所在地 | 山口県萩市北古市萩町50 |
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宗 派 | 曹洞宗 |
由 緒 | 1408年、石見国温泉津に海蔵寺として創建したのが始まり。1607年、毛利輝元の防長移封にともない現在地に移転し、寺号を海潮寺と改めたといわれています。江戸時代、11の末寺を有するお寺に発展しますが、1874年に山門と土蔵を残して焼失。 その後、1875年に長州藩の藩校・明倫館の聖廟を移築して本堂とし、現在に至るそうです。 |
山門
萩城下町の北側には約20ヶ寺のお寺が集まっていて、ちょっとした寺町が形成されていました。
これらのお寺は、毛利氏の転封、そして萩城が築城されたことにより、藩主・毛利氏と一緒に移ってきたお寺が多く、現在も寺町独特の町並みを見ることができました。
ちなみに萩の城下町は日本で唯一江戸時代の地図がそのまま使える町として知られています。
そんなこんなで、海潮寺に到着。
このお寺の正式名称は総源山 海潮寺。
そうげんざん かいちょうじと読みます。
●海潮寺とは?
1408年、石見国温泉津(現・島根県邇摩郡)に海蔵寺として創建したのが始まり。
江戸時代初期、関ヶ原の戦いで敗れた毛利氏は防長二州に転封。
そして、毛利氏は居城として萩城を築城しました。
その後1607年、石見国の海蔵寺が毛利元就の宿舎として使用されていた関係から、現在地に移転。
そして寺号を海潮寺と改称しました。
江戸時代、長門・石見国内に11の末寺を有する寺院へと発展。
さらに、1868年には末寺の保福寺、法蔵寺、江月庵を合併したそうです。
しかし、1874年に山門と土蔵を残して焼失。
その後、1875年に長州藩の藩校・明倫館の聖廟を移築して本堂とし、現在に至るそうです。
1408年、石見国温泉津(現・島根県邇摩郡)に海蔵寺として創建したのが始まり。
江戸時代初期、関ヶ原の戦いで敗れた毛利氏は防長二州に転封。
そして、毛利氏は居城として萩城を築城しました。
その後1607年、石見国の海蔵寺が毛利元就の宿舎として使用されていた関係から、現在地に移転。
そして寺号を海潮寺と改称しました。
江戸時代、長門・石見国内に11の末寺を有する寺院へと発展。
さらに、1868年には末寺の保福寺、法蔵寺、江月庵を合併したそうです。
しかし、1874年に山門と土蔵を残して焼失。
その後、1875年に長州藩の藩校・明倫館の聖廟を移築して本堂とし、現在に至るそうです。
●山門(三門)
●山門(三門)
・江戸時代中期建立
・1993年改修
・瓦葺 入母屋造
・三間三戸 二重門
まず最初に登場するのは圧倒的な存在感の山門!
先ほど参拝した享徳寺の三門も立派でしたが、こちらは楼門ではなく二重門だったので迫力は享徳寺以上でした。
本堂と明倫館
●本堂
●本堂
・江戸時代末期建立
・1875年移築
・1993年改修
・瓦葺 入母屋造
・桁行 17.28m
・梁間 9.6m
・御本尊 聖観世音菩薩
・萩市指定有形文化財
続いて、本堂で参拝。
お堂の正面には前室が張り出し、さらに火灯窓のようなアーチ状の窓がありました。
何だかお寺っぽくないモダンな建物だなぁ〜と思ったら、なんと!
この本堂は長州藩の藩校・明倫館の聖廟を移築したものだという!
江戸時代、全国の藩校では構内に壮大な聖廟を造営し、孔子を学神として祀ることを理想としてたんだって。
そんなこんなで、明倫館も全国の藩校同様、宣聖殿と称する聖廟を造営していたそうです。
その聖廟こそが、海潮寺の本堂というわけです!
ということで、もともとこのお堂には孔子の像が祀られていたのですね!
そんなこんなで、参拝終了。
素敵なお寺さんでした。
●本堂
・江戸時代末期建立
・1875年移築
・1993年改修
・瓦葺 入母屋造
・桁行 17.28m
・梁間 9.6m
・御本尊 聖観世音菩薩
・萩市指定有形文化財
続いて、本堂で参拝。
お堂の正面には前室が張り出し、さらに火灯窓のようなアーチ状の窓がありました。
何だかお寺っぽくないモダンな建物だなぁ〜と思ったら、なんと!
