所在地 | 大分県中津市二ノ丁1273 |
---|---|
祭 神 | 宇都宮鎮房 |
由 緒 | 1705年、黒田氏によって中津城内で暗殺された城井谷城主・宇都宮鎮房を祀るために創建した神社。その後、幾度か場所を変えた後、現在地に遷座したそうです。 |
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拝殿と本殿
●境内図
本日は黒田官兵衛、略してクロカンの聖地・中津市を旅しています。
そんなこんなで、中津城公園に鎮座してます城井神社に到着。
中津城公園は黒田官兵衛が築城した中津城跡にある公園で、園内には御朱印が頂ける神社が4社もあるという!
●中津城公園に鎮座する神社
①中津大神宮
②中津神社
③城井神社(扇城神社)
④奥平神社
ということで、城井神社(扇城神社)を参拝。
ちなみに、城井神社と書いてきい神社と読みます。
●境内入口
●注連柱
・1920年建立
城井神社は、中津大神宮の左後ろの方に鎮座しています。
見ての通り、小さな神社です。
この神社は黒田官兵衛に謀殺された宇都宮鎮房さんが祀られてるんだって。
●拝殿
●拝殿
・建立年不明
・瓦葺 入母屋造
・中津大神宮の境内社
拝殿は瓦葺の入母屋造。
格子戸と高欄を設けていました。
どっかで見たことあるなぁと思ったら、先ほど参拝した中津神社の拝殿とソックリな造りだぁ~。
サイズも大体同じくらいでした。
●本殿
●本殿
・建立年不明
・銅板葺 神明造(?)
・宇都宮鎮房を祀る
塀と木に隠れていたので、屋根の一部しか見えませんでしたが、なんとなく平入りの切妻屋根っぽいので、おそらく神明造だと思われます。間違ってたらスミマセン(^^;)
祭神は宇都宮鎮房さん。
歴史好きの方なら知っていると思われますが、一般的な知名度はほぼ皆無のお方です。
宇都宮鎮房は黒田官兵衛率いる黒田氏のだまし討ちに遭い、一族もろとも皆殺しにされちゃったという。
本日は黒田官兵衛、略してクロカンの聖地・中津市を旅しています。
そんなこんなで、中津城公園に鎮座してます城井神社に到着。
中津城公園は黒田官兵衛が築城した中津城跡にある公園で、園内には御朱印が頂ける神社が4社もあるという!
●中津城公園に鎮座する神社
①中津大神宮
②中津神社
③城井神社(扇城神社)
④奥平神社
ということで、城井神社(扇城神社)を参拝。
ちなみに、城井神社と書いてきい神社と読みます。
●境内入口
●注連柱
・1920年建立
城井神社は、中津大神宮の左後ろの方に鎮座しています。
見ての通り、小さな神社です。
この神社は黒田官兵衛に謀殺された宇都宮鎮房さんが祀られてるんだって。
●拝殿
●拝殿
・建立年不明
・瓦葺 入母屋造
・中津大神宮の境内社
拝殿は瓦葺の入母屋造。
格子戸と高欄を設けていました。
どっかで見たことあるなぁと思ったら、先ほど参拝した中津神社の拝殿とソックリな造りだぁ~。
サイズも大体同じくらいでした。
●本殿
●本殿
・建立年不明
・銅板葺 神明造(?)
・宇都宮鎮房を祀る
塀と木に隠れていたので、屋根の一部しか見えませんでしたが、なんとなく平入りの切妻屋根っぽいので、おそらく神明造だと思われます。間違ってたらスミマセン(^^;)
祭神は宇都宮鎮房さん。
歴史好きの方なら知っていると思われますが、一般的な知名度はほぼ皆無のお方です。
宇都宮鎮房は黒田官兵衛率いる黒田氏のだまし討ちに遭い、一族もろとも皆殺しにされちゃったという。
宇都宮鎮房とは?
●ザックリと簡単に宇都宮鎮房とは?
宇都宮鎮房とは、戦国時代~安土桃山時代にかけて活躍した豊前国の戦国大名です。
城井谷城の城主ならびに城井氏16代当主。
宇都宮鎮房といわれたり城井鎮房といわれたりするお方です。
怪力無双で強弓の使い手だったといわれています。
●なぜ宇都宮鎮房は謀殺されてしまったのか?
