所在地 | 山口県玖珂郡和木町和木1丁目6−18 |
---|---|
宗 派 | 曹洞宗 |
由 緒 | 1331〜1333年、和木村山ノ下に創建したのが始まり。創建当初は天台宗寺院で黙養寺と称していたそうです。その後、1398年に現在地へ移転し、臨済宗に改宗。そして法昌寺と改称したそうです。1600年、吉川広家が岩国に移封した際、家臣の粟屋加賀が再興。そして菩提寺としたそうです。その後、吉川家の菩提寺である洞泉寺の12世・松屋存仙大和尚が曹洞宗に改宗。寺号を安禅寺と改め、現在に至るそうです。 |
HP | 曹洞宗 安禅寺 あんぜんじ 山口県 |
山門と手水舎
●境内入口
山口県と広島県の県境・和木町にあります安禅寺に到着。
正式名称は大瀧山 安禅寺。
大瀧山 安禅寺と書いておおたきさん あんぜんじと読みます。
寺号は、1576年にお亡くなりになった吉川家の家臣・粟屋元俊さんの戒名・安禅院殿が由来なんだって。
そんなこんなで、参拝開始。
●山門(大門)
●山門(大門)
・建立年不明
・1975年移築
・瓦葺 入母屋造
・一間一戸 鐘楼門
まず最初に登場するのは山門。
楼上に鐘楼が吊るされてましたので鐘楼門となります。
建立年は定かではありませんが、公式ホームページに昭和50年移転と書いてありましたので、1975年にどこかの場所から移築してきた門と思われます。
●山門の扁額
・1725年寄付
・和木町指定有形文化財
山門に掲げられている山号額は、1725年に吉川家の家臣・粟屋公豊さんが安禅院(粟屋元俊)の菩提を弔うために寄付したものといわれています。
ちなみに額の裏には『為安禅院菩提寄付之 享保10年11月3日粟屋十郎兵衛公豊』と書かれているそうです。
説明板によると、材質は松。
表面には船虫による無数の虫穴があいていることから、船板を使用したものと思われてるんだって。
安禅寺と粟屋氏の関係、さらには大滝村の旧名を伝えるものとして貴重な歴史資料とのことです。
そんなこんなで、扁額を観察・・・
船虫の穴なんてどこにもない・・・(笑)
というか、扁額の状態は良く、江戸時代中期の作品とは思えないくらいの新品っぷり!
と思ったら、なんと!
帰宅後に知ったのですが、説明板の片隅に複製品と書いてあるぅぅぅ!
どうりで!
ちなみに、実物は寺院内に保管しているそうですよ。
『ご覧になりたい方はお申し出ください』とのことです。
そんなこんなで、山門をくぐって境内へ。
●手水鉢
そして手水鉢でお清め。
山口県と広島県の県境・和木町にあります安禅寺に到着。
正式名称は大瀧山 安禅寺。
大瀧山 安禅寺と書いておおたきさん あんぜんじと読みます。
寺号は、1576年にお亡くなりになった吉川家の家臣・粟屋元俊さんの戒名・安禅院殿が由来なんだって。
そんなこんなで、参拝開始。
●山門(大門)
●山門(大門)
・建立年不明
・1975年移築
・瓦葺 入母屋造
・一間一戸 鐘楼門
まず最初に登場するのは山門。
楼上に鐘楼が吊るされてましたので鐘楼門となります。
建立年は定かではありませんが、公式ホームページに昭和50年移転と書いてありましたので、1975年にどこかの場所から移築してきた門と思われます。
●山門の扁額
・1725年寄付
・和木町指定有形文化財
山門に掲げられている山号額は、1725年に吉川家の家臣・粟屋公豊さんが安禅院(粟屋元俊)の菩提を弔うために寄付したものといわれています。
ちなみに額の裏には『為安禅院菩提寄付之 享保10年11月3日粟屋十郎兵衛公豊』と書かれているそうです。
説明板によると、材質は松。
表面には船虫による無数の虫穴があいていることから、船板を使用したものと思われてるんだって。
安禅寺と粟屋氏の関係、さらには大滝村の旧名を伝えるものとして貴重な歴史資料とのことです。
そんなこんなで、扁額を観察・・・
船虫の穴なんてどこにもない・・・(笑)
というか、扁額の状態は良く、江戸時代中期の作品とは思えないくらいの新品っぷり!
と思ったら、なんと!
帰宅後に知ったのですが、説明板の片隅に複製品と書いてあるぅぅぅ!
どうりで!
