讃岐国分寺の御朱印|四国霊場 第80番|特別史跡の大寺!幻の大日如来像|四国八十八ヶ所 車遍路の旅(香川県高松市)

所在地香川県高松市国分寺町国分2065
宗 派真言宗御室派
札 所四国八十八ヶ所 第80番
前後札所 ・前 → 第79番札所・天皇寺
・後 → 第81番札所・白峯寺
本 尊十一面千手観世音菩薩
真 言おん ばさら たらま きりく
由 緒741年、聖武天皇の勅命により全国に建立された国分寺の1つで、行基作の十一面観音像を安置したのが始まり。810~824年、空海(弘法大師)がこの地を訪れ、本尊を修復し四国霊場に定めたそうです。戦国時代、天正の兵火で焼失。その後、江戸時代に再興され現在に至るそうです。
HP讃岐國分寺 | 讃岐国分寺

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讃岐国分寺とは?


四国八十八ヶ所の第80番札所であります讃岐国分寺に到着。

第79番札所・天皇寺から7km。
徒歩1時間30分。
車で15分のところに位置しています。

讃岐国分寺と書いてさぬきこくぶんじと読みます。


寺号のとおり讃岐国分寺は、聖武天皇の国分寺建立の詔のもと、全国に建立された国分寺の1つです。

四国4県にはそれぞれ阿波国分寺、土佐国分寺、伊予国分寺、讃岐国分寺がありますが、そのいずれもが四国八十八ヶ所の札所に定められています。

そんなこんなで、四国八十八ヶ所で最後に登場する国分寺がこの讃岐国分寺となります。

●讃岐国分寺とは?

741年、聖武天皇が『諸国で最も良い土地を選んで建てよ』と、国分寺建立の詔を発し、行基が創建したのが始まり。

その際、行基は十一面観音像を刻んで安置。
そして、国家安穏・五穀豊穣・万民豊楽を願う祈願所としたそうです。


810〜823年、弘法大師が本尊の千手観音像を修理し、四国八十八ヶ所の第80番札所に定めたそうです。

しかし1573〜1592年の長宗我部元親の兵火により本堂と本尊と鐘楼を残し堂塔のほとんどを焼失。。

その後、江戸時代に再興され、高松藩主・生駒氏や松平氏の庇護を受け現在に至るそうです。
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国分寺とは?

●国分寺とは?

奈良時代、地震や疫病や内乱などが相次ぎ社会情勢が不安定になりました。

そうした中、聖武天皇は仏教の力で国を護る!ということを決定しました。

そんなこんなで741年、聖武天皇は国分寺建立の詔を発令し、日本全国に68もの国分寺を造らせました。

この讃岐国分寺もそのうちの1つです。

しかし、国司の怠慢や財政難などですぐに全国各地に建立されたという訳ではありませんでした。

そんな中、この讃岐国分寺は比較的早い時期に創建されていたようで、国分寺建立の詔が発令された頃の創建と推測されています。

正確な創建年は不明ですが、続日本紀に756年、聖武天皇の周忌の際、讃岐国を含む26ヶ国の国分寺に仏具などを下賜したとの記載があることから、遅くとも756年以前には存在していたということがわかります。


平安時代になってからも、全国各地の国分寺は維持されていきますが、律令体制の衰退とともに国家的な援助ができなくなり荒廃する国分寺が増えていきました。
そして、廃寺となる国分寺も増えました。

