所在地 | 山口県下関市長府安養寺3丁目3−8 |
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宗 派 | 黄檗宗 |
由 緒 | 1698年、長府藩3代藩主・毛利綱元が、宇治・萬福寺の第7代住持・悦山道宗禅師を開山として迎え創建したのが始まり。もともとこのお寺は下関市内の綾羅木というところにあったそうです。当初の寺号は元享山 利済寺でしたが、それを現在地に移転し、法輪山 覚苑寺と改称したそうです。江戸時代、長府藩主が厚く崇敬し、長府毛利家の菩提寺の1つとなりました。かつては七堂伽藍を有していましたが、明治時代の廃仏毀釈で衰退。その後、再興され現在に至るそうです。 |
HP | 紅葉の寺 法輪山覚苑寺<下関市> |
Contents
山門と石灯籠と鐘楼
●境内入口
長府毛利家の菩提寺であります覚苑寺に到着。
覚苑寺と書いてかくおんじと読みます。
覚苑寺は標高177mの覚苑寺山(準提山)の麓にあり、古い町並みが残る城下町の鬼門(北東)に位置しています。
●覚苑寺の見どころ
・江戸時代建立の本堂
・庫裏(勝山御殿の玄関)
・長府毛利家の墓所
・長門鋳銭所跡(国指定史跡)
・乃木希典像
・狩野芳崖像
・紅葉の名所
などなど、見どころ満載のお寺さんのようです。
そんなこんなで、参拝開始。
●山門
●山門
・2019年建立
・瓦葺 切妻造 薬医門
まず最初に登場するのは山門。
実は今回で2度目の参拝になるのですが、前回の2009年に参拝したときは山門がなかったため、やや荒廃感のある古ぼけたお寺さんという記憶でした。
しかし、山門ができたことで生き生きとした面構えになっていたので、前回とは全く違う印象を受けたひと時でした。
このお寺は、1698年に長府藩3代藩主・毛利綱元さんが、宇治・萬福寺の第7代住持・悦山道宗禅師を開山として迎え創建したのが始まりといいます。
●参道の石灯籠
そんなこんなで、山門をくぐり参道へ。
参道には一風変わった石灯籠がありました。 表は1つの石で、裏は石積みというリバーシブル。
面白い灯籠ですねぇ。
●鐘楼
●鐘楼
・1698年建立
・瓦葺 入母屋造
続いて、鐘楼で鐘をひと撞き・・・と言いたいところですが、鐘を鳴らすことはできませんでした。
袴腰っぽいフォルムですが、上層も下層も漆喰壁の真壁というのが面白いなぁと思いました。
これも一種の黄檗宗建築なのでしょうか。
そんなことより、江戸地代に描かれた絵図によると、かつては七堂伽藍を有するお寺だったそうですが、明治時代の廃仏毀釈でたくさんのお堂が取り壊されてしまったという。。
しかし、この鐘楼は無事だったみたいです。
そんなこんなで、創建当初から残る建造物はこの鐘楼のみなんだって。
長府毛利家の菩提寺であります覚苑寺に到着。
覚苑寺と書いてかくおんじと読みます。
覚苑寺は標高177mの覚苑寺山(準提山)の麓にあり、古い町並みが残る城下町の鬼門(北東)に位置しています。
●覚苑寺の見どころ
・江戸時代建立の本堂
・庫裏(勝山御殿の玄関)
・長府毛利家の墓所
・長門鋳銭所跡(国指定史跡)
・乃木希典像
・狩野芳崖像
・紅葉の名所
などなど、見どころ満載のお寺さんのようです。
そんなこんなで、参拝開始。
●山門
●山門
・2019年建立
・瓦葺 切妻造 薬医門
まず最初に登場するのは山門。
実は今回で2度目の参拝になるのですが、前回の2009年に参拝したときは山門がなかったため、やや荒廃感のある古ぼけたお寺さんという記憶でした。
しかし、山門ができたことで生き生きとした面構えになっていたので、前回とは全く違う印象を受けたひと時でした。
このお寺は、1698年に長府藩3代藩主・毛利綱元さんが、宇治・萬福寺の第7代住持・悦山道宗禅師を開山として迎え創建したのが始まりといいます。
●悦山道宗禅師とは?
