西光寺の御朱印情報~法然上人ゆかりのお寺~(香川県綾歌郡宇多津町)

所在地香川県綾歌郡宇多津町2198
宗 派浄土真宗本願寺派
由 緒1207年、讃岐国に流罪となった法然上人が、讃岐の各地を巡り浄土宗の教えを説き広めたという。その後、罪を許された法然上人は都へ帰る途中、弟子・然慶の生地、讃岐国鵜足郡鍋谷の里に立ち寄ったそうです。そして草庵を結び、阿弥陀如来像を安置して西光寺と号したといいます。その後、1539年に本願寺第10代・證如上人の弟子・進藤向専師が浄土真宗に改宗。浄土真宗・本願寺 vs 織田信長との戦いである石山合戦では、第11代・顕如上人を助けて本願寺に多くの兵糧を送ったといいます。
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山門

●ゴールドタワー

本日はプラプラと宇多津の町を散策しています。


そんなこんなで、古い民家が建ち並ぶストリートを歩いていると


男前なお寺さんを発見!

門前の川がお堀のように見えてしまって、どうにもこうにもお城ちっくなお寺さんでした。


塀には狭間まであるという!

ここだけを見ると、お寺なのかお城なのかわかんなくなっちゃいます。

どんなお寺なのかわかんないけど、なんだか面白そうなので立ち寄ってみよう。



そんなこんなで、山門前の細道を歩くと山門に到着。


●山門

●山門
・建立年不明
・瓦葺 三間三戸 入母屋造

それにしても立派な山門です。

しかし山門前の道が細すぎるため、山門の全体図が撮れないのが残念。

門フェチとしましては、これほど悔しいことはありません。


ということで、橋の上から山門の全体図を撮影。

それだけでご満悦・・・。
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本堂

●本堂

●本堂
・1833年再建
・瓦葺 入母屋造

これぞ浄土真宗!
ってな感じの高くて勾配のキツい大きな屋根を持つお堂でした。

こちらのお堂は、高松藩の抱え大工・櫛橋一族によって手掛けられたものなんだって。



本堂には素敵な彫刻が施されていたので、しばし彫刻鑑賞。

木鼻は、雲の中から飛び出す龍。

蟇股は牡丹でした。

そして蟇股の両サイドには追う獅子と逃げる獅子の彫刻もありました。

いずれも真宗のお堂でよく見られるパターンの彫刻ですが、どれも完成度が高く見応えたっぷりの彫刻でした。



なかでも面白いなぁ~と思ったのが頭貫の彫刻!

なんと雲の間から龍の胴体がチラ見しているという!

雲中の飛龍を表現することによって、お堂までもが雲中に埋まってるかのようです。
そんなこんなで、大きなお堂がさらに大きく見えたひと時でした。


そんなことより、この西光寺は法然上人ゆかりのお寺さんだという!

香川県といえば弘法大師のイメージが強いですが、何気に法然上人にも深い縁のある地なんです。

1207年、承元の法難により讃岐国(香川県)に流罪となった法然上人が、讃岐の各地を巡って浄土宗の教えを説き広めていたんだって。

その後、罪を許された法然上人は都へ帰る途中、弟子・然慶の生地、讃岐国鵜足郡鍋谷の里に立ち寄ったそうです。
そして、その地に草庵を結び、阿弥陀如来像を安置して西光寺と号したんだって。

それがこのお寺の始まりだという!

また、本願寺 vs 織田信長との戦いである石山合戦にもゆかりのあるお寺さんだという!

石山合戦の際、この西光寺は本願寺に多くの兵糧を送り、顕如上人を助けたといわれています。

そんなこんなで、何気に日本史浪漫ビンビンのお寺さんでした。
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法然上人と承元の法難

●法然上人とは?

