所在地 | 山口県山口市糸米2丁目10−10 |
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祭 神 | 木戸孝允 |
由 緒 | 1877年、木戸孝允は臨終の際『糸米村にある木戸家の旧宅と山林を糸米村へ寄付し、村民の学資に充てるように』と遺言を残したそうです。 そんなこんなで、木戸孝允の死後、長男・木戸正二郎が遺言に従い、木戸家の旧宅と山林を糸米村へ寄付。これに感謝した村民が木戸孝允の邸宅跡に祠を建立したのがこの神社の始まりといいます。 |
鳥居と参道
●境内入口
本日はレンタサイクルで西の京・山口を旅しています。
そんなこんなで、西郷隆盛と大久保利通とともに維新三傑の1人・木戸孝允さんを祀る木戸神社に到着。
木戸神社と書いてきどじんじゃと読みます。
ちなみに木戸神社は木戸公園内に鎮座していました。
もともとこの地は木戸家の旧宅があった場所なんだって。
木戸孝允さんが臨終の際『木戸家の旧宅と山林を糸米村へ寄付して、村民の学資に充てるように』と遺言を残したことにより、長男・木戸正二郎が遺言に従って木戸家の旧宅と山林を糸米村へ寄付。
これに感謝した村民が木戸孝允さんの邸宅跡に祠を建立したのがこの神社の始まりなんだそうです。
とのことですが、看板が倒れてたりして少々荒れた感じがした境内でした。
感謝して創建された神社ですが、時代とともにな〜んとなく感謝が薄れてるような!
そんなこんなで、参拝開始。
●鳥居①
●鳥居①
・1947年頃移設(?)
・明神鳥居
まず最初に登場するのは鳥居①。
地元の方から、通称・きどさまと呼ばれ親しまれている神社のようです。
●参道
そんなこんなで、鳥居①をくぐって境内へ。
木戸神社は山口市内有数の桜の名所として知られてるらしく、木戸公園内には約100本の桜が植えられてるんだって。
しかし本日はシーズンオフということもあってか、境内は人の気配がなく、ちょっぴり不気味さを感じる薄暗い空間となっておりました。
●鳥居②
●鳥居②
・1891年建立(?)
・明神鳥居
続いて、鳥居②が登場。
一部文字が確認できませんでしたが、な~んとなく明治廿四年三月と書いてあるように見えました。
ということで、この鳥居は1891年建立?
そんなことよりなんと!
この鳥居には額束が3つもあるという!
しかもめちゃくちゃ低い!
低身長の私でも余裕で手が届きます!
もしかしたら、もともと額束は1つだけだったけど、後の時代に補強のために額束2つを付け加えた・・・のかな???
何にしろ、なかなかの珍鳥居ですねぇ。
本日はレンタサイクルで西の京・山口を旅しています。
そんなこんなで、西郷隆盛と大久保利通とともに維新三傑の1人・木戸孝允さんを祀る木戸神社に到着。
木戸神社と書いてきどじんじゃと読みます。
ちなみに木戸神社は木戸公園内に鎮座していました。
もともとこの地は木戸家の旧宅があった場所なんだって。
木戸孝允さんが臨終の際『木戸家の旧宅と山林を糸米村へ寄付して、村民の学資に充てるように』と遺言を残したことにより、長男・木戸正二郎が遺言に従って木戸家の旧宅と山林を糸米村へ寄付。
これに感謝した村民が木戸孝允さんの邸宅跡に祠を建立したのがこの神社の始まりなんだそうです。
とのことですが、看板が倒れてたりして少々荒れた感じがした境内でした。
感謝して創建された神社ですが、時代とともにな〜んとなく感謝が薄れてるような!
そんなこんなで、参拝開始。
●鳥居①
●鳥居①
・1947年頃移設(?)
・明神鳥居
まず最初に登場するのは鳥居①。
地元の方から、通称・きどさまと呼ばれ親しまれている神社のようです。
●参道
そんなこんなで、鳥居①をくぐって境内へ。
木戸神社は山口市内有数の桜の名所として知られてるらしく、木戸公園内には約100本の桜が植えられてるんだって。
しかし本日はシーズンオフということもあってか、境内は人の気配がなく、ちょっぴり不気味さを感じる薄暗い空間となっておりました。
●鳥居②
●鳥居②
・1891年建立(?)
