所在地 | 神奈川県鎌倉市山ノ内8 |
---|---|
宗 派 | 臨済宗建長寺派 |
寺 格 | 大本山・鎌倉五山第一位 |
札 所 | ・鎌倉二十四地蔵尊霊場 第9番・10番 ・鎌倉三十三観音霊場 第28番 ・弘法大師相模二十一ヶ所霊場 第4番 |
由 緒 | 1253年、鎌倉幕府5代執権・北条時頼が創建したお寺です。創建当時、日本にはすでに京都・建仁寺や鎌倉・寿福寺などの禅宗寺院がありましたが、これらの寺院は禅宗と他宗との兼学であったため、純粋な禅宗寺院としては、福岡・聖福寺に次ぐ古さといいます。最盛期には七堂伽藍と49の塔頭を有する大寺院だったそうです。 |
HP | 北鎌倉 鎌倉五山第一位「臨済宗建長寺派 大本山 建長寺」|巨福山 建長寺 |
Contents
ザックリと簡単に建長寺とは?
●境内図
●ザックリと簡単に建長寺とは?
・臨済宗建長寺派大本山
・日本最初の禅専門道場
・鎌倉五山 第一位
・鎌倉四大寺の1つ
・境内は国の史跡
・建長寺庭園が国の名勝
・けんちん汁発祥の地
・年間約50万人の参拝者・観光客が訪れる
●主な関連人物
・北条時頼
・蘭渓道隆
・徳川家
・沢庵和尚
●主な文化財
・絹本淡彩蘭渓道隆像(国宝)
・大覚禅師墨蹟 法語規則(国宝)
・梵鐘(国宝)
・山門・仏殿・法堂など21点(国重文)
創建当時は、総門・三門・仏殿・法堂などのお堂が一直線に並び、49の塔頭を構える大寺院だったそうです。
日本で初めて純粋な禅道場として開かれた建長寺には、1000人を超える僧が修行をしていたといわれています。
しかし、度重なる焼失により、当時を物語る建物はありません。 現在のお堂は、江戸時代に沢庵和尚や徳川幕府の援助などによって再建されたものです。
●ザックリと簡単に建長寺とは?
・臨済宗建長寺派大本山
・日本最初の禅専門道場
・鎌倉五山 第一位
・鎌倉四大寺の1つ
・境内は国の史跡
・建長寺庭園が国の名勝
・けんちん汁発祥の地
・年間約50万人の参拝者・観光客が訪れる
●主な関連人物
・北条時頼
・蘭渓道隆
・徳川家
・沢庵和尚
●主な文化財
・絹本淡彩蘭渓道隆像(国宝)
・大覚禅師墨蹟 法語規則(国宝)
・梵鐘(国宝)
・山門・仏殿・法堂など21点(国重文)
創建当時は、総門・三門・仏殿・法堂などのお堂が一直線に並び、49の塔頭を構える大寺院だったそうです。
日本で初めて純粋な禅道場として開かれた建長寺には、1000人を超える僧が修行をしていたといわれています。
しかし、度重なる焼失により、当時を物語る建物はありません。 現在のお堂は、江戸時代に沢庵和尚や徳川幕府の援助などによって再建されたものです。
天下門と巨福門
●天下門
●西外門(天下門)
・1984年再建
・銅板葺 切妻屋根 四脚門
・別名・天下門
そんなこんなで、臨済宗建長寺派の大本山であります建長寺に到着。
建長寺は日本で最初に禅寺と称したお寺として知られています。
創建当時、日本にはすでに京都・建仁寺や鎌倉・寿福寺などの禅宗寺院がありましたが、これらの寺院は天台宗・真言宗・浄土宗など他宗との兼学であったため、建長寺のように1寺1宗という純粋な禅宗寺院は非常に珍しかったそうです。
ちなみに日本最初の純粋な禅宗寺院は福岡の聖福寺。
建長寺は、福岡・聖福寺に次いで古い純粋な禅宗寺院といわれています。
恥ずかしながら私・・・
建長寺は日本最初の禅寺だと思ってました(^^;)
正解は、日本最初の禅寺ではなく日本で最初に禅寺と称したお寺だったんですね!
ちなみに建長年間に創建したお寺ということで建長寺と名付けられました。
●天下禅林の扁額
・1628年書
扁額には天下禅林と書かれておりました。
天下禅林とは、人材を広く天下に求め育成する禅寺という意味らしいですよ。
ちなみに天下禅林という文字は、建長寺のオリジナル御朱印帳のデザインになっています。
●総門(巨福門)
●総門(巨福門)
・1783年建立
・瓦葺 切妻屋根 四脚門
・京都・般舟三昧院より移築
・別名・巨福門
この門は、1783年に京都・般若三昧院に建立された門らしいです。
それを1940年に現在地に移築したんだって。
山号は巨福山。
扁額の巨福山という文字は第10世住職・一山一寧の筆らしいです。
それにしても気になるのが巨という文字!
この余分な点は、百貫点と呼ばれるもので、点を加えることで百貫の価を備えたという意味になるんだって!