ザックリと簡単に法然上人とは、平安時代末期から鎌倉時代に活躍した僧侶で浄土宗の開祖です。

南無阿弥陀仏と念仏を唱えれば誰でも救われるという専修念仏の教えを説き、民衆に広く支持されたお方です。
庶民だけでなく、貴族・武士・天皇までもが法然上人に心酔していたといいます。

法然上人の生きた時代は保元の乱や平治の乱といった戦が立て続けに起こり、大地震や飢饉などもあり民衆は絶望の中に生きていました。

また釈迦の入滅後、時とともに仏の教えが衰えて世が乱れるという末法思想が人々を不安に陥れていた時代でもありました。

そんな末法の世の中で、ただ念仏を唱えるだけで救われるという教えは、今まで限られた人のための仏教が庶民に支持されるきっかけとなりました。

そんなこんなで、法然上人の精力的な説法により、他力の教えが隆盛を極めます。

しかし、他力の教えを誤解して悪いことをする者が現れたり、法然上人をねたんで迫害する者が現れてきたという!

特に奈良・興福寺比叡山の僧侶たちは法然の教えに否定的でした。

1204年、比叡山の僧兵が他力念仏を停止するように天台座主・真正に訴えました。
それを聞いた法然上人は190名の弟子の連名で七箇条起請文を天台座主に提出しました。
その中には綽空という名で親鸞聖人も入っていました。

七箇条起請文には、弟子たちに向けて次のような禁止事項が書かれています。


●七箇条起請文

●七箇条起請文

①真言宗や天台宗の教えをやぶり、阿弥陀如来以外は信じないとかいわない。そして他の仏や菩薩をないがしろにしない。

②他宗の者に対して、好んで争論をいどまない。

③他宗の者を嫌ったり、あざけり笑って批判しない。

④念仏宗に戒律はないといって邪淫や飲酒や肉食をすすめ、阿弥陀如来の本願を信じる者は悪行をしても恐れることはないとかいわない。

⑤自分勝手な教えを語り、人を迷わすことをしない。

⑥正しい教えを知らないのに人々を教化することをしない。

⑦自分勝手な教えを、師匠の教えだといわない。

しかし浄土宗への弾圧は止まりませんでした・・・。

奈良・興福寺は他力の教えを批判し、他力念仏の禁止を求める興福寺奏上を朝廷に提出しました。

しかし、朝廷の協議はうやむやのうちに終わってしまいました。

このまま事態が収束するかと思われましたが、1206年に浄土宗を揺るがす大事件が起こりました。


●承元の法難

後鳥羽上皇には寵愛していた松虫鈴虫という侍女がいました。

1206年、後鳥羽上皇が熊野詣に出かけている間に、松虫と鈴虫は法然の弟子・住蓮安楽が開いた東山鹿ヶ谷草庵での念仏法会に参加しました。

住蓮と安楽は美声の持ち主として知られ、宮中の女性の間で大評判!
その美しい説法に魅了された松虫鈴虫は、出家して尼僧となりました。

そんなある日、松虫と鈴虫は住蓮と安楽と密通していたという噂が流れてしまったという。

後鳥羽上皇は、松虫と鈴虫が出家して尼僧となったうえ、不在中の御所に男性を泊めていたことを知り大激怒!


そんなこんなで、後鳥羽上皇は法然の弟子4人を死罪

そして法然上人は讃岐国(香川県)へ流罪となりました・・・。

さらに法然は還俗させられ、僧をやめさせられたという。
そして藤井元彦という名前に改名させられ讃岐国で過ごすことになりました。

しかし法然上人は流罪先の讃岐国で布教活動を行い、信徒を増やしていきます。

法然上人の流罪はわずか10ヶ月でしたが、九条家の領地・塩飽諸島本島や、西念寺(現・香川県仲多度郡)を拠点にして、讃岐国中に布教の足跡を残しました。

また、弘法大師の生誕地である善通寺にも参拝しました。


流罪が許されたあとは、摂津国の勝尾寺に滞在。

その後、1211年に京に入り、吉水草庵に戻りました。

~画像は勝尾寺(大阪)~


しかし、1212年に病床につき、80歳でお亡くなりになりました。

ちなみに松虫と鈴虫は、住蓮と安楽の処刑を知り、悲しみのあまり自害したといわれています。

~画像は法然の御廟がある知恩院(京都)~


●光明三昧院(光明坊)