悦山道宗禅師は中国福建省泉州の出身で黄檗宗の僧。
悦山道宗と書いてえっさんどうしゅうと読むそうです。
1657年に来日し、日本の黄檗宗の開祖・隠元さんから教えを受けたといわれています。
そして覚苑寺を開山後、黄檗宗の大本山・萬福寺(京都)の第7代住持を務めたんだって。
また能書家としても知られているそうです。
悦山道宗禅師は中国福建省泉州の出身で黄檗宗の僧。
悦山道宗と書いてえっさんどうしゅうと読むそうです。
1657年に来日し、日本の黄檗宗の開祖・隠元さんから教えを受けたといわれています。
そして覚苑寺を開山後、黄檗宗の大本山・萬福寺(京都)の第7代住持を務めたんだって。
また能書家としても知られているそうです。
●参道の石灯籠
そんなこんなで、山門をくぐり参道へ。
参道には一風変わった石灯籠がありました。 表は1つの石で、裏は石積みというリバーシブル。
面白い灯籠ですねぇ。
●鐘楼
●鐘楼
・1698年建立
・瓦葺 入母屋造
続いて、鐘楼で鐘をひと撞き・・・と言いたいところですが、鐘を鳴らすことはできませんでした。
袴腰っぽいフォルムですが、上層も下層も漆喰壁の真壁というのが面白いなぁと思いました。
これも一種の黄檗宗建築なのでしょうか。
そんなことより、江戸地代に描かれた絵図によると、かつては七堂伽藍を有するお寺だったそうですが、明治時代の廃仏毀釈でたくさんのお堂が取り壊されてしまったという。。
しかし、この鐘楼は無事だったみたいです。
そんなこんなで、創建当初から残る建造物はこの鐘楼のみなんだって。
大雄宝殿(本堂)
●大雄宝殿(本堂)
●大雄宝殿(本堂)
・1794年建立
・1875年移築
・瓦葺 一重裳階付入母屋造
・下関市指定有形文化財
続いて、大雄宝殿で参拝。
もともとこのお堂は、周防国三田尻(現・防府市)の海蔵醍醐寺にあった本堂だったそうです。
しかし海蔵醍醐寺は廃寺になってしまったため、現在地に移築されたんだって。
ちなみに黄檗宗寺院では本堂のことを大雄宝殿と呼びます。
大雄とはお釈迦さまのことを意味します。
ということで、大雄宝殿とはお釈迦さまを祀るお堂という意味になります。
見た目は2重のお堂に見えますが、下の屋根は裳階のため、実際は1重のお堂となります。
基壇は乱石積。
花崗岩の礎石の上には、四角形の礎盤が置かれていました。
柱は全て面取りがされていて、柱の先端は粽形でした。
ちなみに、粽形とは禅宗様の特徴の1つで、上下の先端がすぼまった柱のことをいいます。
軒は二軒繋垂木。
組物は身舎柱上または大平束上に禅宗様出三斗。
虹梁と禅宗様の木鼻。
窓は禅宗様の特徴の1つであります火灯窓。
こちらは堂内の格天井と虹梁と大瓶束。
そして堂内は土間式になっていました。
禅宗様といえば四半敷というイメージがありますが、土間式も禅宗様の特徴の1つです。
などなど、このお堂には黄檗宗建築の典型的な特徴が多数見られました。
下関市には8ヶ寺の黄檗宗寺院がありますが、覚苑寺のように本格的な黄檗宗建築が残るお寺はありません。
そのため、建築史的な価値が高く、下関市の有形文化財に指定されています。
あと、軒下に吊るされていたお椀型の鐘に梵鐘と書いてあるのが面白いなぁっと思いました。
●御本尊
●釈迦三尊像
・左 → 阿難尊者
・中 → 釈迦如来坐像
・右 → 迦葉尊者
御本尊は釈迦三尊像。
釈迦三尊像の脇侍といえば文殊さんと普賢さんが一般的ですが、黄檗宗寺院では迦葉さんと阿難さんを配することが多いです。
ちなみに、迦葉さんと阿難さんは釈迦十大弟子です。
●大雄宝殿(本堂)
・1794年建立
・1875年移築
・瓦葺 一重裳階付入母屋造
・下関市指定有形文化財
続いて、大雄宝殿で参拝。
もともとこのお堂は、周防国三田尻(現・防府市)の海蔵醍醐寺にあった本堂だったそうです。
しかし海蔵醍醐寺は廃寺になってしまったため、現在地に移築されたんだって。
ちなみに黄檗宗寺院では本堂のことを大雄宝殿と呼びます。
大雄とはお釈迦さまのことを意味します。
ということで、大雄宝殿とはお釈迦さまを祀るお堂という意味になります。
見た目は2重のお堂に見えますが、下の屋根は裳階のため、実際は1重のお堂となります。
基壇は乱石積。
花崗岩の礎石の上には、四角形の礎盤が置かれていました。
柱は全て面取りがされていて、柱の先端は粽形でした。
ちなみに、粽形とは禅宗様の特徴の1つで、上下の先端がすぼまった柱のことをいいます。
軒は二軒繋垂木。
組物は身舎柱上または大平束上に禅宗様出三斗。
虹梁と禅宗様の木鼻。
窓は禅宗様の特徴の1つであります火灯窓。
こちらは堂内の格天井と虹梁と大瓶束。
そして堂内は土間式になっていました。
禅宗様といえば四半敷というイメージがありますが、土間式も禅宗様の特徴の1つです。