一説によると、この点は勢い余って書いてしまったとか。
漢字テストでこんなことしたら先生に怒られちゃうよ(笑)
またウィキペディアによると、この点があることによって字に安定感が出ていると書いてありました。
言われてみればそんな気もしないこともない・・・でも違和感あり過ぎる〜(笑)
説明板によると、巨福山とは大きな福をもたらす寺という意味らしいですよ。
●西外門(天下門)
・1984年再建
・銅板葺 切妻屋根 四脚門
・別名・天下門
そんなこんなで、臨済宗建長寺派の大本山であります建長寺に到着。
建長寺は日本で最初に禅寺と称したお寺として知られています。
創建当時、日本にはすでに京都・建仁寺や鎌倉・寿福寺などの禅宗寺院がありましたが、これらの寺院は天台宗・真言宗・浄土宗など他宗との兼学であったため、建長寺のように1寺1宗という純粋な禅宗寺院は非常に珍しかったそうです。
ちなみに日本最初の純粋な禅宗寺院は福岡の聖福寺。
建長寺は、福岡・聖福寺に次いで古い純粋な禅宗寺院といわれています。
恥ずかしながら私・・・
建長寺は日本最初の禅寺だと思ってました(^^;)
正解は、日本最初の禅寺ではなく日本で最初に禅寺と称したお寺だったんですね!
ちなみに建長年間に創建したお寺ということで建長寺と名付けられました。
●天下禅林の扁額
・1628年書
扁額には天下禅林と書かれておりました。
天下禅林とは、人材を広く天下に求め育成する禅寺という意味らしいですよ。
ちなみに天下禅林という文字は、建長寺のオリジナル御朱印帳のデザインになっています。
●総門(巨福門)
●総門(巨福門)
・1783年建立
・瓦葺 切妻屋根 四脚門
・京都・般舟三昧院より移築
・別名・巨福門
この門は、1783年に京都・般若三昧院に建立された門らしいです。
それを1940年に現在地に移築したんだって。
山号は巨福山。
扁額の巨福山という文字は第10世住職・一山一寧の筆らしいです。
それにしても気になるのが巨という文字!
この余分な点は、百貫点と呼ばれるもので、点を加えることで百貫の価を備えたという意味になるんだって!
一説によると、この点は勢い余って書いてしまったとか。
漢字テストでこんなことしたら先生に怒られちゃうよ(笑)
またウィキペディアによると、この点があることによって字に安定感が出ていると書いてありました。
言われてみればそんな気もしないこともない・・・でも違和感あり過ぎる〜(笑)
説明板によると、巨福山とは大きな福をもたらす寺という意味らしいですよ。
三門
●三門
●三門
・1775年再建
・銅板葺 入母屋屋根
・三間一戸 禅宗様の二重門
・高さ 約30m
・別名・狸の三門
・国指定重要文化財
総門をくぐって参道を抜けると大きな三門が登場。
この三門は第201世住職・万拙硯誼が再建した門らしいです。
高さはなんと30m。
東日本最大規模の三門なんだって。
ちなみに三門とは三解脱門の略です。
空・無相・無作を表し、三門をくぐることによってあらゆる執着から解き放たれることを意味しています。
上層には宝冠釈迦如来像・十六羅漢像・五百羅漢像などが安置されているそうですが、非公開のため拝観することはできませんでした。
ちなみに秋に行われる建長まつりで、上層の仏像さん達を特別拝観ができるそうですよ!
●三門の扁額
・1539年作
・縦 約4m
・横 約2.65m
建長興国禅寺と書かれた扁額は後深草天皇の筆。
扁額の作者は、雪下大工左衛門大夫信吉という方らしいです。
下層には壁はなく、オール吹き放しになってました。
蟇股など派手な彫刻はなく、禅宗様の三門になっています。 飾りっけがなくまさに質実剛健な門ですね!
この三門には不思議な逸話が残っています。
●梶原施餓鬼会
創建当時、三門で施餓鬼会を行った直後に、騎馬武者姿の梶原景時の亡霊が現れたんだって((((;゚Д゚))))
それ以来、7月15日の三門施餓鬼会のあとに、もう一度、梶原施餓鬼会を行っているそうです。
●狸の三門
この三門は別名・狸の三門と呼ばれているそうです。
確かに狸っぽい色!
・・・って、そういう意味ではなくて、和尚さんのお世話になった狸和尚伝説が狸の三門と呼ばれる由来のようです。
●ザックリと簡単に狸和尚とは?
その昔、建長寺の三門は崩壊寸前の状態が続いていたそうです。
その頃、建長寺の裏山に狸が住んでいたそうな。
その狸は建長寺の残り飯などをもらって生きていたんだって。
ある日、狸はこれまでのお礼にと僧に姿を変えて、三門を再興するための資金を集める旅に出ました。
狸は関東中を歩き、三門再興の資金を募ってました。
旅の途中、狸和尚は中山道板橋宿に泊まりました。
宿の主人が廊下を通り過ぎようとすると、お坊さんが泊まっているはずの部屋の障子に狸の姿が映っていたという。
そんなこんなで、主人が障子を開けてみると、そこにいたのは狸ではなくお坊さんでした。
次の日、練馬宿に泊まりました。
狸和尚がお風呂に入っているとき、女中にのぞかれてしまいます。
その時、狸和尚はシッポを洗っていたという・・・。
そんなこんなで、『僧に化けた狸がいる』と狸和尚の噂は広まってしまいました。
次の日、狸和尚は青梅街道で籠に乗っていました。
駕籠かきは『もしかして、この和尚は狸かも?』と思い、1匹の犬をけしかけてみました。
すると、犬は籠の中から和尚を引きずり出してかみ殺してしまいました。
しかし狸和尚の亡骸は、しばらく人間のままでした。
しかし7日後に狸の姿に戻りました。
そして籠の中に残されていた金30両と銭5貫200文は建長寺に届けられました。
完
みたいなお話しです。
ということは、この三門はある意味、狸が寄進した門ということなのか!
