人のうち45人が死傷。

一方、大石側は2人が負傷しただけで死者は0人でした。

そして約2時間後、炭小屋に隠れていた吉良上野介さんを発見し、討ち取りました。


その後、浪士たちは泉岳寺にある浅野内匠頭の墓前に吉良上野介さんのを供えました。


赤穂浪士たちは死罪助命か・・・

世論は助命の声が大きく、さらに幕府内でも意見が分かれました。

しかし仇討ちはであるが、今回の事件は徒党を組んで暴挙に至った復讐と判断され切腹という処分が下されました。

そんなこんなで1703年2月4日、大石内蔵助以下赤穂浪士46人は、それぞれ預けられた屋敷で全員切腹

こうして赤穂事件は幕を閉じました。




事件後、赤穂浪士の行為は美談として語られたため、一般的な物語では浅野内匠頭さんが善人で吉良上野介さんが悪人とされていますが、近年は実は美談ではなかったんじゃないの?と指摘されているという!

現代の価値観で当時のことを考察するのはナンセンスですが、江戸城内で浅野内匠頭さんがキレて傷害事件

その後、47人もの失業者が老人相手に集団殺人事件を起こすという、結構無茶苦茶な出来事だったりします。


~画像はWikipedia 泉岳寺より~

しかも、一般的な物語では吉良邸への討ち入りは亡き主君の無念を晴らすための仇討ちといわれていますが、討ち入りの目的は仇討ちではなく別の目的があった・・・という可能性があるという!

その目的とは何なのか?

それは再就職!

浪士とは浪人、つまり失業者です。

浅野家が取り潰されて行き場をなくしてしまった浪士(失業者)が、派手なパフォーマンスをして注目を浴びることで再就職が楽になる。

つまり就職活動の一環として派手な討ち入りを行なったという説があるみたいです。

もはや

見てきたものや聞いたこと♪

今まで覚えた全部♪

デタラメだったら面白い♪

そんな気持ちわかるでしょ♪

by 情熱の薔薇(ザ・ブルーハーツ)

の世界です。


●義士墓入口の門

●義士墓入口の門
・建立年不明
・明治時代移築
・瓦葺 切妻造 薬医門
・港区登録有形文化財

赤穂義士墓所入口の門は、もともと浅野家の鉄砲州上屋敷(現・聖路加病院)の裏門だったんだって。

それを明治時代に移築したものが現在の義士墓入口の門なんだと。


ちなみに、中門・山門同様、この門も港区の有形文化財登録されています。


門をくぐると、ほぼオートマチックにお線香を購入することになります(300円)。

お線香代を払わないとお墓参りをさせてくれないという!

しかもとんでもない本数!(笑)


お寺の方がおっしゃるには1つのお墓に1本か2本ずつお供えして下さいとのこと。

赤穂浪士のお墓は48基。

プラス、主君・浅野内匠頭さんをはじめ浅野内匠頭さんの正室・阿久利姫などのお墓があります。

それぞれのお墓に2本ずつお線香をお供えして、最後の方になって『お線香が足りな〜い』ってことにならないのか!?

もしそうなってしまったら・・・その時はその時に考えよう(笑)


そんなこんなで、参拝開始。


●浅野内匠頭のお墓

まずは主君・浅野内匠頭さんのお墓参り。

吉良邸へ討ち入った後、赤穂浪士は主君・浅野内匠頭さんの墓前で仇討ちの成功を報告

そして墓前に吉良上野介さんのを供えたという。

その場所がここ!


●阿久利姫のお墓

続いて、浅野内匠頭さんの正室・阿久利姫のお墓参り。

阿久利姫は広島の三次藩初代藩主浅野長治さんの娘です。


以前、参拝した広島県三次市の鳳源寺には阿久利姫の遺髪塔がありました。

阿久利姫は夫・浅野内匠頭さんが切腹した後、剃髪して夫の菩提を弔ったそうです。


さらに鳳源寺には阿久利姫が嫁入りする際に大石内蔵助さんが植えたがありました。

その他、赤穂浪士47名の木像が安置された義士堂もありました。


●赤穂義士のお墓

続いて、赤穂浪士のお墓参り。

赤穂浪士の墓所には48基のお墓があります。

って、48基!?