・明神鳥居
続いて、鳥居②が登場。
一部文字が確認できませんでしたが、な~んとなく明治廿四年三月と書いてあるように見えました。
ということで、この鳥居は1891年建立?
そんなことよりなんと!
この鳥居には額束が3つもあるという!
しかもめちゃくちゃ低い!
低身長の私でも余裕で手が届きます!
もしかしたら、もともと額束は1つだけだったけど、後の時代に補強のために額束2つを付け加えた・・・のかな???
何にしろ、なかなかの珍鳥居ですねぇ。
拝殿と本殿
●拝殿
●拝殿
・建立年不明
・1947年頃移築
・瓦葺 入母屋造
続いて、拝殿で参拝。
この神社は1878年に祠を建立したのが始まりで、その後も祭祀を怠ることがなかったといいます。
しかし神社明細帳への登載脱漏のため、無格の神社に過ぎなかったんだって。
そんなこんなで、糸米の有志たちはこのことを嘆き、1940年に神社創立の許可を得たそうです。
そして境内地を買収して整地。
さらに社殿建立のための建築用材も購入。
しかし!
太平洋戦争中という情勢から神社の創建ならびに社殿の建立は許されず延期になってしまったという。。
その後、社殿建立のために購入した建築用材は、戦災で焼失した赤間神宮の再建用材として譲り渡すことになったそうです。
終戦後の1947年。
改めて、神社本庁から神社創建の許可を得て、念願だった木戸神社を創建することができたんだって。
しかし、社殿建立のために購入した建材はもうありません。。
そんなこんなで、山口市江良に鎮座していた江良神社の社殿を移築。
さらに鳥居と灯籠は県庁内露山にあったものを買い取って移設したんだって。
ということで、この神社は市内各所から寄せ集めて創建された神社なのかな?
地元住民を思って木戸家の財産を寄付した木戸孝允さん。
なんとかして、そのお気持ちに報いたい・・・そんな地元有志の方々の思いを想像するとちょっぴり目頭が熱くなっちゃいましたよ。
こちらは拝殿の蟇股です。
蟇股の背後に見える扁額は徳川宗敬さんが揮毫したものなんだって。
ちなみに、徳川宗敬さんは水戸徳川家12代当主・徳川篤敬さんの次男。
そして江戸幕府15代将軍・徳川慶喜さんの大叔父に当たるお方なんだって。
拝殿内には御祭神・木戸孝允さんの写真が掲げられていました。
なかなかのイケメンですねぇ。
●本殿
●本殿
・建立年不明
・銅板葺 一間社流造
・御祭神 木戸孝允
本殿は小さな一間社流造。
この本殿は創建時のものなのか、はたまた別の地から移築したものなのかは知ることができませんでした。
御祭神の木戸孝允さんは、現・山口県萩市出身。
幕末期に京都や江戸などで国事に活躍。
薩長同盟を結ぶなど、明治新政府樹立に多大な貢献をしたお方です。
明治新政権が発足すると、総裁局顧問・参議などを歴任。
以後、五箇条の御誓文や版籍奉還や廃藩置県などなど歴史に残る決断を次々に断行し、中央集権国家の樹立に貢献しました。
●拝殿
・建立年不明
・1947年頃移築
・瓦葺 入母屋造
続いて、拝殿で参拝。
この神社は1878年に祠を建立したのが始まりで、その後も祭祀を怠ることがなかったといいます。
しかし神社明細帳への登載脱漏のため、無格の神社に過ぎなかったんだって。
そんなこんなで、糸米の有志たちはこのことを嘆き、1940年に神社創立の許可を得たそうです。
そして境内地を買収して整地。
さらに社殿建立のための建築用材も購入。
しかし!
太平洋戦争中という情勢から神社の創建ならびに社殿の建立は許されず延期になってしまったという。。
その後、社殿建立のために購入した建築用材は、戦災で焼失した赤間神宮の再建用材として譲り渡すことになったそうです。
終戦後の1947年。
改めて、神社本庁から神社創建の許可を得て、念願だった木戸神社を創建することができたんだって。
しかし、社殿建立のために購入した建材はもうありません。。
そんなこんなで、山口市江良に鎮座していた江良神社の社殿を移築。
さらに鳥居と灯籠は県庁内露山にあったものを買い取って移設したんだって。
ということで、この神社は市内各所から寄せ集めて創建された神社なのかな?