などなど、このお堂には黄檗宗建築の典型的な特徴が多数見られました。
下関市には8ヶ寺の黄檗宗寺院がありますが、覚苑寺のように本格的な黄檗宗建築が残るお寺はありません。
そのため、建築史的な価値が高く、下関市の有形文化財に指定されています。
あと、軒下に吊るされていたお椀型の鐘に梵鐘と書いてあるのが面白いなぁっと思いました。
●御本尊
●釈迦三尊像
・左 → 阿難尊者
・中 → 釈迦如来坐像
・右 → 迦葉尊者
御本尊は釈迦三尊像。
釈迦三尊像の脇侍といえば文殊さんと普賢さんが一般的ですが、黄檗宗寺院では迦葉さんと阿難さんを配することが多いです。
ちなみに、迦葉さんと阿難さんは釈迦十大弟子です。
長府毛利家の墓所
●長府毛利家の墓所●長府毛利家の墓所
・山口県指定史跡
覚苑寺は長府毛利家の菩提寺でもあります。
ちなみに長府毛利家の墓所は覚苑寺と功山寺と笑山寺の3ヶ寺にあります。
この覚苑寺には3代・6代・13代藩主のお墓がありました。
●長府藩主 毛利家墓所(覚苑寺)
①3代藩主・毛利綱元
②6代藩主・毛利匡広
③13代藩主・毛利元周
①3代藩主・毛利綱元
②6代藩主・毛利匡広
③13代藩主・毛利元周
ちなみに功山寺と笑山寺の墓所はこちら。
●長府藩主 毛利家墓所(功山寺)
①初代藩主・毛利秀元
②5代藩主・毛利元矩
③9代藩主・毛利匡満
④10代藩主・毛利匡芳
⑤11代藩主・毛利元義
⑥12代藩主・毛利元運
⑦14代藩主・毛利元敏
⑧15代藩主・毛利元雄
⑨16代藩主・毛利元匡
●長府藩主 毛利家墓所(笑山寺)
①2代藩主・毛利光広
②7代藩主・毛利師就
①初代藩主・毛利秀元
②5代藩主・毛利元矩
③9代藩主・毛利匡満
④10代藩主・毛利匡芳
⑤11代藩主・毛利元義
⑥12代藩主・毛利元運
⑦14代藩主・毛利元敏
⑧15代藩主・毛利元雄
⑨16代藩主・毛利元匡
●長府藩主 毛利家墓所(笑山寺)
①2代藩主・毛利光広
②7代藩主・毛利師就
長府毛利家の墓所は、本堂裏にある階段を上ったところにありました。
ちなみに長府毛利家の墓所に続くこの階段は覚苑寺山(準提山)の登山道にもなっています。
●長府藩3代藩主・毛利匡広の墓所
まずは第3代藩主・毛利匡広さんのお墓をお参り。
●長府藩3代藩主・毛利綱元とは?
●毛利綱元
・没年 1709年(享年60歳)
・法号 龍沢院殿道正瑞霖大居士
毛利綱元さんは覚苑寺を創建したお方です。
1651年、第2代藩主・毛利光広の嫡男として江戸で誕生。
1653年、父・光広が亡くなったことにより4歳で家督を継ぐことになったという。
その後、1664年に江戸城で元服。
徳川幕府4代将軍・徳川家綱から1字を授かり綱元と称しました。
綱元さんは倹約家として知られ、1683年に制定した天和御法度では、衣服の制限など細部にわたる倹約を行ったそうです。
ちなみに、綱元さんは忠臣蔵で知られる赤穂事件のときの藩主です。
吉良邸に討ち入り後、赤穂浪士47士のうち10士は長府藩に預けられました。
そして、その10士は長府藩上屋敷で切腹しました。
余談ですが、後の1849年に長府藩上屋敷の侍屋敷で乃木希典さんが生まれています。
江戸時代、参勤交代により各国の藩主は国元ではなく江戸で亡くなることが多かったそうです。
長府藩主も例外ではなく、多くの藩主が江戸で亡くなり、泉岳寺(東京都港区)に埋葬されたんだって。
そんなこんなで、泉岳寺までお墓参りをするのは大変!
ということで、国元の長府に詣り墓を設けました。
しかし、第3代藩主・毛利綱元さんだけは例外で、没後、江戸から長府に遺体が運ばれ、この覚苑寺に埋葬されたといいます。
ということで、このお墓は詣り墓ではなく埋葬墓となっております。
●毛利綱元
・没年 1709年(享年60歳)
・法号 龍沢院殿道正瑞霖大居士
毛利綱元さんは覚苑寺を創建したお方です。
1651年、第2代藩主・毛利光広の嫡男として江戸で誕生。
1653年、父・光広が亡くなったことにより4歳で家督を継ぐことになったという。
その後、1664年に江戸城で元服。
徳川幕府4代将軍・徳川家綱から1字を授かり綱元と称しました。
綱元さんは倹約家として知られ、1683年に制定した天和御法度では、衣服の制限など細部にわたる倹約を行ったそうです。
ちなみに、綱元さんは忠臣蔵で知られる赤穂事件のときの藩主です。
吉良邸に討ち入り後、赤穂浪士47士のうち10士は長府藩に預けられました。
そして、その10士は長府藩上屋敷で切腹しました。
余談ですが、後の1849年に長府藩上屋敷の侍屋敷で乃木希典さんが生まれています。
江戸時代、参勤交代により各国の藩主は国元ではなく江戸で亡くなることが多かったそうです。
長府藩主も例外ではなく、多くの藩主が江戸で亡くなり、泉岳寺(東京都港区)に埋葬されたんだって。
そんなこんなで、泉岳寺までお墓参りをするのは大変!