1586年、天下取りを目指す豊臣秀吉が、島津氏を討つために九州征伐の大軍を派遣してきました。
中津の領主・城井鎮房は秀吉に従う態度を見せましたが、鎮房は病を理由に従軍せず息子に任せてしまいました。
このことにより、秀吉の不信を招いてしまうことになりました。
そんなこんなで秀吉は、鎮房に伊予(愛媛県)への領地替えを命じました。
鎌倉時代から400年も守り続けた領地を手放すことができなかった鎮房はこれを拒否します。
その態度が気に入らなかったのか、秀吉は城井家に伝わる家宝・小倉色紙を譲るようにと迫ってきました。
もちろん、鎮房はこの要求も断固拒否。
そして、鎮房の代わりに中津に入国した黒田官兵衛・長政にも反発しました。
鎮房の怒りは収まらず、城井谷城を奪回して反旗を翻しました。
黒田官兵衛は長政に自重を求めますが、血気盛んな長政は我慢しきれず、鎮房に攻撃を仕掛けたという。
しかし長政軍は敗戦・・・。
鎮房は自分の領土を守るため、本領安堵と引き換えに娘の鶴姫を人質に出して和睦することにしました。
しかし官兵衛は、鎮房が素直に和睦を呑むとは思っていませんでした。
官兵衛は、肥後(熊本県)で起きていた一揆を鎮圧するために領地を離れる際、長政にある策を授けていきました。
1588年、和睦の宴と称して長政は鎮房を中津城へと招きました。
そんなこんなで、鎮房は150人余りの家臣を引き連れ中津城に到着。
しかし中津城への入城を許されたのは鎮房と小姓の2名だけでした。
残りの家臣は合元寺で休息を命じられてしまいました。
そして宴が始まりました。
宴の最中、鎮房は娘婿になるはずだった長政により謀殺されてしまったという!
そして鎮房とともにした小姓も殺されました。
そう、この宴は黒田氏のワナだったのです。
続いて黒田の軍勢は、鎮房の家臣が休息している合元寺を急襲し皆殺しにしました。
さらに城井谷城にも押し寄せ、鎮房の父・長房を殺し、一族を皆殺しにしたという・・・。
官兵衛とともに一揆を鎮圧するために肥後にやってきた鎮房の嫡男・朝房も殺され、黒田家の人質となっていた鶴姫とその侍女たちははりつけにされて処刑されました。
鎮房の死後、中津城に鎮房の亡霊が出没し、長政はその亡霊に相当ビビッていたようです。
そんなこんなで、鎮房を謀略で殺害したことを悔い、中津城内に城井神社を創建しました。
ちなみに城井神社は、後に黒田氏の居城となる福岡城にも創建されています。
宇都宮鎮房とは、戦国時代~安土桃山時代にかけて活躍した豊前国の戦国大名です。
城井谷城の城主ならびに城井氏16代当主。
宇都宮鎮房といわれたり城井鎮房といわれたりするお方です。
怪力無双で強弓の使い手だったといわれています。
●なぜ宇都宮鎮房は謀殺されてしまったのか?
1586年、天下取りを目指す豊臣秀吉が、島津氏を討つために九州征伐の大軍を派遣してきました。
中津の領主・城井鎮房は秀吉に従う態度を見せましたが、鎮房は病を理由に従軍せず息子に任せてしまいました。
このことにより、秀吉の不信を招いてしまうことになりました。
そんなこんなで秀吉は、鎮房に伊予(愛媛県)への領地替えを命じました。
鎌倉時代から400年も守り続けた領地を手放すことができなかった鎮房はこれを拒否します。
その態度が気に入らなかったのか、秀吉は城井家に伝わる家宝・小倉色紙を譲るようにと迫ってきました。
もちろん、鎮房はこの要求も断固拒否。
そして、鎮房の代わりに中津に入国した黒田官兵衛・長政にも反発しました。
鎮房の怒りは収まらず、城井谷城を奪回して反旗を翻しました。
黒田官兵衛は長政に自重を求めますが、血気盛んな長政は我慢しきれず、鎮房に攻撃を仕掛けたという。
しかし長政軍は敗戦・・・。
鎮房は自分の領土を守るため、本領安堵と引き換えに娘の鶴姫を人質に出して和睦することにしました。
しかし官兵衛は、鎮房が素直に和睦を呑むとは思っていませんでした。
官兵衛は、肥後(熊本県)で起きていた一揆を鎮圧するために領地を離れる際、長政にある策を授けていきました。
1588年、和睦の宴と称して長政は鎮房を中津城へと招きました。
そんなこんなで、鎮房は150人余りの家臣を引き連れ中津城に到着。
しかし中津城への入城を許されたのは鎮房と小姓の2名だけでした。
残りの家臣は合元寺で休息を命じられてしまいました。
そして宴が始まりました。
宴の最中、鎮房は娘婿になるはずだった長政により謀殺されてしまったという!