そう思うと、三門がとっても愛おしく思えてしまいました!
●三門
・1775年再建
・銅板葺 入母屋屋根
・三間一戸 禅宗様の二重門
・高さ 約30m
・別名・狸の三門
・国指定重要文化財
総門をくぐって参道を抜けると大きな三門が登場。
この三門は第201世住職・万拙硯誼が再建した門らしいです。
高さはなんと30m。
東日本最大規模の三門なんだって。
ちなみに三門とは三解脱門の略です。
空・無相・無作を表し、三門をくぐることによってあらゆる執着から解き放たれることを意味しています。
上層には宝冠釈迦如来像・十六羅漢像・五百羅漢像などが安置されているそうですが、非公開のため拝観することはできませんでした。
ちなみに秋に行われる建長まつりで、上層の仏像さん達を特別拝観ができるそうですよ!
●三門の扁額
・1539年作
・縦 約4m
・横 約2.65m
建長興国禅寺と書かれた扁額は後深草天皇の筆。
扁額の作者は、雪下大工左衛門大夫信吉という方らしいです。
下層には壁はなく、オール吹き放しになってました。
蟇股など派手な彫刻はなく、禅宗様の三門になっています。 飾りっけがなくまさに質実剛健な門ですね!
この三門には不思議な逸話が残っています。
●梶原施餓鬼会
創建当時、三門で施餓鬼会を行った直後に、騎馬武者姿の梶原景時の亡霊が現れたんだって((((;゚Д゚))))
それ以来、7月15日の三門施餓鬼会のあとに、もう一度、梶原施餓鬼会を行っているそうです。
●狸の三門
この三門は別名・狸の三門と呼ばれているそうです。
確かに狸っぽい色!
・・・って、そういう意味ではなくて、和尚さんのお世話になった狸和尚伝説が狸の三門と呼ばれる由来のようです。
●ザックリと簡単に狸和尚とは?
その昔、建長寺の三門は崩壊寸前の状態が続いていたそうです。
その頃、建長寺の裏山に狸が住んでいたそうな。
その狸は建長寺の残り飯などをもらって生きていたんだって。
ある日、狸はこれまでのお礼にと僧に姿を変えて、三門を再興するための資金を集める旅に出ました。
狸は関東中を歩き、三門再興の資金を募ってました。
旅の途中、狸和尚は中山道板橋宿に泊まりました。
宿の主人が廊下を通り過ぎようとすると、お坊さんが泊まっているはずの部屋の障子に狸の姿が映っていたという。
そんなこんなで、主人が障子を開けてみると、そこにいたのは狸ではなくお坊さんでした。
次の日、練馬宿に泊まりました。
狸和尚がお風呂に入っているとき、女中にのぞかれてしまいます。
その時、狸和尚はシッポを洗っていたという・・・。
そんなこんなで、『僧に化けた狸がいる』と狸和尚の噂は広まってしまいました。
次の日、狸和尚は青梅街道で籠に乗っていました。
駕籠かきは『もしかして、この和尚は狸かも?』と思い、1匹の犬をけしかけてみました。
すると、犬は籠の中から和尚を引きずり出してかみ殺してしまいました。
しかし狸和尚の亡骸は、しばらく人間のままでした。
しかし7日後に狸の姿に戻りました。
そして籠の中に残されていた金30両と銭5貫200文は建長寺に届けられました。
完
みたいなお話しです。
ということは、この三門はある意味、狸が寄進した門ということなのか!
そう思うと、三門がとっても愛おしく思えてしまいました!
鐘楼と梵鐘
●鐘楼
●鐘楼
・建立年未確認
・茅葺 入母屋造
綺麗に刈り込まれた鐘楼には国宝の梵鐘が吊るされていました!
●梵鐘
・1255年鋳造
・国宝
・高さ 208.8cm
・口径 124.3cm
・重さ 2.7t
・鎌倉三名鐘の1つ
建長寺の梵鐘は、円覚寺と常楽寺とともに鎌倉三名鐘の1つに数えられています。
また長谷寺の梵鐘をあわせて鎌倉四大古鐘とも呼ばれています。
さらに音色が人の泣き声に似ているということから夜泣き鐘とも呼ばれています。
梵鐘を鋳造したのは物部重光。
物部重光は、あの鎌倉大仏の鋳造も手掛けたのでは?といわれるお方です。
1255年に鋳造されたこの梵鐘には、建長寺を開山した蘭渓道隆の銘文が刻まれています。
そこに刻まれている建長禅寺という文字は、日本における禅寺という文字の初見といわれています。
そんなこんなで、この梵鐘は創建当時から今に伝わる貴重な一品なんです。
鐘つけば銀杏ちるなり建長寺
夏目漱石
・・・ぅん!?
どこかで聞いたことがある・・・
柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺
正岡子規
・・・これだ!