ということで、国元の長府に詣り墓を設けました。
しかし、第3代藩主・毛利綱元さんだけは例外で、没後、江戸から長府に遺体が運ばれ、この覚苑寺に埋葬されたといいます。
ということで、このお墓は詣り墓ではなく埋葬墓となっております。
●長府藩6代藩主・毛利匡広の墓所
3代藩主・綱元さんと13代藩主・元周さんの墓所は同じエリアにありますが、6代藩主・毛利匡広さんの墓所だけは違う場所にありました。
●長府藩6代藩主・毛利匡広とは?
●毛利匡広
・没年 1729年(享年55歳)
・法号 瑞泉寺殿浄活湛然大居士
もともと毛利匡広さんは長門清末藩の第2代藩主で、毛利元平という名前だったそうです。
1718年、萩藩主・毛利吉元の要請により長府藩を再興。
そして旧長府藩領のうち3万8千石を分地されたそうです。
そんなこんなで、本家筋の長府藩主家を継いだ元平さんは匡広と改名。
そして、1720年に長府藩は5万石となりました。
その後、長府の城下町で火災が多発。
さらに風害・水害に見舞われて藩の財政が悪化してしまったという。
そんなこんなで、藩の財政を立て直すために倹約令を出しましたが、享保の大飢饉で大被害を受けたため、さらに倹約を厳しくせざるを得なくなったという。
しかし、そんななか1729年に長府でお亡くなりになりました。
ちなみに、匡広さんは和漢の学を好み、絵画にも通じ、自画像を残しているそうです。
●毛利匡広
・没年 1729年(享年55歳)
・法号 瑞泉寺殿浄活湛然大居士
もともと毛利匡広さんは長門清末藩の第2代藩主で、毛利元平という名前だったそうです。
1718年、萩藩主・毛利吉元の要請により長府藩を再興。
そして旧長府藩領のうち3万8千石を分地されたそうです。
そんなこんなで、本家筋の長府藩主家を継いだ元平さんは匡広と改名。
そして、1720年に長府藩は5万石となりました。
その後、長府の城下町で火災が多発。
さらに風害・水害に見舞われて藩の財政が悪化してしまったという。
そんなこんなで、藩の財政を立て直すために倹約令を出しましたが、享保の大飢饉で大被害を受けたため、さらに倹約を厳しくせざるを得なくなったという。
しかし、そんななか1729年に長府でお亡くなりになりました。
ちなみに、匡広さんは和漢の学を好み、絵画にも通じ、自画像を残しているそうです。
●長府藩13代藩主・毛利元周の墓所
続いて、激動の幕末に国を治めた13代藩主・毛利元周さんのお墓を参拝。
●長府藩13代藩主・毛利元周とは?
●毛利元周
・没年 1868年(享年42歳)
・法号 諦信院殿梅庵道機大居士
毛利元周さんは第11代藩主・元義の嫡男・元寛の2男として江戸で誕生。
父・元寛が早くに亡くなったことにより、第12代藩主は父の弟・元運が継ぐことに。
そして元運の養嗣子となりますが、1852年に元運がお亡くなりになったため跡を継ぐことに。
そして第13代藩主となりました。
在位中は幕末の動乱の真っ最中。
当時、長府藩は七卿落ちで長州に落ち延びた五卿の保護や、高杉晋作の功山寺挙兵、幕府との戦いである四境戦争、さらに尊皇攘夷で倒幕の先頭に立つ長州藩の一翼を担うなど、極めて困難な時代に直面していました。
1863年、下関戦争による攘夷決行に始まり、1864年の英米仏蘭・四国連合艦隊との戦いなど、6次にわたった攘夷戦で萩本藩・清末支藩とともに参戦。
当時、長府藩の藩邸は海岸の近くにあり、防衛上不利な位置にあったため、内陸の勝山御殿に本拠を移すことになりました。
そんなこんなで、勝山御殿が完成するまでの間、元周さんはこの覚苑寺を本拠にしていたといいます。
ちなみに元周さんが勝山御殿に本拠を移したあと、覚苑寺は奇兵隊の駐屯地になっています。
また、元周さんは坂本龍馬のことを高く評価し、衣類や刀を下賜したり、一時金を与えるなど、坂本龍馬の活動を直接的に支援していたといわれています。
ちなみに元周さんは死後、明治維新の功績により従三位が贈られています。
●毛利元周
・没年 1868年(享年42歳)
・法号 諦信院殿梅庵道機大居士
毛利元周さんは第11代藩主・元義の嫡男・元寛の2男として江戸で誕生。
父・元寛が早くに亡くなったことにより、第12代藩主は父の弟・元運が継ぐことに。
そして元運の養嗣子となりますが、1852年に元運がお亡くなりになったため跡を継ぐことに。