しかし、宗派を変えるなどして存続を維持できたお寺もあったようです。
廃寺となった国分寺も、江戸時代に再興されることが多かったそうです。

現在、全国にある国分寺は改宗をしたり再興をしたりして続いた国分寺で、純粋な国分寺とは性格も性質も違う新しく生まれ変わった国分寺となります。

そのため現在でも国分寺と名乗る寺院は多数存在しています。

このような寺院のことを後継寺院と呼びます。

ちなみに、四国4県にある国分寺は全て後継寺院となっております。

由緒によると、讃岐国分寺は鎌倉時代に復興しているようなので、他の国分寺よりも早い段階で後継寺院になっているみたいです。


国分寺には2種類あります。

①国分僧寺(写真左)
・正式名称は金光明四天王護国之寺
・男性の僧侶が在籍する国分寺
・総本山は奈良・東大寺
・在籍人数は常時20人

②国分尼寺(写真右)
・正式名称は法華滅罪之寺
・女性の僧侶が在籍する国分寺
・総本山は奈良・法華寺
・在籍人数は常時10人

一般的に国分寺といえば国分僧寺のことを指します。


ちなみに、讃岐国分寺から約2km離れた地に讃岐国分尼寺の後継寺院といえる法華寺があります。


この讃岐国分寺は昭和時代以降、何度か発掘調査が行われているみたいです。

創建当時は大官大寺式の伽藍配置だったと推定されており、お寺の規模は南北240m、東西220mだったと推定されています。

さらに発掘された礎石によると、南北に中門・金堂・講堂が一直線に並び、中門と金堂を回廊で結び、その内側の東側に七重塔が建っていたそうです。


●発掘調査で発見された礎石
・金堂跡 (約27.8m × 14.2m)
・講堂跡 (約22.8m × 12.7m)
・七重塔跡 (約10.1m × 10.1m)
・僧坊跡 (約83.9m × 12.0m)
・鐘楼跡 (約6.2m × 4.1m)
・掘立柱建物跡 (約20.6m × 11.8m)
・築地塀

これらの礎石は奈良時代のもので、創建当時の遺構としてよく保存されていることから、国の特別史跡に指定されています。

なんと讃岐国分寺は四国で唯一国の特別史跡だという!

ちなみに国の特別史跡とは、文部科学大臣によって指定された史跡のうち、特に重要なものとみなされた史跡です。


●代表的な国の特別史跡
・五稜郭・中尊寺・江戸城跡
・登呂遺跡・平城宮跡・姫路城跡
・石舞台古墳・安土城跡・厳島
・吉野ケ里遺跡・大宰府跡 などなど

2022年現在、国の特別史跡に指定されているのは全国で63件。

そんなこんなで、このそうそうたるメンバーに加わっている讃岐国分寺跡は、何気にとんでもない史跡だという!

ちなみに、国分寺跡で国の特別史跡に指定されているのは、讃岐国分寺跡と遠江国分寺跡と常陸国分寺跡のみです。

そんなこんなで、参拝開始。
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仁王門と金剛力士像

●山門(仁王門)

●山門(仁王門)
・建立年不明
・銅板葺 切妻造
・三間一戸 八脚門

四国霊場もとうとう80番台に突入しました。

結願という名のゴールまであと9寺!


そんなことより、まず最初に登場するのは仁王門

創建当時、ここには中門が建っていたといわれています。


説明板によると、かつては中門からちょっと離れたところに南大門があったみたいです。

ちなみに現在、まだ南大門の礎石は発見されてないみたいです。


●金剛力士像(仁王像)

●金剛力士像(仁王像)
・鎌倉時代作
・伝 湛慶作

続いて、仁王さんにご挨拶。

なんと、この仁王さんは湛慶作なんだって!

とはいえ、あくまで・湛慶作です。


ちょっぴりポージングがぎこちないのと彫眼ということで慶派仏師じゃないような気がしますが、力強い表情、筋骨隆々の上半身、地面を噛み込む足、そして全体のプロポーションは紛れもなく鎌倉時代の仁王さんです(偉そうに言うな)


●参道

そんなこんなで、仁王門をくぐって境内へ。
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七重塔跡と金堂跡

●七重塔跡

仁王門の近くには七重塔の礎石がありました。

なんと、この礎石は創建当時のままの位置に現存しているという!

さらに17個中15個が現存しているというほぼ完全体!


さらにさらに、礎石から推定される七重塔の高さは約63m!

これは、現在日本一の高さを誇る東寺・五重塔よりも高かったことになります(ヒェっ)

ちなみに、全国に建立された国分寺の塔は全て七重塔だったといわれています。

しかし、現存する七重塔は1つもありません。


●金堂跡

続いて、参道脇に金堂の礎石が登場。

七重塔の礎石に続き、金堂の礎石も創建当時のままの位置に現存しているという。

さらにこちらも36個中33個が現存しているというほぼ完全体!


礎石から推定されるお堂の大きさは約27.8m × 14.2m

なんとこれは奈良・唐招提寺の金堂ほぼ同じ大きさになるんだって。


東寺を超える七重塔。
唐招提寺と同規模の金堂。

この建造物を想像の中で復元するとニヤニヤが止まりません。

創建当時は中央の大寺に引けを取らない、いや、それ以上の大伽藍だったみたいですね!
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鐘楼

●鐘楼

●鐘楼
・建立年不明
・瓦葺 入母屋造

●梵鐘
・奈良時代鋳造
・高さ 115.4cm
・口径 89.7cm
・重さ 1200kg
・国指定重要文化財

続いて、鐘楼が登場。

発掘調査の際、別の場所で旧鐘楼の礎石が発見されたみたいなので、この鐘楼は後の時代に現在地に建立されたもののようです。


そんなことより、梵鐘は奈良時代の鋳造で四国最古の梵鐘だという!

奈良時代ということは・・・創建当時からある可能性も!?


ちなみに100円で鐘を撞くことができるという!

奈良時代の鐘をですよっ!