ちなみに、実物は寺院内に保管しているそうですよ。
『ご覧になりたい方はお申し出ください』とのことです。
そんなこんなで、山門をくぐって境内へ。
●手水鉢
そして手水鉢でお清め。
本堂
●本堂
●本堂
・1968年再建
・瓦葺 入母屋造
続いて、本堂で参拝。
宗派は曹洞宗。
御本尊は薬師如来さんとなります。
オン コロコロ センダリマトウギ ソワカ
オン コロコロ センダリマトウギ ソワカ
オン コロコロ センダリマトウギ ソワカ
このお寺は粟屋氏の菩提寺ということで、棟には粟屋氏の家紋・五本骨扇紋がありました。
粟屋氏は、安芸国の戦国大名・毛利氏に仕えた氏族です。
関ヶ原の戦い後に毛利氏が防長二国に移封された際、粟屋氏も安芸国を離れて長州藩に仕え明治維新を迎えました。
蟇股には立派な鷹 or 鷲の彫刻がありました。
鷹と鷲の見分け方を知らない私です・・・
そんなことより、これは装飾なのでしょうか?
鷹 or 鷲は蟇股の前面に取り付けられていて、蟇股を隠す勢いで躍動していました。
これはなかなか珍しいパターンの蟇股ですねぇ。
よく見たら、鷹 or 鷲の下には獅子もいましたよ。
●本堂
・1968年再建
・瓦葺 入母屋造
続いて、本堂で参拝。
宗派は曹洞宗。
御本尊は薬師如来さんとなります。
オン コロコロ センダリマトウギ ソワカ
オン コロコロ センダリマトウギ ソワカ
オン コロコロ センダリマトウギ ソワカ
このお寺は粟屋氏の菩提寺ということで、棟には粟屋氏の家紋・五本骨扇紋がありました。
粟屋氏は、安芸国の戦国大名・毛利氏に仕えた氏族です。
関ヶ原の戦い後に毛利氏が防長二国に移封された際、粟屋氏も安芸国を離れて長州藩に仕え明治維新を迎えました。
蟇股には立派な鷹 or 鷲の彫刻がありました。
鷹と鷲の見分け方を知らない私です・・・
そんなことより、これは装飾なのでしょうか?
鷹 or 鷲は蟇股の前面に取り付けられていて、蟇股を隠す勢いで躍動していました。
これはなかなか珍しいパターンの蟇股ですねぇ。
よく見たら、鷹 or 鷲の下には獅子もいましたよ。
釈迦堂
●釈迦堂
●釈迦堂
・1980年再建
・瓦葺 宝形造
続いて、釈迦堂を参拝。
釈迦堂は山門・本堂からほんのちょっぴり離れたところにありました。
なんと堂内には和木町の文化財に指定された古仏が安置されていました!
●釈迦如来坐像
・1331~1333年作
・像高 69.7cm
・和木町指定有形文化財
●迦葉尊者立像
・1398年作
・檜材 寄木造
・和木町指定有形文化財
●阿難尊者立像
・1398年作
・檜材 寄木造
・和木町指定有形文化財
このお寺は1331〜1333年、和木村山ノ下に創建したのが始まり。
創建当初は天台宗寺院で黙養寺と称していたそうです。
その後、1398年に現在地へ移転し、臨済宗に改宗。
そして法昌寺と改称したそうです。
現在の寺号になったのは江戸時代からといわれています。
そんなこんなで、この釈迦如来坐像はお寺が山ノ下に創建された元弘年間(1331~1333年)頃につくられたもので、黙養寺時代の作品となります。
ちなみに色彩は江戸時代の後補。
作者は不明ですが、説明板によると高名な仏師の作品かも?
とのことです。
そして、迦葉・阿難尊者は1398年作とのことなので、法昌寺時代の作品となります。
その他、堂内には僧形の仏さんとお地蔵さんがおられました。
右手のひねり方を見る限り、弘法大師さんのような気がするんだけど・・・
でもこのお寺は曹洞宗だし・・・道元さんなのかなぁ?
うぅ~ん、一体全体このお方はどなた様でしょ?
●釈迦堂
・1980年再建
・瓦葺 宝形造
続いて、釈迦堂を参拝。
釈迦堂は山門・本堂からほんのちょっぴり離れたところにありました。
なんと堂内には和木町の文化財に指定された古仏が安置されていました!