漱石さん・・・パクっちゃいかんよぅ・・・
と思ったら、漱石さんの方が先に詠んでたんですね!(失礼)
どうやら柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺は、漱石さんの句を参考にして詠んだ句なんだそうです!
●鐘楼
・建立年未確認
・茅葺 入母屋造
綺麗に刈り込まれた鐘楼には国宝の梵鐘が吊るされていました!
●梵鐘
・1255年鋳造
・国宝
・高さ 208.8cm
・口径 124.3cm
・重さ 2.7t
・鎌倉三名鐘の1つ
建長寺の梵鐘は、円覚寺と常楽寺とともに鎌倉三名鐘の1つに数えられています。
また長谷寺の梵鐘をあわせて鎌倉四大古鐘とも呼ばれています。
さらに音色が人の泣き声に似ているということから夜泣き鐘とも呼ばれています。
梵鐘を鋳造したのは物部重光。
物部重光は、あの鎌倉大仏の鋳造も手掛けたのでは?といわれるお方です。
1255年に鋳造されたこの梵鐘には、建長寺を開山した蘭渓道隆の銘文が刻まれています。
そこに刻まれている建長禅寺という文字は、日本における禅寺という文字の初見といわれています。
そんなこんなで、この梵鐘は創建当時から今に伝わる貴重な一品なんです。
鐘つけば銀杏ちるなり建長寺
夏目漱石
・・・ぅん!?
どこかで聞いたことがある・・・
柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺
正岡子規
・・・これだ!
漱石さん・・・パクっちゃいかんよぅ・・・
と思ったら、漱石さんの方が先に詠んでたんですね!(失礼)
どうやら柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺は、漱石さんの句を参考にして詠んだ句なんだそうです!
仏殿
●仏殿
●仏殿
・1647年移築
・銅板葺 裳階付き寄棟造
・東京・増上寺より移築
・国指定重要文化財
このお堂は、もともと東京・増上寺にあった崇源院の霊廟を移築したものなんだって。
ちなみに崇源院(お江の方)とは、徳川2代将軍・徳川秀忠の嫁さんです。
父は北近江の戦国武将・浅井長政。
母は織田信長の妹・お市の方。
姉は豊臣秀吉の側室・淀の方。
というとんでもない血筋のお方です。
まさにサラブレッド中のサラブレッド。
崇源院は、鶴岡八幡宮の弁財天を信仰し、徳川3代将軍・徳川家光を授かったといわれています。
また、鶴岡八幡宮の一ノ鳥居は崇源院が願主となって建立されたものといわれています。
そんなこんなで、建物観賞。
な〜んか違和感あるなぁ〜と思ったら、屋根が寄棟造!
通常、禅宗の仏殿といえば入母屋造なのですが、このお堂はもともと霊廟として建てられたものなのでこのように変則的な仏殿となっております。
北条家ゆかりのお寺ということで、唐破風には北条家の家紋と同じ三ツ鱗の紋がありました。
この地は、鎌倉幕府があった鎌倉の中心部から山1つ隔てたところに位置し、もともと北条氏の本拠地だったそうですよ。
そんなこんなではいドーーーン!
堂内には巨大なお地蔵さんがおられました!
●地蔵菩薩坐像
・室町時代作
・像高 2.4m
・寄木造
どうやら、この方が建長寺の本尊のようです。
・・・それにしても違和感!(再び)
通常、禅宗では釈迦如来さんが本尊なのですが・・・なぜ、お地蔵さんが本尊に!?!?
どうやら、もともとこの地は地獄ヶ谷と呼ばれる処刑場があった場所らしいです。
地獄 = 閻魔 = 地蔵ということもあって、この地にはお地蔵さんを本尊とする心平寺というお寺があったんだって。
しかし、建長寺が創建されたことにより、心平寺は移転。
ということで、この建長寺の本尊・地蔵菩薩坐像は、もともと心平寺の本尊だったんだって。
そんなこんなで、仏像観賞。
像高は約2.4m。
台座を含めると、約5mもある巨大なお地蔵さんです。
右手に錫杖。
左手に火炎の付いた宝珠。
そして、蓮華座に結跏趺坐。
どこかしら青年感が漂う若々しい顔立ちでした。
そして、蓮華座に大きく垂れ下がった衣がとっても特徴的な仏像さんでした!
これは鎌倉の仏像さん特有のものなのでしょうか?
全国の仏像さんを全部見たわけじゃないから何ともいえないけど、少なくとも西日本では見られないタイプの仏像さんでした!
格天井には鳥の絵が描かれてました。
ここでまたまた違和感・・・もともと霊廟として建てられたお堂というだけあって天井が和様の格天井という!
寄棟造といい、お地蔵さんといい、格天井といい、禅宗でありながら禅宗じゃない感じがこのお堂の魅力です。
●伽藍神像
・鎌倉時代作
・国指定重要文化財
その他、仏殿にはひっそりと数体の神像が安置されていました。
どうやら、この神像は伽藍神のようです。
伽藍神とは、禅宗寺院の境内を守護する中国由来の神です。
なんと5体そろった伽藍神としては日本最古なんだって!