そして鎮房とともにした小姓も殺されました。
そう、この宴は黒田氏のワナだったのです。
続いて黒田の軍勢は、鎮房の家臣が休息している合元寺を急襲し皆殺しにしました。
さらに城井谷城にも押し寄せ、鎮房の父・長房を殺し、一族を皆殺しにしたという・・・。
官兵衛とともに一揆を鎮圧するために肥後にやってきた鎮房の嫡男・朝房も殺され、黒田家の人質となっていた鶴姫とその侍女たちははりつけにされて処刑されました。
鎮房の死後、中津城に鎮房の亡霊が出没し、長政はその亡霊に相当ビビッていたようです。
そんなこんなで、鎮房を謀略で殺害したことを悔い、中津城内に城井神社を創建しました。
ちなみに城井神社は、後に黒田氏の居城となる福岡城にも創建されています。
扇城神社
●扇城神社
そんなこんなで城井神社の境内には、黒田氏によって皆殺しにされた宇都宮鎮房の従臣45柱を祀る扇城神社がありました。
皆さん、無念だっただろうなぁ。
ああいう時代だからあれはあれで1つの手だったにしろ、官兵衛さんほどの才があれば、もっと上手くやれたんじゃないかなぁ・・・とか思ってみたりしたひと時でした。
ちなみにこちらが鎮房の家臣が皆殺しにされた合元寺の参拝記です。
そんなこんなで城井神社の境内には、黒田氏によって皆殺しにされた宇都宮鎮房の従臣45柱を祀る扇城神社がありました。
皆さん、無念だっただろうなぁ。
ああいう時代だからあれはあれで1つの手だったにしろ、官兵衛さんほどの才があれば、もっと上手くやれたんじゃないかなぁ・・・とか思ってみたりしたひと時でした。
ちなみにこちらが鎮房の家臣が皆殺しにされた合元寺の参拝記です。
合元寺(赤壁寺)の御朱印~紅に染まったお寺~(大分県中津市寺町)
所在地大分県中津市寺町973宗 派西山浄土宗由 緒1587年、黒田孝高(官兵衛)に従って姫路から中津に移り住んだ空誉上人が開基したお寺だそうです。1589年、黒田孝高(官兵衛)が前領主・宇都宮鎮房を謀略を...
黒田孝高(官兵衛)とは?
●ザックリと簡単に黒田孝高(官兵衛)とは?