●釈迦如来坐像
・1331~1333年作
・像高 69.7cm
・和木町指定有形文化財
●迦葉尊者立像
・1398年作
・檜材 寄木造
・和木町指定有形文化財
●阿難尊者立像
・1398年作
・檜材 寄木造
・和木町指定有形文化財
このお寺は1331〜1333年、和木村山ノ下に創建したのが始まり。
創建当初は天台宗寺院で黙養寺と称していたそうです。
その後、1398年に現在地へ移転し、臨済宗に改宗。
そして法昌寺と改称したそうです。
現在の寺号になったのは江戸時代からといわれています。
そんなこんなで、この釈迦如来坐像はお寺が山ノ下に創建された元弘年間(1331~1333年)頃につくられたもので、黙養寺時代の作品となります。
ちなみに色彩は江戸時代の後補。
作者は不明ですが、説明板によると高名な仏師の作品かも?
とのことです。
そして、迦葉・阿難尊者は1398年作とのことなので、法昌寺時代の作品となります。
その他、堂内には僧形の仏さんとお地蔵さんがおられました。
右手のひねり方を見る限り、弘法大師さんのような気がするんだけど・・・
でもこのお寺は曹洞宗だし・・・道元さんなのかなぁ?
うぅ~ん、一体全体このお方はどなた様でしょ?
彦根戦死士の墓
●彦根戦死士の墓
続いて、彦根戦死士のお墓参り。
こちらには彦根藩の木俣隊使番である竹原七郎平さんなどが葬られてるそうです。
って、なんで山口に彦根藩士のお墓が???
ちなみに銃撃に倒れた竹原七郎兵は品川清兵衛に首を斬られ、首実検の後、岩国市室ノ木の水ノ浦に埋葬されました。
埋葬前、竹原七郎平の身につけていたお守り袋の中から手紙が出てきたという。
その手紙は竹原七郎平の妻からのもので、手紙を読んだ品川清兵衛は涙を流したそうです。
そんなこんなで、品川清兵衛はお墓を建立。
それが安禅寺の境内にある彦根戦死士の墓といわれています。
●第二次長州征討(四境戦争)ゆかりの寺社
続いて、彦根戦死士のお墓参り。
こちらには彦根藩の木俣隊使番である竹原七郎平さんなどが葬られてるそうです。
って、なんで山口に彦根藩士のお墓が???
●第二次長州征討(四境戦争)とは?
ザックリと簡単に第二次長州征討(四境戦争)とは、江戸幕府が過激な長州藩を処分するために行った戦争です。
長州軍 vs 幕府軍の戦いです。
1864年、禁門の変(蛤御門の変)の処罰のため、幕府は第一次長州征討の兵を起こしました。
幕府は降伏の条件として、禁門の変の責任者である長州の三家老の切腹を要求し、長州藩はそれを受け入れました。
この時、切腹を命じられた三家老は国司信濃と福原越後、そして益田家の33代当主・益田親施でした。
1866年、幕府は再び長州を攻めます。
いわゆる第二次長州征討(四境戦争)です。
長州藩の4つの藩境である石州口(島根県西部)・芸州口(広島方面)・大島口(瀬戸内方面)・小倉口(北九州方面)で戦闘が行われました。
このことから、第二次長州征討は四境戦争と呼ばれることもあります。
厳密にいえば
幕府目線の場合は第二次長州征討。
長州目線の場合は四境戦争と呼ばれます。
●四境戦争・芸州口の戦いとは?