地元住民を思って木戸家の財産を寄付した木戸孝允さん。
なんとかして、そのお気持ちに報いたい・・・そんな地元有志の方々の思いを想像するとちょっぴり目頭が熱くなっちゃいましたよ。
こちらは拝殿の蟇股です。
蟇股の背後に見える扁額は徳川宗敬さんが揮毫したものなんだって。
ちなみに、徳川宗敬さんは水戸徳川家12代当主・徳川篤敬さんの次男。
そして江戸幕府15代将軍・徳川慶喜さんの大叔父に当たるお方なんだって。
拝殿内には御祭神・木戸孝允さんの写真が掲げられていました。
なかなかのイケメンですねぇ。
●本殿
●本殿
・建立年不明
・銅板葺 一間社流造
・御祭神 木戸孝允
本殿は小さな一間社流造。
この本殿は創建時のものなのか、はたまた別の地から移築したものなのかは知ることができませんでした。
御祭神の木戸孝允さんは、現・山口県萩市出身。
幕末期に京都や江戸などで国事に活躍。
薩長同盟を結ぶなど、明治新政府樹立に多大な貢献をしたお方です。
明治新政権が発足すると、総裁局顧問・参議などを歴任。
以後、五箇条の御誓文や版籍奉還や廃藩置県などなど歴史に残る決断を次々に断行し、中央集権国家の樹立に貢献しました。
木戸公恩徳碑
●木戸公恩徳碑
●木戸公恩徳碑
・1886年建立
その他、境内には木戸公恩徳碑という石碑もありました。
内大臣従一位公爵三條実美篆額
故内閣顧問木戸公臨終遺言曰周防国吉敷郡糸米村故宅山林挙與之村民使其子弟有所資而学也・・・法制官正六位落合済三撰並書
碑文は漢字だらけで何のこっちゃワケわかんないです。
なんとかして碑文を全文書き起こそうと思いましたが、気が狂いそうになったので途中で断念!
どうやら碑文にはこのようなことが書かれているみたいですよ。
そんなこんなで、参拝終了。
ちなみに、私が参拝した当時は御朱印はありませんでしたが、現在は今八幡宮で頂けるみたいです。
●木戸公恩徳碑
・1886年建立
その他、境内には木戸公恩徳碑という石碑もありました。
内大臣従一位公爵三條実美篆額
故内閣顧問木戸公臨終遺言曰周防国吉敷郡糸米村故宅山林挙與之村民使其子弟有所資而学也・・・法制官正六位落合済三撰並書
碑文は漢字だらけで何のこっちゃワケわかんないです。
なんとかして碑文を全文書き起こそうと思いましたが、気が狂いそうになったので途中で断念!
どうやら碑文にはこのようなことが書かれているみたいですよ。
そんなこんなで、参拝終了。
ちなみに、私が参拝した当時は御朱印はありませんでしたが、現在は今八幡宮で頂けるみたいです。
今八幡宮の御朱印|山口総鎮守|国重文の楼拝殿造|八幡隊屯所跡|(山口県山口市)
所在地山口県山口市上宇野令828−1祭 神・応神天皇・仲哀天皇・神功皇后・玉依姫命・宇治皇子由 緒創建年は不詳。しかし1278~1287年、大内氏4代当主・大内弘成の娘に『今八幡殿』という名が見える...
木戸孝允(桂小五郎)とは?
●木戸孝允と名乗ったのはいつ?