赤穂浪士って47名じゃなかったっけ?

実は赤穂浪士47名のお墓の他に、吉良邸討ち入りを熱望したものの周囲の反対に遭い、討ち入り前に切腹した萱野三平さんの供養墓があるという。

だから48基なんですね。


赤穂浪士は討ち入り後に4家に預けられ、裁きの結果を待ちました。

しかし結果は切腹。。

赤穂浪士の亡骸は直ちに主君・浅野内匠頭さんが眠る泉岳寺へ運ばれて埋葬されました。

そういった経緯からか、赤穂浪士のお墓は預け先によってブロック分けさられていました。

●細川家御預け(17名)
・大石内蔵助
・吉田忠左衛門
・原惣右衛門
・片岡源五右衛門
・間瀬久太夫
・小野寺十内
・間喜兵衛
・礒貝十郎左衛門
・堀部弥兵衛
・近松勘六
・富森助右衛門
・潮田又之丞
・早水藤左衛門
・赤埴源蔵
・奥田孫太夫
・矢田五郎右衛門
・大石瀬左衛門

●松平家御預け(10名)
・大石主税
・堀部安兵衛
・中村勘助
・菅谷半之丞
・不破数右衛門
・木村岡右衛門
・千馬三郎兵衛
・岡野金右衛門
・貝賀弥左衛門
・大高源五
※萱野三平(供養墓)

●毛利家御預け(10名)
・村松喜兵衛
・杉野十平次
・勝田新左衛門
・前原伊助
・小野寺幸右衛門
・岡島八十右衛門
・吉田沢右衛門
・武林唯七
・倉橋伝助
・間新六

●水野家御預け(9名)
・神崎与五郎
・三村次郎左衛門
・横川勘平
・茅野和助
・間瀬孫九郎
・村松三太夫
・矢頭右衛門七
・奥田貞右衛門
・間十次郎
※寺坂吉右衛門(供養墓)


こちらは大石内蔵助さんのお墓です。

さすが赤穂藩ナンバー2!

さすが忠臣蔵の主人公!

大石内蔵助さんのお墓には屋根があり、格の違いを感じました。


こちらは大石内蔵助さんの長男・大石主税さんのお墓と十三回忌碑です。

大石主税さんは16歳の若さで切腹しました。


ちなみに十三回忌碑は頭が欠損した亀趺でした。


こちらは生涯3度の仇討ちをしたことで有名な堀部安兵衛さんのお墓です。


こちらは赤穂事件唯一の生き残りである寺坂吉右衛門さんの供養墓です。

寺坂吉右衛門さんは討ち入り前に姿を消しています。

なぜ姿を消したのか?

・討ち入り直前に逃げた説。

・大石内蔵助さんから国元へ守備を報告せよという密命を命じられたため隊から離れた説。

・主君の仇討ちに足軽である寺坂吉右衛門さんが参加していたら建前的にマズくなるので逃げるように命じられた説。

ちなみに寺坂吉右衛門さんのお墓は麻布の曹渓寺にあります。


立って座って拝んで・・・
立って座って拝んで・・・
立って座って拝んで・・・

48回のスクワット参拝・・・

正直、しんどい・・・(笑)

これはある意味スポーツ!


安らかにお眠りください。

血染めの梅 血染めの石・首洗い井戸・瑤池梅など

●血染めの梅 血染めの石

赤穂義士墓所の入口には、いくつかの赤穂事件にまつわる史跡がありました。

まずは最初に紹介するのはこちら。

血染めの梅 血染めの石というおどろおどろしいネーミングの梅と石。

なんとこちら、浅野内匠頭さんが田村右京大夫邸の庭先で切腹した際に、そのがかかったと伝えられている梅と石なんだとか!


●首洗い井戸

続いて紹介するのはこちら。

これまたおどろおどろしいネーミング・・・

なんとこちら、吉良上野介さんの首を洗った井戸なんだとか!

ここで首を洗ったあと、浅野内匠頭さんの墓前にお供えしたというわけだ。


●首洗い井戸の石標
・1917年建立

首洗い井戸の石標は大正6年12月15日に建立されたものでした。

吉良邸への討ち入りは1702年12月14日

12月14日ではなく1日遅れの12月15日に建立したのは何か意味があるのでしょうか?