第二次長州征討(四境戦争)・芸州口の戦いに備え、幕府軍は広島城に彦根藩(滋賀県)・紀伊藩(和歌山県)・高田藩(新潟県)・与板藩(新潟県)など3万の軍勢を集結。
そして1866年6月13日、彦根藩と与板藩の兵は油見村の顕徳寺(広島県大竹市)に陣を置き、その日のうちに彦根軍500人は大竹村の大瀧神社に進み、一部は小瀬川(現・大和橋付近)に布陣。
高田藩は立戸(広島県大竹市)に布陣し、一部は与板藩の兵とともに小島新開(広島県大竹市)に陣を置きました。
一方、長州軍は岩国領の兵を主力とし、小瀬川口の総督は岩国領主・吉川経幹があたりました。
そして一部の隊は、すでに13日夜に大竹側に進み、夜明けを待っていました。
そんなこんなで13日の夜、幕府軍は小瀬川の大竹側から3発の大砲を撃ち込みました。
しかし、対岸の和木側は静かなまま。
実は長州軍は対岸の竹藪に陣を敷き、息を潜めて待ち受けていたのでありました。
そこで14日の早朝、彦根藩の使者である竹原七郎平と曽根佐十郎が小瀬川を渡ることに。
竹原七朗平は封書を高く掲げて川を渡っていましたが、川の中央に差しかかったとき、対岸から一斉に銃撃され、2人とも倒れてしまいました。
そのことにより、芸州口の戦いが開戦。
彦根軍は小瀬川を渡ろうとしますが、対岸の長州軍から集中攻撃を受け、さらに瀬田八幡宮がある山から大砲攻撃を受け、小瀬川は血に染まったという。
その後、周辺の各地で戦争が起こり、彦根軍は多くの戦死者を出しました。
長州藩の兵は少数ながら最新鋭の武器を使い幕府軍を圧倒。
しかし、幕府軍は戦力の立て直しを図り、西洋式の装備を持つ紀州藩を投入し一進一退の膠着状態となりました。
9月2日、幕府は勝海舟を派遣し、宮島の大願寺で停戦交渉を行い、芸州口の戦いは引き分けに終わりました。
芸州口の戦いは引き分けでしたが、周防大島口、小倉口、石州口の戦いで幕府軍は完敗。
そして急速に明治維新に傾くのでありました。
ザックリと簡単に第二次長州征討(四境戦争)とは、江戸幕府が過激な長州藩を処分するために行った戦争です。
長州軍 vs 幕府軍の戦いです。
1864年、禁門の変(蛤御門の変)の処罰のため、幕府は第一次長州征討の兵を起こしました。
幕府は降伏の条件として、禁門の変の責任者である長州の三家老の切腹を要求し、長州藩はそれを受け入れました。
この時、切腹を命じられた三家老は国司信濃と福原越後、そして益田家の33代当主・益田親施でした。
1866年、幕府は再び長州を攻めます。
いわゆる第二次長州征討(四境戦争)です。
長州藩の4つの藩境である石州口(島根県西部)・芸州口(広島方面)・大島口(瀬戸内方面)・小倉口(北九州方面)で戦闘が行われました。
このことから、第二次長州征討は四境戦争と呼ばれることもあります。
厳密にいえば
幕府目線の場合は第二次長州征討。
長州目線の場合は四境戦争と呼ばれます。
●四境戦争・芸州口の戦いとは?
第二次長州征討(四境戦争)・芸州口の戦いに備え、幕府軍は広島城に彦根藩(滋賀県)・紀伊藩(和歌山県)・高田藩(新潟県)・与板藩(新潟県)など3万の軍勢を集結。
そして1866年6月13日、彦根藩と与板藩の兵は油見村の顕徳寺(広島県大竹市)に陣を置き、その日のうちに彦根軍500人は大竹村の大瀧神社に進み、一部は小瀬川(現・大和橋付近)に布陣。
高田藩は立戸(広島県大竹市)に布陣し、一部は与板藩の兵とともに小島新開(広島県大竹市)に陣を置きました。
一方、長州軍は岩国領の兵を主力とし、小瀬川口の総督は岩国領主・吉川経幹があたりました。
そして一部の隊は、すでに13日夜に大竹側に進み、夜明けを待っていました。
そんなこんなで13日の夜、幕府軍は小瀬川の大竹側から3発の大砲を撃ち込みました。
しかし、対岸の和木側は静かなまま。
実は長州軍は対岸の竹藪に陣を敷き、息を潜めて待ち受けていたのでありました。
そこで14日の早朝、彦根藩の使者である竹原七郎平と曽根佐十郎が小瀬川を渡ることに。
竹原七朗平は封書を高く掲げて川を渡っていましたが、川の中央に差しかかったとき、対岸から一斉に銃撃され、2人とも倒れてしまいました。
そのことにより、芸州口の戦いが開戦。
彦根軍は小瀬川を渡ろうとしますが、対岸の長州軍から集中攻撃を受け、さらに瀬田八幡宮がある山から大砲攻撃を受け、小瀬川は血に染まったという。
その後、周辺の各地で戦争が起こり、彦根軍は多くの戦死者を出しました。
