普門寺の御朱印|大村益次郎が開いた私塾・普門寺塾跡|(山口県山口市)

所在地山口県山口市白石3丁目4−1
宗 派臨済宗東福寺派
札 所周防国三十三観音霊場 第31番
由 緒創建年は不詳。当時この地には大内家の家祖・多々良正恒が創建したお寺があったといいます。その後、1336年に大内弘直が瑞雲寺として再建し菩提寺としたそうです。しかし1507~1551年に陶晴賢が謀反を起こした際、兵火に遭い焼失。1573~1592年、維松円融が中興開山となり普門寺として再興したそうです。1863年、藩庁が萩から山口に移った際、大村益次郎は藩命により江戸から長州に帰国。そして長州藩の藩校・山口明倫館で兵学校教授役となり西洋兵学の講義を行ったそうです。その際、大村益次郎はこのお寺の観音堂を宿舎とし、歩兵・騎兵・砲兵など3兵学を教授。 当時これを普門寺塾や三兵塾などと称していたそうです。
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山門と鐘楼と参道

●境内入口

本日はレンタサイクルで西の京・山口を旅しています。

そんなこんなで、山口大神宮から木戸神社に向かっていると普門寺というお寺を発見。

ということで、立ち寄ることに。

どうやらこのお寺さんは周防国三十三観音霊場の第31番札所のようです。


●山門

●山門
・平成時代建立
・瓦葺 切妻造 四脚門

まず最初に登場するのは新築ホヤホヤの山門

細い参道と近接する石垣のおかげで、やたらとスリム脚長の門になっていました。


このお寺の正式名称は円通山 普門禅寺

えんつうざん ふもんぜんじと読みます。

山号の円通でもわかるように、御本尊は十一面観音さん。
ちなみに円通大士とは観世音菩薩異称です。

普門寺という寺号は、観世音菩薩普門品(観音経)から名付けられたものと思われます。

ということで、円通も普門も観音を意味します。

いっそ観音寺と呼びたくなるお寺さんですねぇ。


●鐘楼

●鐘楼
・建立年不明
・瓦葺 入母屋造

そんなこんなで、鐘楼へ。

鐘楼からは山口市内を望むことができました。


手前の山はサビエル記念聖堂や山口県立美術館などがある亀山公園です。


●参道

参道には白い石が埋め込まれていました。

このお寺の所在地は山口市白石!

この白い石は地名にちなんだものなのでしょうか?

はたまた、ただの偶然かな!?
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本堂

●本堂

●本堂
・1905年再建
・瓦葺 寄棟造
・宗派 臨済宗東福寺派

続いて、本堂で参拝。

現在の本堂は1905年に再建されたものといわれています。


再建前の姿を描いた古図によると、どうやら昔は茅葺き屋根だったみたいですね。


扁額は寛文年間に作られたもののようです。

寛文年間は1661~1673年ですので、再建前の茅葺き屋根時代に掲げられていた扁額かもしれません。


本堂の蟇股には大内家の家紋・大内菱を確認することができました。

どうやらこのお寺は大内弘直さんの菩提寺のようです。

ちなみに境内には大内弘直さんの墓所があるんだって。

見事に見逃して帰りましたよ!


もともとこの地には大内家の家祖・多々良正恒さんが創建したお寺があったそうです。

それを1336年に、大内氏23代当主・大内弘幸の弟である大内弘直さんが菩提寺として再建。

そして法名の瑞雲寺殿恵海浄智大禅定門にちなんで宝珠山 瑞雲寺と称したんだって。


その後、大内氏31代当主・大内義隆さんのときに勅願寺となり、七堂伽藍を構えた県下屈指の大寺になったそうです。

しかし大内義隆さんの家臣・陶晴賢が謀反を起こしたという(大寧寺の変
その際、このお寺も兵火に遭い、焼失してしまったんだって。。

その後、1573年に高峰城主・内藤元輔さんが惟松円融禅師を招いて再建。

そして円通山 普門寺と改称して現在に至るそうです。

龍福寺の御朱印|大内義隆の菩提寺|大内氏館跡にあります|(山口県山口市)
所在地山口県山口市大殿大路119宗 派曹洞宗由 緒1206年、現・山口市白石に創建した瑞雲寺がこのお寺の始まりといいます。創建当初は臨済宗でしたが、1454年に曹洞宗に改宗し、寺号を龍福寺に改めたそうです...
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観音堂(普門寺塾跡)

●観音堂(普門寺塾跡)

●観音堂
・明治時代建立(?)
・瓦葺 宝形造

続いて、観音堂を参拝。

なんと!

この観音堂は維新十傑の1人・大村益次郎さんが宿舎として利用したお堂だという!

さらになんと!

この観音堂は大村益次郎さんが私塾・普門寺塾を開いたお堂なんだと!

●普門寺塾とは?

1863年、藩庁が萩から山口に移った際、大村益次郎さんは藩命により江戸から長州に帰国

そして、大村益次郎さんは普門寺観音堂宿舎にし、長州藩の藩校・山口明倫館で兵学校教授役となり西洋兵学の講義を行ったそうです。

さらに藩士などからの声に応じ、宿舎であった普門寺の観音堂で私塾を開き、歩兵・騎兵・砲兵など三兵学を教えることになったという!