神像は、5体で1対。
像高は大きいもので134cm。
小さいもので95cm。
建長寺の創建時(1253年)、または建長寺が最初に火災に遭った(1293年)後の作と考えられているそうです。
あと、いかにも禅宗ってな感じのスリッパも気になるところでした。
●仏殿
・1647年移築
・銅板葺 裳階付き寄棟造
・東京・増上寺より移築
・国指定重要文化財
このお堂は、もともと東京・増上寺にあった崇源院の霊廟を移築したものなんだって。
ちなみに崇源院(お江の方)とは、徳川2代将軍・徳川秀忠の嫁さんです。
父は北近江の戦国武将・浅井長政。
母は織田信長の妹・お市の方。
姉は豊臣秀吉の側室・淀の方。
というとんでもない血筋のお方です。
まさにサラブレッド中のサラブレッド。
崇源院は、鶴岡八幡宮の弁財天を信仰し、徳川3代将軍・徳川家光を授かったといわれています。
また、鶴岡八幡宮の一ノ鳥居は崇源院が願主となって建立されたものといわれています。
そんなこんなで、建物観賞。
な〜んか違和感あるなぁ〜と思ったら、屋根が寄棟造!
通常、禅宗の仏殿といえば入母屋造なのですが、このお堂はもともと霊廟として建てられたものなのでこのように変則的な仏殿となっております。
北条家ゆかりのお寺ということで、唐破風には北条家の家紋と同じ三ツ鱗の紋がありました。
この地は、鎌倉幕府があった鎌倉の中心部から山1つ隔てたところに位置し、もともと北条氏の本拠地だったそうですよ。
そんなこんなではいドーーーン!
堂内には巨大なお地蔵さんがおられました!
●地蔵菩薩坐像
・室町時代作
・像高 2.4m
・寄木造
どうやら、この方が建長寺の本尊のようです。
・・・それにしても違和感!(再び)
通常、禅宗では釈迦如来さんが本尊なのですが・・・なぜ、お地蔵さんが本尊に!?!?
どうやら、もともとこの地は地獄ヶ谷と呼ばれる処刑場があった場所らしいです。
地獄 = 閻魔 = 地蔵ということもあって、この地にはお地蔵さんを本尊とする心平寺というお寺があったんだって。
しかし、建長寺が創建されたことにより、心平寺は移転。
ということで、この建長寺の本尊・地蔵菩薩坐像は、もともと心平寺の本尊だったんだって。
そんなこんなで、仏像観賞。
像高は約2.4m。
台座を含めると、約5mもある巨大なお地蔵さんです。
右手に錫杖。
左手に火炎の付いた宝珠。
そして、蓮華座に結跏趺坐。
どこかしら青年感が漂う若々しい顔立ちでした。
そして、蓮華座に大きく垂れ下がった衣がとっても特徴的な仏像さんでした!
これは鎌倉の仏像さん特有のものなのでしょうか?
全国の仏像さんを全部見たわけじゃないから何ともいえないけど、少なくとも西日本では見られないタイプの仏像さんでした!
格天井には鳥の絵が描かれてました。
ここでまたまた違和感・・・もともと霊廟として建てられたお堂というだけあって天井が和様の格天井という!
寄棟造といい、お地蔵さんといい、格天井といい、禅宗でありながら禅宗じゃない感じがこのお堂の魅力です。
●伽藍神像
・鎌倉時代作
・国指定重要文化財
その他、仏殿にはひっそりと数体の神像が安置されていました。
どうやら、この神像は伽藍神のようです。
伽藍神とは、禅宗寺院の境内を守護する中国由来の神です。
なんと5体そろった伽藍神としては日本最古なんだって!
神像は、5体で1対。
像高は大きいもので134cm。
小さいもので95cm。
建長寺の創建時(1253年)、または建長寺が最初に火災に遭った(1293年)後の作と考えられているそうです。
あと、いかにも禅宗ってな感じのスリッパも気になるところでした。
法堂
●法堂
●法堂
・1825年再建
・銅板葺 裳階付き入母屋造
・禅宗様
・国指定重要文化財
そんなこんなで、仏殿を後にして法堂へ。
和様建築の仏殿と違い、こちらの法堂は禅宗様。
やはり禅宗様の方がしっくりきますね!
扁額には、海東法窟の文字。
ちなみに、海東法窟とは中国・宗から仏法が伝わったお寺ですよ~という意味らしいです。
なんとこの法堂は、木造建築としては関東最大級の建物なんだって。
しかも、鎌倉で法堂が残されているのは建長寺のみというじゃない!
そんなこんなではいドーーーン!
堂内には、高さ2mを超える法座。
床は瓦の四半敷き。
天井には雲龍図が掲げられていました。
そして、千手観音菩薩像と釈迦苦行像が安置されていました。
法堂とは、住職さんが仏さまに代わって須弥壇上で説法をするためのお堂です。
そのため、本来は仏像さんを安置することがないのですが、この法堂には千手観音菩薩像と釈迦苦行像が安置されているという!