木戸孝允さんは幾度となく名前を変えて生きてきたお方として知られています。
●木戸孝允さんの生涯
1833年、長州藩の藩医・和田昌景の長男として現・山口県萩市で誕生。
しかし長男なのに跡継ぎにはなれなかったという。
そんなこんなで、和田家の向かいにある桂家の養子になることに。
1846年、内藤作兵衛の道場に入門。
1848年に元服し、和田小五郎から桂小五郎に。
1852年、剣術の腕が認められ、剣術修行のために江戸留学が許可されました。
そして、江戸三大道場の1つ・神道無念流の練兵館に入門し、斎藤新太郎の指導を受け、わずか1年で免許皆伝を得たという。
さらに藩命で帰郷するまでの5年間、塾頭を務めたという。
小五郎は剣術に励む一方で勉学にも力を入れていました。
1849年、長州藩の藩校・明倫館で吉田松陰から教えを受けました。
ちなみによく誤解されますが、桂小五郎は吉田松陰が主宰した松下村塾で学んでいません。
当時、桂小五郎は江戸にいました。
その後1863年、藩命により京都へ行き、破約攘夷活動を行いました。
しかし、1863年の八月十八日の政変により、長州藩士は京都を追い出されることになりました。
そんなこんなで、長州藩のリーダー格であった小五郎は命を狙われるようになり、京都で潜伏生活を送ることに。
小五郎は、御所を焼き討ちにし、混乱に乗じて一橋慶喜や松平容保などの対抗勢力を暗殺、さらには孝明天皇を長州に連れて行くという計画を練っていました。
しかしこの計画が新撰組にバレてしまったという。
そして1864年、旅籠・池田屋に潜伏していた長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派の志士は新選組に襲撃されました(池田屋事件)
これをきっかけに長州藩は京都に攻め込みました(禁門の変)
このとき小五郎は会津藩の兵に捕まってしまいましたが『ウンコに行きたい』と騒ぎ出し、その隙に逃亡するという技を披露!
そして、再び長州藩の立場を回復させるのためにひそかに暗躍します。
その後、禁門の変を起こした長州藩を処分するため、江戸幕府による第一次長州征討が行われました。
この頃、長州藩の内部では保守派の椋梨藤太らが台頭し、藩政の主導権を握っていました。
そんなこんなで、保守派は禁門の変の責任者らを処罰。
そしてひたすら謝罪し、長州藩は幕府に従うことになりました。
しかし、高杉晋作が保守化した長州藩を倒して藩政の主導権を奪い返すクーデターを起こしました(功山寺挙兵・回天義挙)
そして、再び長州藩は尊皇攘夷派が主導権を握ることに。
その後、高杉晋作は小五郎が生きて潜伏していることを知る。
小五郎は新撰組や京都見廻組に狙われながらも、乞食や船頭や商人、さらに女装をしたりして京都に潜伏し続けていました。
そんなこんなで、高杉晋作は小五郎を探し出し、長州藩の統率者として迎え入れました。
そして小五郎は藩政改革・軍制改革を進めていきました。
しかしこの頃、長州藩は禁門の変の始末として武器を購入することが禁止されていました。
何とかして武器を手に入れたい・・・
そこで坂本龍馬らが仲介役となり、犬猿の仲だった長州藩・桂小五郎と薩摩藩・西郷隆盛の会談が実現。
そして薩長同盟が結ばれました。
こうして長州藩は薩摩藩を通して大量の武器を手に入れることに成功しました。
その後、大政奉還・王政復古・鳥羽伏見の戦いなど激動の時代へと突入し、明治維新を迎えることに。
1868年、戊辰戦争の最中、明治新政府は五箇条の御誓文を発布しました。
五箇条の御誓文は由利公正が起案し、福岡孝弟が修正し、木戸孝允(小五郎)が加筆・修正を加えています。
ちなみに五箇条の御誓文とは、明治天皇が神々に誓うという形式で示した明治新政府の基本方針のことです。
その後も木戸孝允(小五郎)は様々な政策を断行。
これまで藩のものだった土地と人を天皇に返還(版籍奉還)
藩を廃止し新たに府県を置く(廃藩置県)
これにより、代々続いてきた大名家や、大名から給料をもらっていた武士などが職を失うことに。
そんなこんなで、武士などから大反発されますが、木戸孝允(小五郎)は欧米列強に追いつくためにこの2つの政策を断行しました。
1874年、台湾出兵が決定すると、木戸孝允はこれに抗議して参議を辞職。
しかし、翌年に復帰。
1877年、西南戦争が勃発すると、木戸孝允はすぐさま西郷軍征討を願い出るために、京都に出張しました。
しかし病状が悪化し死去(享年45歳)
最期は朦朧とする意識の中、大久保利通の手を握り『西郷もいいかげんにしないか』と、明治政府と西郷隆盛の両方を案じる言葉を発して亡くなったといわれています。
●逃げの小五郎は凄腕の剣豪だった!