そんなこんなで、当時この塾は普門寺塾三兵塾などと呼ばれていたそうです。

1866年、四境戦争(第二次長州征討)の際、四方から攻めてくる幕府軍に対抗するために大村益次郎さんは軍の再編成を徹底。

この普門寺塾に各隊の指揮官が集められ、大村益次郎さんによって戦術兵法が叩き込まれたそうです。

ちなみに山口明倫館は普門寺から徒歩15分のところにあります。

益次郎さんは、ここから15分かけて出勤していたのですね。

そんなこんなで、参拝終了。

まさかこのお寺が益次郎さんゆかりの地だったとはね!

知らなかったなぁ〜!

大村神社の御朱印|軍事の天才・大村益次郎を祀る|(山口県山口市)
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大村益次郎とは?

●大村益次郎とは?

1824年、現在の山口市鋳銭司で村医者・村田孝益の長男として誕生。

1842年、シーボルトの弟子・梅田幽斎から医学や蘭学を学びました。
その他、漢学者・広瀬淡窓の塾に入り漢籍・算術・習字なども学びました。

1846年、大坂で緒方洪庵が開く適塾で塾頭を任じられます。
ちなみに適塾では福沢諭吉さんや橋本左内さんも学んでいました。

その後、長州に戻って開業医となりますが、不愛想な性格のため評判はあまり良くなかったみたいです。


1853年、浦賀沖に黒船が来航すると、日本では蘭学の需要が高まりました。

そんなこんなで、四賢公の1人である宇和島藩主・伊達宗城さんに招かれて蘭学や兵学の講義を始めました。

さらに伊達宗城さんのもとで洋式兵学書の翻訳や蒸気船の設計・開発などにも携わりました。

1856年、伊達宗城さんの参勤交代に付き添い江戸に向かうことに。

そして、江戸で蘭学・医学・兵学を教える鳩居堂という私塾を開きました。

1858年、長州藩上屋敷で開催された蘭書会読会に参加。
その際、長州藩士・桂小五郎(木戸孝允)さんと出会いました。

それを機に、長州藩の要請で江戸在住のまま長州藩士となりました。


1863年、長州へ帰国。

そして1864年に兵学校教授役となり、長州藩の藩校・山口明倫館で西洋兵学の講義を行いました。


1865年、長州藩で高杉晋作さんが奇兵隊を創設すると、益次郎さんは桂小五郎(木戸孝允)からの要請を受け奇兵隊の軍事指導を任されます。

そして奇兵隊を実戦に使えるように編成し、そして訓練しました。


1866年、幕府は第二次長州征討(四境戦)を決行。

長州藩のリーダーであった桂小五郎(木戸孝允)は大村益次郎・高杉晋作・伊藤博文・井上馨らと倒幕による日本の近代化を図り、幕府と全面戦争を行うことに。

益次郎さんは第二次長州征討(四境戦)・石州口の戦いで実戦指揮を担当しました。

その戦術は最新の武器と巧妙な用兵術に加え、無駄な攻撃を避け、相手の自滅を誘ってから攻撃を加えるという合理的なものでした。

そして幕府軍をことごとく撃破
益次郎さんの軍事的才能が遺憾なく発揮された戦いでした。


1867年、江戸幕府15代将軍・徳川慶喜が政権を朝廷に返上しました(大政奉還
これにより265年間続いた徳川幕府は終焉を迎えました。

しかし、旧幕府の残党がそれに反発。

そんなこんなで、京都近くの鳥羽・伏見で新政府軍旧幕府軍が武力衝突しました(戊辰戦争

戊辰戦争の初戦である鳥羽伏見の戦いが起こると、益次郎さんは時期早々だと反対。

しかし戦いに参加すると益次郎さんが作り上げた新政府軍の軍隊は、幕府軍をことごとく撃破して進軍を続けました。


1868年の上野戦争では益次郎さんの作戦で彰義隊ら旧幕府軍を1日で壊滅させました。

その後の戦いも益次郎さんの戦略どおりに進んでいき、1869年の箱館戦争(五稜郭の戦い)で戊辰戦争は終結。
これにより、国内は明治新政府によって統一され、新しい時代が始まることとなりました。

明治新政府が樹立すると、益次郎さんは軍の指揮を任されました。

そして各藩の軍を統括し、近代兵制の創始者といわれる活躍をしました。


しかし1869年。

京都・三条木屋町の旅館で静間彦太郎や安達幸之助らと会食中、旧思想の元長州藩士の団伸二郎や神代直人ら8人の刺客に襲われました。

益次郎さんはこの時に足を斬られて負傷

その傷から細菌が入って敗血症になり、約2ヶ月後にお亡くなりになりました(享年46歳)


その後、益次郎さんの遺骸は生まれ故郷である現・山口市鋳銭司埋葬されました。
(大村神社 大村益次郎墓所)

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御朱印情報

●御朱印の種類
・普門寺の御朱印
(周防国三十三観音霊場 第31番札所)

●御朱印の受付場所
・庫裏

●御朱印の受付時間
・不明

●御朱印の料金
・300円

●期間限定・特別御朱印
・なし

●オリジナル御朱印帳
・なし

・2015年9月5日 参拝
・2022年8月 更新

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参拝情報とアクセス

●開門時間
・不明

●拝観料
・無料

●最寄りの駅
・JR山口駅から徒歩30分
・JR山口駅から車で10分

●最寄りのバス停
・防長交通
 白石3丁目 バス停から徒歩3分

●最寄りのIC
・中国自動車道
 山口ICから車で15分

・中国自動車道
 小郡ICから車で15分

●駐車場
・無料の専用駐車場あり(約10台)

普門寺の地図

 

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