長州藩の兵は少数ながら最新鋭の武器を使い幕府軍を圧倒。
しかし、幕府軍は戦力の立て直しを図り、西洋式の装備を持つ紀州藩を投入し一進一退の膠着状態となりました。
9月2日、幕府は勝海舟を派遣し、宮島の大願寺で停戦交渉を行い、芸州口の戦いは引き分けに終わりました。
芸州口の戦いは引き分けでしたが、周防大島口、小倉口、石州口の戦いで幕府軍は完敗。
そして急速に明治維新に傾くのでありました。
ちなみに銃撃に倒れた竹原七郎兵は品川清兵衛に首を斬られ、首実検の後、岩国市室ノ木の水ノ浦に埋葬されました。
埋葬前、竹原七郎平の身につけていたお守り袋の中から手紙が出てきたという。
その手紙は竹原七郎平の妻からのもので、手紙を読んだ品川清兵衛は涙を流したそうです。
そんなこんなで、品川清兵衛はお墓を建立。
それが安禅寺の境内にある彦根戦死士の墓といわれています。
●第二次長州征討(四境戦争)ゆかりの寺社
●万倉護国神社の参拝記と御朱印情報 ・国司親相・禁門の変・四鏡戦争の戦没者を祀る。 | |
●萬福寺の参拝記と御朱印情報 ・第2次長州戦争石州口の戦いの舞台となったお寺。 | |
●机崎神社の参拝記と御朱印情報 ・第二次長州征討(四境戦争)の際、大村益次郎が軍儀を開いた地。 | |
●妙義寺の参拝記と御朱印情報 ・石州口の戦いで長州軍の本陣と野戦病院が置かれたお寺。 | |
●福聚寺の参拝記と御朱印情報 ・小倉口の戦いの際、幕府軍・肥後藩の本陣が置かれたお寺。 |
橘仙和尚・米村英雄の墓
●橘仙和尚の墓
続いて、橘仙和尚さんのお墓参り。
こちらには1874年にお亡くなりになった幕末の傑僧・橘仙和尚が埋葬されているそうです。
●米村英雄の墓
続いて、米村英雄さんのお墓参り。
米村英雄さんは生涯を日本海運の発展に捧げ、さらに巨額の私財をなげうって郷土の発展に尽くしたお方のようです。
その他、境内にはジュリーみたいなお地蔵さんがおられました。
そんなこんなで、参拝終了。
いやはや、素敵なお寺さんでした。
続いて、橘仙和尚さんのお墓参り。
こちらには1874年にお亡くなりになった幕末の傑僧・橘仙和尚が埋葬されているそうです。
●米村英雄の墓
続いて、米村英雄さんのお墓参り。
米村英雄さんは生涯を日本海運の発展に捧げ、さらに巨額の私財をなげうって郷土の発展に尽くしたお方のようです。
その他、境内にはジュリーみたいなお地蔵さんがおられました。
そんなこんなで、参拝終了。
いやはや、素敵なお寺さんでした。
御朱印情報
●御朱印の種類
・不明
本堂横にある住職さんのお宅(庫裏?)を訪ねてみましたが不在でした。
そんなこんなで、御朱印の有無は不明です。
●御朱印の受付場所
・不明
●御朱印の受付時間
・不明
●御朱印の料金
・不明
●期間限定・特別御朱印
・不明
●オリジナル御朱印帳
・不明
・2013年12月23日 参拝
・2023年4月 更新
・不明
本堂横にある住職さんのお宅(庫裏?)を訪ねてみましたが不在でした。
そんなこんなで、御朱印の有無は不明です。
●御朱印の受付場所
・不明
●御朱印の受付時間
・不明
●御朱印の料金
・不明
●期間限定・特別御朱印
・不明
●オリジナル御朱印帳
・不明
・2013年12月23日 参拝
・2023年4月 更新
瀬田八幡宮の御朱印|本殿は山口県指定有形文化財(山口県玖珂郡)
所在地山口県玖珂郡和木町瀬田1丁目9−1−9祭 神仲哀天皇・応神天皇・神功皇后由 緒創建年は不詳。しかし、1556年の諸神田帳に記述があることから、少なくとも400年以上前には創建されていたと考えられてい...
参拝情報とアクセス
●開門時間
・不明
●拝観料
・無料
●最寄りの駅
・JR和木駅から徒歩15分
・JR和木駅から車で2分
●最寄りのバス停
・いわくにバス
宮の下 バス停から徒歩1分
●最寄りのIC
・山陽自動車道(広島方面からの場合)
大竹ICから車で15分
・山陽自動車道(九州方面からの場合)
岩国ICから車で15分
●駐車場
・無料の専用駐車場あり
※駐車場は釈迦堂の近くにあります。
・不明
●拝観料
・無料
●最寄りの駅
・JR和木駅から徒歩15分
・JR和木駅から車で2分
●最寄りのバス停
・いわくにバス
宮の下 バス停から徒歩1分
●最寄りのIC
・山陽自動車道(広島方面からの場合)
大竹ICから車で15分
・山陽自動車道(九州方面からの場合)
岩国ICから車で15分
●駐車場
・無料の専用駐車場あり
※駐車場は釈迦堂の近くにあります。