●釈迦苦行像
釈迦苦行像とは、苦行中のお釈迦様を表した像です。
お釈迦様は29歳で出家し、約6年間も断食と坐禅の日々を過ごしたといわれています。
しかし、結局、お釈迦様はこの苦行で悟りを得ることができなかったという。
その後、ブッダガヤの菩提樹の下で瞑想し、そこで悟りを得たといわれています。
目は落ちくぼみ、頬はコケ、髭がボーボーです。
体は骨と皮だけになり、お腹と背中がくっつきそうなくらいお腹がエグれています。
干物のようにミイラ化したお釈迦様・・・こんな状態でも苦しい顔をしていないところに凄みを感じ、浮き出た血管に生を感じました。
ちなみにこの像は、パキスタンのラホール中央博物館に安置されている像をもとに製作されたレプリカです。
2005年の愛知万博・パキスタン館に展示された後、建長寺に寄贈されたんだって。
●雲龍図
・2000年作
・2003年奉納
・小泉淳作 作
天井には、日本画家・小泉淳作さんが描いた雲龍図が掲げられていました。
構想から完成まで約4年の歳月をかけた超大作。
大きさは、なんと縦10m × 横12m。
畳約80畳分のスペースに描かれた迫力の一品になっています。
ちなみにこの雲龍図は、建長寺・創建750年記念事業の一環として描かれたものなんだって。
禅宗寺院の法堂の天井では、龍の図を掲げることが多いです。
これは、雨を降らせるが如く、修行僧に仏法の教えを降り注ぐという意味なんだそうです。
通常、雲龍図の龍の爪は3本なのですが、この龍は爪が5本という。
そんなこんなで、ちょっと珍しい雲龍図になっていました。
●小泉淳作とは?
ちなみに小泉淳作とは、昭和時代~平成時代に活躍した鎌倉市出身の日本画家です。
●代表作
・鎌倉・建長寺の雲龍図
・京都・建仁寺の双龍図
・奈良・東大寺本坊・襖絵全40面
●法堂
・1825年再建
・銅板葺 裳階付き入母屋造
・禅宗様
・国指定重要文化財
そんなこんなで、仏殿を後にして法堂へ。
和様建築の仏殿と違い、こちらの法堂は禅宗様。
やはり禅宗様の方がしっくりきますね!
扁額には、海東法窟の文字。
ちなみに、海東法窟とは中国・宗から仏法が伝わったお寺ですよ~という意味らしいです。
なんとこの法堂は、木造建築としては関東最大級の建物なんだって。
しかも、鎌倉で法堂が残されているのは建長寺のみというじゃない!
そんなこんなではいドーーーン!
堂内には、高さ2mを超える法座。
床は瓦の四半敷き。
天井には雲龍図が掲げられていました。
そして、千手観音菩薩像と釈迦苦行像が安置されていました。
法堂とは、住職さんが仏さまに代わって須弥壇上で説法をするためのお堂です。
そのため、本来は仏像さんを安置することがないのですが、この法堂には千手観音菩薩像と釈迦苦行像が安置されているという!
●釈迦苦行像
釈迦苦行像とは、苦行中のお釈迦様を表した像です。
お釈迦様は29歳で出家し、約6年間も断食と坐禅の日々を過ごしたといわれています。
しかし、結局、お釈迦様はこの苦行で悟りを得ることができなかったという。
その後、ブッダガヤの菩提樹の下で瞑想し、そこで悟りを得たといわれています。
目は落ちくぼみ、頬はコケ、髭がボーボーです。
体は骨と皮だけになり、お腹と背中がくっつきそうなくらいお腹がエグれています。
干物のようにミイラ化したお釈迦様・・・こんな状態でも苦しい顔をしていないところに凄みを感じ、浮き出た血管に生を感じました。
ちなみにこの像は、パキスタンのラホール中央博物館に安置されている像をもとに製作されたレプリカです。
2005年の愛知万博・パキスタン館に展示された後、建長寺に寄贈されたんだって。
●雲龍図
・2000年作
・2003年奉納
・小泉淳作 作
天井には、日本画家・小泉淳作さんが描いた雲龍図が掲げられていました。
構想から完成まで約4年の歳月をかけた超大作。
大きさは、なんと縦10m × 横12m。
畳約80畳分のスペースに描かれた迫力の一品になっています。
ちなみにこの雲龍図は、建長寺・創建750年記念事業の一環として描かれたものなんだって。
禅宗寺院の法堂の天井では、龍の図を掲げることが多いです。
これは、雨を降らせるが如く、修行僧に仏法の教えを降り注ぐという意味なんだそうです。
通常、雲龍図の龍の爪は3本なのですが、この龍は爪が5本という。
そんなこんなで、ちょっと珍しい雲龍図になっていました。
●小泉淳作とは?
ちなみに小泉淳作とは、昭和時代~平成時代に活躍した鎌倉市出身の日本画家です。
●代表作
・鎌倉・建長寺の雲龍図
・京都・建仁寺の双龍図
・奈良・東大寺本坊・襖絵全40面
唐門と方丈と建長寺庭園
●唐門
●唐門
・1628年建立
・銅板葺 向唐門
・総漆塗り
・東京・増上寺より移築
・高さ 約6m
・幅 約7m
・国指定重要文化財
方丈前に建つこの唐門は、もともと東京・増上寺にあった崇源院・霊廟の中門だったそうです。
それを1647年に現在地に移築したんだって。
それにしても豪華な唐門です!
総漆塗りに金の飾り金具。
どことなく、仏壇っぽいなぁ!