そんなこんなで、100円を納めて鐘をひと撞き。

御本尊さまとお大師さまにご挨拶。


一体全体、1200年以上の歴史で何人の人がこの音色を聞いてきたのだろう・・・。

歴史上の超有名人や芸能人もついた。

もちろんお大師さまもついたに違いない!

その鐘を私もついた!

こんな私でもこの鐘の歴史に加われたと思うと、それだけで身震いしちゃいます。

ちなみに、この梵鐘には2つの伝説が残っています。

●梵鐘伝説①

江戸時代初期、高松藩主の生駒一正さんはこの鐘を高松城の時鐘にしようとしました。

そんなこんなで、生駒さんは田1町と引き換えに鐘を手に入れました。

ところが城へ運ぼうとしたら、思ってた以上に鐘は重く・・・大勢の人と馬を使って何とかお城まで運ぶことができたそうな。

しかし!

お城に運んだはいいけど、鐘の音が鳴らない!

おまけに城下で悪病が流行!

そして、生駒さんもに倒れてしまったという!

さらに毎晩、生駒さんの枕元に鐘が現れ『もとの国分へ帰りたい』と泣いていたという!

そんなこんなで、生駒さんは『これは鐘の祟りに違いない』と恐れ、鐘を国分寺へ返すことにしました。

すると、鐘はお城に運び出したときと違い、なぜか少人数で軽々と運べたという。

さらに国分寺へ戻った途端に悪病は治まり、再び美しい音色を聞かせるようになったそうです。

完。

ちなみに、このとき『鐘がものいうた国分の鐘が、もとの国分へいぬというた』という歌が詠まれたそうです。

なんとこのお寺には、この話が事実であったことを示す証文現存しているという!


●梵鐘伝説②
昔、讃岐国の安原郡百々渕というところに大蛇が棲んでおり、付近の住民を悩ましていたそうな。

そこで弓の名手・戸次八郎さんは国分寺の千手観音に『一矢当たれば千矢の霊験あれ』と祈願。

そして、見事に大蛇を退治したという。

退治した大蛇を見てみると・・・

なんと大蛇は鐘を被っていたという!

そんなこんなで、戸次さんはその鐘をこのお寺に奉納

それがこの梵鐘の由来といいます。

完。

本堂と大師堂

●本堂

●本堂
・鎌倉時代後期建立
・瓦葺 入母屋造
・国指定重要文化財

●本尊
・十一面千手観世音菩薩

●真言
・おん ばさら たらま きりく

続いて、本堂を参拝。

この本堂は、創建当時の講堂跡の礎石をそのまま再利用して建てられたものなんだって。

なんと、木造の仏堂としては四国最大級の規模を誇る大堂だという!


礎石から推定される講堂の大きさは約22.8m × 12.7m

金堂よりちょっと小さいけど、それでも十分巨大なお堂です!

資料によると、講堂跡の礎石は正面7間・側面4間。

しかし、現・本堂は5間しかありません。

ということで、残り2間分の礎石は再利用せずに建立したみたいですね!


1391年の文献やその他の史料に、このお寺は奈良・西大寺の末寺である的なことが記されてるんだって。

そのことから、少なくとも鎌倉時代末期までには西大寺の末寺となっていたと推測され、現・本堂の建立には西大寺系の僧が関わっていたと考えられてるんだって。


●本尊 十一面千手観音立像
・平安時代末期作
・像高 524cm
・十一面四十二臂
・﨔材 一木造(脇手を除く)
・彩色 彫眼
・国指定重要文化財

なんと、御本尊さまは像高5.2m!
台座を含むと約5.7mもあるという。

四国霊場で江戸時代以前の丈六仏は、善通寺の薬師如来坐像と讃岐国分寺の千手観音立像だけなんだって。

﨔の一本造としては四国最大の仏像さんとのことです。

寺伝では行基作で弘法大師が修復したといわれてますが、平安時代末期作とのことなので時代が合わず。

このお寺は鎌倉時代(初期?)に再興されてますので、その頃に造られたものなのかな?


本尊には『弘治三丁六月二十八日四国中辺路同行二人』という室町時代の落書きがあるんだって。

この落書きもお遍路さんの歴史を知るうえで貴重な資料。

そんなこんなで、落書きを含めて貴重な文化財になっております。

しかし残念ながら御本尊は秘仏のため拝顔することはできず。。
その代わり、お前立ちの千手観音・不動明王・大師像を拝顔することができました。

ちなみに御本尊の御開帳は60年に1度。
次回は2040年に御開帳されるそうですよ。


●大師堂(弘法大師礼拝殿万霊塔)

●大師堂(弘法大師礼拝殿万霊塔)
・昭和時代初期建立
・多宝塔形式
・半地下構造 三階建
・鉄筋コンクリート造
・本尊 弘法大師

続いて、大師堂を参拝。

見事に写真を撮り忘れましたが、写真左に写っている多宝塔形式の白い建物が大師堂です。

大師堂はRC造で、半地下構造の三階建になっているそうです。

ちなみに大師堂内に入ることはできませんでした。


そんなこんなで、参拝者は大師堂の拝殿から拝むかたちになるのですが・・・

なんと!