そして第13代藩主となりました。
在位中は幕末の動乱の真っ最中。
当時、長府藩は七卿落ちで長州に落ち延びた五卿の保護や、高杉晋作の功山寺挙兵、幕府との戦いである四境戦争、さらに尊皇攘夷で倒幕の先頭に立つ長州藩の一翼を担うなど、極めて困難な時代に直面していました。
1863年、下関戦争による攘夷決行に始まり、1864年の英米仏蘭・四国連合艦隊との戦いなど、6次にわたった攘夷戦で萩本藩・清末支藩とともに参戦。
当時、長府藩の藩邸は海岸の近くにあり、防衛上不利な位置にあったため、内陸の勝山御殿に本拠を移すことになりました。
そんなこんなで、勝山御殿が完成するまでの間、元周さんはこの覚苑寺を本拠にしていたといいます。
ちなみに元周さんが勝山御殿に本拠を移したあと、覚苑寺は奇兵隊の駐屯地になっています。
また、元周さんは坂本龍馬のことを高く評価し、衣類や刀を下賜したり、一時金を与えるなど、坂本龍馬の活動を直接的に支援していたといわれています。
ちなみに元周さんは死後、明治維新の功績により従三位が贈られています。
庫裏(旧勝山御殿 玄関)
●庫裏(旧勝山御殿 玄関)
●庫裏(旧勝山御殿 玄関)
・1864年建立
・明治時代移築
・瓦葺 入母屋造
現在の庫裏は、かつて長府藩の本拠であった勝山御殿の玄関を移築したものといわれています。
話は戻って、覚苑寺へ。
覚苑寺の庫裏には禅宗のマストアイテムであります開梆がありました。
開梆は魚梆もしくは魚板とも呼ばれ、腹を叩いて時刻を知らせるためのものです。
ちなみに開梆は木魚の原型といわれています。
口にくわえている玉は、人間の心に潜む貪・瞋・痴という煩悩のかたまりで、腹を叩くことによってこの煩悩の玉を吐き出させるという意味があります。
●貪瞋痴とは?
・貪(とん) → 貪り(むさぼり)
・瞋(じん) → 怒り
・痴(ち) → 愚かさ
●庫裏(旧勝山御殿 玄関)
・1864年建立
・明治時代移築
・瓦葺 入母屋造
現在の庫裏は、かつて長府藩の本拠であった勝山御殿の玄関を移築したものといわれています。
●覚苑寺と勝山御殿
1863年、尊皇攘夷で盛り上がる長州藩はアメリカの商船に向けて砲撃を開始。
長府藩も砲台を築くなど、攘夷戦に参加しました。
翌年、英米仏蘭の四国連合艦隊が報復攻撃にやってくるわけなのですが、当時、長府藩主の居館は海岸線にある櫛崎城(串崎城)・三の丸にあったため、立地的にあまりにも無防備。
海に面しているため、どうぞ撃ってくださいといわんばかりの場所に居館がありました。
そのため、四国連合艦隊による報復攻撃に備え、安全な内陸部に勝山御殿を新築することになりました。
しかし、当時は幕府の許可なく新たなお城を築くことは禁止されていました(築城禁止令)
ということで、長府藩は幕府の築城禁止令に触れないように、御殿と称して建立を開始。
しかし、実態は総石垣造りの本格的なお城でありました。
本来、居館の築造や転居は幕府の許可を得る必要がありましたが、史料をたどる限り無許可だったそうです(やるなぁ!)
そんなこんなで、長府藩領内の男女を総動員して約5ヶ月という短期間で勝山御殿を完成させ、長府藩主・毛利元周さんが入居(入城)することになりました。
そして、勝山御殿を本拠にして、四国連合艦隊との戦いや四境戦争に臨むのでありました。
ちなみに勝山御殿が完成するまでの間、長府藩はこの覚苑寺を仮の本拠にしています。
明治維新後、勝山御殿は豊浦県庁となりますが、1873年に解体。
そして、勝山御殿の玄関は覚苑寺に移築されました。
それが現在の覚苑寺・庫裏です。
●勝山御殿跡
●勝山御殿跡
・国指定史跡
実際に勝山御殿に行ってみたのですが、御殿とは名ばかりで、誰がどうみてもお城!
勝山御殿は、標高392mの勝山の麓にあり、西には標高288mの青山、北には標高361mの勝山、東には標高392mの四王司山があり、防御は完璧。
さらに長府城下町に近い好立地。
このように、地理的条件からも当時の切迫した状況がうかがえますねぇ。
ちなみに、勝山御殿跡の説明板によると、大体ここら辺に玄関があったみたいです。
さらにありがたいことに、説明板には玄関の復元イメージ図が描いてありました。
ここに覚苑寺の玄関があったのですね!