黒田官兵衛とは、戦国時代~江戸時代初期にかけて活躍した武将です。
官兵衛という名で知られていますが、実際の名は黒田孝高。
隠居した後は、黒田如水と名乗りました。
官兵衛は軍事的才能に優れ、主に織田信長や豊臣秀吉の下で働き、戦はもちろん調略や他大名との交渉など、幅広く活躍したお方です。
また、秀吉の参謀役として有名な軍師・竹中半兵衛とともに両兵衛や二兵衛と称されるお方です。
●黒田孝高(官兵衛)の年表
黒田官兵衛とは、戦国時代~江戸時代初期にかけて活躍した武将です。
官兵衛という名で知られていますが、実際の名は黒田孝高。
隠居した後は、黒田如水と名乗りました。
官兵衛は軍事的才能に優れ、主に織田信長や豊臣秀吉の下で働き、戦はもちろん調略や他大名との交渉など、幅広く活躍したお方です。
また、秀吉の参謀役として有名な軍師・竹中半兵衛とともに両兵衛や二兵衛と称されるお方です。
●黒田孝高(官兵衛)の年表
1546年 | 潘磨国の姫路城主・小寺職隆の嫡男として誕生。 |
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1567年 | 光姫を正室に迎える。 家督を継いで姫路城主となる。 |
1568年 | 松寿丸(黒田長政)をもうける。 |
1569年 | 姫路城を攻めてきた赤松政秀を撃退し、官兵衛の名が世に知れ渡る。 |
1575年 | 信長と謁見。 秀吉に仕える。 |
1578年 | 謀反をおこした荒木村重を説得するため単身で有岡城に乗り込む。しかし捕縛され約1年間幽閉される。 |
1579年 | 有岡城の落城にともない救出される。 |
1580年 | 三木城を攻略。 1万石を手に入れ大名となる。 |
1581年 | 兵糧攻めで鳥取城を攻略。 |
1582年 | 備中高松城を水攻めで攻略。 本能寺の変で織田信長が自害。 中国大返しを豊臣秀吉に提言。 山崎の戦いで明智光秀軍勢を破る。 |
1586年 | 九州平定のため豊前国へ入国。 |
1588年 | 中津城の築城を開始。 中津城内で宿敵・宇都宮鎮房をだまし討ち。合元寺で家臣約40名を切り殺す。 |
1589年 | 家督を長政に譲る。 |
1590年 | 小田原征伐に参加。 使者として活躍し小田原城を無血開城させる。 |
1591年 | 秀吉の命により名護屋城の縄張を行う。 |
1592年 | 名護屋城を出兵拠点として総大将・宇喜多秀家の軍師として朝鮮に渡る。 |
1593年 | 名を黒田如水と改める。 |
1598年 | 豊臣秀吉が死去。 |
1600年 | 関ヶ原の戦いに乗じ、九州をほぼ平定。 関ヶ原の戦いで活躍した長政は、筑前52万石を与えられる。 |
1601年 | 福崎の地を福岡と改称し、福岡城の築城を開始。 |
1604年 | 死去。 崇福寺に葬られる。 |
中津城
●中津城 天守
そんなこんなで参拝後、中津城を散策してきました。
中津城は1588年に黒田孝高(官兵衛)が築城し、細川忠興が完成させたお城です。
高松城・今治城とともに日本三大水城としても知られています。
ちなみに水城とはお堀の中に海水が流れ込むお城のことです。
現在の天守は、1964年に建立された模擬天守なので、ワクワク度はちょっと低いですが、当時の石垣などが現存していたので、それなりに楽しめるお城でしたよ。
あと、現在NHK大河ドラマ・軍師官兵衛が放送中ということで、城内は官兵衛づくしになっていましたよ。
●中津城 石垣
●写真左
下半分の黒っぽい石垣が当時の石垣。
上半分の白っぽい石垣が復元した石垣なんだって。
●写真右
中津城三の丸の東端にある大手門の石垣。
当時は櫓門だったそうですよ。
●写真左
中津城西南隅にある西門の石垣。
大手門と同じく櫓門だったそうです。
●写真右
堀の本丸側にはおかこい山と呼ばれる石垣がありました。
当時、ここには土塁が築かれていたそうですよ。
●高輪地蔵
1656年、東京高輪の中津藩主・奥平氏の下屋敷で、隣りに屋敷を構える隣藩と境界争いが起こったんだって。
その際、隣藩の1人が中津藩に味方したため、隣藩の上司が腹を立て裏切った藩士を惨殺したという・・・。
そして奥平氏の下屋敷に亡骸を投げ捨てたという!
