住 所 | 京都府亀岡市宮前町猪倉土山39 |
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宗 派 | 真言宗大覚寺派 |
札 所 | 近畿楽寿観音霊場 第25番 宝の道七福神霊場 第1番(恵比寿大神) |
由 緒 | 平安時代に創建。1575年、明智光秀が丹波を領地にして以来、このお寺の本尊・不動明王を篤く崇敬したらしいです。本能寺の変を決意した際は、不動明王に誓願し、不動明王の加護を受け本懐を遂げたといいます。1582年、山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れた光秀は、坂本城に向かう途中、落ち武者狩りに遭い生涯を終えました。その際、介錯をした溝尾庄兵衛が、光秀の首を近臣に託し、光秀が信仰していた不動明王のもとに手厚く葬るよう命じたといいます。1855年、光秀の怨念を鎮める為、首塚に石碑を建立。毎年5月3日に開催される亀岡光秀まつりでは、光秀の首塚で追善供養が行われるそうです。初夏には明智家の家紋である桔梗が咲き乱れ、桔梗寺とも呼ばれています。 |
境内
●別名・光秀寺とも桔梗寺とも呼ばれる古刹。明智光秀の首塚があるお寺です。
●山門(明智山門)
●山門(明智山門)
・建立年不明 薬医門
・1976年移築
・別名・明智山門
・もともとは西願寺にあった門で、廃棄されようとしていたのを譲り受け、この地に移築
●本堂
●本堂
・1973年建立 入母屋造
・もともとは茅葺き屋根だったのでしょうか。屋根カバー工法で重ね葺きをしてるっぽいです。
・本尊は不動明王像
●本尊は光秀が崇敬した不動明王像
明智光秀が丹波を領地にして以来、このお寺の本尊・不動明王像を篤く崇敬したらしいです。 本能寺の変を決意した際は、不動明王像に誓願し、不動明王像の加護を受け本懐を遂げたといいます。
●なんと本堂入口に仁王さん!
な~んか違和感があるなぁと思ったら、本堂入口には仁王さんがおられるという。そんなこんなで、仁王門と合体したような本堂でした。
仁王さんの上には瓦葺きと銅板葺きの庇が付いており、それが裳階のように見えたりなんかしちゃったりして、ちょっと面白い造りの本堂になっておりました。
どうやら仁王さんは新しい時代の作品のようです。
持物は阿形は独鈷杵。
吽形は・・・何でしょ?
密教の法具っぽいですが名前がわかりません。
●山門(明智山門)
●山門(明智山門)
・建立年不明 薬医門
・1976年移築
・別名・明智山門
・もともとは西願寺にあった門で、廃棄されようとしていたのを譲り受け、この地に移築
●本堂
●本堂
・1973年建立 入母屋造
・もともとは茅葺き屋根だったのでしょうか。屋根カバー工法で重ね葺きをしてるっぽいです。
・本尊は不動明王像
●本尊は光秀が崇敬した不動明王像
明智光秀が丹波を領地にして以来、このお寺の本尊・不動明王像を篤く崇敬したらしいです。 本能寺の変を決意した際は、不動明王像に誓願し、不動明王像の加護を受け本懐を遂げたといいます。
●なんと本堂入口に仁王さん!
な~んか違和感があるなぁと思ったら、本堂入口には仁王さんがおられるという。そんなこんなで、仁王門と合体したような本堂でした。
仁王さんの上には瓦葺きと銅板葺きの庇が付いており、それが裳階のように見えたりなんかしちゃったりして、ちょっと面白い造りの本堂になっておりました。
どうやら仁王さんは新しい時代の作品のようです。
持物は阿形は独鈷杵。
吽形は・・・何でしょ?