大師堂の拝殿内は巡礼グッズ売り場になっていて、しかもそのグッズ売り場からお大師さまに向かって拝むかたちになっているという!

一瞬、えっ!?

となりましたよ(笑)

グッズに囲まれながらの参拝は四国霊場で初体験となります!

ちなみに、その巡礼グッズ売り場が納経所となります。

南無大師遍照金剛・・・
南無大師遍照金剛・・・
南無大師遍照金剛・・・

大日如来堂と幻の大日如来像

●大日如来堂(旧・毘沙門堂)

●大日如来堂(旧・毘沙門堂)
・1778年建立
・瓦葺 宝形造
・本尊 大日如来

続いて、大日如来堂を参拝。

私が参拝したときは毘沙門堂でしたが、現在は大日如来堂になっているみたいです。

もともとこのお堂は1778年に大師堂として建立されたのが始まり。

しかし、後に現・大師堂の建立にともない毘沙門堂に変わりました。

そして、現在は大日如来堂になっているという。

●幻の大日如来像
実は、現在このお堂には御本尊さまはいません

それはなぜかというと、現在、御本尊さまを制作中だから!

その御本尊さまは空海作の大日如来で、1497年まで東寺(京都)の立体曼荼羅の本尊だったものなんだって。

それを現在完全復元を目指しているのだという!



言い伝えによると、その大日如来さんは約500年前の戦乱で失われてしまったそうです。。

像容は8体の獅子に支えられた台座と37体の小仏を配した光背をもつという、かなり特異な大日如来さんだったみたいです。

そんなこんなで、2014年に幻の空海作・大日如来坐像を完全復元するプロジェクトがスタート!

本来の計画では2021年に完成する予定だったみたいですが、まだ完成してないみたいです。

ということで、現在クラウドファンディングを行なっているそうですよ!
(2021年11月19日〜2022年2月17日)

願かけ金箔大師とその他の見どころ

●願かけ金箔大師

境内には金ピカ弘法大師像がありました。

その名の通り、金箔を貼って願掛けをすると御利益があるといわれています。

ちなみに四国霊場で金箔を貼る系の石仏は、第76番・金倉寺金箔大黒天以来2度目の登場となります。

南無金箔大師遍照金剛・・・
南無金箔大師遍照金剛・・・
南無金箔大師遍照金剛・・・



その他、境内には閻魔堂・千体地蔵堂・春日神社堂・良縁社・延命地蔵尊・水かけ地蔵・福松・御衣木・四国八十八ヶ所のミニ霊場などがありました。


そんなこんなで、参拝終了。

第81番・白峯寺へ続く。

次の札所
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御朱印情報

●御朱印の種類
・四国八十八ヶ所の御朱印
・弁財天の御朱印
・五色台三霊場参りの御朱印
・満願証(願行成満)

●御朱印の受付場所
・納経所(大師堂内)

●御朱印の受付時間
・7:00~17:00

●御朱印の料金
・四国八十八ヶ所 500円
・弁財天 300円
・五色台三霊場参り 300円
・満願証(願行成満)300円

●期間限定・特別御朱印
・なし

●オリジナル御朱印帳
・なし

・2011年6月12日 参拝
・2024年3月 最終更新
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参拝情報とアクセス

●開門時間
・7:00~17:00

※参拝には最短でも10分かかるということで、16時50分以降は境内に入れません。

●拝観料
・境内は無料

●讃岐国分寺跡資料館
・大人 100円
・中学生以下 無料
・開館時間 9:00~16:30
・休館日 月曜日と年末年始
(月曜が祝祭日のときは翌日)

●宿坊
・なし

●前後札所
・第79番札所・天皇寺へ7km
 徒歩1時間30分
 車で15分

・第81番札所・白峯寺へ13km
 徒歩2時間50分
 車で25分

●最寄りの駅
・JR国分駅から徒歩5分
・JR国分駅から車で2分

●最寄りのバス停
・国分寺町コミュニティバス
 国分駅 バス停から徒歩5分

・国分寺町コミュニティバス
 馬場 バス停から徒歩5分

●最寄りのIC
・高松自動車道
 高松西ICから車で15分

・高松自動車道
 高松檀紙ICから車で15分

●駐車場
・無料の専用駐車場あり(7台)

讃岐国分寺の地図

 

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