そんなこんなで、中津藩4代藩主・奥平忠昌はこのことに心を痛め、地蔵菩薩として供養したそうです。
それがこの高輪地蔵さんの由来です。
●西南役中津隊之碑
中津隊とは、西南戦争の際に西郷軍に呼応した部隊のことです。
この碑は1925年に建立されたもののようです。
その他、城内には中津隊百年祭記念碑・恭事神明碑・御即位奉祝記念碑・松尾芭蕉の俳句碑などの石碑がありました。
そんなこんなで参拝後、中津城を散策してきました。
中津城は1588年に黒田孝高(官兵衛)が築城し、細川忠興が完成させたお城です。
高松城・今治城とともに日本三大水城としても知られています。
ちなみに水城とはお堀の中に海水が流れ込むお城のことです。
現在の天守は、1964年に建立された模擬天守なので、ワクワク度はちょっと低いですが、当時の石垣などが現存していたので、それなりに楽しめるお城でしたよ。
あと、現在NHK大河ドラマ・軍師官兵衛が放送中ということで、城内は官兵衛づくしになっていましたよ。
●中津城 石垣
●写真左
下半分の黒っぽい石垣が当時の石垣。
上半分の白っぽい石垣が復元した石垣なんだって。
●写真右
中津城三の丸の東端にある大手門の石垣。
当時は櫓門だったそうですよ。
●写真左
中津城西南隅にある西門の石垣。
大手門と同じく櫓門だったそうです。
●写真右
堀の本丸側にはおかこい山と呼ばれる石垣がありました。
当時、ここには土塁が築かれていたそうですよ。
●高輪地蔵
1656年、東京高輪の中津藩主・奥平氏の下屋敷で、隣りに屋敷を構える隣藩と境界争いが起こったんだって。
その際、隣藩の1人が中津藩に味方したため、隣藩の上司が腹を立て裏切った藩士を惨殺したという・・・。
そして奥平氏の下屋敷に亡骸を投げ捨てたという!
そんなこんなで、中津藩4代藩主・奥平忠昌はこのことに心を痛め、地蔵菩薩として供養したそうです。
それがこの高輪地蔵さんの由来です。
●西南役中津隊之碑
中津隊とは、西南戦争の際に西郷軍に呼応した部隊のことです。
この碑は1925年に建立されたもののようです。
その他、城内には中津隊百年祭記念碑・恭事神明碑・御即位奉祝記念碑・松尾芭蕉の俳句碑などの石碑がありました。
御朱印情報
●御朱印の種類
・城井神社の御朱印
●御朱印の受付場所
・中津大神宮の社務所
(中津大神宮の拝殿前)
●御朱印の受付時間
・9:00~16:30
●御朱印の初穂料(料金)
・各300円
●期間限定・特別御朱印
・なし
●オリジナル御朱印帳
・なし
・2018年3月18日 参拝
・2021年1月 更新
・城井神社の御朱印
●御朱印の受付場所
・中津大神宮の社務所
(中津大神宮の拝殿前)
●御朱印の受付時間
・9:00~16:30
●御朱印の初穂料(料金)
・各300円
●期間限定・特別御朱印
・なし
●オリジナル御朱印帳
・なし
・2018年3月18日 参拝
・2021年1月 更新
アクセスと駐車場
●JR 中津駅
●最寄りの駅
・JR中津駅から徒歩15分
・JR中津駅から車で6分
●駐車場
●駐車場
・無料の駐車場あり
・約50台
(中津城公園の駐車場を利用)
●最寄りの駅
・JR中津駅から徒歩15分
・JR中津駅から車で6分
●駐車場
●駐車場
・無料の駐車場あり
・約50台
(中津城公園の駐車場を利用)
城井神社の地図
中津城公園内の神社
●中津大神宮の参拝記と御朱印情報
●中津神社の参拝記と御朱印情報
●奥平神社の参拝記と御朱印情報
中津大神宮の御朱印~豊前の国のお伊勢様~(大分県中津市)
所在地大分県中津市二ノ丁1273祭 神天照大御神・豊受大御神・倭姫命・天宇豆売命由 緒1881年、伊勢神宮から分霊を勧請し、中津城址に創建したのが始まりといいます。創建当初は、神宮豊前教会という名称でした...
●中津神社の参拝記と御朱印情報
中津神社の御朱印~中津祇園で有名な神社~(大分県中津市)
所在地大分県中津市二ノ丁1273−1祭 神素盞鳴尊・応神天皇・仁徳天皇・他13柱由 緒1883年、六所神社を主とし、義氏神社・稲荷神社・蛭子神社・大江八幡宮の分霊を合祀して創建した神社。中津市を代表する祭...
●奥平神社の参拝記と御朱印情報
奥平神社の御朱印~中津城・天守前に鎮座~(大分県中津市)
所在地大分県中津市二ノ丁祭 神貞能霊神・信昌霊神・家昌霊神・仙丸君霊神由 緒1717年、豊前・中津藩に入府した中津城主・奥平昌成が、豊前の守護神として祖先を祀ったのがこの神社の始まりといいます。...