この本堂は長州藩の藩校・明倫館の聖廟を移築したものだという!
●明倫館とは?
明倫館とは、1719年に長州藩5代藩主・毛利吉元さんが毛利家家臣の子弟教育のために萩城三の丸に開いた藩校です。
その後、1849年に現在地に移転し、規模を拡大。
約1万5千坪もの敷地に、聖廟・小学舎・手習所などの学問習得のための建物や、槍場・撃剣場・射術場などの武芸修練場が設けられていたといいます。
吉田松陰さんや楫取素彦さん(小田村伊之助)もここで教鞭をふるったといわれています。
なんと、松陰さんが教鞭をふるったときの年齢は9歳!(天才)
そんなこんなで、1867年に廃館なるまで、約150年間藩校としての教育が行われ、幕末の長州藩の活躍に大きく貢献しました。
ちなみに明倫館は、水戸・弘道館、岡山・閑谷学校とともに日本三大学府の1つに数えられています。
明倫館とは、1719年に長州藩5代藩主・毛利吉元さんが毛利家家臣の子弟教育のために萩城三の丸に開いた藩校です。
その後、1849年に現在地に移転し、規模を拡大。
約1万5千坪もの敷地に、聖廟・小学舎・手習所などの学問習得のための建物や、槍場・撃剣場・射術場などの武芸修練場が設けられていたといいます。
吉田松陰さんや楫取素彦さん(小田村伊之助)もここで教鞭をふるったといわれています。
なんと、松陰さんが教鞭をふるったときの年齢は9歳!(天才)
そんなこんなで、1867年に廃館なるまで、約150年間藩校としての教育が行われ、幕末の長州藩の活躍に大きく貢献しました。
ちなみに明倫館は、水戸・弘道館、岡山・閑谷学校とともに日本三大学府の1つに数えられています。
江戸時代、全国の藩校では構内に壮大な聖廟を造営し、孔子を学神として祀ることを理想としてたんだって。
そんなこんなで、明倫館も全国の藩校同様、宣聖殿と称する聖廟を造営していたそうです。
その聖廟こそが、海潮寺の本堂というわけです!
ということで、もともとこのお堂には孔子の像が祀られていたのですね!
そんなこんなで、参拝終了。
素敵なお寺さんでした。
御朱印情報
●御朱印の種類
・海潮寺の御朱印(南無聖観世音菩薩)
●御朱印の受付場所
・庫裏
●御朱印の受付時間
・不明
●御朱印の料金
・300円
●期間限定・特別御朱印
・なし
●オリジナル御朱印帳
・なし
・2009年3月20日 参拝
・2022年6月 更新
・海潮寺の御朱印(南無聖観世音菩薩)
●御朱印の受付場所
・庫裏
●御朱印の受付時間
・不明
●御朱印の料金
・300円
●期間限定・特別御朱印
・なし
●オリジナル御朱印帳
・なし
・2009年3月20日 参拝
・2022年6月 更新
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参拝情報とアクセス
●開門時間
・不明
●拝観料
・無料
●最寄りの駅
・JR東萩駅から徒歩15分
・JR東萩駅から車で5分
●最寄りのバス停
・防長交通 萩循環まぁーるバス(東回り)
吉田町 バス停から徒歩10分
※萩循環まぁーるバスの詳細はこちら。
●最寄りのIC
・中国自動車道
美祢東JCTから小郡萩道路(無料)へ
終点・絵堂ICから車で25分
●駐車場
・無料の専用駐車場あり(20台)
※保福寺の前に広い駐車場があります。
・不明
●拝観料
・無料
●最寄りの駅
・JR東萩駅から徒歩15分
・JR東萩駅から車で5分
●最寄りのバス停
・防長交通 萩循環まぁーるバス(東回り)
吉田町 バス停から徒歩10分
※萩循環まぁーるバスの詳細はこちら。
●最寄りのIC
・中国自動車道
美祢東JCTから小郡萩道路(無料)へ
終点・絵堂ICから車で25分
●駐車場
・無料の専用駐車場あり(20台)
※保福寺の前に広い駐車場があります。