1863年、尊皇攘夷で盛り上がる長州藩はアメリカの商船に向けて砲撃を開始。
長府藩も砲台を築くなど、攘夷戦に参加しました。
翌年、英米仏蘭の四国連合艦隊が報復攻撃にやってくるわけなのですが、当時、長府藩主の居館は海岸線にある櫛崎城(串崎城)・三の丸にあったため、立地的にあまりにも無防備。
海に面しているため、どうぞ撃ってくださいといわんばかりの場所に居館がありました。
そのため、四国連合艦隊による報復攻撃に備え、安全な内陸部に勝山御殿を新築することになりました。
しかし、当時は幕府の許可なく新たなお城を築くことは禁止されていました(築城禁止令)
ということで、長府藩は幕府の築城禁止令に触れないように、御殿と称して建立を開始。
しかし、実態は総石垣造りの本格的なお城でありました。
本来、居館の築造や転居は幕府の許可を得る必要がありましたが、史料をたどる限り無許可だったそうです(やるなぁ!)
そんなこんなで、長府藩領内の男女を総動員して約5ヶ月という短期間で勝山御殿を完成させ、長府藩主・毛利元周さんが入居(入城)することになりました。
そして、勝山御殿を本拠にして、四国連合艦隊との戦いや四境戦争に臨むのでありました。
ちなみに勝山御殿が完成するまでの間、長府藩はこの覚苑寺を仮の本拠にしています。
明治維新後、勝山御殿は豊浦県庁となりますが、1873年に解体。
そして、勝山御殿の玄関は覚苑寺に移築されました。
それが現在の覚苑寺・庫裏です。
●勝山御殿跡
●勝山御殿跡
・国指定史跡
実際に勝山御殿に行ってみたのですが、御殿とは名ばかりで、誰がどうみてもお城!
勝山御殿は、標高392mの勝山の麓にあり、西には標高288mの青山、北には標高361mの勝山、東には標高392mの四王司山があり、防御は完璧。
さらに長府城下町に近い好立地。
このように、地理的条件からも当時の切迫した状況がうかがえますねぇ。
ちなみに、勝山御殿跡の説明板によると、大体ここら辺に玄関があったみたいです。
さらにありがたいことに、説明板には玄関の復元イメージ図が描いてありました。
ここに覚苑寺の玄関があったのですね!
話は戻って、覚苑寺へ。
覚苑寺の庫裏には禅宗のマストアイテムであります開梆がありました。
開梆は魚梆もしくは魚板とも呼ばれ、腹を叩いて時刻を知らせるためのものです。
ちなみに開梆は木魚の原型といわれています。
口にくわえている玉は、人間の心に潜む貪・瞋・痴という煩悩のかたまりで、腹を叩くことによってこの煩悩の玉を吐き出させるという意味があります。
●貪瞋痴とは?
・貪(とん) → 貪り(むさぼり)
・瞋(じん) → 怒り
・痴(ち) → 愚かさ
長門鋳銭所跡
●長門鋳銭所跡
●長門鋳銭所跡
・国指定史跡
奈良時代、長府には長門国の国府が置かれていました。
長門国司は鋳銭司の役職を兼任し、貨幣の鋳造を行っていたといわれています。
その場所がここ!
なんと現在の覚苑寺は日本初の流通貨幣といわれる和同開珎を鋳造していた長門鋳銭所跡に創建されたお寺だという!
覚苑寺の周辺では、江戸時代より鋳銭遺物がたびたび発見されていたそうです。
そんなこんなで、1911年に当時の住職・進藤端堂師が境内を発掘。
すると和同開珎の鋳造に関わる銭笵・鞴羽口・坩堝など約100点の鋳銭遺物が発見されたという!
その後、1921年から数回にわたる発掘が実施され、大量の鋳銭遺物が出土したんだって。
そのことにより、1929年に長門鋳銭所跡として覚苑寺の境内などが国の埋蔵文化財の指定を受けたそうです。
さらに、1964年に出土した遺物が国の重要文化財の指定を受け、現在は長府博物館に所蔵されているそうです。
ちなみに、かつて覚苑寺山(準提山)は鋳銭坊(いさんぼう)と呼ばれていたそうです。
和同開珎が鋳造された場所は近江・山城・河内・武蔵・平城京などが知られていますが、遺構が確実に埋存する遺跡としては、現在のところ長門鋳銭所跡が唯一のものといわれています。
2014年に山門と位牌堂の建設予定地で発掘調査が行われた際、約4m下の地中から奈良時代の瓦が出土したそうです。
そのときの発掘調査では貨幣の鋳造に関係する遺物は発見されませんでしたが、発掘された瓦は和同開珎の鋳造時期と同年代とのことなので、もしかしたら鋳銭所の屋根かも?
とか思うとワクワクしちゃいます。
大変興味深いですね。
ちなみに1999年に奈良県明日香村から大量の富本銭が発見されたことにより、日本最古の貨幣は富本銭となりましたが、今のところ富本銭が流通貨幣として使われていたという史料は発見されていないため、現在も和同開珎が日本最古の流通貨幣とされています。
(2022年現在)
●長門鋳銭所跡
・国指定史跡
奈良時代、長府には長門国の国府が置かれていました。
長門国司は鋳銭司の役職を兼任し、貨幣の鋳造を行っていたといわれています。
その場所がここ!