●首洗い井戸の玉垣
・1917年建立

ちなみに玉垣は大正6年11月に建立されたものでした。


●瑤池梅

続いて紹介するのはこちら。

こちらは赤穂浪士の墓守をしていた堀部妙海法尼が、浅野内匠頭さんの正室・阿久利姫(瑤泉院)から賜った鉢植えの梅を移植したものなんだって。

その他、大石内蔵助の長男・大石主税が切腹した松平隠岐守三田屋敷に植えられていた主税梅がありました。


●水琴窟

赤穂義士墓所の入口には水琴窟がありました。


うぅ~ん、良い音色♪

って、この水琴窟・・・どっかで見たことある!


思い出した!

赤穂市の花岳寺に同型の水琴窟があった!


ちなみに花岳寺にも浅野内匠頭さんと赤穂浪士お墓(遺髪)があります。

講堂と義士木像館と赤穂義士記念館

●講堂

●講堂
・1925年建立
・2004年改装

こちらは講堂です。

もともとこの建物は義士館として使用されていたそうです。

その後、境内に赤穂義士記念館ができたことにより、現在は1階は講堂。

そして2階は義士木像館になっています。


ちなみに義士木像館の入口は首洗い井戸の横にあります。


●赤穂義士記念館

その他、境内には赤穂義士記念館がありました。

館内には、大石内蔵助さんの書状をはじめ赤穂義士の遺品や赤穂事件・忠臣蔵関係の資料が展示されていました。

●開館時間
・9:00〜15:30
(最終入館受付 15:30 )

●拝観料
・大人  500円
・中高生 400円
・小人  250円(10歳以上)
・団体  400円(30名以上)
※障がい者割引あり


そんなこんなで、参拝終了。

いやはや、素敵なお寺さんでした。

御朱印情報


●御朱印の受付場所
①庫裏(寺務所 御朱印受付)
②赤穂義士墓所(御朱印受付)

泉岳寺の御朱印は2ヶ所で頂くことができます。


●御朱印の種類
①庫裏で頂ける御朱印
・本尊 釋迦如来

②赤穂義士墓所で頂ける御朱印
・摩利支尊天

※庫裏と赤穂義士墓所では頂ける御朱印が異なります


庫裏で御朱印を頂く場合はミニ写経をしなければなりません。

●御朱印を頂く手順

①庫裏の御朱印受付で御朱印帳を預けて御朱印引換券を頂く。


②御写経所に移動する。

そして御写経所に4種類のミニ写経が用意されていますので、お好きな写経用紙を選ぶ。


③筆ペンでミニ写経をする。


④庫裏の御朱印受付に戻り、ミニ写経と御朱印引換券を渡す。

※注意 泉岳寺には書置きの御朱印はありません
御朱印帳を持参した方のみ御朱印を頂くことができます。


ちなみに赤穂義士墓所の御朱印はミニ写経をしなくても頂くことができます。

※注意 泉岳寺には書置きの御朱印はありません
御朱印帳を持参した方のみ御朱印を頂くことができます。

●御朱印の受付時間
・9:00~16:00

●御朱印の料金
・お気持ち

●期間限定・特別御朱印
・なし


●オリジナル御朱印帳
・サイズ 18cm × 12cm
・料金  2000円

・2024年2月11日 参拝
・2024年3月 最終更新

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参拝情報とアクセス


●開門時間
・7:00~16:00

※2024年2月21日より開門時間が変更になったみたいです。

●拝観料
境内 無料

赤穂義士墓所 300円(線香代)

赤穂義士記念館
 大人  500円
 中高生 400円
 小人  250円(10歳以上)
 団体  400円(30名以上)
 ※障がい者割引あり

●最寄りの駅
・都営浅草線
 泉岳寺駅から徒歩3分

・JR山手線
 高輪ゲートウェイ駅から徒歩10分

●最寄りのバス停
・都バス
 泉岳寺前 バス停から徒歩1分

●駐車場
・なし

泉岳寺の地図

 

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