どうやら、移築してきた当時はこんなにゴージャスではなかったといいます。
それを、2009〜2011年に行われた保存修理によって、建立当時の姿に復元したんだって。
随所に桃山時代の香りを伝える素晴らしい門でした。
●建長寺唐門の略記
●方丈(龍王殿)
●方丈(龍王殿)
・1732年再建
・銅板葺 入母屋造
・京都・般舟三昧院より移築
・別名・龍王殿
方丈は、1732年に京都・般若三昧院に建立されたお堂らしいです。
もともとは、皇室の位牌を安置するために建立された建物だったんだって。
それを、1940年に現在地に移築したそうです。
別名・龍王殿ともいわれ、宝冠釈迦如来が祀られています。
●建長寺庭園(池泉庭園)
●建長寺庭園(池泉庭園)
・江戸時代作庭
・国の名勝
方丈からは国の名勝であります池泉庭園を観賞することができました。
作庭者は、鎌倉時代に活躍した夢窓疎石とも建長寺を開山した蘭溪道隆ともいわれ、鎌倉時代に作庭された庭園といわれています・・・ですが、実際は江戸時代に作庭されたお庭だという!
しかし、創建当時からお庭があったそうなので、もしかしたらもともとあったお庭が夢窓疎石あるいは蘭溪道隆のお庭だったのかも知れませんね。
このパターンはお寺あるあるです。
そんなことより、庭園の中心部には、心の文字を型どった心字池がありました。
そんなこんなで、グーグルマップでチェック!
やや強引ではありますが、確かに心の文字に見えなくもないです!
これが芸術というものなのでしょう^^
●唐門
・1628年建立
・銅板葺 向唐門
・総漆塗り
・東京・増上寺より移築
・高さ 約6m
・幅 約7m
・国指定重要文化財
方丈前に建つこの唐門は、もともと東京・増上寺にあった崇源院・霊廟の中門だったそうです。
それを1647年に現在地に移築したんだって。
それにしても豪華な唐門です!
総漆塗りに金の飾り金具。
どことなく、仏壇っぽいなぁ!
どうやら、移築してきた当時はこんなにゴージャスではなかったといいます。
それを、2009〜2011年に行われた保存修理によって、建立当時の姿に復元したんだって。
随所に桃山時代の香りを伝える素晴らしい門でした。
●建長寺唐門の略記
1628年 | 東京・増上寺の崇源院・霊廟の中門として建立 |
---|---|
1647年 | 建長寺に移築 |
明治時代 | 柿葺から銅板葺に変更 |
1924年 | 解体修理 |
2011年 | 保存修理 |
●方丈(龍王殿)
●方丈(龍王殿)
・1732年再建
・銅板葺 入母屋造
・京都・般舟三昧院より移築
・別名・龍王殿
方丈は、1732年に京都・般若三昧院に建立されたお堂らしいです。
もともとは、皇室の位牌を安置するために建立された建物だったんだって。
それを、1940年に現在地に移築したそうです。
別名・龍王殿ともいわれ、宝冠釈迦如来が祀られています。
●建長寺庭園(池泉庭園)
●建長寺庭園(池泉庭園)
・江戸時代作庭
・国の名勝
方丈からは国の名勝であります池泉庭園を観賞することができました。
作庭者は、鎌倉時代に活躍した夢窓疎石とも建長寺を開山した蘭溪道隆ともいわれ、鎌倉時代に作庭された庭園といわれています・・・ですが、実際は江戸時代に作庭されたお庭だという!
しかし、創建当時からお庭があったそうなので、もしかしたらもともとあったお庭が夢窓疎石あるいは蘭溪道隆のお庭だったのかも知れませんね。
このパターンはお寺あるあるです。
そんなことより、庭園の中心部には、心の文字を型どった心字池がありました。
そんなこんなで、グーグルマップでチェック!
やや強引ではありますが、確かに心の文字に見えなくもないです!
これが芸術というものなのでしょう^^
蘭渓道隆とは?
●ザックリと簡単に蘭渓道隆とは?