なんと現在の覚苑寺は日本初の流通貨幣といわれる和同開珎を鋳造していた長門鋳銭所跡に創建されたお寺だという!
覚苑寺の周辺では、江戸時代より鋳銭遺物がたびたび発見されていたそうです。
そんなこんなで、1911年に当時の住職・進藤端堂師が境内を発掘。
すると和同開珎の鋳造に関わる銭笵・鞴羽口・坩堝など約100点の鋳銭遺物が発見されたという!
その後、1921年から数回にわたる発掘が実施され、大量の鋳銭遺物が出土したんだって。
そのことにより、1929年に長門鋳銭所跡として覚苑寺の境内などが国の埋蔵文化財の指定を受けたそうです。
さらに、1964年に出土した遺物が国の重要文化財の指定を受け、現在は長府博物館に所蔵されているそうです。
ちなみに、かつて覚苑寺山(準提山)は鋳銭坊(いさんぼう)と呼ばれていたそうです。
和同開珎が鋳造された場所は近江・山城・河内・武蔵・平城京などが知られていますが、遺構が確実に埋存する遺跡としては、現在のところ長門鋳銭所跡が唯一のものといわれています。
2014年に山門と位牌堂の建設予定地で発掘調査が行われた際、約4m下の地中から奈良時代の瓦が出土したそうです。
そのときの発掘調査では貨幣の鋳造に関係する遺物は発見されませんでしたが、発掘された瓦は和同開珎の鋳造時期と同年代とのことなので、もしかしたら鋳銭所の屋根かも?
とか思うとワクワクしちゃいます。
大変興味深いですね。
ちなみに1999年に奈良県明日香村から大量の富本銭が発見されたことにより、日本最古の貨幣は富本銭となりましたが、今のところ富本銭が流通貨幣として使われていたという史料は発見されていないため、現在も和同開珎が日本最古の流通貨幣とされています。
(2022年現在)
乃木希典像と狩野芳崖像
●乃木希典像●乃木希典像
・1958年建立
位牌堂の前には乃木将軍の銅像がありました。
どうやら乃木将軍はこのお寺をたびたび訪れていたみたいです。
まさか、乃木将軍ゆかりのお寺さんだったとは!
●乃木希典と覚苑寺
乃木将軍は長府に帰郷した際、かつての主君・毛利元周さんや少年時代の漢学の師・結城香崖先生のお墓がある覚苑寺をたびたび訪問していたそうです。
当時、第24代住職・進藤端堂さんは乃木将軍と親交を重ね、そして敬愛してやまなかったそうです。
しかしある日、長府に修学旅行に来ていた学生たちが『長府は乃木将軍の故郷だというのに銅像の1つもないじゃないか・・・』という話しを偶然耳にしてしまったという。
そんなこんなで、進藤端堂さんは一念発起!
1932年、1人1銭100万回の托鉢で銅像建立の資金を集めることにしました。
そしてついに1939年に銅像が完成。
銅像の作者は乃木将軍の甥・長谷川栄作さん。
1907年に乃木将軍が長府に帰郷した際、豊浦小学校池畔で撮影した写真をもとに制作したそうです。
しかし1943年、太平洋戦争における金属類回収令により供出。。
その後、1958年に再建されたのが現在の乃木将軍像なんだって。
ちなみに覚苑寺から徒歩5分のところに乃木将軍を祀る乃木神社があります。
乃木将軍は長府に帰郷した際、かつての主君・毛利元周さんや少年時代の漢学の師・結城香崖先生のお墓がある覚苑寺をたびたび訪問していたそうです。
当時、第24代住職・進藤端堂さんは乃木将軍と親交を重ね、そして敬愛してやまなかったそうです。
しかしある日、長府に修学旅行に来ていた学生たちが『長府は乃木将軍の故郷だというのに銅像の1つもないじゃないか・・・』という話しを偶然耳にしてしまったという。
そんなこんなで、進藤端堂さんは一念発起!
1932年、1人1銭100万回の托鉢で銅像建立の資金を集めることにしました。
そしてついに1939年に銅像が完成。
銅像の作者は乃木将軍の甥・長谷川栄作さん。
1907年に乃木将軍が長府に帰郷した際、豊浦小学校池畔で撮影した写真をもとに制作したそうです。
しかし1943年、太平洋戦争における金属類回収令により供出。。
その後、1958年に再建されたのが現在の乃木将軍像なんだって。
ちなみに覚苑寺から徒歩5分のところに乃木将軍を祀る乃木神社があります。
乃木神社の御朱印|乃木将軍の故郷に鎮座|乃木旧邸や遺品を拝観できる宝物館|(山口県下関市)
所在地山口県下関市長府宮の内町3−8祭 神乃木希典由 緒1914年、乃木希典の故郷・長府に乃木記念会が結成されたという。そして乃木希典が幼少時代を過ごした旧家を復元し、幼少期の像や遺品などを展示する乃木記...