木戸孝允さんといえば逃げの小五郎というキャッチフレーズが有名なためコソコソと暗躍していたという勝手なイメージを持っていましたが、実は剣術の腕は相当なものだったみたいです。
小五郎は、江戸三大道場の1つ・神道無念流の免許皆伝を得て、塾頭を務めたお方なのに、なぜ剣豪のイメージがないのでしょう???
実は小五郎は、生涯刀で人を斬らなかったといわれています(諸説あり)
なぜ刀で人を斬らなかったのかというと、神道無念流は実践に向かなかったとか、師匠の斎藤弥九郎から『簡単に刀を抜くな』という教えを守ったからともいわれています(諸説あり)
そんなこんなで、戦わずに逃げるという戦法で無謀な戦いを避け、明治という新時代を切り開いていきました。
もし戦って殺されていたら、明治維新はまた別のかたちで実現していたかも知れませんね!
●木戸孝允さんの墓所
木戸孝允さんのお墓は京都の霊山護国神社(霊山墓地)にあります。
霊山墓地は坂本龍馬さんや中岡慎太郎さんや吉村寅太郎さんなどなど、幕末の志士たちが眠っていることで知られていますが、木戸孝允さんのお墓はその墓地の1番高いところにあるという!
維新三傑の1人というだけあって、格の違いが表れていますね。
ちなみに、木戸孝允さんのお墓の隣には妻・幾松(松子)さんのお墓もありました。
●幕末最大のロマンス
幾松さんは京の売れっ子芸者だったそうです。
小五郎と幾松が出会ったのは宴席。
小五郎は出会ってすぐに幾松に夢中になりアプローチしまくっていたそうです。
当時、幾松には贔屓の富豪がいたそうですが、小五郎は張り合って大金を惜しみなく使ったという。
そして、最終的に小五郎の従者だった伊藤博文が刀で相手の富豪を脅して、幾松を手に入れたんだって!
1864年の禁門の変で長州藩が窮地に追い込まれた際、小五郎は京都に潜伏していました。
当時、京都では長州藩の人間は発見されたら殺されるという空気が流れていたといいます。
そんな時代に幾松は小五郎の隠れ場を変えたり、食事を運ぶなどして潜伏生活を助けていたそうです。
さらに幾松は芸者をしながら情報収集も行っていたそうです。
新撰組や京都見廻組に狙われ、最重要指名手配者だった小五郎をかくまえば、幾松も殺されていたかも知れません。
そんな危険に晒されながらも、小五郎を陰で支え続けた幾松さん・・・愛の深さを感じますねぇ。
そんなこんなで2人の愛は幕末の動乱に揺らぐことなく、明治維新を迎えてから正式に結婚しました。
当時、武士と芸者は身分差があるため結婚に大きな障害となっておりました。
しかし、幾松を長州藩士・岡部富太郎の養女とすることで、晴れて結婚できたという。
この時は木戸孝允と改名していたため、嫁いだ幾松は木戸松子という名になりました。
ちなみに2人の結婚は、身分差を乗り越えた正式な結婚として初のケースといわれています(諸説あり)
さらに結婚の直前、2人は城崎温泉を旅行しています。
日本初の新婚旅行は坂本龍馬さんとお龍さんが有名ですが、実は木戸孝允さんと松子さんの方が早かったかも?