密教の法具っぽいですが名前がわかりません。
光秀公首塚
●本堂前には明智光秀の首塚があります。
●光秀公首塚
1582年、山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れた光秀は、坂本城に向かう途中、 落ち武者狩りに遭い生涯を終えました。その際、介錯をした溝尾庄兵衛が、 光秀の首を近臣に託し、光秀が信仰していた不動明王のもとに手厚く葬るよう命じたといいます。
現在の首塚の石碑は、1855年に光秀を慕う志士達が建立したものらしいです。
一説によれば、光秀の怨念を鎮める為に石碑を建立したともいわれてます。
毎年5月3日に開催される亀岡光秀まつりでは、光秀の首塚で追善供養が行われるそうです。
ちなみに光秀の首塚は各地に点在している為、どれが本当の首塚なのかは現時点ではわかりません。ちなみに胴塚は1ヶ所のみです。
●首塚①
京都市東山・三条白川筋
●首塚②
京都府宮津市の盛林寺
●首塚③
京都府亀岡市の谷性寺
●胴塚
京都市山科区
●墓所
滋賀県大津市の西教寺
●光秀公首塚
1582年、山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れた光秀は、坂本城に向かう途中、 落ち武者狩りに遭い生涯を終えました。その際、介錯をした溝尾庄兵衛が、 光秀の首を近臣に託し、光秀が信仰していた不動明王のもとに手厚く葬るよう命じたといいます。
現在の首塚の石碑は、1855年に光秀を慕う志士達が建立したものらしいです。
一説によれば、光秀の怨念を鎮める為に石碑を建立したともいわれてます。
毎年5月3日に開催される亀岡光秀まつりでは、光秀の首塚で追善供養が行われるそうです。
ちなみに光秀の首塚は各地に点在している為、どれが本当の首塚なのかは現時点ではわかりません。ちなみに胴塚は1ヶ所のみです。
●首塚①
京都市東山・三条白川筋
●首塚②
京都府宮津市の盛林寺
●首塚③
京都府亀岡市の谷性寺
●胴塚
京都市山科区
●墓所
滋賀県大津市の西教寺
明智家の家紋・桔梗紋
●別名・桔梗寺
山門の扉と本堂の幕には明智家の家紋である桔梗紋がありました。
初夏には明智家の家紋である桔梗が咲き乱れるそうです。
山門の扉と本堂の幕には明智家の家紋である桔梗紋がありました。
初夏には明智家の家紋である桔梗が咲き乱れるそうです。
明智光秀とは?
●ザックリと簡単に明智光秀とは
明智光秀は戦国時代に活躍した武将です。
生年月日は不詳で青年期など若い時代の歴史は明確には分かっていませんが、美濃国(現・岐阜県) に、明智城城主・明智光綱の長男として生まれたようです。
当初は斉藤道三に仕えてましたが、道三が滅ぼされた後は浪人となり、各地を転々としたみたいです。
その後、1566〜1568年頃に織田信長に仕えます。史実上、明確に光秀が活躍するのはこの頃からです。光秀が40歳の頃です。
そして1568年に足利義昭の上洛に加わりました。1570年の金ヶ崎の戦いでは撤退時の防戦に成功して織田信長を救いました。
1571年の比叡山焼き討ちで、光秀は実行部隊として武功を挙げました。その功績が認められ、信長から近江国を与えられます。そして坂本城の築城を開始し、1572年に完成しました。
その後も、高屋城の戦い・長篠の戦い・越前一向一揆と、馬車馬のごとく働きます。そして丹波国攻略の命がくだり、丹波国の平定、さらに丹後国も平定します。信長は光秀の働きを絶賛しました。
1579年、丹波国29万石を与えられます。光秀は丹波の重要な地として福知山に城下町を作ります。
1582年、光秀は羽柴秀吉の毛利討伐の支援を命じられました。 早朝、光秀は中国地方に向けて出陣しますが、突然転進。信長が宿にしていた本能寺を襲います。いわゆる本能寺の変です。光秀軍10000人 vs 信長軍100人。 信長は本能寺に火を放ち自害しました。