一説によると、松虫と鈴虫は安住の地を求めて、生口島の光明三昧院(広島県)で余生を過ごしたともいわれています。


ちなみに光明三昧院には、法然上人と松虫と鈴虫のお墓がありました。


左から、法然上人・如念尼・松虫・鈴虫のお墓となっております。

~画像は2013年1月14日 撮影~


●松虫塚

以前、大阪市阿倍野区の松虫通を歩いていたら松虫塚というものも発見しました。

~画像は2019年3月21日 撮影~


松虫塚の由来には諸説あるそうです。

●説①
2人の親友が夜道を歩いていたとき、松虫の音に聞き惚れた1人が草むらに入り、そのまま死んでしまったという。そんなこんなで、残った友が泣く泣くこの地に埋葬したという説。

●説②
後鳥羽天皇の寵愛を受けた侍女の松虫と鈴虫が隠れ住んだ場所という説。

●説③
琴の名手だった美女が、琴の音が松虫の自然の音には及ばないと嘆いて琴を捨てたという説。

●説④
この地に住んでいた次郎右衛門が松虫の音を愛したという説。

それにしても、説④がショボ過ぎます。

個人的には説②であって欲しいところ!
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船屋形茶室

●船屋形茶室

そんなこんなで、話しは戻って西光寺へ。

参拝後、境内をプラプラと散策していたら、なんじゃこりゃ!?的な建物を発見してしまう。

説明板を読んでみると、こちらは旧多度津藩主の御座船だという。

どうやら覆屋の中に船屋形茶室があるみたいです!


●船屋形茶室
・江戸時代末期建立
・瓦葺 切妻造 二階建て
・全長 7.4m
・東側 2.08m
・西側 1.86m
・香川県指定有形文化財

御座船とは、西国の大名たちが参勤交代で江戸へ向かう際に乗っていた船のことらしいです。
当時、西国の大名たちは、御座船で瀬戸内海を渡り、大坂から陸路で江戸に向かっていたそうです。 その際に使われていたのが御座船だという。

1869年の廃藩置県後、西光寺の住職が買い取り、御座船の屋形部分を茶室に改築したのが現在の姿なんだって。

ちなみに現存する船屋形は、姫路藩(相楽園内)と熊本藩(熊本城内)の3件のみなんだって!

通常は非公開ですが、年に数回公開されるそうですよ。

いつか拝見できるチャンスがあればいいなぁ。

●徳川光圀の書状
・1687年作
・香川県指定有形文化財 

その他、寺宝として徳川光圀が朝廷に送った書状があるそうですよ。


門前から新町水門を望む。

いやはや、素敵なお寺さんでした。
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宇多津の町並み

●宇多津の町並み

参拝後、宇多津の町をプラプラと散策をしていると


気になる建物を発見してしまう。


建物の中をのぞいてみると、5円でつくられたタイガーがおられました。


5円でつくられた姫路城も!

こういう職人さんのことを何と呼ぶのでしょ?

5円アーティスト?
5円クリエーター?


それにしても、総額が気になります。

材料費がハンパなさそう・・・!

御朱印情報

●御朱印の種類
・なし

●御朱印の受付場所
・なし

●御朱印の受付時間
・なし

●御朱印の料金
・なし

●期間限定・特別御朱印
・なし

●オリジナル御朱印帳
・なし

・2018年3月26日 参拝
・2021年7月 更新
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参拝情報とアクセス

●開門時間
・不明

●拝観料
・無料

●最寄りの駅
・JR宇多津駅から徒歩30分

●駐車場
・不明

西光寺の地図

 

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