ともいわれています(諸説あり)
木戸孝允さんは幾度となく名前を変えて生きてきたお方として知られています。
●和田小五郎
長州藩の医師・和田昌景の長男として生まれたため。
●桂小五郎
7歳のとき桂家の養子になったため。
●新堀松輔・広戸孝助など
幕末期、幕府の指名手配から逃れるため、新堀松輔や広戸孝助など10以上の名前を使用していたそうです。
●木戸貫治・木戸準一郎
禁門の変の後、木戸孝允さんは京都に潜伏して暗躍していました。
当時、京都では会津藩による長州藩の残党狩りが盛んだった時代。
どこかに木戸孝允さんが潜伏していることを知った高杉晋作さんや大村益次郎さんたちは、木戸孝允さんを探し出し長州藩の統率者として迎え入れることにしました。
しかし長州藩主・毛利敬親さんは、幕府の指名手配者を長州藩の統率者にするわけにはいかない・・・。
ということで、桂小五郎は行方不明扱いとし、木戸という姓を与えました。
そして、木戸貫治と名乗るようになり、さらに36歳からは木戸準一郎と名乗るようになりました。
●木戸孝允
実は孝允という名前は、養子先で桂家の当主を引き継いだときの諱だという。
江戸時代の人は諱を持っており、日常では通称を使うのが普通でした。
しかし明治時代、諱と通称を併称することが公式に廃止されたため、全ての人が戸籍に氏と名を登録することになりました。
そんなこんなで、長州藩主から賜った木戸と諱である孝允を合体させて木戸孝允を名乗るようになりました。
ちなみに、いつから木戸孝允と名乗るようになったのかは不明。
一説によると1868年以降といわれています。
長州藩の医師・和田昌景の長男として生まれたため。
●桂小五郎
7歳のとき桂家の養子になったため。
●新堀松輔・広戸孝助など
幕末期、幕府の指名手配から逃れるため、新堀松輔や広戸孝助など10以上の名前を使用していたそうです。
●木戸貫治・木戸準一郎
禁門の変の後、木戸孝允さんは京都に潜伏して暗躍していました。
当時、京都では会津藩による長州藩の残党狩りが盛んだった時代。
どこかに木戸孝允さんが潜伏していることを知った高杉晋作さんや大村益次郎さんたちは、木戸孝允さんを探し出し長州藩の統率者として迎え入れることにしました。
しかし長州藩主・毛利敬親さんは、幕府の指名手配者を長州藩の統率者にするわけにはいかない・・・。
ということで、桂小五郎は行方不明扱いとし、木戸という姓を与えました。
そして、木戸貫治と名乗るようになり、さらに36歳からは木戸準一郎と名乗るようになりました。
●木戸孝允
実は孝允という名前は、養子先で桂家の当主を引き継いだときの諱だという。
江戸時代の人は諱を持っており、日常では通称を使うのが普通でした。
しかし明治時代、諱と通称を併称することが公式に廃止されたため、全ての人が戸籍に氏と名を登録することになりました。
そんなこんなで、長州藩主から賜った木戸と諱である孝允を合体させて木戸孝允を名乗るようになりました。
ちなみに、いつから木戸孝允と名乗るようになったのかは不明。
一説によると1868年以降といわれています。
●木戸孝允さんの生涯
1833年、長州藩の藩医・和田昌景の長男として現・山口県萩市で誕生。
しかし長男なのに跡継ぎにはなれなかったという。
そんなこんなで、和田家の向かいにある桂家の養子になることに。
1846年、内藤作兵衛の道場に入門。
1848年に元服し、和田小五郎から桂小五郎に。
1852年、剣術の腕が認められ、剣術修行のために江戸留学が許可されました。
そして、江戸三大道場の1つ・神道無念流の練兵館に入門し、斎藤新太郎の指導を受け、わずか1年で免許皆伝を得たという。
さらに藩命で帰郷するまでの5年間、塾頭を務めたという。
小五郎は剣術に励む一方で勉学にも力を入れていました。
1849年、長州藩の藩校・明倫館で吉田松陰から教えを受けました。
ちなみによく誤解されますが、桂小五郎は吉田松陰が主宰した松下村塾で学んでいません。
当時、桂小五郎は江戸にいました。
その後1863年、藩命により京都へ行き、破約攘夷活動を行いました。
※桂小五郎や高杉晋作などは破約攘夷に対しては慎重派でした。
しかし藩命のため破約攘夷活動を行っていました。
しかし藩命のため破約攘夷活動を行っていました。
しかし、1863年の八月十八日の政変により、長州藩士は京都を追い出されることになりました。
そんなこんなで、長州藩のリーダー格であった小五郎は命を狙われるようになり、京都で潜伏生活を送ることに。
小五郎は、御所を焼き討ちにし、混乱に乗じて一橋慶喜や松平容保などの対抗勢力を暗殺、さらには孝明天皇を長州に連れて行くという計画を練っていました。
しかしこの計画が新撰組にバレてしまったという。
そして1864年、旅籠・池田屋に潜伏していた長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派の志士は新選組に襲撃されました(池田屋事件)
これをきっかけに長州藩は京都に攻め込みました(禁門の変)
このとき小五郎は会津藩の兵に捕まってしまいましたが『ウンコに行きたい』と騒ぎ出し、その隙に逃亡するという技を披露!