ザックリと簡単に蘭渓道隆とは、中国・宋の禅僧です。
●蘭渓道隆の年表
●柏槇(ビャクシン)
●柏槇(ビャクシン)
・樹齢 約750年
・蘭渓道隆のお手植え
・鎌倉市の天然記念物
ちなみに仏殿前にあるビャクシンは蘭渓道隆のお手植えといわれています。 宋の禅寺庭園様式を伝える前栽列樹なんだって。
ザックリと簡単に蘭渓道隆とは、中国・宋の禅僧です。
●蘭渓道隆の年表
1246年 | 来日。 その後、福岡・円覚寺で布教活動をした後、智鏡の招きで京都・泉涌寺の来迎院に滞在。 |
---|---|
1248年 | 智鏡のすすめで鎌倉にやってくる。 |
1253年 | 蘭渓道隆を開山として建長寺を創建。 蘭渓道隆の教えは、中国宋時代の純粋な禅を受け継いだ厳格なもので、100人以上におよぶ修行僧達を相当な意気込みで指導。 |
1262年 | 京都・建仁寺に移る。 |
1264年 | 再び建長寺の住持に復帰。 |
1274年 | 文永の役(蒙古襲来)の際、スパイの疑いをかけられ甲斐国(山梨県)に流される。 |
1278年 | スパイの疑いが晴れ、再び建長寺の住持に復帰。 その年、建長寺で亡くなる。 享年66歳。 |
死後 | 後宇多天皇により、日本で初めて禅師号を授けられる。 |
●柏槇(ビャクシン)
●柏槇(ビャクシン)
・樹齢 約750年
・蘭渓道隆のお手植え
・鎌倉市の天然記念物
ちなみに仏殿前にあるビャクシンは蘭渓道隆のお手植えといわれています。 宋の禅寺庭園様式を伝える前栽列樹なんだって。
御朱印情報
●建長寺の御朱印
●御朱印の種類
①南無地蔵尊の御朱印
②南無釈迦牟尼佛の御朱印
③おびんずる尊者の御朱印
④千手観世音の御朱印
(鎌倉三十三観音霊場 第28番札所)
⑤南無大師遍照金剛の御朱印
(弘法大師相模二十一ヶ所霊場 第4番札所)
⑥心平地蔵尊の御朱印
(鎌倉二十四地蔵尊霊場 第9番札所)
⑦済田地蔵尊の御朱印
(鎌倉二十四地蔵尊霊場 第10番札所)
●期間限定御朱印
・宝物風入れの御朱印
●御朱印帳購入者限定の御朱印
・夢の御朱印
●御朱印の料金
・各300円
●御朱印の受付場所
・御朱印所
●御朱印の受付時間
・8:00~16:30
●建長寺・塔頭の御朱印
●半僧坊の御朱印
①半僧坊大権現の御朱印
②勝上けん地蔵尊の御朱印
(鎌倉二十四地蔵尊霊場 第11番札所)
●妙光院の御朱印
①聖観世音菩薩の御朱印
(鎌倉三十三観音霊場 第27番札所)
●龍峰院
①聖観世音菩薩の御朱印
(鎌倉三十三観音霊場 第29番札所)
②宝冠釈迦如来の御朱印
③佛燈國師の御朱印
●回春院
①南無文殊菩薩の御朱印
②韋駄天の御朱印
●建長寺のオリジナル御朱印帳
●天下禅林の御朱印帳
・色・・・青とピンク
・サイズ・・・16cm × 12cm
・値段・・・1200円
・販売場所・・・御朱印所
●三ツ鱗の紋の御朱印帳
・サイズ・・・16cm × 12cm
・値段・・・1500円
・販売場所・・・御朱印所
●建長興国禅寺の御朱印帳
・サイズ・・・16cm × 12cm
・値段・・・1500円
・販売場所・・・御朱印所
●御朱印の種類
①南無地蔵尊の御朱印
②南無釈迦牟尼佛の御朱印
③おびんずる尊者の御朱印
④千手観世音の御朱印
(鎌倉三十三観音霊場 第28番札所)
⑤南無大師遍照金剛の御朱印
(弘法大師相模二十一ヶ所霊場 第4番札所)
⑥心平地蔵尊の御朱印
(鎌倉二十四地蔵尊霊場 第9番札所)
⑦済田地蔵尊の御朱印
(鎌倉二十四地蔵尊霊場 第10番札所)
●期間限定御朱印
・宝物風入れの御朱印
●御朱印帳購入者限定の御朱印
・夢の御朱印
●御朱印の料金
・各300円
●御朱印の受付場所
・御朱印所
●御朱印の受付時間
・8:00~16:30
●建長寺・塔頭の御朱印
●半僧坊の御朱印
①半僧坊大権現の御朱印
②勝上けん地蔵尊の御朱印
(鎌倉二十四地蔵尊霊場 第11番札所)
●妙光院の御朱印
①聖観世音菩薩の御朱印
(鎌倉三十三観音霊場 第27番札所)
●龍峰院
①聖観世音菩薩の御朱印
(鎌倉三十三観音霊場 第29番札所)
②宝冠釈迦如来の御朱印
③佛燈國師の御朱印
●回春院
①南無文殊菩薩の御朱印
②韋駄天の御朱印
●建長寺のオリジナル御朱印帳
●天下禅林の御朱印帳
・色・・・青とピンク
・サイズ・・・16cm × 12cm
・値段・・・1200円
・販売場所・・・御朱印所
●三ツ鱗の紋の御朱印帳
・サイズ・・・16cm × 12cm
・値段・・・1500円
・販売場所・・・御朱印所
●建長興国禅寺の御朱印帳
・サイズ・・・16cm × 12cm
・値段・・・1500円
・販売場所・・・御朱印所
拝観情報とアクセスと駐車場
●拝観時間
・8:30〜16:30
●拝観料
・大人・・・500円
・小人(小中学生)・・・200円
●アクセス
・JR横須賀線・北鎌倉駅から徒歩15分
・JR横須賀線・北鎌倉駅からバス5分
(江ノ電・鎌倉駅行きに乗車 → 建長寺下車)
●駐車場
・建長寺の専用駐車場あり
・時間・・・8:30〜16:30
・普通車・・・1時間600円
・バス・・・1時間2000円
・普通車・・・20台
・バス・・・5台(予約不可)
・8:30〜16:30
●拝観料
・大人・・・500円
・小人(小中学生)・・・200円
●アクセス
・JR横須賀線・北鎌倉駅から徒歩15分
・JR横須賀線・北鎌倉駅からバス5分
(江ノ電・鎌倉駅行きに乗車 → 建長寺下車)
●駐車場
・建長寺の専用駐車場あり
・時間・・・8:30〜16:30
・普通車・・・1時間600円
・バス・・・1時間2000円
・普通車・・・20台
・バス・・・5台(予約不可)