●狩野芳崖像
●狩野芳崖像
・1979年建立
山門をくぐったところには狩野芳崖さんの銅像もありました。
どうやらこの覚苑寺は狩野家の菩提寺とのことです。
●狩野芳崖とは?
狩野芳崖さんは悲母観音や不動明王などの作品で知られる日本画家で、近代日本画の父と呼ばれるお方です。
1828年、長府印内で長府藩の御用絵師・狩野晴皐の子として誕生。
当初は父・晴皐から絵を学んでいましたが、19歳のときに江戸に出て狩野雅信のもとに入門したそうです。
明治時代初期、フェノロサに見いだされ日本画革新運動の強力な推進者となりました。
フェノロサは、狩野芳崖さんの仁王捉鬼図を内閣総理大臣・伊藤博文に見せて日本画の可能性を示し、美術界の新人養成機関が必要であることを説いたという。
そんなこんなで、狩野芳崖さんは東京美術学校(現・東京芸術大学)の創立に尽力しましたが、開校を待たずしてお亡くなりになりました。。
狩野芳崖さんは悲母観音や不動明王などの作品で知られる日本画家で、近代日本画の父と呼ばれるお方です。
1828年、長府印内で長府藩の御用絵師・狩野晴皐の子として誕生。
当初は父・晴皐から絵を学んでいましたが、19歳のときに江戸に出て狩野雅信のもとに入門したそうです。
明治時代初期、フェノロサに見いだされ日本画革新運動の強力な推進者となりました。
フェノロサは、狩野芳崖さんの仁王捉鬼図を内閣総理大臣・伊藤博文に見せて日本画の可能性を示し、美術界の新人養成機関が必要であることを説いたという。
そんなこんなで、狩野芳崖さんは東京美術学校(現・東京芸術大学)の創立に尽力しましたが、開校を待たずしてお亡くなりになりました。。
西国三十三所観音菩薩と和同窯と紅葉
●西国三十三所観音菩薩
境内裏山の覚苑寺山(準提山)には、登山道に沿って西国三十三所の観音石仏が点在しているみたいです。
いわゆる西国三十三所のミニ霊場です。
覚苑寺山は標高177mの低山で、片道約30分で登頂できるそうですよ。
山頂からは長府の町並みと瀬戸内海が一望できるんだって。
●和同窯
その他、境内には和同窯という和同焼の窯元がありました。
庫裏で声を掛ければ作品を拝観できます。
●紅葉
覚苑寺は別名・紅葉の寺と呼ばれているそうで、境内には約100本のモミジやカエデが植えられているそうです。
ちなみに例年の見頃は11月中旬から11月下旬とのことです。
そんなこんなで、参拝終了。
いやはや、見どころの多いお寺さんでした。
境内裏山の覚苑寺山(準提山)には、登山道に沿って西国三十三所の観音石仏が点在しているみたいです。
いわゆる西国三十三所のミニ霊場です。
覚苑寺山は標高177mの低山で、片道約30分で登頂できるそうですよ。
山頂からは長府の町並みと瀬戸内海が一望できるんだって。
●和同窯
その他、境内には和同窯という和同焼の窯元がありました。
庫裏で声を掛ければ作品を拝観できます。
●紅葉
覚苑寺は別名・紅葉の寺と呼ばれているそうで、境内には約100本のモミジやカエデが植えられているそうです。
ちなみに例年の見頃は11月中旬から11月下旬とのことです。
そんなこんなで、参拝終了。
いやはや、見どころの多いお寺さんでした。
御朱印情報
●御朱印の種類
・覚苑寺の御朱印(大雄宝殿)
御朱印は大雄宝殿の他に、墨書なしの印と日付だけの御朱印だったり、和同開珎の印の御朱印だったり、その時によって違うみたいです。
●御朱印の受付場所
・庫裏(寺務所)
●御朱印の受付時間
・不明
●御朱印の料金
・300円
●期間限定・特別御朱印
・なし
●オリジナル御朱印帳
・なし
・2009年1月31日 参拝
・2022年3月15日 再訪
・2022年4月 更新
参拝情報とアクセス
●開門時間
・不明
●拝観料
・無料
●最寄りの駅
・JR長府駅から徒歩40分
・JR長府駅から車で10分
●最寄りのバス停
・サンデン交通
城下町長府 バス停から徒歩12分
●最寄りのIC
・中国自動車道・関門自動車道
下関ICから車で10分
●駐車場
●駐車場料金
・無料
●駐車台数
・約5台
・不明
●拝観料
・無料
●最寄りの駅
・JR長府駅から徒歩40分
・JR長府駅から車で10分
●最寄りのバス停
・サンデン交通
城下町長府 バス停から徒歩12分
●最寄りのIC
・中国自動車道・関門自動車道
下関ICから車で10分
●駐車場
●駐車場料金
・無料
●駐車台数
・約5台