そして、再び長州藩の立場を回復させるのためにひそかに暗躍します。
その後、禁門の変を起こした長州藩を処分するため、江戸幕府による第一次長州征討が行われました。
この頃、長州藩の内部では保守派の椋梨藤太らが台頭し、藩政の主導権を握っていました。
そんなこんなで、保守派は禁門の変の責任者らを処罰。
そしてひたすら謝罪し、長州藩は幕府に従うことになりました。
しかし、高杉晋作が保守化した長州藩を倒して藩政の主導権を奪い返すクーデターを起こしました(功山寺挙兵・回天義挙)
そして、再び長州藩は尊皇攘夷派が主導権を握ることに。
その後、高杉晋作は小五郎が生きて潜伏していることを知る。
小五郎は新撰組や京都見廻組に狙われながらも、乞食や船頭や商人、さらに女装をしたりして京都に潜伏し続けていました。
そんなこんなで、高杉晋作は小五郎を探し出し、長州藩の統率者として迎え入れました。
そして小五郎は藩政改革・軍制改革を進めていきました。
しかしこの頃、長州藩は禁門の変の始末として武器を購入することが禁止されていました。
何とかして武器を手に入れたい・・・
そこで坂本龍馬らが仲介役となり、犬猿の仲だった長州藩・桂小五郎と薩摩藩・西郷隆盛の会談が実現。
そして薩長同盟が結ばれました。
こうして長州藩は薩摩藩を通して大量の武器を手に入れることに成功しました。
その後、大政奉還・王政復古・鳥羽伏見の戦いなど激動の時代へと突入し、明治維新を迎えることに。
1868年、戊辰戦争の最中、明治新政府は五箇条の御誓文を発布しました。
五箇条の御誓文は由利公正が起案し、福岡孝弟が修正し、木戸孝允(小五郎)が加筆・修正を加えています。
ちなみに五箇条の御誓文とは、明治天皇が神々に誓うという形式で示した明治新政府の基本方針のことです。
その後も木戸孝允(小五郎)は様々な政策を断行。
これまで藩のものだった土地と人を天皇に返還(版籍奉還)
藩を廃止し新たに府県を置く(廃藩置県)
これにより、代々続いてきた大名家や、大名から給料をもらっていた武士などが職を失うことに。
そんなこんなで、武士などから大反発されますが、木戸孝允(小五郎)は欧米列強に追いつくためにこの2つの政策を断行しました。
1874年、台湾出兵が決定すると、木戸孝允はこれに抗議して参議を辞職。
しかし、翌年に復帰。
1877年、西南戦争が勃発すると、木戸孝允はすぐさま西郷軍征討を願い出るために、京都に出張しました。
しかし病状が悪化し死去(享年45歳)
最期は朦朧とする意識の中、大久保利通の手を握り『西郷もいいかげんにしないか』と、明治政府と西郷隆盛の両方を案じる言葉を発して亡くなったといわれています。
●逃げの小五郎は凄腕の剣豪だった!
木戸孝允さんといえば逃げの小五郎というキャッチフレーズが有名なためコソコソと暗躍していたという勝手なイメージを持っていましたが、実は剣術の腕は相当なものだったみたいです。
新撰組の近藤勇さんは
『恐ろしい以上、手も足も出なかったのが桂小五郎だ』
と評したといわれています(諸説あり)
『恐ろしい以上、手も足も出なかったのが桂小五郎だ』
と評したといわれています(諸説あり)
さらに2017年に発見された史料によると
1857年、江戸・鍛冶橋の土佐藩上屋敷で開催された剣術大会で坂本龍馬さんと対戦。
そして3対2で小五郎が勝利したと記録されているという!
1857年、江戸・鍛冶橋の土佐藩上屋敷で開催された剣術大会で坂本龍馬さんと対戦。
そして3対2で小五郎が勝利したと記録されているという!
小五郎は、江戸三大道場の1つ・神道無念流の免許皆伝を得て、塾頭を務めたお方なのに、なぜ剣豪のイメージがないのでしょう???