信長自害の知らせを聞いた秀吉は、ただちに毛利軍と和睦。 そして光秀軍を征伐する為、京に向かいます。いわゆる中国大返し。
そして光秀軍と秀吉軍が衝突します。いわゆる山崎の戦いです。 しかし光秀に味方する者は少なく、準備不足もあり、敗戦。光秀は坂本を目指して敗走しますが、落ち武者狩りに遭い自害しました。本能寺の変からわずか11日後のことでした。
山崎の戦いの翌日、光秀の首は秀吉軍に届き、京都の本能寺で晒された後、粟田口に埋葬されました。とありますが、光秀の首塚は各地に点在している為、どれが本当の首塚なのかは現時点ではわかりません。ちなみに胴塚は1ヶ所のみです。
1516年? 1528年? 1540年? | 明智城城主・明智光綱の長男として誕生。 |
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1556年 | 斉藤義龍によって明智城が落城。浪人ののち越前の朝倉義景に仕える。 |
1571年 | 比叡山焼き討ちの武功で近江国(滋賀県)5万石を与えられる。 |
1572年 | 近江国に坂本城を築城する。 |
1578年 | 丹波国に亀山城を築城する。 |
1579年 | 丹波国と丹後国を平定。信長から感状をもらう。丹波国29万石を与えられる。光秀は丹波の重要な地として福知山に城下町を作る。 |
1582年 | 本能寺の変で信長・信忠父子を自害に追い込む。 羽柴秀吉との山崎の戦いに敗れた後、敗走中に落ち武者狩りに遭い自害。 |
明智光秀は戦国時代に活躍した武将です。
生年月日は不詳で青年期など若い時代の歴史は明確には分かっていませんが、美濃国(現・岐阜県) に、明智城城主・明智光綱の長男として生まれたようです。
当初は斉藤道三に仕えてましたが、道三が滅ぼされた後は浪人となり、各地を転々としたみたいです。
その後、1566〜1568年頃に織田信長に仕えます。史実上、明確に光秀が活躍するのはこの頃からです。光秀が40歳の頃です。
そして1568年に足利義昭の上洛に加わりました。1570年の金ヶ崎の戦いでは撤退時の防戦に成功して織田信長を救いました。
1571年の比叡山焼き討ちで、光秀は実行部隊として武功を挙げました。その功績が認められ、信長から近江国を与えられます。そして坂本城の築城を開始し、1572年に完成しました。
その後も、高屋城の戦い・長篠の戦い・越前一向一揆と、馬車馬のごとく働きます。そして丹波国攻略の命がくだり、丹波国の平定、さらに丹後国も平定します。信長は光秀の働きを絶賛しました。
1579年、丹波国29万石を与えられます。光秀は丹波の重要な地として福知山に城下町を作ります。
1582年、光秀は羽柴秀吉の毛利討伐の支援を命じられました。 早朝、光秀は中国地方に向けて出陣しますが、突然転進。信長が宿にしていた本能寺を襲います。いわゆる本能寺の変です。光秀軍10000人 vs 信長軍100人。 信長は本能寺に火を放ち自害しました。
信長自害の知らせを聞いた秀吉は、ただちに毛利軍と和睦。 そして光秀軍を征伐する為、京に向かいます。いわゆる中国大返し。
そして光秀軍と秀吉軍が衝突します。いわゆる山崎の戦いです。 しかし光秀に味方する者は少なく、準備不足もあり、敗戦。光秀は坂本を目指して敗走しますが、落ち武者狩りに遭い自害しました。本能寺の変からわずか11日後のことでした。
山崎の戦いの翌日、光秀の首は秀吉軍に届き、京都の本能寺で晒された後、粟田口に埋葬されました。とありますが、光秀の首塚は各地に点在している為、どれが本当の首塚なのかは現時点ではわかりません。ちなみに胴塚は1ヶ所のみです。
御朱印情報
御朱印は本堂前に書置きがありました。