実は小五郎は、生涯刀で人を斬らなかったといわれています(諸説あり)
なぜ刀で人を斬らなかったのかというと、神道無念流は実践に向かなかったとか、師匠の斎藤弥九郎から『簡単に刀を抜くな』という教えを守ったからともいわれています(諸説あり)
そんなこんなで、戦わずに逃げるという戦法で無謀な戦いを避け、明治という新時代を切り開いていきました。
もし戦って殺されていたら、明治維新はまた別のかたちで実現していたかも知れませんね!
●木戸孝允さんの墓所
木戸孝允さんのお墓は京都の霊山護国神社(霊山墓地)にあります。
霊山墓地は坂本龍馬さんや中岡慎太郎さんや吉村寅太郎さんなどなど、幕末の志士たちが眠っていることで知られていますが、木戸孝允さんのお墓はその墓地の1番高いところにあるという!
維新三傑の1人というだけあって、格の違いが表れていますね。
ちなみに、木戸孝允さんのお墓の隣には妻・幾松(松子)さんのお墓もありました。
●幕末最大のロマンス
幾松さんは京の売れっ子芸者だったそうです。
小五郎と幾松が出会ったのは宴席。
小五郎は出会ってすぐに幾松に夢中になりアプローチしまくっていたそうです。
当時、幾松には贔屓の富豪がいたそうですが、小五郎は張り合って大金を惜しみなく使ったという。
そして、最終的に小五郎の従者だった伊藤博文が刀で相手の富豪を脅して、幾松を手に入れたんだって!
1864年の禁門の変で長州藩が窮地に追い込まれた際、小五郎は京都に潜伏していました。
当時、京都では長州藩の人間は発見されたら殺されるという空気が流れていたといいます。
そんな時代に幾松は小五郎の隠れ場を変えたり、食事を運ぶなどして潜伏生活を助けていたそうです。
さらに幾松は芸者をしながら情報収集も行っていたそうです。
新撰組や京都見廻組に狙われ、最重要指名手配者だった小五郎をかくまえば、幾松も殺されていたかも知れません。
そんな危険に晒されながらも、小五郎を陰で支え続けた幾松さん・・・愛の深さを感じますねぇ。
そんなこんなで2人の愛は幕末の動乱に揺らぐことなく、明治維新を迎えてから正式に結婚しました。
当時、武士と芸者は身分差があるため結婚に大きな障害となっておりました。
しかし、幾松を長州藩士・岡部富太郎の養女とすることで、晴れて結婚できたという。
この時は木戸孝允と改名していたため、嫁いだ幾松は木戸松子という名になりました。
ちなみに2人の結婚は、身分差を乗り越えた正式な結婚として初のケースといわれています(諸説あり)
さらに結婚の直前、2人は城崎温泉を旅行しています。
日本初の新婚旅行は坂本龍馬さんとお龍さんが有名ですが、実は木戸孝允さんと松子さんの方が早かったかも?
ともいわれています(諸説あり)
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御朱印情報
●御朱印の種類
・木戸神社の御朱印
●御朱印の受付場所
・今八幡宮の社務所
(山口県山口市上宇野令828−1)
●御朱印の受付時間
・9:00~17:00
●御朱印の料金
・300円
●期間限定・特別御朱印
・なし
●オリジナル御朱印帳
・なし
・2015年9月5日 参拝
・2022年8月 更新
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参拝情報とアクセス
●開門時間
・境内自由
●拝観料
・無料
●最寄りの駅
・JR山口駅から徒歩35分
・JR山口駅から車で10分
●最寄りのバス停
・防長交通
市保健センター前 バス停から徒歩2分
●最寄りのIC
・中国自動車道
小郡ICから車で15分
・中国自動車道
山口ICから車で15分
●駐車場
・無料の専用駐車場あり(50台)
※木戸公園の駐車場を利用
・境内自由
●拝観料
・無料
●最寄りの駅
・JR山口駅から徒歩35分
・JR山口駅から車で10分
●最寄りのバス停
・防長交通
市保健センター前 バス停から徒歩2分
●最寄りのIC
・中国自動車道
小郡ICから車で15分
・中国自動車道
山口ICから車で15分
●駐車場
・無料の専用駐車場あり(50台)
※木戸公園の駐車場を利用